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異世界料理道  作者: EDA
第六十四章 群像演舞~七ノ巻~
1098/1679

     非凡ならねど(中)

2021.10/5 更新分 1/1

 その後のティマロの人生も、決して平坦なものではなかった。

 しかしまた、父親の死に匹敵するほどの事態などは、そうそうありえないに違いない。ティマロはどのような変転に見舞われようとも、《セルヴァの矛槍亭》において粛々と自分の仕事を果たし続けてみせたのだった。


 その期間に、同じ弟子であった者たちは次々と《セルヴァの矛槍亭》を巣立っていった。ある者は自分の店を持ち、ある者は貴族の屋敷の料理番に抜擢され、ある者は夢やぶれて料理人としての道をあきらめ――10年も経った頃には、ティマロを除くすべての顔が入れ替わってしまっていた。


「ティマロとて、自分の店を持てるぐらいの力は身につけているはずなのですが……こればかりは、巡りあわせという他ないでしょうね」


 店主はそのように言ってくれていたが、ティマロはべつだん気にしていなかった。30台の半ばに達しても、自分などはまだまだ修行中の身であるという意識であったのだ。


 この10年ほどで、ティマロは2度ほど驚くべき技量を持つ料理人と巡りあっていた。

 ひとりは、《白き衣の乙女亭》のミケル。彼はそれほど数多くの食材を使わぬまま、きわめて美味なる料理を供していた。当時の城下町の流行とはあまりに掛け離れた料理ばかりであったものの、その手腕の見事さに疑いはなかった。


 もうひとりは、《ミザのささやき亭》のダイア。彼女は実に絢爛なる外見をした料理と菓子を得意にしており、のちにはジェノス城の料理長として迎えられたと聞く。特に彼女の作る菓子は素晴らしい出来栄えで、ティマロが初めてそれを食した際などは、思わず涙をこぼしてしまったほどであった。


(本当の天才というのは、ああいう人々のことを言うのだ。それに比べて、わたしなどは……生まれついての凡人であるのだろう)


 ティマロは、そんな想念を抱え込んでいた。

 もちろん10年ばかりも学んでいれば、それ相応の力が身についたはずであるのだが――そんなものは、すべて師匠の受け売りだ。自分はただ師匠の模倣をしているに過ぎず、このていどの力量で店を持てるなどとはとうてい思えなかった。


 なおかつティマロは、自分の店を持つという意欲を失いつつあった。

 師匠の模倣に過ぎない自分が、祖父や父と同じ名前で店を出して、いったい何になるのか、と――そんな想念に取り憑かれてしまったのである。


 父親は、祖父から受け継いだ味を守るのだと言い張っていた。それに反発して家を出たティマロは、けっきょく和解も果たせないまま、父親を失ってしまったのだ。これでティマロが店の名前だけを受け継いだところで、祖父や父親も天上で失笑するばかりであろうと思えてならなかったのだった。


(わたしは、けっきょく……父親を見返したいだけだったのだろうか)


 そんな思いを抱え込んだまま、ティマロは《セルヴァの矛槍亭》で働き続けた。

 ティマロの身分は、いまや弟子ではなく店主の右腕である。店主の代理として厨を取り仕切ったり、時には貴族の晩餐会で厨を預かることさえあるのだ。店主は明言していないが、《セルヴァの矛槍亭》の跡を継ぐのはティマロであろうと、誰もがそのように認めているはずであった。


(確かにわたしは10年もの修行を積んで、師匠の作法を余すところなく身につけることがかなったのだからな。わたしが《セルヴァの矛槍亭》の二代目の店主となっても、きっと文句を言う人間などはいないことだろう)


 それでも店主が、なかなかそのような話を切り出してこないのは――おそらく、ティマロが抱いている父親へのわだかまりを知り尽くしているゆえであろうと思われた。また実際、ティマロは自分が《セルヴァの矛槍亭》の跡を継ぐことなど許されるのだろうか、という疑念を捨てきれずにいたのだった。


(わたしは師匠の料理をほとんど完璧に再現することができる。しかし……師匠の味を模倣するだけのわたしが店を継ぐことに、いったいどのような意味があるのだろう)


 ティマロの父親は祖父の味を正しく受け継ぎ、それをティマロにも受け継がせようとした。

 その人生を捨てたティマロは、師匠から受け継いだ味をそのまま後世に伝えるべきなのだろうか?


 ティマロには、何が正しい道なのかもわからなかった。

 わからないまま、日々の忙しさに埋没して、ひたすら働き続けていたのだった。


                  ◇


 そうしてティマロが父親の死と同じぐらいの変転に見舞われたのは、さらに2年ほどが過ぎて、父の死から10年目を迎えた年のことである。

 店主が雨季の病魔に倒れて、それが回復しきらないうちに、トゥラン伯爵家の当主から晩餐会の厨を預かるように命じられてしまったのだった。


 普段であれば、ティマロが代理人として厨を預かるべき場面である。

 しかし、相手がトゥラン伯爵家の当主となると――それは不実な行いと見なされて、厳しく叱責されてしまうのだった。


「そのような身体では、本来のお力を発揮することも難しいでしょう。今回ばかりは、ご依頼をお断りするべきではないでしょうか?」


 ティマロはそのように忠告したのだが、店主は血の気の戻っていない顔で微笑みながら「いえ」と首を横に振っていた。


「伯爵様のご命令とあらば、考慮の余地はありません。あの御方のご不興を買ってしまったら、ジェノスにおいて料理人として生きていくことも難しくなってしまうのですからね」


 だからこそ、ティマロは依頼を断るべきだと考えたのだが、店主は決して考えを曲げようとしなかった。


「わたしの留守はあなたにお任せしますよ、ティマロ。あなたのように心強い人間がいるからこそ、わたしは安心して店を空けることができるのです」


 その日、《セルヴァの矛槍亭》には男爵家の晩餐の予約が入っていたため、休業することもかなわなかったのだ。そして、そういった事情をまったく鑑みないで命令を下してくるのが、トゥラン伯爵家の当主のやり口であったのだった。


 店主は朝も早くから、2名の弟子だけを引き連れて、トゥラン伯爵邸に出立していった。

 そうして夜遅く、男爵家の晩餐という大仕事を果たしたティマロたちが、ようやく後片付けを終えてくつろいでいたとき――店主は朝方よりも真っ青な顔をして戻ってきたのだった。


「あなたの言う通りでした、ティマロ。わたしは伯爵様のご命令に背くよりも手ひどい失敗を犯してしまったようです」


 店主はもはや、生ける屍のごとき眼差しになってしまっていた。

 同行していた2名の弟子たちなどは、病魔でもないのに青い顔をしている。聞くところによると、本日は3名の料理人を招いての味比べであったようなのだが、店主はひとつの星も授かれなかったあげく、トゥラン伯爵家の当主から絶縁を申し渡されたのだという話であった。


「わたしは熱を出していたために、舌の感覚が普通ではなかったようです。それでひどく粗末な出来栄えの料理を出してしまい……このような事態を迎えることになってしまいました」


「そうですか……それは無念でありましょうが、たった1度の失敗ですべてが失われることはないでしょう。どうかお気を落とさず、まずはゆっくり身をお休めください」


「いえ。すべてはこの一夜にして失われたのです。伯爵様に絶縁された以上、わたしが料理人として生きていくすべはありません。……もうこの店では、おおよその食材を買いつけることもかなわなくなってしまったのですからね」


 そう言って、店主は虚ろな笑みをたたえた。

 店主もすでに、50代の半ばを越える初老の身であるのだ。しかし、病魔を患ったあげくに多大な心労を負わされた店主は、もはや絶命寸前の老人じみた面相になってしまっていた。


「ですが、弟子たるあなたがたまで巻き込むわけにはまいりません。あなたがたには必ずや、新しい働き場所を準備してみせますので……どうか明日のうちに、荷物をまとめておいてください」


「お、お待ちください! 確かに食材の流通に関しては、トゥラン伯爵家のご当主が尽力されているのでしょうが……気に食わない店に食材を卸さないなどという、そんな無法はまかり通らないでしょう?」


「それが、まかり通るのです。ジェノスの食材の流通は、すべて伯爵様のお心ひとつなのですからね。そうして看板を下ろすことになった料理店も、片手の指では収まらないほどであるのですよ」


 ティマロは、返す言葉を持てなかった。

 そうして自失したまま、自分の寝所に向かい――しかるのちに、激甚なる怒りにとらわれたのだった。


(こんな馬鹿な話があって、たまるものか! 師匠がどれだけ素晴らしい料理人であるかは存分に思い知っているくせに、たった1度の失敗で見限ってしまうなんて……トゥラン伯爵家の当主というのは、どれだけ浅はかな人間であるのだ!)


 その翌日、ティマロは誰にも告げぬまま、単身でトゥラン伯爵邸に向かうことになった。

 伯爵の靴を舐めてでも、店主の失敗を許していただこうという算段であったのだ。ティマロは間違いなく柔弱者の部類であったが、柔弱者には柔弱者にしか持ち得ない覚悟というものが存在するのだった。


 トゥラン伯爵家の当主は、石塀に囲まれた貴族のための敷地ではなく、町中に別邸を構えて、そこで長きの時間を過ごしているものと聞き及んでいる。一介の料理人が何の約束もなく面会を申し入れても、とうてい聞き入れてもらえるとは思えなかったが――目的のためならば、ティマロは何度でも地面に額をこすりつける覚悟であった。


「《セルヴァの矛槍亭》のティマロと申します。突然の来訪で恐縮なのですが、どうかご当主様にお取り次ぎをお願いできませんでしょうか?」


 守衛にそのように伝えると、案外すんなりと邸内まで言葉を届けてくれた。

 そののちは、小姓の案内で控えの間に導かれる。何もかもが順調すぎて、いっそ薄気味悪いほどであった。


(……まさか、いきなり首を刎ねられたりはしまいな?)


 柔弱者たるティマロは、一気に不安になってしまった。

 ただ腹の底には、店主への理不尽な扱いに対する怒りが熾火のように燃えている。それがなければ、家人の目を盗んで逃げ帰りたいほどの緊張感であった。


「お待たせいたしました。伯爵様のもとまでご案内いたします」


 しばらくして、黄色いお仕着せを纏った小姓がそのように告げてきた。当主の趣味なのか、この屋敷は屋根までもが黄色く塗られていたのだった。

 ティマロはがくがくと膝が震えるのを感じながら、小姓に続いて回廊を進む。この数年でティマロも何度か貴族の屋敷を訪れる機会を授かっていたが、このように入り組んだ回廊を持つ屋敷を見るのは初めてのことであった。


 そうしてティマロは、奥まった位置に存在する応接の間に導かれ――

 そこでトゥラン伯爵家の当主サイクレウスと、初めて相まみえることになったのだった。


「ふむ……店主ではなく、下働きの人間がおもむいてこようとはな……」


 低くしわがれた声音が、豪奢な部屋に陰々と響きわたった。

 老人のように皺深い顔をした、不気味な小男である。まるで病魔を患っているかのように青黒い顔色をしており、貴族らしい身なりが滑稽に見えるほど貧相な風貌であった。

 しかし、色の淡いその瞳だけは、支配者に相応しい迫力を備え持っている。ティマロを震えあがらせるには、それだけで十分であった。


「と、と、突然の来訪をお許しいただき、心より感謝しております。わ、わたしは《セルヴァの矛槍亭》の――」


「余計な挨拶は、不要である……其方はいったい何用あって、我の屋敷に足を踏み入れたのであろうかな……?」


「は、はい! わたしは、その……」


 サイクレウスの迫力に圧される格好で、ティマロはその場にひざまずくことになった。


「さ、昨晩の店主の不始末を、心よりお詫び申しあげます! ただ、どうか……どうか、店主の失敗をお許し願えないでしょうか?」


「ほう……あれだけ粗末な料理を出した人間に、慈悲を与える余地があるとでも申すか……?」


「お、恐れ多きことながら、店主はジェノスにおいても屈指の技量を持つ料理人であるかと思われます! どうかこのたびの失態だけはお目をつぶっていただき、寛大な処置をご一考いただけないかと……」


「……思いの外、芸のない釈明であるな……」


 毛足の長い絨毯に額をこすりつけながら、ティマロは陰鬱なる声に後頭部を踏みつけられたような心地であった。


「我はこれまであの者に目をかけて、いいように取り計らってきた……我は、その期待と信頼を裏切られたのだ……それでも、その罪を不問にせよ、と……?」


「は、伯爵様のお怒りはごもっともでございますが、店主は病身であったのです! 病魔を退けたのちには、また伯爵様のご期待とご信頼に十分応えられるかと……」


「しかしあの者は、我よりも老齢であろう……そのような老人は速やかに退陣し、若い人間に席を譲るべきではなかろうかな……?」


 そう言って、サイクレウスは不気味な笑い声を響かせた。


「時に……其方は、どれほどの齢であろうかな……?」


「は……わたしめは、37歳となりましたが……」


「37歳か……若年とは言い難いものの、老いぼれるまでには長きの時間があろう……もしや、店主の右腕として店を取り仕切っている古株の料理人とは、其方のことであろうかな……?」


「は……わたしは12年の歳月を《セルヴァの矛槍亭》にて過ごしておりますため、昨晩も店主の留守をお預かりすることに相成りましたが……」


「なるほど……」という言葉を最後に、サイクレウスはしばし押し黙った。

 ティマロとしては、生きた心地のしない時間である。

 そうしてサイクレウスは、実に意想外な言葉を突きつけてきたのだった。


「では……《セルヴァの矛槍亭》に存続させる価値があるかどうか、其方の力量でもって示してもらおう……これより、昼の軽食の準備をするがよい……5名分の、菓子を準備するのだ……」


「わ、わたくしが菓子の準備をでございますか?」


「うむ……それで其方が満足のいく菓子を供したならば、昨晩の罪は不問としよう……では、準備に取りかかるがよい……」


 サイクレウスの声に、軽やかなる鈴の音が重なった。小姓を呼びつけるために、鈴を鳴らしたのだ。背後の扉から入室した小姓は、床に這いつくばったティマロを目にしても顔色ひとつ変えることなく、主人へと頭を垂れた。


「これなる者を、浴堂に案内するがよい……身を清めさせたのち、調理着を与えて、昼の軽食の準備をさせるのだ……」


「かしこまりました。こちらにどうぞ」


 ティマロは悪夢の中に放り込まれたような心地で、諾々とサイクレウスの命令に従うことになった。

 が、浴堂で身を清めて真っ白な調理着で身を固めると、だんだん気持ちが落ち着いてくる。菓子の出来栄えで事態が解決するならば、そんなにありがたい話はないように思えてきたのだ。


(調理の腕そのものは、わたしだって師匠に負けてはいない。《セルヴァの矛槍亭》の力を証し立てよと言うのなら、証し立ててやろうじゃないか)


 ティマロが師匠たる店主からすべてを学び取るには、10年の歳月が必要だと言われていた。そうして現在は、すでに12年の歳月が過ぎている。ティマロは店主とそっくり同じ料理を再現できるからこそ、昨晩のように大事な日でも留守を預かることがかなうのだった。


(しかし師匠は、あまり菓子作りを得手にしていないからな……ここは師匠がもっとも賞賛してくれた、あの菓子を供する他ないか)


 そんな思いを胸に、ティマロは屋敷の厨へと乗り込んだ。

 想像よりもささやかな厨で、ずいぶん年老いた料理番がひとりで大鍋の中身を攪拌している。案内役の小姓が事情を説明すると、その料理番は「はい」と気弱げに首肯した。


「こちらはもうこの鍋を温めるだけですので、どうぞ作業台は好きにお使いください」


 聞けば、ここは使用人の食事を準備するための厨であるとのことであった。

 であれば、印象が一変する。大きさこそはささやかなれど、調理器具や食材の質などは、《セルヴァの矛槍亭》の厨にも負けないほどであるのだ。ただひとつ、ティマロの欲していた食材だけは、さすがに見当たらなかった。


(こればかりは、しかたないか。普段もあの食材は、特別にトゥランから取り寄せていたのだからな)


 ティマロはさっそく、調理に取りかかった。

 貴族の朝寝を邪魔しては不興を買うかと思い、遅い刻限に来訪したため、もう中天まではさしたる時間も残されていない。料理番のほうもこちらには無関心な様子であったため、ティマロも集中して作業を進めることがかなった。


「完成いたしました。こちらはどのようにお運びすればよろしいでしょうか?」


 半刻ほどののち、テゥマロがそのように報告すると、「しばしお待ちください」と言い残して、小姓は姿を消してしまった。

 そして、次に戻ってきたとき――小姓は、驚くべき存在を引き連れていた。

 金褐色の髪と紫色の瞳を持つ、ティマロより背の高い娘である。


「そ、その御方は? まるで……まるで、その……」


「はい。こちらは北の民です。決して害はありませんので、ご安心ください」


 すべての感情を消し去った面持ちで、小姓はそのように言いたてた。

 そのかたわらで、北の民たる娘は静かな表情でたたずんでいる。


 トゥランでは北の民が奴隷として働かされているという話であったので、きっとそちらから連れてこられた娘であるのだろう。これまで畑仕事に従事させられていたことを示すように、その肌は真っ赤に焼けて、金褐色の髪も糸くずのようにほつれてしまっていた。

 ただし、その肌や髪をなんとかすれば、そうとう美しい娘なのではないだろうか。その顔は彫りが深く、目鼻立ちも十分に整っている。身体つきもいくぶん骨ばっていたが、しっかりと滋養を取ればすぐさま優美な曲線を描きそうな気配が感じられた。


(……しかし、北の民は北の民だからな)


 いかにトゥランの領地を治める領主とはいえ、屋敷の中にまで奴隷たる北の民を連れ込んでいようとは、ティマロも想像していなかった。柔弱者の本領を発揮して、ティマロは無意識の内に後ずさってしまった。


「準備された菓子は、こちらですね? それでは、拝借いたします」


 台に並べられた皿のひとつを、小姓は無造作に取り上げた。

 そしてそれを無言のまま、北の娘へと差し出してしまう。娘のほうも無言のまま、ひび割れた指先で皿の上の菓子を取り上げた。


「あ、あの、いったい何を……?」


「毒見です」と、小姓は短く応じる。

 北の娘は、ティマロの苦心の作をためらいもなく口にした。

 そして――思いも寄らないほど、やわらかい微笑を口もとにたたえたのだった。


「とてもびみです。ふしぎなあじです」


 いくぶんたどたどしいながらも、北の娘は西の言葉でそう言った。

 小姓はひとつうなずいて、残された皿を台車に移していく。


「では、四半刻ほど様子を見て何事もなければ、こちらの菓子をご当主様のもとにお運びいたします。その際にお迎えにあがりますので、お客人は控えの間でお待ちください」


 ティマロは再び、悪い夢に踏み込んでしまったような心地であった。

 だが、すでに為すべきことは為したのだ。あとはティマロの作りあげた菓子が、サイクレウスのお気に召すかどうかであった。


 四半刻ほどを控えの間で過ごしたのち、ティマロは食堂へと案内される。

 そこにはサイクレウスと、もう3名の人間が待ち受けていた。ただし、席についていたのはサイクレウスと、年端もいかない小生意気そうな幼子のみである。


「中天となったので、昼の食事を始めるとしよう……こちらの2名は昨晩の晩餐会にて料理を供した、我が屋敷の料理長とシムよりの客人である……」


 壁際に立ち並んだ2名の男性が、頭を下げてくる。

 東の客人はもとより、料理長のほうもなかなか背が高い。端整な面立ちをしているが、どこか表情の茫洋とした人物であった。


(はて、どこかで見た覚えがあるような……?)


 ティマロは内心で小首を傾げたが、そんな想念はすぐさまサイクレウスの言葉によって打ち砕かれた。


「其方には、こちらの両名と味比べをしてもらう……星を入れるのは、我と娘のリフレイアだ……もしも其方が勝利を収めることができなければ……店主ともども、絶縁させていただこう……」


「ぜ、絶縁? それはつまり――」


「今後、其方に食材を受け渡す人間はいなくなるということだ……むろん、ダレイムで収穫できるような野菜であれば、城下町の外でいくらでも買いつけることがかなおうがな……」


 だが、タウ油や砂糖などといった食材は、2度と手に入らないということだ。

 ティマロは絶望で目がくらみそうになるほどであったが、なんとか持ちこたえてみせた。


「しょ、承知いたしました。では、わたしが勝利を収めたあかつきには――」


「そのときは、店主に対する絶縁を解いてやろう……それほど容易い話ではなかろうがな……」


「……伯爵様のご温情に、心より感謝の言葉を申し述べさせていただきます」


 ティマロは痛いほどに心臓が鳴るのを感じながら、頭を垂れてみせた。


「では、其方たちは別室にて、それぞれの菓子を食べ比べるがよい……いったいどれほどの出来栄えであるか、楽しみなところであるな……」


 サイクレウスの不気味な笑顔に見送られながら、ティマロたちは別室へと案内された。

 そちらの卓には、すでに3名分の菓子が2種ずつ並べられている。ご丁寧に、茶の準備までされていた。


「……昨晩、店主、気の毒でした。体調、如何ですか?」


 と、席につくなり東の民のほうが、そのように呼びかけてきた。

《セルヴァの矛槍亭》にまつわる理不尽な話をどこまでわきまえているのか、東の民は表情を動かさないために、まったく内心が読み取れない。聞けば、この人物は行商人に過ぎず、ただ調理を得意にしているというだけで、サイクレウスにしばしの滞在を願われたのだという話であった。


 そしてもういっぽうの、料理長である。

 こちらは明らかに西の民であるのに、東と民と同じように表情を動かさない。ただ、東の民特有の静謐な面持ちなど望むべくもなく、どこか寝ぼけているように茫洋としているのだった。


「……昨晩は、店主が失礼をいたしました。わたしは《セルヴァの矛槍亭》のティマロと申します」


「いえ。わたしには関わりのない話ですので、お気になさらず。……わたしは、ヴァルカスと申します」


「……ヴァルカス?」


「はい。先月から、こちらのお屋敷で料理長を務めることに相成りました」


 ヴァルカスと名乗る料理長が、焦点のぼやけた目をティマロのほうに向けてくる。

 その瞳が、ジャガルの民のごとき緑色をしていることに気づき――ティマロは、愕然とした。


「ヴァ、ヴァルカス? もしやあなたは、あのときのあの御方であられるのでしょうか?」


「はい。どこかでお会いしましたでしょうか? 申し訳ありませんが、わたしは他者の顔を見覚えるのが苦手であるのです」


「いや、まあ、わたしたちがお会いしたのは、ずいぶん昔の1度きりでしたので、覚えておられなくとも無理はありませんが……あなたはお若い頃、《セルヴァの矛槍亭》の店主に何度となく弟子入りを願っておりましたでしょう?」


「ええ。ずいぶん昔の話ですので店の名前などは失念してしまいましたが、城下町で評判になっていた料理店にはのきなみ弟子入りを申し出ていたはずです」


 ではやはり、あの日あのとき通用口の扉を叩いたのが、このヴァルカスであったのだ。

 12年も前に1度顔をあわせただけの相手であったので、ティマロもすっかり失念してしまっていたが、このぼんやりとした寝起きみたいな物腰には、激しく記憶巣を刺激されていた。


(まさかあのときのあの若造が、トゥラン伯爵家の料理長にまで成り上がっているとは……しかも、師匠が失脚することになった場に居合わせていたなんて……これはどういう運命神の悪戯なんだ?)


 ティマロはひどく心をかき乱されてしまったが、いつまでも語らってはいられなかった。サイクレウスらが食事を終えるまでに、ティマロたちもおたがいの菓子を食べ比べなければならないのだ。


 目の前の皿には、奇妙な菓子が鎮座ましましていた。

 片方は団子であるようだが、表面が妙に筋走っている。これはどうやらフワノの生地を紐のように細長くのばして、それを丸くまとめた上で蒸し焼きにしたものであるようだった

 もう片方はさらに奇妙で、団子にしてはずいぶんと小さい。淡い色合いの赤、黄、緑と3種が準備されていたが、全部まとめて頬張れるぐらいの大きさでしかなかった。


 それに対するティマロの菓子は、ごく尋常なフワノの焼き菓子だ。

 ダイアのように見栄えまで凝り尽くす才覚の持ち合わせはなかったので、何の変哲もない丸くて平たい形に焼きあげている。ただし、味のほうはティマロの持てる限りの工夫を凝らしていた。


「……こちら、とても美味です。そして、不思議な風味です。この風味……ママリアの果実酒ですか?」


 と、東の客人がティマロの菓子をひと口頬張るなり、そのように呼びかけてきた。

 どちらの菓子からいただくべきかと視線をさまよわせていたティマロは、慌てて「ええ」と応じてみせる。


「お察しの通り、ママリアの果実酒を風味づけに使っております。本当は、ママリアそのものを使いたかったのですが……こちらの厨には準備がなかったため、果実酒を代用として使った次第です」


「なるほど。きわめて美味、思います」


 ティマロは安堵の息をつきつつ、「ありがとうございます」と返してみせた。

 それからヴァルカスのほうに目をやってみたが、そちらは無言で2種の菓子を食している。ティマロとしては、ここまでの立場にまで成り上がった彼がどのような感想を抱いたのか、聞きたくてたまらぬ心境であった。


(しかしその前に、まずはあちらの手腕も確認しておかねばな)


 ティマロもまた、2種の菓子を口にした。

 そして――心の底から、打ちのめされることになった。


 細長い生地を丸めて蒸し焼きにしたほうの菓子は、その内側に不可思議な具材を隠していた。甘いことには甘いのだが、その裏側にぴりっと舌を刺激する味わいが隠されていたのだ。最初は辛さと誤認したが、それは舌が縮むほどの苦みであった。菓子には不似合いに思えるその苦みが、実に新鮮で奇妙な味わいであったのである。


 もう片方の小さな菓子は、食感がきわめて独特であった。

 口の中に放り入れると、噛むまでもなく溶けてなくなってしまうのである。そして口の中に、砂糖と果実のふくよかな甘みが、ふわりとそよぐ微風のように残されていく。赤いのはアロウ、黄色いのはラマム、緑色は何かの香草であるようだった。


「これは……いったいどちらが、どなたによる作なのでしょうか?」


 ティマロがそのように声をあげると、やはり答えてくれたのは東の客人のほうであった。


「私、苦みのある菓子です。ラマンパの実、砕いたもの、3種の香草および砂糖、加えて、煮込み、具材としています。苦みの正体、香草のひとつです」


「あ、あなたは料理人ではなく、行商人であられるのでしょう? それでどうして、これほどの手腕を……?」


「趣味です。私、1年の半分以上、西で過ごすため、西の地でも、好みの食事、いただけるように、研鑽、積みました」


「趣味……趣味で、これほどの手腕を……」


 ティマロはこれまでに積み上げてきた自負を大きく揺さぶられながら、ヴァルカスのほうに向きなおった。


「……あなたの菓子も、素晴らしい出来栄えでありました。いったいどうしたら、これほど軽やかな食感を生み出すことがかなうのでしょう?」


「そちらの菓子は、キミュスの卵の白身を主体にしております。それ以上のことは、申しあげられません」


 なんの感慨も込められていない口調で、ヴァルカスはそのように言いたてた。


「そもそもわたしは料理の締めくくりとして供する菓子の研鑽しか積んでおりませんため、昼の軽食で食されるというのは恐縮の限りです。何かご不満がありましたら、伯爵様にお伝え願います」


「ふ、不満などは持ちようもありませんが……わたしの菓子は、如何でしたでしょうか?」


「あなたの菓子……この、果実酒を使った焼き菓子ですか」


 ヴァルカスは、何やら残念そうな様子で小さく息をついた。


「ママリアの果実酒を菓子に使うというのは、なかなか目新しいように思います。砂糖や蜜の配分も、まあ申し分ないでしょう。……ですが、熱の入れ方で調和が乱され、きわめて粗末な出来栄えになってしまっています。また、味の組み立てがきわめて平坦でありますため、実に退屈な味わいでありました」


「……率直なご意見、ありがとうございます。こちらにはミンミとラマムの果汁も使っていたのですが、それでも平坦な味わいでありましたか」


「ミンミとラマムを調和させるには、細心の注意が必要となります。この際には、むしろ雑味にしかなっていないように思われます」


 ティマロは屈辱に身を震わせることになった。

 しかし、ティマロを激昂させたのは、それに続く言葉のほうであった。


「本日の味比べの結果次第で、あなたの店に希少な食材を卸すかどうかが決されるそうですね。わたしの菓子は決して軽食向きではありませんため、あなたが星を授かる可能性もなくはないでしょう。……まったくもって、残念に思います」


「……残念とは、どういう意味でありましょうか?」


「希少な食材をよそに回せば、わたしの取り分が減ってしまいます。腕の悪い料理人に扱われるぐらいであれば、土に埋めてしまったほうが面倒も少ないぐらいでありましょう」


 ティマロは無意識のうちに、卓を平手で叩いてしまっていた。


「ヴァルカス殿! わたしはともかく、店主はジェノスで指折りの料理人ですぞ! あなたとて、昔日には何度となく弟子入りを願っていたほどではありませんか!」


「わたしがあちこちの料理人に弟子入りを願っていたのは、10年ばかりも前までのことです。それだけの期間で、調理の手腕があそこまで衰えてしまうというのは……時の流れの無情さを感じてやみません」


「店主は、病身であられたのです! 昨晩の料理だけで店主の手腕を語ることはかなわないはずですぞ!」


「ああ、あの御方は熱のせいで、舌の感覚が鈍っていたそうですね。わたしとて熱を出すことはしょっちゅうですので、覚えがあることです。……しかし、それならそれで、自分の舌が鈍っているという計算のもとに味を組み立てるべきではないでしょうか? わたしは普段から、そのように心がけているのですが」


 ティマロがさらに怒声をあげようとすると、控えの間の扉が小姓の手によって開かれた。


「味比べの結果が出ましたので、あちらの食堂に移動をお願いいたします」


 ティマロは怒声を呑み込んで、ヴァルカスの顔をねめつけた。

 ヴァルカスは、やはり内心の読めない無表情で、ぼんやりと視線をさまよわせるばかりであった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] ヴァルカスの、味覚が鈍っているのを計算に入れて調理をするべきだという言葉は、一流の調理人ならあながち間違っていないことだと思います。 一度も作ったことのない全く新しい品を作るのではな…
[一言] ここまで言われても、紆余曲折はまだ分からないとはいえ、アスタが感じたようにヴァルカスに引っ張られた料理を作るようになっていたのが凡人としての悲哀というかなんというか しかし、ヴァルカスが得意…
[一言] む、一か所誤字というか誤入力が。 > 半刻ほどののち、テゥマロがそのように報告すると ってなってます。 ……しかし、ヴァルカスはとてもヴァルカスだなぁ……w
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