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異世界料理道  作者: EDA
第六十四章 群像演舞~七ノ巻~
1099/1682

     非凡ならねど(下)

2021.10/6 更新分 1/1

2022.10/8 誤表記を修正

 ティマロたちが食堂に戻ると、伯爵家の父娘はさきほどと同じ姿で座席に座していた。

 サイクレウスは不気味な薄笑いをたたえており、娘のほうは不機嫌そうに眉を吊り上げている。ヴァルカスへの怒りを燃やしていたティマロも、そんな貴族たちの姿を目にすると、たちまち肝が冷えてしまった。


「ご苦労であるな……では、味比べの結果を発表するがよい……」


 当主の命令に応じて、小姓のひとりが進み出る。


「本日の味比べは、ご当主様と姫様が3つずつの星をお持ちになり、それを好みの菓子に投じられるという形式を取っております。よって、合計6つの星がどのように配分されるかで、勝敗が分けられることに相成ります」


 ヴァルカスと東の客人は、無表情に小姓の言葉を聞いている。

 ティマロはひとりで、心臓が痛くなるほど緊迫してしまっていた。

 そんな中、小姓はお行儀よく抑制された声音で、その言葉を口にのぼせたのだった。


「それでは、発表いたします。このたびの味比べの、第1位は……4つの星を獲得された、ティマロ様でございます」


 ティマロは、腰からくずおれそうになった。

 小姓は何を気にする風でもなく、淡々と言葉を重ねていく。


「料理長ヴァルカス様と東のお客人は、それぞれひとつずつの星を獲得されたため、同率の2位となります……味比べの結果は、以上となります」


「ふむ……我はけっきょく、すべての菓子にひとつずつの星を投じることになったので、リフレイアがすべての星をひとつの菓子に投じたということか……リフレイアよ、其方はどうして、そちらの菓子に星を投じたのであるか……?」


「だって、くにゃくにゃしたおかしはにがかったし、ヴァルカスのおかしはこのまえたべたばかりだったもの」


 まだ6、7歳と思しき姫君は、たどたどしい口調でそう言った。


「まだいっかげつもたってないのに、ヴァルカスのおかしはたべあきちゃった。でも、さっきのおかしはしらないあじがしたわ。……ねえ、あれはなんのあじだったの?」


「は、はい。あちらの菓子には、ママリアの果実酒を使っておりました」


「かじつしゅ? リフレイアはまだこどもなのに、おさけをくちにしてしまったの?」


 リフレイアはきょとんと小首を傾げ、サイクレウスは目を細めて微笑んだ。

 ティマロは首筋に刃を当てられたような心地で、弁明する。


「か、果実酒は事前に煮込んで酒気を飛ばしておりますため、どのように幼い御方でも危険はございません。ほ、本来はママリアの果実そのものを使う菓子であったのですが、本日は準備が間に合いませんでしたもので……」


「なにそれ? ママリアって、おさけのざいりょうでしょ? ママリアをつかったおかしなんて、リフレイアはしらないわ」


 床に届いていない足をせわしなく揺らしながら、リフレイアは父親を振り返った。


「おとうさま、リフレイアはママリアをつかったおかしをたべてみたいわ。ママリアっていうのは、おとうさまのりょうちでとれるかじつなのでしょう?」


「うむ……それにしても、ヴァルカスの他にママリアの果実を食材として扱う料理人がいようとはな……《セルヴァの矛槍亭》の店主も、かつてそのような手腕を見せたことはないように思うのだが……」


「は、はい。それは、わたしが……父から習い覚えた作法と相成ります。わたしの父も、小さいながら料理店の主人を務めておりましたもので……」


「ほう……」と、サイクレウスは色の淡い瞳をあやしく光らせた。


「そういえば……其方は37歳であり、《セルヴァの矛槍亭》に12年つとめたという話であったな……では、25歳までは父のもとで修行を積んでいたということか……」


「は、はい。仰る通りでございます」


「なるほど……確かに其方の菓子は、《セルヴァの矛槍亭》の店主と似た作法でありながら、別の作法も入り混じっているように感じられた……あちらの店主は菓子作りもさほど得手ではなかったため、父からの教えも織り交ぜたわけか……」


 サイクレウスは、しばし無言でティマロの姿をねめつけてきた。

 そして、驚くべき言葉を発したのだった。


「其方……ティマロと申したな……約定通り、《セルヴァの矛槍亭》の店主に対する絶縁は、この場で解くこととしよう……ただし……もうひとつ、新たな条件を加えさせてもらう……」


「じょ、条件とは?」


「……其方はこちらの屋敷で、思うさま研鑽を積むがよい……《セルヴァの矛槍亭》と縁を切り、我が屋敷の料理番となるのだ……」


 ティマロは今度こそ、その場にへたりこんでしまいそうだった。


「ど……どうしてわたしに、そのようなお役目を……?」


「ふたつの作法を習い覚えた其方には、《セルヴァの矛槍亭》の店主を凌駕する可能性が秘められていよう……しかし、いつまでも店主の下についておっては、その可能性を潰す結果にもなりかねん……ならばこの場で、いっそうの飛躍を果たし……そうして、我々の口を喜ばせるのだ……」


  そう言って、サイクレウスは口の端を吊り上げた。


「まずは、使用人の料理番として働くがいい……ちょうど今は、老いぼれた料理番の代わりを探していたところであったのだ……そして、リフレイアの食する昼の軽食も、其方にまかせることとしよう……もしもそちらで不甲斐ない結果をさらすようであれば……あらためて、絶縁を申し渡す他なかろうな……」


 これは要請ではなく、命令である。

 それを理解したティマロは、大きな困惑を抱え込みながら頭を垂れるしかなかった。


「わ、わたしがそのお役目をお引き受けすれば……店主への絶縁を解いてくださるのですね?」


「うむ……それが約定であるからな……」


 新たな条件を加えておきながら、約定もへったくれもないだろう。

 しかしティマロに、この不気味な貴族にあらがえるだけの気概は存在しなかった。


「では、2日後までに、其方の部屋を準備させておこう……其方もそれまでに、支度を整えておくがよい……今日の余興は、ここまでとする……」


「おとうさまも、もういってしまわれるの? せっかくひさしぶりにおあいできたのに」


 リフレイアが不満そうな声をあげたが、サイクレウスは何も答えようとしないまま、横合いの扉から退室していった。口をとがらせたリフレイアがそれに続くと、ティマロたちも小姓によって退室させられる。


 ティマロはヴァルカスに対する怒りも忘れて、帰路を辿ることになった。

 店主の絶縁が解かれたのは何よりの結果であったが――その代償は、あまりに大きかった。《セルヴァの矛槍亭》を救うために、ティマロのほうが居場所を失ってしまったのである。


(どうしてわたしが、このような目に……あのサイクレウスという小男は、いったい何を考えているのだ?)


 ティマロが覚束ない足取りで店に戻ると、居住の階の広間で弟子や従業員たちが顔を突き合わせて今後の身の振り方を論じ合っていた。

 店主は寝所で身を休めているという話であったので、まずはそちらに足を向ける。

 ティマロから事情を説明された店主は、驚愕の面持ちで身を起こした。


「ティマロ……それは、真実であるのですか……?」


「……はい。勝手な真似をしてしまって、申し訳ありません。ですがわたしは、どうしてもこの《セルヴァの矛槍亭》を守りたかったのです」


 店主は呆然と、ティマロを見つめていた。

 そして――いきなりぽろぽろと、大粒の涙をこぼし始めたのだった。


「そうですか……ティマロ、あなたは立派です……ついにその手で、自らの運命を切り開いたのですね……」


「え? そ、それはどういうことでしょうか? わたしはわけもわからぬまま、伯爵様のもとで働くことになってしまったのですが……」


「伯爵様は、よほど見込んだ相手でなければ、料理番として招くこともありません。そもそもあの御方は美食の限りを尽くすという目的のために、食材の流通に着手したという話であるのですからね。トゥラン伯爵家の料理番に招かれたということは、ジェノスで指折りの実力であると認められた証であるのです」


「はあ……ですがわたしは、こちらの店に骨をうずめる覚悟であったのですが……」


 ティマロが気弱な声をあげると、店主は慈愛にあふれた顔で微笑んだ。


「それはその他に、目的を見いだせなかったゆえでしょう? あなたは父君を失われた際に、料理人として目指すべき場所を失ってしまった。……違いますか、ティマロ?」


「それは……確かに、そういう面もあるのかもしれませんが……」


「そうでなければ、わたしはあなたを次の店主に選んでいたことでしょう。しかし、それではあなたに余計な枷を負わせてしまうかと思い、どうしても決断できなかったのです」


 そう言って、店主はティマロの手を握りしめてきた。

 まだ熱が下がっていないのだろう。肉の薄くなってきたその手は、熱く火照っていた。


「あなたは伯爵様のもとで、さらなる飛躍をお目指しください。そして、その末に……もしもあなたがそれを望むのでしたら、わたしは店主の座を譲り渡したく思います」


「わ、わたしを店主に? ですが、ひとたび貴族の料理番として招かれたからには、そちらで骨をうずめるのが通例ではないでしょうか?」


「はい。ですが、トゥラン伯爵家のご当主は……もうそれほど長くないように思います。あなたもあの御方のお姿を拝見したのでしょう? あの青黒い顔色は、内臓を病魔に冒されている証であるのです」


 囁くような声音で、店主はそう言った。


「それもあって、あの御方はシムの薬膳料理に強い興味を持たれているようですが……どれほど永らえても、あと10年は難しいでしょう。であれば、わたしも老骨に鞭打って、あなたのお帰りを待ちたく思います」


「どうして……わたしにそれほどのお言葉を?」


「どうしてと仰る? あなたとは12年間もの歳月をともに過ごしてきたのですよ。そうしてあなたは、わたしの築いた調理の手法を余すところなく習得してくれました。そうしてあなたが父君からの教えをも織り込んで、あなたならではの手法を確立してくださったら……師として、それ以上の喜びはありません」


 そのように語りながら、店主はいっそう強い力でティマロの手を握りしめてきた。


「どうか自信をお持ちください、ティマロ。あなたに欠けているのはただひとつ、どこに向かうかという目的意識のみとなります。あなたは天才ではないかもしれませんが、誰よりも努力のできる人間であるのです。トゥラン伯爵家のお屋敷は、あなたにとって何よりの修行場となることでしょう」


                 ◇


 そうしてティマロは、トゥラン伯爵家の料理番として働くことになった。

 のちになってわかったことだが、ティマロと入れ替わりで屋敷を去ったあの老齢の料理番こそ、かつての料理長であったのだという。先月にヴァルカスが新たな料理長と認められて、使用人の料理番にまで格下げされてしまったのだ。


 トゥラン伯爵家の屋敷は、空恐ろしくなるほどの実力の世界であった。ヴァルカスなどはこれまでに何の実績も積んでいないにも拘わらず、ただ腕がいいというだけでいきなり料理長に抜擢されたのだそうだ。


 これまで店主の庇護のもとで安穏と過ごしていたティマロには、あまりに荷の重い世界であった。

 しかしティマロは挫折することなく、すべての力を尽くしてみせた。

 店主の言う目的意識というものは、いまだに定まっていない。が、自分は《セルヴァの矛槍亭》の代表であるのだと――そして、亡き父や祖父から調理の作法を受け継いだ人間であるのだと――そういった矜持を原動力にするすべを見出すことがかなったのだった。


 ひとつには、ヴァルカスとあまりに反りが合わないという面もあっただろう。

 ヴァルカスがあまりに憎たらしい人間であったため、それに負けてたまるものかと奮起することができたのだ。


 ヴァルカスは、まぎれもなく天才の部類であった。化け物のように味覚が鋭く、どのような料理でも使われている食材をすべて言い当てることができるのだ。そしてさらに、美味なる料理を作りあげるためにはどのような苦労も惜しまないという妄執を抱いており、それが彼を怪物じみた料理人に仕立てあげたようだった。


 才能の面で、ティマロがヴァルカスに勝てる道理はない。店主も言っていた通り、ティマロは天才でも何でもないのだ。かつて出会ったミケルやダイアのように、独自性というものもまったく備え持っていない。

 しかしまた、ティマロとて料理に人生のすべてを捧げてきた身であった。

 37年間、脇目もふらずに料理人として生きてきたのである。さらに言うならば、師匠や環境にも恵まれていた。これで結果が出せないならば、それはもう自身の努力不足としか言えないはずであった。


 そうしてティマロは、ひたすら邁進した。

 最初の1年で使用人の料理番から伯爵家の料理番に昇格し、次の1年で副料理長の座を授かることになった。料理長たるヴァルカスの間には、まだまだ越え難い距離を感じてやまなかったが――それでもくじけずに追いすがるというのが、ある意味では目的意識になっていたのかもしれなかった。


 そうしてさらに3年が過ぎると――トゥラン伯爵家が、没落した。

 当主たるサイクレウスと弟のシルエルの旧悪が暴かれて、大罪人として処断されることになったのだ。


 次の当主はリフレイアと定められたが、当時の彼女は11歳で、何の力も持ち得なかった。トゥラン伯爵家はジェノス侯爵家の監視下のもとにかろうじて存続しているのみであり、もはや専属の料理番を抱えることすらできないほど落ちぶれてしまったのだった。


 それでティマロは、わずか5年で《セルヴァの矛槍亭》に舞い戻ることができた。

 そして――ティマロが店に戻るなり、店主は病魔で魂を返してしまったのだった。


「店主はもはや、あなたに店を継がせるのだという目的のためだけに、生きる気力を振り絞っていたのでしょう。……どうか店主の思いを汲んで、わたしたちの主人となってください、ティマロ殿」


 ティマロの次に古株であった店の人間は、そんな風に言ってくれていた。

 そうしてティマロは、再び《セルヴァの矛槍亭》の料理人として生きることになり――現在に至るのだった。


                    ◇


 森辺の料理人アスタの料理を食しながら、ティマロは追憶にひたっていた。

 試食会にて優勝を果たしたアスタとトゥール=ディンを祝福するための、礼賛の祝宴である。この場には、彼らの作る不思議な料理と菓子だけがあふれかえっていた。


 アスタはジェノス中の料理人が集められた試食会において、3度も勲章を授かることになったのだ。

 その結果に恥じない料理の数々が、この祝宴には取りそろえられている。それらの料理の見事さが、ティマロの心を打ちのめして、遠い追憶に思いを馳せさせたのかもしれなかった。


 アスタは、優れた料理人である。

 しかし――おそらく、天才の部類ではないのだろう。彼は異郷の生まれであったため、その作法が勝手に独自性を構築しているだけの話であった。


 しかしまた、天才ではなくとも凡庸な料理人ではありえない。彼の料理には、強い思いが込められていた。それがどのような思いであるのか、親交の薄いティマロには計り知れなかったが――とにかくアスタの料理には、食べる者を幸福な心地にさせてやろうという、それこそヴァルカスの妄執にも負けない強烈な意欲が感じられてやまなかったのだった。


(初めて出会ったときなどは、また天才の部類が登場したかと、そんな思いに駆られたものだったな)


 しかしティマロもこの数年で、天才だの何だのというものにこだわる気は失せていた。

 天才だろうが凡才だろうが、けっきょくは皿の上にのせられる料理の出来栄えがすべてであるのだ。どれだけの才覚に恵まれても、どれだけの努力を積み重ねようとも、けっきょくは食べる相手を満足させられるかどうか――それが、すべてであるのだった。


 思えば、ティマロがそんな風に考えるようになったのも、アスタを筆頭とする森辺の料理人の影響なのかもしれなかった。

 彼らには、功名心というものが存在しない。料理人として名をあげるのではなく、ただ料理を口にする人間を幸福な心地にさせたいという一心で、彼らは料理を手掛けているようであるのだ。


 もちろんティマロが、そういった純粋無垢なありように感化されたわけではなかった。

 ティマロの中には、功名心や対抗意識といったものが、しっかりと備わっている。むしろ、それこそがティマロの原動力であるのだ。そしてそこには自尊心といったものも深く関わっていたため、どうあがいても切り離すことはできなかったのだった。


 ティマロは《セルヴァの矛槍亭》の新たな店主であり、父と祖父の作法を受け継ぐ者であるのだ。

 ティマロはその立場に相応しい力量を示さなければならない。森辺の民には存在しない気位というものが、ティマロにとっては唯一の武器なのかもしれなかった。


(それでわたしが授かったのが……この勲章ひとつというわけか)


 ティマロの宴衣装の胸もとには、城下町の料理人を集めた試食会における、第3位の勲章が飾られていた。その後、森辺と宿場町の料理人を含む試食会においては、アスタやヴァルカスどころか宿場町の宿屋の主人にも後れを取り、第5位という結果に終わったのだ。


 しかしそれで、ティマロの自尊心が傷つくことはなかった。

 自分より上位の人間は、まぎれもなく素晴らしい料理を作りあげていたし――それに、ジェノス中の料理人を集めた試食会で、第5位であるのだ。これで文句を言いたてるほど、ティマロは驕っていないつもりであった。


「あら、ティマロ。あなたがひとりきりなんて、珍しいわね」


 と、ふいに背後から呼びかけてくる者があった。

 振り返ると、そこに立っていたのはリフレイアである。ティマロは大仰になりすぎないように気を使いながら、一礼してみせた。


「あなたの弟子も、参席を許されていたはずよね。今日は別行動なのかしら?」


「はい。料理の寸評は後日ということで、ひとまず行動を別にいたしました。若い人間にはそちらのつきあいというものも大事でございましょうからな」


「なるほど。あなたもすっかり貫禄がついたわね」


 そのように語るリフレイアこそ、別人と見まごう風格を身につけていた。

 まあ、初めて出会ったときから7年ばかりも経過しているのだから、それは当然の話であるのだろうが――あの、いつでも眉を吊り上げた癇癪持ちの幼い姫君がこれほどの貴婦人に成長しようとは、なかなか想像も難しいところであろう。


 リフレイアは、たしか13歳になったはずだ。まだまだ若年であるものの、伯爵家の当主として恥ずかしくない気高さと美しさが感じられる。そして何より、取りすました顔の中でやわらかく瞬くその眼差しが魅力的であった。


 そんなリフレイアのかたわらには、侍女のシフォン=チェルが控えている。あの運命の日にティマロの菓子を毒見した、北の民の娘である。こちらの娘もまた、ただ美しく成長したというだけでなく、別人のように人間らしい情感をあらわにするようになっていた。


 7年も経てば、人は変わるものであるのだろう。

 当時から壮年であったティマロでさえ、これほど変わり果てたのだ。

 柔弱者で短慮な部分はそのままに、ティマロは大きく変化した。時には、ずいぶん傲岸な人間になってしまったものだと言われることもなくはなかったが――それは自信と気位の表れであるのだから、どうしようもなかった。重苦しい運命に対抗するために、ティマロは肩肘を張るしかなかったのだ。運命に屈するぐらいであれば、傲岸とそしられることなど、何ほどのことでもなかった。


「アスタの料理もトゥール=ディンの菓子も、みんな見事な出来栄えよね。……もちろんあなたの料理や菓子だって、わたしは嫌いではないけれど」


「はい。今日のわたしがありますのは、すべてリフレイア様のおかげでございましょう」


 ティマロがそのように答えると、リフレイアは可笑しそうに微笑んだ。

 ティマロが屋敷で勤めていた頃には、ついぞ見せたことのない笑顔である。


「わたしなんて、あなたの作る料理や菓子に文句をつけてばかりだったじゃない。特に、アスタを屋敷に連れ込んでしまったときなんて……あなたを噛ませ犬のように扱ってしまったしね」


「その頃には、姫君もわたしの料理に飽いてしまわれていたのでしょう。すべてはわたしの力不足でございます」


 しかしティマロが屋敷に勤め始めた当時は、リフレイアもずいぶん菓子の出来栄えに喜んでくれていたはずであった。そうであるからこそ、ティマロは屋敷を放逐されずに済んだのだ。


「まあ、わたしはあなたとヴァルカスの料理で育ったようなものですからね。舌が肥えてしまって、もう大変よ。……あなたの料理を口にできる日も楽しみにしているわ」


 そんな言葉を残して、リフレイアは立ち去っていった。

 人の熱気の渦巻く中、ティマロは反対の方角に歩を進める。

 すると、広間の端に寄って何やら語らっていた人間のひとりが、ティマロに向かって呼びかけてきた。


「ああ、ティマロ。ようやく会えましたね。まったくこの人数じゃあ、見知った顔を探すのもひと苦労ですよ」


 それは宿場町の宿屋、《キミュスの尻尾亭》のレビであった。

 そのかたわらにたたずむのは、宿の主人の息女であるという、テリア=マスだ。度重なる試食会によって、ティマロも彼らとも挨拶を交わす間柄になっていた。


「このような場所で、どうしたのです? どこか、お加減でも?」


「いや、人の熱気に当てられちまったんで、ひと休みしてただけですよ」


 そう言って、レビは苦笑を浮かべつつ自分の頭をかき回した。


「ただ、俺が余計な話ばかりするもんで、お嬢さんには余計に疲れさせちまったかもしれませんね。ずいません、テリア=マス」


「いえ。わたしは別に……ただ、レビのことが心配です」


 と、テリア=マスは切なげにレビを見つめる。わずかながらに、深刻そうな雰囲気が垣間見えていた。


「どうされたのでしょう? 何かこちらの祝宴で、問題でもありましたでしょうかな?」


「いや、この祝宴は関係ないんですよ。ただ、宿のほうでちょっと……そうだ、ティマロも話を聞いてくれませんか? ティマロだって、まったく無関係なわけじゃない話なんですからね」


 それはずいぶん、意外な話を聞かされるものである。いまだ宿場町にはひとたびしか訪れたことのないティマロが、宿の深刻な話に関わってくるとはとうてい思えなかった。


「いったい如何なる話でありましょうかな。よければ、聞かせていただきましょう」


「ええ、どうか聞いてくださいよ。……俺はね、ティマロたちの料理に感銘を受けたんです。あの城下町ならではの味わいってやつを、なんとか自分たちの料理に活かせないかって。でもね、親父がいい顔をしないんですよ」


「……あの、ラーズという父君が?」


「ちちぎみなんて、そんな大層なもんじゃないですけどね。あいつ、自分では色々と突拍子もないことに挑むくせに、俺のやることには文句ばかりつけるんですよ。特に、城下町の作法を取り入れるって話には文句ばっかりで……いい加減に、嫌になっちまいますね」


 ティマロの脳裏には、自分の父親の姿が浮かんでしまっていた。

 ティマロは思わず勢い込んで、レビに詰め寄ってしまう。


「あなたがたの料理とは、もしやらーめんのことでしょうか? それでしたら、わたしは父君と意見を同じくするやもしれません。あのらーめんという料理は、一見乱雑にも思える力強さこそが肝要であるのです。そこに城下町の作法を組み込むというのは、ヴァルカス殿のお弟子たるボズル殿にも匹敵するご苦労を負うことになるでしょう。あの御方も、純朴なるジャガル料理にヴァルカス殿の作法を織り込むという至難の業を実現してみせたのですからね。あのような料理を完成させるには、数年がかりの修練が必要であったかと思われますが……宿場町においては、研究のために食材を無駄にすることも許されないのでしょう? それではなおさら、実現も難しいように思います」


「そ、そうですか? というか、何をそんなにいきりたっているんです?」


「いきりたってなどはおりません。とにかく、らーめんに城下町の作法を織り込むというのは、きわめて苦難の道のりと相成ります。父君も、それを察して反対なさっているのではないでしょうか? それでしたら、まずは他なる料理を用いて、城下町の作法を折り込めるか否か、挑むべきであるように思います。そうして城下町の作法を扱う勘どころを押さえられれば、いずれらーめんにも活用できるやもしれませんし……あなたはまだまだお若いのですから、決して短慮を起こしたりはせず、父君と手を携えるべきかと思われます」


 レビとテリア=マスは、呆気に取られた様子でティマロを見やっていた。

 そして、レビのほうが「まいったな」と苦笑する。


「なんか、聞きたいことを全部先取りされちまった気分です。……やっぱり、いきなりらーめんで城下町の作法に挑むのは、無謀ですかね?」


「無謀です。もっとささやかな副菜などで、まずは勘どころをつかめるように修練を積むべきでしょう。らーめんというのはあれほど完成された料理なのですから、そうまで劇的に変化を求めるのは困難を極めるかと思われます」


 そんな風に応じながら、ティマロはさらにレビへと詰め寄った。


「ですからどうか、短慮は起こさずに。どうしようもなく意見が分かれてしまったら、いずれ父君との決別も避けられないのやもしれませんが……ぎりぎりまでは熟考して、相互理解に努めるべきです。後悔してからでは遅いのですからね」


「いや、俺も親父も宿のお世話になってる身なんで、どうやっても別れようはないんですけど……なんか、すみません。ティマロをずいぶん心配させちまったみたいですね」


 そう言って、レビは朗らかな笑みをたたえた。


「でも、ありがとうございます。もういっぺん、親父ととことん話し合おうって気になりましたよ。こんなところで愚痴ってたって、なんにもなりゃしませんからね」


「そうですか。それなら、幸いです」


 それからしばし談笑を楽しんだのち、若い男女は広間の賑わいに戻っていった。

 その際に、テリア=マスのほうがこっそりティマロに呼びかけてくる。


「ありがとうございます、ティマロ。レビとラーズはとても仲がいいのですけれど、どちらも少し言葉足らずのところがあって……このまま諍いを起こしてしまうのではないかと、わたしも心配していたのです」


「ええ。彼らには、それを諫める母君がおられないという話でありましたからね。どうか宿の方々が、あちらの父子の去就を見守ってくださればと思います」


「はい、必ず。……本当にありがとうございました」


 テリア=マスは可憐なる微笑を残して、レビを追いかけていった。

 それらの背中を見送りながら、ティマロはふっと息をつく。


(まったく、柄にもないことをしてしまったな。それにしても……わたしはもはや、息子ではなく親の世代ということか)


 レビの父親のラーズという人物は、どこか老人めいた風貌をしている。しかし、子息のレビがまだ10代であることを考えると――下手をしたら、ティマロよりも年少なのかもしれなかった。


 現在のティマロは、44歳。

 かろうじて、ティマロが家を飛び出した当時の父親や、《セルヴァの矛槍亭》の店主よりは若年であったものの――それもあと数年の話であった。


 ティマロはまだまだ、道の途上である。

 父親と店主から学んだ作法を融合させて、独自の作法を作りあげるというのが、ティマロにとってはひとつの目標であったのだが――現在はそれに、森辺や宿場町の作法をどのように取り入れるかという課題まで加わってしまっている。なおかつそこに、城下町らしい気品を残すというのは、きわめて難儀な話であるはずであった。


 ティマロはいまだ、確固たる目的意識というものを持っていない。

 アスタやヴァルカスや他の料理人たちが、どういった目的で調理に明け暮れているのかも、実のところはよくわからない。

 だがしかし、進むべき道は定まっていた。自分が理想と思い描く料理を作りあげるために、ティマロは研鑽を重ねているのだ。


 自分が敬服する人々の名を貶めないように、立派な料理を作りあげる。

 それを成し遂げずして、ティマロの功名心は満たされないはずであった。


(わたしがぶざまな姿を見せれば、父や師匠の名をも汚すことになるのだからな)


 そんな風に考えながら、ティマロは大広間の賑わいに戻ることにした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ティマロは最初出てきた時は、白い布を口元に当てて何やこいつ感があったんやけど、物語が進むにつれ結構好きになってきてた。 その上で今回の話を読んで、 がんばれティマロ!まけるなティマロ!!と…
[一言] ティマロの料理のルーツが知れて良かったです。彼も新しい味を模索し続ける挑戦者だったんですね。どことなくロイが重なりました。
[良い点] キャラクター造形があまりに見事
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