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異世界料理道  作者: EDA
第一章 異世界の見習い料理人
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異世界の見習い料理人①血抜きと内臓の摘出

2016.6/7 誤字を修正

「……お前は災厄神の化身か何かなのかもしれないな」


 髪を結いあげ、衣服を着込み、革のマントを颯爽と身につけるなり、アイ=ファの口からそんな言葉が放出された。


「まったくもって身にあまる光栄ですが、その真意や如何に?」


「こんな麓には現れるはずもないマダラマの大蛇が流れてきたり、日が中天にも昇らぬうちから森をうろつくギバに襲われたり、ロクでもないことばかりが起きるからだ」


 ふーん、そうですか。

 そういえば、未婚の身なのに裸身も拝まれちゃいましたしね?とでも言い返してやりたいところだったが、せっかく拾った生命を粗末にはしたくなかったので、やめておいた。


 その判断は、どうやら正しかったらしい。

 何故ならば、俺がすました顔で黙りこくっていると、アイ=ファの顔にたちまち自分の言動を悔いるような表情が浮かんできたからだ。


「……しかし、意想外の事態とはいえ、マダラマの存在を察知することができなかったのは、私の油断だ。それをお前に救われたというのは事実なのだから――その点については、礼を言っておく」


 そのまま少しうつむいて、ちょっと上目づかいになり、胸もとの首飾りをじゃらじゃらと意味もなく弄りながら、人間の可聴領域ギリギリの小さな声で、「……ありがとう」


 なんだか小さな子どもみたいだ。

 俺はわけもなく胸をどきつかせながら、「いや、まあ、いいんだよ」とか間抜けな答え方をしてしまった。


「俺のほうこそ、あんなすぐそばにまでギバに接近されてることにはまったく気づいていなかったからな。俺にとっても、お前は生命の恩人だよ。……ありがとう」


 それに俺は、アイ=ファが元気に復活してくれたことで、もう大概のことは許せる気分だった。

 あのままアイ=ファが大蛇に絞め殺されてしまっていたら……とか想像したら、本気で死にたくなってしまう。


「さて。何はともあれ、ギバだよな。新鮮なうちに、こいつを片付けちまおうぜ?」


 アイ=ファに頭を叩き割られたギバは、まだ俺の足もとで身体を痙攣させていた。

 昨日遭遇したやつと比べればずいぶん小ぶりだが、それでも体長は150センチぐらい、目方も70キロぐらいはあるだろう。角も牙も立派なものである。素手で闘っても、まず勝てない。


「そうだな。まずは足を切り落とすか」と、アイ=ファが蛮刀に手をかけるのを見て、俺は「待て待て」と押しとどめる。


「解体よりも、血抜きが先だろ? いきなりバラバラにしてどうするんだよ?」


「血抜き? ……血など、放っておいても流れるだろう」


「待てってば! お前、今まで血抜きもしてなかったのかよ? それじゃあ肉が臭くなるのも当たり前じゃねえか!」


 俺がわめくと、アイ=ファは心底不思議そうな顔をした。

 うん、そのきょとんとした顔は大好きなのだけれども。これはなかなかの大問題だぞ、森辺の民よ。


「あのなあ、肉の臭みってのは、血の臭みなんだ。しっかり血抜きすれば、ギバの肉だってそうそう臭くはならないはずなんだぞ?」


「……言っている意味がよくわからん。血など、勝手に流れるではないか?」


「だから、それじゃあ不十分なんだよ。……って、呑気に喋ってる場合じゃないな。ギバの心臓が止まったら手遅れになっちまう。おい、説明は後でするから、とにかくその小さいほうの刀を貸してくれ」


 不審顔のアイ=ファから小刀を受け取って、俺は横たわったギバの背中の側にかがみこむ。

 さて――えらそうなことは言ったものの、血抜きそのものは、猟友会のメンバーが実践するのを見物していただけの俺である。ギバとイノシシの体内の構造が同一であるという保証もないし、成功するかどうかは、ほとんど運だ。


(イノシシの血管や内臓の位置ってのは、けっこう人間とそっくりなんだよ)


 猟師さんの言葉を思いだしながら、俺はギバの巨体にのしかかった。

 ギバの太い首と胸のつけねあたりに、小刀の切っ先をあてがう。

 そして、一気に突き刺した。

 血は――ほとんど出ない。


 しくじったか。

 まあ、世の中そんなに甘くはない。

 しかたなく、俺は小刀を胸のほうに引き下ろしていく。

 頚動脈か、心臓の大動脈。そのどちらかを、切ればいいのだ。

 固い毛皮に苦労しながら、少しずつ少しずつ刃先を動かしていくと――やがて、ごぼりと鮮血が噴き出した。

 慌てて小刀を噴き抜くと、さらにどぼどぼと赤黒い液体があふれ始める。

 成功だ。たぶん。心臓を直接傷つけたりしてさえいなければ。


「心臓ってのは、全身に血液を巡らせる器官だからな。心臓そのものを傷つけずに大もとの動脈を切ってやれば、効率よく全身の血を抜けるってわけだ」


 だから本当は頚動脈でもいいのだが、そちらは咽喉の器官を傷つけてしまうとギバが窒息死して心臓の動きを停めてしまう。何にせよリスクはつきまとうのだ。


「本当は木に吊るしたほうがいいんだけど、さすがにそいつは重労働だしな。まずはこれで十分だろ」


 返事がないので振り返ってみると、アイ=ファは相変わらずきょとんとしていた。


「……どうせ足しか持って帰らないのに、どうして全身の血を抜く必要があるのだ?」


「うん?」


「このように大きなギバを持ち帰ったところで、食べきれずに腐らせてしまうだけだ。眷族の多い家ならば、毛皮を剥ぐために丸ごと持ち帰ることもあろうが、たいていは後ろ足だけもいでいく」


「そんなの、勿体なさすぎるだろ! こんなご馳走を捨てて帰っちまうってのか?」


「森に置いて帰れば、屍肉喰らいのムントやその他の獣どもが綺麗に片付けてくれる。食べきれずに腐らせることのほうが、罪だ」


「ああ、なるほど。それならそれはかまわないけど。でも、だったらどうして足なんかを持ち帰るんだ? モモ肉も悪かないけど、もっと美味い部位が山ほどあるだろ」


「そんなことはない。ギバの肉は臭いが、一番臭くないのは、後ろ足だ」


 ああ、そうか。血抜きの作法も知らないのならば、足よりも胴体の部位のほうが、強く臭みが残るのかもしれない。足だったら、切り落としたときに動脈も切れてそこそこ血も流れていきそうだしな。


 それにしても、80年もギバを狩って暮らしていながら、血抜きの発想に至らなかったというのは、あまりに怠慢なのではなかろうか。不味い肉なら、上手く食うために研鑽を重ねる。その意地汚さこそが、人間様の偉大なる食文化を発展させるのだ。


 そんなことを考えているうちに、血の放出が止んでいた。

 ビクビクと痙攣していたギバの肉体も、すっかり活動を停止してしまっている。


 絶命したのだ。

 南無阿弥陀仏、と心の中で念じておく。


「よし。次のステップだ。……おい、俺は断固としてこいつを全部持ち帰ってやるからな?」


「好きにしろ。牙と角さえ無事なら、それでいい」


 何となく、無関心でいるべきか興味をもつべきか迷っているみたいな複雑な表情で、アイ=ファはひとつ肩をすくめた。


 それを尻目に、俺はギバの腹部に小刀を突きたてる。

 ファームキャンプで使ったナイフよりも、こちらのほうが切れ味に優れているようだ。あまり深く刺してしまわないように気をつけながら、俺はギバの腹を切り開いた。


 内臓の摘出である。

 これはそんなに難しい作業でもないが、注意点がひとつだけ。大腸や胆嚢、膀胱など、臭いの強い内臓を傷つけないようにすること、だ。それらの臭いが肉に移ってしまったら、せっかくの血抜きが台無しになってしまう。


 横隔膜に刃先を入れて、各種の臓器を引き剥がしていく。

 まずは、小腸。および、大腸。

 お次は、胃袋。肝臓。すい臓。肺。心臓。

 面白いように、でろでろと摘出できた。

 やはり、身体の構造はイノシシと大差ないようだ。


 ほとんど空っぽになった腹腔の下のほうに、最後の難関が待ち受けている。

 膀胱、だ。

 破かないように。慎重に。慎重に。

 ……うん?

 何だか見覚えのない器官が、その下にまだ残っていた。

 これはギバ独自の器官だろうか。

 とりあえず、そいつも慎重に引き剥がす。


 楕円形で、けっこう大きい。左右に二つ並んでおり、手応えはわりとしっかりしている。

 ……あ。

 睾丸、か。

 かつての俺がさばいたイノシシはメスだったから、こんな器官は存在していなかった。

 敬意を込めて、岩の上に置く。

 内臓の摘出も、完了だな。


 振り返ると、アイ=ファはやっぱりきょとんとしていた。


「何だか、噂に聞く呪術師の儀式でも見ているかのようだな。そんな作業が、肉を食うのに必要なことなのか?」


「必要だよ。だけど、こっから先は、さすがにここでは無理だなあ。何とかしてこの状態のまま家まで持ち帰らないといけないんだけど……どうしよう?」


 アイ=ファは小さく息をついてから、「ちょっと待っていろ」と言い捨てて、森の中に姿を隠した。

 その間に、俺は川の水でギバの空っぽになった腹の中や、全身の毛皮を洗浄しておくことにする。

 土やら草やら糞やらがあちこちに付着していたが、幸いなことに、ダニの類いは存在しないらしい。もしも存在するならば、そろそろ体温の下がってきたギバの身体から、もっと温かい俺の身体へと跳び移ってくるやつがいるはずだからな。


「そら。これでよかろう」


 5分ほどで戻ってきたアイ=ファの手には、俺の身長ぐらいはありそうな長い木の棒が握られていた。

 色彩は妙に黒々としており、形は真っ直ぐの棒状で、ところどころに枝葉を落とした断面が覗いている。太さは、俺の手首ぐらいか。


「グリギの木だ。固くて丈夫で折れにくい」


「ふむふむ。これでどうするんだ?」


 アイ=ファは無言でギバのもとに屈みこみ、マントの裏から取り出した革紐で、グリギの木にギバの四肢をくくり始めた。


「なるほど! 手馴れたもんじゃないか」


「見よう見まねだ。スンの家やルウの家の男衆は、家で毛皮を剥ぐためにこうしてギバを丸ごと持ち帰る」


「ふむふむ。アイ=ファは皮なめしをやらないのか? そのマントだってギバの毛皮だろ?」


「毛皮をなめすのには相当数の人数が必要だし、そんなものは女衆の仕事だ」


 お前だって女じゃん、と、顔に出てしまっただろうか。俺は何も言ってないのに、アイ=ファがうるさそうに顔をしかめやる。


「牙を差しだせば毛皮を買うことはできる。だったら毛皮をなめしている間にギバを狩るほうが利口だし、そもそもギバを狩らねば飢えて死ぬだけだ。……そして私には、ともに毛皮をなめす眷族もおらん。何か文句があるのか、お前は?」


「文句なんてありゃしないよ。ただ……毛皮をなめすのが女の仕事だっていうんなら、ギバを狩るのは男の仕事なのかなと思っただけだ」


「当たり前だ。ギバを狩る女衆などおらん」


「だ、だってお前は女じゃん」


 けっきょくは口に出すことになってしまった。

 アイ=ファはぷいっと顔をそむけて、今度は前足の拘束にかかる。


「私は女である前にファの家の家長なのだ。ギバを狩って生きるすべは父親から習っている。何も不自由することはない」


「そうなのか」


 だけど、アイ=ファの亡き父親は、何を思って《ギバ狩り》の技術を娘に体得させたのだろう。

 アイ=ファが集落から孤立したのは、父親が亡くなった翌日からであるはずだ。その前の晩に、アイ=ファはディガ・スンとかいう集落の実力者に恨みを買ってしまったのだから。


 そのせいで、アイ=ファは誰の力を頼ることもできなくなり、たったひとりで生きていくことになった。父親の教えたギバ狩りの技が、その窮地を救ったということになるわけだが――父親とて、まさか娘が集落で孤立するなどと予感していたわけではあるまい。


(いや……難しく考えることはないか)


 俺だって、親父から調理の技術を叩きこまれていた。その上で、料理よりも面白いものを自力で探してみろなどと言われていた。父親なんて、そんなものなのかもしれない。


(だけど、こいつは……)


 俺と違って、選択肢などなかったのだろう。

 男のように、ギバを狩って生きていくしかなかったのだ。

 こいつはこんなに、綺麗で優しい女なのに――


「……何をおかしな目で見ているのだ、お前は」


 と、おもむろにアイ=ファが立ち上がった。

 その目は山猫のように爛々と燃え。

 そして、褐色の顔に少し赤みがさしている。


「いいか? お前は禁忌を犯したのだ。本来ならば、その目玉を片方えぐられても文句の言えぬ立場だ。しかし、私も窮地を救われた身だから、不問に処した。そこのところをはき違えていたら、いつか痛い目を見ることになるぞ……?」


「は?」と首をひねってから、俺は大いに慌てることになった。


「べ、別にお前の全裸シーンを回想してたわけじゃねえよ! お前、俺を何だと思ってるんだ? せっかく記憶の宝箱にしまいこんでおいたのに思い出してきちまったじゃねえか!」


「やかましい! 目玉より先に舌を切り落とされたいのか!?」


「ああもうやめようぜ馬鹿馬鹿しい! ほら、準備はできたんだろ? とっととこいつを運んじまおうぜ!」


 怒れるアイ=ファから逃げるようにして、俺はギバの頭の側に屈みこんだ。

 その際に、どっさりと積みあげられた臓物の山が視界に入る。


「本当はこいつも調理してやりたいんだけどなあ。俺の技術で、しかも冷蔵庫の設備もなきゃ無理だよなあ」


「……本気で言っているのか、お前は?」


「もちろんさ。ギバなんて、毛皮と骨以外に食べられない部分なんてないんじゃないのかね」


 言いながら、担ぎ棒の先端を肩にひっかける。

 うむ。さすが70キロ級。ずしりと重い。


「途中で弱音を吐くようならば、その場でお前ごと置いて帰るぞ」


 すうっと後ろ側が持ち上がって、いくぶん肩への負担が軽減される。


「美味い飯のためなら、頑張るさ。お前こそ、さっき絞め殺されかけたばかりなのに、身体のほうは大丈夫なのか?」


「やかましいわ! もうあの時のことは口に出すな!」


 あれ。もしかしたら俺なんかが思っていた以上に、アイ=ファにとってさきほどの出来事は大ダメージであったのだろうか。

 そりゃあまあ、男まさりの《ギバ狩り》とはいえ年頃の娘さんだもんな。禁忌なんか持ちださなくっても、恥ずかしいのが当たり前か。


 ともあれ、美味い夕飯のための下ごしらえは、まだまだこれからが本番なのである。


「それじゃあ出発しようぜ! 苦労に見合ったぶんは美味いものを食わせてやるから、よろしくな!」

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― 新着の感想 ―
[気になる点] やっぱり主人公は17歳なんだよね? 料理人を名乗れるだけの経験が家業を手伝ってた程度であるとは思えない。
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