第五話 非凡ならねど(上)
2021.10/4 更新分 1/1
・今回は全11話の予定です。
「だいたい親父は、時代遅れなんだよ!」
城下町のとある料理店の厨において、そのように怒声をあげる若き料理人がいた。
料理人の名は、ティマロ。当時の年齢は20代の半ばを過ぎたぐらいで、調理の腕は店の主人たる父親にも引けは取らなかったが、まだまだ見習いの立場であった。
「ジェノスにはこれだけ目新しい食材があふれかえってるってのに、いつまで古い献立にこだわってるつもりだよ? 早々に考えを改めないと、親父の代で店を潰すことになっちまうぞ?」
「うるせえな。偉そうな御託は、自分の店でも出してから言いやがれ。ここは俺の店なんだから、手前みたいな青二才にとやかく言われる筋合いはねえよ」
場末の商店区で生まれ育ったこちらの父子は、城下町の民としてはずいぶん粗雑な立ち居振る舞いであった。父親のほうなどは見た目も厳つく、そしてその通りの気性をしている。しかしティマロは怯んだ様子もなく、父親に対する不満を並べたてた。
「偉そうなのは、どっちだよ! いまどき酢とチットの実しか使わない料理なんて、誰が食べたがると思うんだ? ていうか、親父は砂糖やタウ油ってもんを口にしたことがあるのかよ? そんな体たらくで、よく料理店の店主を気取っていられるもんだな!」
「そんな正体も知れない食材なんざ使ったら、これまで通ってくれてたお客らが離れていっちまうだろ。俺はな、自分の父親から受け継いだ味を守っていくって決めてるんだ」
「その考えが、時代遅れだって言ってんだよ! 何十年も前にあみだされた料理の味なんざに、どれだけの価値があるってんだ!」
「うるせえ! 文句があるなら、店を出ていきやがれ! 手前なんざに、この店の味を受け継ぐ資格はねえ!」
「ああ、上等だ! こんな店、出ていってやるよ!」
ティマロは前掛けをむしり取って、それを厨の床に叩きつけた。
「今日という今日は、我慢の限界だ! キミュスの骨ガラと一緒に煮込まれちまえ!」
厨を飛び出したティマロは、調理着のまま往来をさまよい歩くことになった。
商店区の端であるこの場所には、安さを売りにする料理店がずらりと立ち並んでいる。しかし昨今ではそんな場末の料理店においても目新しい食材を使うのが主流であり、街路にはタウ油の香りがあふれかえっていた。
(がちがち頭の頑固親父め……そんなに自分の店を潰したいのかよ?)
ここ数年で、城下町の情勢は大きく変化している。美食家で知られるトゥラン伯爵家の当主とやらが食材の流通に関わり始めて、シムやジャガルからたいそう物珍しい食材が取り寄せられるようになったのだ。
その代表格は、やはりジャガルのタウ油と砂糖であろう。それまで塩と酢と香草ぐらいしか調味料の存在しなかったジェノスに、それらの目新しい食材がはびこり始めたのだ。噂によると、もう何年も前から貴族たちの間ではそれらの食材がもてはやされていたようだが――それらがついに、城下町で暮らす庶民の間にも流通し始めたのだった。
(今どきは、家で料理をこしらえる連中だってタウ油や砂糖を使ってるんだぞ? 酢と香草しか使わない料理店なんざ、誰にも相手にされなくなっちまうよ)
ティマロは父親がどれだけ優れた料理人であるかをわきまえている。それゆえに、変化を嫌う頑固さが我慢ならなかったのだった。
ティマロの母親と弟も、その頑固さを厭うて家を出ていってしまったのだ。
それでもティマロが父親のもとに留まったのは、ひとえに料理人として敬服していたからに他ならなかった。
だが、このままではもうあの店も何年と持たないだろう。
ティマロの祖父の代から続いてきたというあの料理店は、いまや存亡の危機に立たされているのだ。
父親がそれでも考えを改めないというのなら――ティマロのほうが、考えを改めるしかなかった。
(俺が目新しい食材を使いこなして、あの店を立て直してやる。あとで吠え面かくなよ、馬鹿親父め)
◇
翌日――ティマロは《セルヴァの矛槍亭》なる料理店を訪れていた。
ただし、客としてではない。弟子入りを願うためである。
「ふむ。目新しい食材に見向きもしない父君を見返すために、一念発起して家を出よう、と……それはなかなか、豪気なお話でありますな」
《セルヴァの矛槍亭》の店主は、ひどくなよやかな調子でそのように言いたてた。
こちらは貴族の覚えもめでたいという、城下町でも屈指の料理店なのである。店主は気取った口髭をたくわえた壮年の男性であったが、その物腰は女性のようにやわらかかった。
「しかしそうなると、あなた自身も目新しい食材を扱ったことがないというわけですね。それに、その齢で弟子入りというのは……いささかならず、例にないことでしょうな」
「その目新しい食材の扱い方を習うために、弟子入りを願ってるんです。歳をくってる分、他のお弟子よりお役に立つという面もあるはずですよ」
ティマロは恥も外聞もかなぐり捨てて、懸命に言いつのった。彼にとっては、この場こそが人生の分かれ目であったのだ。
「最初は皿洗いでも何でもかまいませんし、自分より若い兄弟子たちにたてついたりもしません。大事なのは、年齢じゃなくって技量でしょう? 一番未熟な人間が先達に頭を下げるのは当然のことです」
「そのように申されましてもねえ……」
「お願いです! 俺は目新しい食材の味を研究するために、なけなしの銅貨をつかって城下町中の料理店を食べ歩きました! それで、自分がお世話になるのはこの《セルヴァの矛槍亭》しかないって考えたんです!」
すると店主は、多少なりとも自尊心をくすぐられた様子で鼻のあたりをひくつかせた。
「ではひとつ、あなたの腕を見せていただきましょうか。どのような献立でもかまいませんので、ひと品料理を準備してください。その出来栄えでもって、あなたに弟子入りを許すべきかどうか思案いたしましょう」
「え? ですが俺は、タウ油も砂糖も扱ったことがないのですが……」
「無理に目新しい食材を使う必要はありませんよ。わたしとて、昔日にはごく限られた食材で料理をこしらえていたのですからね。どのように素朴な料理でも、善し悪しを判ずることはかないましょう」
ティマロは怖気づきそうになる心を引き締めて、その提案を受け入れることになった。
厨に移動すると、若き弟子たちが下ごしらえの仕事に励んでいる。確かにティマロより年若い人間など、その場には存在しないようだった。
「みなさん、手は休めずにお聞きください。これよりこちらの御方がこの場で料理を仕上げますので、作業の進捗に支障のない範囲で場所をお譲りください」
店主は弟子に対してさえも、なよやかで礼儀正しい物腰であった。毎日のように怒声が飛び交っていたティマロたちの厨とは、大違いである。
それにつけても、立派な厨であった。その場には3名もの弟子たちが働いていたのに、場所にも調理器具にもまだまだゆとりがあるようだ。鉄窯の扉などはぴかぴかに磨かれて、鏡の代用にできそうなほどであった。
「食材は、どういったものが必要でしょう? なるべく時間のかからない献立でお願いしたいのですが」
「そ、それじゃあ……カロンの胸肉に、タラパとティノ、それにカロンの乳と乾酪と、ママリアの酢をお願いします」
「ふむ。香草は不要なのでしょうかな?」
「え、あ、はい……香草を使った料理のほうがいいでしょうか?」
「いえ。最近はカロン乳の料理に香草をあわせるのが主流であるため、つい口をはさんでしまっただけのことです。どのように素朴な料理でも、まったくかまいませんよ」
ティマロを嘲弄しているのか否か、店主は穏やかな面持ちで口髭をひねっている。弟子たちは無関心な様子で、黙々と仕事に励んでいた。
どう考えても、歓迎されている雰囲気ではない。しかしティマロも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
持参した調理着に袖を通し、作業台に並べられた食材と向かい合う。
それを尻目に、店主は厨の出口へときびすを返した。
「わたしは所要がありますため、半刻ほど席を外します。……みなさん、助言も邪魔立ても一切不要で願いますよ」
弟子たちは抑揚のない声音で「承知いたしました」と答える。
なんとなく、大きな声を出すことさえ禁じられているかのような雰囲気であった。
もとよりティマロは、さほど肝の据わった人間ではない。ただ威勢がいいだけの柔弱者だと、自覚していた。
しかしそれでも、ティマロはその場の空気に呑み込まれないように精一杯の力を振り絞って、自らの持てる技量を余すところなく示さなければならなかった。
ティマロは何としてでも目新しい食材の扱いを習得し、生家の料理店を立て直してみせるのだ。
頑迷なる父親がのちのち泣き伏す姿を見たくなければ、ティマロが自らの力で運命を切り開くしかなかった。
「お待たせいたしました。準備のほうは如何でしょうか?」
半刻の後、店主が厨に戻ってきた頃合いで、ティマロの料理は完成した。
ティマロは懸命に虚勢を張りつつ、「万端です」と応じてみせる。
「よろしい。では、さっそく味見させていただきましょう」
ティマロが小鍋で煮込んでいた料理を皿に盛りつけると、店主はその場で突き匙を取り上げた。
ティマロが準備したのは、肉と野菜の煮込み料理である。受け取った皿を一瞥して、店主は「ふむ」と小さくうなずいた。
「まったく今さらの話ですが、カロンの乳を使った煮込み料理にママリアの酢を使うというのは、あまり聞かない作法でありますね」
「ええ。うちの店に代々伝わる献立のようです」
「そうですか。まあ昔日には食材の種類がきわめて限られていたため、誰もが試行錯誤していたのでしょう。わたしにも、覚えのあることです」
どこかティマロを憐れんでいるような口調で言いながら、店主はその料理を口にした。
そして――ぴくりと、眉を寄せる。
「……なるほど」
内心の知れない調子でつぶやき、店主はさらに料理を食した。
そうして皿の中身をすべてたいらげると、食器をティマロに受け渡し、懐から取り出した織布でお行儀よく口もとをぬぐった。
「カロンの乳とママリアの酢、それに乾酪の味わいが、なかなか愉快な調和を果たしておりました。やはりいささかの強引さは否めないところでありますが……あまたある食材を使いこなすには、そういった強引さも肝要であるものです」
「……自分の弟子入りを、認めてくださいますか?」
ティマロの質問には答えずに、店主は小鍋のほうを見やった。
「こちらの料理は、まだ残されているのでしょうか?」
「え? あ、はい。もうあとひと口やそこらしか残ってませんけど」
「そちらに少々、手を加えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
店主の考えはまったく読めなかったが、ティマロとしては了承するしかなかった。
店主は小鍋をかまどに戻して、煮汁がこぽこぽと沸騰するや、棚から取り上げた香草の粒をわずかばかり投じた。
そうして味を確かめると、またいくつかの食材を投じる。その中には、ティマロには見覚えのない食材も含まれていた。
「まあ、こんなものでしょうか。……どうぞ、味をお確かめください」
かまどの前から身を引いた店主は、優雅な仕草で小鍋を指し示した。
ティマロはまったくわけもわからないまま、残りわずかな料理を皿に移す。あまりに色々な食材を投じたため、煮汁は得体の知れない暗緑色に染まってしまっていた。
ティマロは内心で首を傾げつつ、その料理を口にする。
とたんに、想像もしていなかった味わいが口の中に跳ね回った。
もともとこの料理は、カロン乳の風味とママリア酢の酸味を前面に押し出している。そこに、さまざまな香草と砂糖によって、強い辛みと甘みが加えられていたのだった。
「これは……ずいぶん奇抜な味わいであるようですね」
「ええ。お気に召しませんでしょうか?」
「いえ。もとの味や風味を残したまま、こんな風に新しい要素を加えることができるなんて……心底、驚かされました」
ティマロは本心から、そのように答えてみせた。
店主は「そうですか」と満足そうに微笑む。
「こちらはあくまで即興で仕上げた味付けに過ぎませんので、まだまだ改良の余地がありましょう。しかしジェノスに流通する食材をあまねく使いこなすことがかなえば、これだけ多彩な味わいを目指すことがかなうのです」
「はい。自分はこういう手法を学ぶためにこそ、弟子入りをお願いしたんです」
「ですが、目新しい味わいを求めていない御方には、こういった料理を受け入れることも難しいでしょう。……あなたがどれだけの腕を身につけようとも、父君を満足させることはできないかもしれませんよ?」
ティマロは一瞬言葉に詰まったが、すぐさま「いえ」と答えてみせた。
「親父が満足するかどうかなんて、俺には関係ありません。俺はただ……親父から習い覚えた手腕を磨きぬいて、より高みを目指したいだけです」
「そうですか。この場で新たな技術を習得し、傾いた店を立て直したい、と?」
図星を突かれて、ティマロは今度こそ黙り込んでしまう。
しかし店主は気を悪くした様子もなく、鷹揚に微笑んだ。
「べつだん、それを不義理と責めているわけではありませんよ。そもそもわたしの跡を継げるのは、弟子の中のただひとりだけであるのです。あとの人間は別なる場所で躍進していただければ、それもまたわたしの功績となりましょう」
「そ、そうですか。はい、決してあなたの名を汚すような真似はしません」
ティマロが勢い込んで応じると、店主は「ただし」とつけ加えた。
「1年や2年でどうにかなるとお考えでしたら、それは浅慮と言わざるを得ないでしょう。わたしからすべてを学ぶには、10年ばかりもかかるものと覚悟を固めていただかなくてはなりません」
「じゅ、10年ですか? それはもちろん、簡単な話ではないのでしょうけれど……」
「ええ。わたしは10年がかりで、現在の手法を確立させたのです。それよりも短い期間ですべてを習得したいと願うなら、わたし以上の尽力が必要になりましょうね」
その言葉は、ティマロにひとつの疑念を抱かせた。
「あの、お言葉を返すようですが……目新しい食材がこんなにわんさか出回ったのは、ここ数年の話ですよね?」
「ああ、こちらの店では古くから、貴き方々の厨をお預かりしていたのです。よって、目新しい食材が市井に出回る前から、取り扱うことを許されていたわけですね」
この店は、それほどの格式を有していたのだ。
ティマロは心から打ちのめされつつ、深々と頭を下げてみせた。
「あなたがそれだけの料理人であったからこそ、自分もこちらの門戸を叩くことになったのでしょう。懸命に勤めますので、どうぞ弟子入りをお許しください」
「ですがそれでは、父君の店をお救いすることも難しいのではないでしょうか?」
「かまいません。もしもあの店が潰れちまったら……おんなじ名前で、俺が新しい店を出してみせます。そうすりゃ死んだ祖父さんも、あの世で喜んでくれることでしょう」
頭を深く垂れたまま、ティマロはそのように言いつのる。
しばしの沈黙ののち、店主は「よろしい」と宣言した。
「そうまで仰るのでしたら、あなたを弟子として迎えましょう。……ただし、ひとつだけ条件があります」
「はい。どんな条件でしょう?」
「何も難しい話ではありません。こちらの店の格式に相応しい礼儀作法を身につけていただきたいのです。まずはその粗野な喋り方を何とかしなくてはなりませんね」
「そ、粗野ですか? これでもいちおう、礼儀正しく振る舞っていたつもりなんですが……」
「ところどころで、粗野な言葉がこぼれ落ちていましたよ。『俺』だの『親父』だの……『わんさか』だの『そうすりゃ』だのという言い回しも、感心いたしませんね」
そう言って、店主は穏やかに微笑んだのだった。
「その教えを守れるのでしたら、あなたを歓迎いたしましょう、ティマロ。父君のために、どうぞ立派な料理人をお目指しください」
◇
そうしてティマロは家を出て、新たな料理店で働くことになった。
父親から授かった言葉は、「清々するぜ」のひと言のみである。母親と弟が家を出た際も、父親はそんな態度であったのだった。
(清々するのは、こっちだって一緒だよ)
ティマロは父親が憎いわけではない。しかし、情勢の変化を受け入れられないその頑迷さには、心底から辟易していた。
ティマロとて、料理人としての誇りを胸に抱いて生きているのだ。祖父の代から続いてきた料理店にだって、ぞんぶんに愛着を抱いている。それを怠惰な振る舞いで潰しかけている父親の行いこそが、ティマロを苛立たせているのだった。
(今に見てろよ、馬鹿親父め。10年もかけたりはしない。その半分の5年ぐらいで、ぎゃふんと言わせてやるからな)
そんな意気込みで、ティマロは新たな生活に挑むことになった。
朝から晩まで働き詰めであったが、それはこれまでだって同じことだ。最年長の新弟子ということで、いささか居心地の悪い面はあったものの――ティマロはそれを上回る刺激とやりがいを授かることができた。
その場には、ティマロが想像していたよりも遥かにさまざまな食材があふれかえっていたのである。
砂糖やタウ油は言うに及ばず、まったく見たことのないシムの香草だの、マ・プラやマ・ギーゴといった野菜だの、パナムの蜜やミンミの果実だの――まずは名前を覚えるだけでも、ひと苦労なほどであった。
それに、弟子と言っても師匠から手取り足取り教えてもらえるわけではない。ここは学舎ではなく、仕事場であるのだ。弟子たちは下働きの仕事を果たしつつ、師匠の技術を目で見て学ばなくてはならないのだった。
しかしティマロは、充足した心地で日々を過ごすことができた。
穏やかで公正な店主の人柄も、ティマロの支えとなってくれた。言葉づかいの矯正に関してはひとかたならぬ苦労があったものの、それさえもが上流の社会に近づけた証のように感じられてならなかった。
店には貴族も訪れるし、時には店主が晩餐会の厨を預かることもある。もちろん新弟子のティマロが貴族とお目見えする機会などはなかったが、そういった人々もティマロが下準備をした料理を口に運んでいるのである。これは場末の料理店ではとうてい味わえない栄誉と達成感であった。
そして時には、店主が弟子たちの腕を見てくれることもあった。
自由に料理を作らせて、それを味見し、至らない部分を指摘してくれるのだ。半月に1度ほど訪れるその機会こそが、ティマロをもっとも奮い立たせた。
ティマロは新入りだが、弟子の中では最年長であるのだ。しかも生家が料理店で、物心ついたときには厨の仕事を手伝わされていた。かろうじて学舎に通うことは許されたが、友人と遊ぶ時間などはなかなか得られず、店の手伝いばかりさせられていたのだ。目新しい食材の扱いはともかく、旧来の食材の扱いに関しては自分が一番であるという自負があった。
「ティマロは目新しい食材を取り入れることに、きわめて意欲的であるようですね。その気概は、きっとあなたの糧になることでしょう」
師匠たる店主からは、そんな言葉をいただくことができた。
店主は穏やかな気質であるが、心にもない賛辞を述べるような人間ではない。よって、それらの言葉の数々も、大いにティマロを力づけてくれた。
そうして日々は、慌ただしく流れていき――半年ほどが経った頃のことである。
夜の営業に備えて、ティマロたちが下ごしらえの仕事を果たしていると、通用口の扉を叩く者があった。
こういった雑用は新弟子の仕事であったため、ティマロは大急ぎで手を洗い、通用口に向かう。そうして扉を開くと、見覚えのない若者がぼんやりと立ち尽くしていた。
「お忙しい中、失礼いたします。ご店主はいらっしゃいますか?」
「店主は仕事のさなかとなりますが、どちら様でしょうか?」
それはすらりと背の高い、ティマロよりも何歳か若そうな青年であった。
なかなか面立ちは整っていて、南の民のように緑色の瞳をしている。それにずいぶん色が白いので、本当にそちらの血が入っているのではないかと思えるほどだ。
ただその青年は、ずいぶんぽけっとした締まりのない面持ちをしていた。
面と向かってティマロと言葉を交わしているのに、別の想念に思いを飛ばしているような――それこそ、寝起きの人間を思わせるたたずまいであった。
「わたしは、ヴァルカスと申します。こちらの料理店に、弟子入りを願いたいのです」
「弟子入りですか。それでは店主に伝えてまいりますので、こちらでお待ちください」
ついに自分にも後輩ができるのかと、そんな思いでティマロは厨に引き返した。
他の弟子たちに指示を出していた店主は、ティマロの言葉を聞くなり、なよやかな仕草で自分の額に指先を添えた。
「ヴァルカス……またあの御方ですか……申し訳ありませんが、新たな弟子を迎えるゆとりはないと、あなたからお伝え願えませんか?」
「はい、承知しました。……あの御方は、以前にも弟子入りを志願してきたのでしょうか?」
「ええ。これで3度目のことになりますね。ここ1年ほどはお姿を見せなかったので、ようやく諦めてくれたのかと胸を撫でおろしていたのですが……茫洋とした見かけに寄らず、ずいぶん執念深い御方であられるようです」
そう言って、店主はしみじみと息をついた。
どうも普段の店主には、なかなか見られない所作である。
「師匠ほどの御方であれば、それだけ余人を引きつけることもおかしくはないように思います。ですが、彼は弟子入りを認められるようなお相手ではないということですね?」
「ええ。わたしが古くから懇意にさせていただいている料理店のご主人から、悪い風評を耳にしているのです。目上の人間に対する非礼な振る舞いですとか、希少な食材を勝手に使ってしまったりですとか……とにかく自分本位で、礼節をわきまえていない御方のようですね」
この店主がこれほど他者を悪く言うのは、珍しいことである。ならばよっぽど、悪い風聞が出回っているのだろう。
「聞くところによると、あの御方はそんな風にしてあちこちの料理店を荒らして回っているご様子ですね。たしか、わたしが最初にあの御方の風聞を耳にしたのは……もう5年ばかりも昔であったように思います」
「5年ですか。それでいまだに腰を据えることができないというのは……きっとご本人に問題があられるのでしょうね」
「ええ。ですからどうか穏便に、お引き取り願ってください」
「承知しました。わたしにおまかせください」
こんな形でも、尊敬する師匠のお役に立てるのは嬉しい話であった。
ティマロは気持ちを引き締めて、通用口に舞い戻る。扉を開けると、ヴァルカスなる若者はさきほどとまったく変わらぬ姿でぽけっと立ち尽くしていた。
「お待たせいたしました。申し訳ありませんが、現在は新たな弟子を迎えるゆとりがないとのことです」
「そうですか。でしたら、給金は不要とお伝え願えないでしょうか? わたしはただ、ご主人の手腕を間近で拝見したいだけなのです」
「いえ。どのような条件でも、弟子入りを認めることはかなわないそうです」
「そうですか……」と、ヴァルカスはぼんやりとつぶやいた。
「残念です。こちらのご主人はカロンの乳や乾酪の扱いが極めて巧みでありますため、その手腕を学びたいと願っていたのですが……」
「乳や乾酪ですか。当店はタウ油や香草の料理において、もっとも高い評価をいただいているのですが」
「タウ油や香草の扱いに関しては、いささかならず考慮の余地が残されているように思います。わたしも弟子入りを願うにあたって、何度かこちらの料理をいただいていますので」
ティマロは呆れかえって、しばし言葉を失ってしまう。
これは確かに、風評の通りの人物であるようだった。
「弟子入りを願うのでしたら、まずはその非礼な振る舞いをつつしむべきでしょうね。それでは、失礼いたします」
ティマロは荒っぽい所作にならないように気をつけながら、通用口の扉を閉めた。
そうして厨に戻る道行きで、だんだん腹が立ってくる。
(タウ油や香草の扱いに、考慮の余地だって? 俺より若そうな若造が、勝手な口を叩くんじゃねえよ)
ティマロが厨に戻ると、店主はほっとした面持ちで迎えてくれた。
「ありがとうございます。ああいう御方は、どうにも内心が読めないので……以前に弟子入りをお断りしたときも、ずいぶん難渋してしまったのです」
「はい。師匠があのような手合いに時間を割く必要はございません。もしものときは、いつでもわたしにお申しつけください」
ティマロはそのように答えたが、ヴァルカスが再び来訪することはなかった。ティマロとヴァルカスが再開を果たすのは、これより10年以上のちのことである。
そしてその期間に、ティマロはさまざまな波乱に見舞われることになった。
最初の波乱は、新たな環境に身を置いてから2年後のこと――ひさしく顔をあわせていなかった弟がティマロの住まいを訪れて、父親の訃報を伝えてきたのだった。
「雨季の寒さで肺を病んで、呆気なく魂を返しちまったそうだよ。見た目ほど、頑丈な人間じゃなかったみたいだな」
住み込みの部屋の前で弟を迎えたティマロは、信じ難い悪夢に見舞われたような心地であった。
そんなティマロの目の前で、弟は皮肉っぽく笑っている。
「で、近所の連中は兄貴の居場所を知らなかったんで、わざわざ俺たちのほうに連絡をよこしてきやがったんだよ。お袋には新しい伴侶があるってのに、まったく迷惑な話だな」
「お前……親父が死んだってのに、その言い草は何なんだよ!」
ティマロは体内に生じた激情を、そのまま弟にぶつけてしまった。
ティマロに胸ぐらをつかまれた弟は、それでも笑みを引っ込めない。
「親父とお袋はきちんと聖堂で離縁したし、俺はお袋の子であることを望んだんだ。俺にとっての父親は、今のお袋の伴侶だよ。兄貴こそ、遅まきながら親父に愛想を尽かしたからこそ、居場所も告げずに家を出たんだろ?」
「居場所ぐらい告げてたよ! 親父がそれを周囲の連中に言わなかっただけだろ!」
「知らねえよ。とにかく俺とお袋は、弔いの式なんて出ないからな。苦労して居場所を突き止めてやったんだから、あとは兄貴の好きにしてくれ」
そんな言葉を残して、弟は早々に立ち去っていった。
ティマロは自失して、うまく頭が働かない。そんな状態のまま、休みをもらうために店主のもとを訪れると、たいそう心配げな眼差しを向けられてしまった。
「そうですか、父君がお亡くなりに……承知しました。どうかきちんと弔いの式をあげて、父君の魂を安らがせてあげてください。何か入用なものがありましたら、わたしが準備いたしましょう」
「いえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
「大丈夫ですか、ティマロ? あなたは父君の料理店を再建するために、修行を積まれていたさなかでありましたのに……」
「そんなの、関係ありませんよ。最初にもお伝えしたでしょう? 親父がくたばったっていうんなら、俺は俺の力で新しい店を作りあげるだけです」
ティマロはつい乱雑な言葉を使ってしまったが、店主がそれを咎めることはなかった。
「店を立ち上げた祖父さんだって、とっくに魂を返してるんです。こうなったら、親父も祖父さんもまとめて納得させてやりますよ。まあ、俺がどれだけ名をあげたって、親父は天の上で悔しがるだけでしょうけどね」
そうしてティマロは、父親の亡骸が運ばれたという冥神の聖堂に向かう準備をすることにした。
自分の顔が涙に濡れていることに気づいたのは、着替えをするために自分の部屋に戻ってからのことであった。