東の果てより(二)
2021.9/18 更新分 1/1
ドゥラの領地の入り口は、門番たちに守られていた。
南の側には丸太を組んだ塀が築かれて、北の側は黒みを帯びた岩山にふさがれている。西側の荒野のどこからドゥラを目指そうとも、この入り口をくぐらない限りは塀を乗り越えたり岩山を踏み越えたりしなければならないということだ。
門番は、頭にぐるぐると布を巻きつけて、ゆったりとした装束をいくつも重ねて纏った、東の民たちであった。いかにも東の民らしい渦巻き模様の美しい装束であるが、草原の民のものとはいささか色合いが異なっている。草原においては緑、赤、黄などが主体で森に咲き乱れる原色の花などを連想させたが、こちらは黒、青、赤が主体であり、どことはなしに威圧的な感じがした。
(それにやっぱり、門番でも甲冑を纏ったりはしないんだ)
彼らはいずれも湾曲した刀を下げていたが、装束の下に鎧を着込んでいる気配はなかった。東の民は毒を扱うのを得手としているため、身軽な格好を好むという話であったのだ。たとえ無法者が押し寄せてきても、刀が届く距離になる前に毒の武具で撃退する、ということなのだろう。
トトスを降りたカミュア=ヨシュが東の言葉で門番たちに語りかけると、感情の読めない眼差しがチル=リムたちに向けられてきた。
この門番は黒髪黒瞳であったが、他には金褐色や赤い髪、紫や青の瞳なども見受けられる。それもまた、彼らがマヒュドラと血の縁を重ねている証なのかもしれなかった。
そのせいか、彼らは草原の民よりも体格がいいように感じられる。すらりと背が高い上に、手足や胴体に厚みがあって、いかにも力強い印象であるのだ。それで顔などはごつごつと骨ばっていて、炭を塗ったように肌が黒く、そして仮面のような無表情である。彼らに比べれば、草原の民というのがいかに温和そうな人々であるか、チル=リムはあらためて思い知らされた心地であった。
カミュア=ヨシュはそんな門番たちの迫力に恐れをなした様子もなく、軽妙な調子で言葉を重ねている。
そうして最後には、無事にその門を通ることが許されたのだった。
「やっぱり西の民の来訪というのは相当に珍しいのでずいぶん警戒されてしまったけど、なんとか領地に踏み入るお許しをいただけたよ。……《ギャムレイの一座》は10日ほど前に、ここからドゥラに踏み込んだそうだ」
「ふむ。それでまだ、外にも出ていないのだな?」
「いや。北の山向こうや南の端にもこういった門があるから、それはわからない。あとは自分たちで聞いて回るしかないね」
一行は、北の側にそびえる岩山に沿う形で、大きく切り開かれた道を辿った。南の側には粗末な建物が立ち並んでいるが、ちらほらと見受けられるのはいずれも門番と思しき男たちである。いまだ自由開拓地と草原の集落しか目にしていないチル=リムには、ずいぶん物々しく感じられる様相であった。
「ドゥラとゲルドの民たちは、もともと南方の肥沃な大地で暮らす一族だったんだ。……というか、武力でそういった地を占領していた、といったほうが正しいのかな。何せシムというのは最初の100年目か200年目ぐらいで王家が潰えて、王国としての形が瓦解してしまったからさ。それから長いこと、血で血を洗う群雄割拠の時代が続いたそうだよ」
長々と続く道を進みながら、カミュア=ヨシュはそのように言いたてた。
「そこで現れたのが、『白き賢人ミーシャ』だ。ミーシャは滅亡の危機にあったラオの一族を救い、新たな王朝を建立させるまでに至った。そうしてラオとリムの軍勢に撃退されたドゥラとゲルドの一族は、草原地帯よりもさらに北方の不毛な荒野へと追い払われて――そこでこうして、新たな繁栄を手にすることになったというわけだね」
「ふむ。ドゥラは繁栄しているのか? 今のところは、まったくそのように思えないのだが」
「ドゥラもゲルドも、立派に繁栄しているよ。それこそ、王都ラオリムやジギの草原に負けないぐらいにね」
カミュア=ヨシュのそんな言葉は、トトスで四半刻ばかりも進むことで、真実であると証明された。
北方をふさぐ岩山が途絶えたとたん、一気に視界が開けて――そこに騒擾なる町の様相が出現したのである。
これまでの殺風景な様子が嘘のように、その場は賑わっていた。
石造りの頑丈そうな建物がずらりと立ち並び、その狭間に開かれた街路にはたくさんの人々と荷物を引かされたトトスが行き交っている。それらの熱気と人いきれで、チル=リムは目がくらむような思いであった。
「大丈夫かい? 今のうちに、織布をかぶっておいたほうがいいかもしれないね」
カミュア=ヨシュの助言に従って、チル=リムは外套の頭巾をはねのけて、七色の織布を頭にかぶった。
確かにチル=リムの瞳には、人々の姿ばかりでなく彼らの抱く星のきらめきまでもが映されていたのである。それで余計に、圧倒されてしまったのだった。
しかしそうして星のきらめきを多少ばかり遮断してみても、街路にあふれかえった熱気が軽減されるわけではない。
それは自由開拓地や草原地帯では味わうすべもない、石の都の賑わいであった。
「ふむ。確かにこれは、ジェノスの宿場町にも負けない賑わいであるようだな」
チル=リムと同じトトスに乗ったディアが、そんな風につぶやいた。
チル=リムもしばらくはジェノスの宿場町で過ごしていたはずなのだが、あの頃は邪神教団の薬によって半ば自失していたので、ほとんど記憶に残されていなかった。それこそ、人間の生身の姿よりも星の輝きのほうがまざまざと感じられていたぐらいなのである。チル=リムが記憶しているのは流星群のようにうねる輝きの恐ろしさだけで、あの場所がどのような町並みであったのかも判然としなかった。
ともあれ――この場所には、チル=リムが初めて目にする石の都の騒擾が満ちあふれていた。
おおよそは、ドゥラの民と思しき人々である。門番よりは軽装であるものの、やはり装束の色合いはどれも似通っていたので、それを見間違うことはなかった。
ただしあちらは立派ななりをした男ばかりであったが、こちらには女人や老人や幼子も入り混じっている。黒や金や赤の髪で、黒や青や紫の瞳をした、東の民――草原の民よりもいくぶん肉厚の体格で、いずれも背の高い、いかにも精悍な人々であった。
「ふむ。ずいぶんな熱気だな。ただ人が多いというだけの理由ではないようだが……」
ディアがそのように疑念を呈すると、カミュア=ヨシュは「そうだね」と応じながら、自分の胸もとをあおいだ。
「ドゥラは北方を岩山にふさがれているし、時期によっては海から温かい風が吹き込むので、それこそジギの草原よりも温暖なぐらいなのだよ。ただし、1年の半分はそれが寒風に切り替わるので、そうするとたちまちゲルドに次ぐ寒さになってしまうのだけれどね」
「なるほど。寒いと腹が減るので、それよりはましなようだが……しかしこれでは、外套を纏っているのも苦痛なほどだな」
そう言って、ディアはさっさと外套を脱いでしまった。
ただし、頬の傷痕を隠す襟巻きは外さない。出自が聖域だと知れると面倒なことも多いので、ディアはなるべくそれらの傷痕を人目にさらさないように心がけているのだ。手の甲にも、怪我人のように包帯が巻かれていた。
「チル=リムも、暑かろう? こちらの荷袋に仕舞っておくので、外套を脱ぐといい」
「は、はい。ありがとうございます」
そうしてディアの言葉に従いつつ、チル=リムの目はドゥラの町並みに吸い寄せられたままであった。
ドゥラの民の多くは、ほとんど半裸である。男は腰に布を巻いているか、せいぜい片方の肩から斜めに半身を覆う装束を纏っているぐらいで、汗の浮かぶ黒い肌を惜しげもなくさらしていた。女のほうも、乳房を隠すために多少はゆとりのある装束であるが、片方の肩が剥き出しであることに変わりはない。東の民がこうまで肌をさらしているというのは、とても物珍しく感じられた。
幼子などは粗末な下帯か、あるいは全裸で街路を駆け回っている。老人はほとんど腰巻きのみで、あばらの浮いた痩身をさらしていた。それでも多くの人々が、頭にぐるぐると布を巻いているのは、ドゥラの習わしなのか――あるいは、強い日差しから頭を守るためなのかもしれなかった。
町を行き交う人々の大半は、そういうなりをしたドゥラの民たちである。
そこにちらほらと、このような暑さでも外套を脱がないジギの行商人や――それに、マヒュドラの民が入り混じっているのだった。
北の民と東の民を見間違えることはない。彼らはドゥラの領土にあって、あまりにも目立つなりをしていた。
まず北の民というのは、白い肌をしている。セルヴァでも北寄りの地に生まれたチル=リムは、ジェノスの民よりも淡い色合いの肌をしていたが、それとも比べ物にならないぐらい、はっきりと異なっているのだ。なおかつ、西の民というのは日に焼けると肌が黄褐色になっていくのだが、北の民の場合は熱でも帯びているかのように赤く染まっていくのだった。
そして彼らの多くは蜜のような金色か、くすんだ金褐色か、あるいは真っ赤な髪をしており、瞳は紫や青に輝いている。それで背丈は東の民よりも高く、身の幅などは倍ほどもあるのだ。そういった北の民たちも半裸であるため、淡い色合いの体毛が渦巻く岩のような体躯をさらして往来を闊歩しているのだった。
「……北の民たちの目をくらますために、ディアたちも頭巾をかぶっておいたほうがいいのだろうか?」
ディアがそのように呼びかけると、カミュア=ヨシュは気安く「いやいや」と手を振った。
「草原の民でもないのに頭巾をかぶっていたら、今度は衛兵に見とがめられてしまうかもしれないからね。何も後ろ暗いことはないのだから、堂々としていればいいのだよ」
「そうか。それなら、幸いだ。……ディアのそばにいれば何も危険なことはないから、心配するのではないぞ、チル=リムよ」
ディアが白い歯をこぼして、チル=リムに笑いかけてくる。
七色の輝きごしにそれを見返しながら、チル=リムは「はい」とうなずいてみせた。
「それでは、いざ突撃だね。トトスにまたがったままでは危なそうだから、降りて手綱を引くことにしよう。レイト、しんがりはまかせたよ」
一行は、まだ町の入り口にたたずんだままであったのだ。
ディアがトトスを屈ませてくれたので、チル=リムは自力で地面に降りてみせる。ひと月余りもトトスでの旅をして、チル=リムもようやくいっぱしの旅人らしく振る舞えるようになっていた。
「まずは、衛兵の詰め所を目指そうかな。《ギャムレイの一座》がどこで芸を見せようとも、衛兵の耳には必ず届くだろうからね」
カミュア=ヨシュを先頭にして、一行はいざ熱気の渦の中へと踏み入っていった。
チル=リムはディアの腕にぎゅっと取りすがり、視線を足もとに落としながら進んでいく。北の民たちを恐れているわけではなく、なるべく人の姿を見ないで心を平静に保つというのが、アリシュナの教えであったのだ。ここのところはずいぶんと星見の力も落ち着いていたが、これほど大勢の人間を眼前に迎えるのはほとんど初めてのことであったので、用心しないわけにはいかなかった。
(だけど……思っていたほど、北の民を恐ろしいとは感じないみたい)
もちろん北の民というのは、誰も彼もが厳つい容貌をしている。このような場所をうろついているのはおおよそ船乗りなのだろうから、みんな頑健な男衆であるのだ。また、東の民がのきなみ無表情であるためか、大声で笑いながら蛮声を響かせる北の民は、なおさら恐ろしげに見えるはずであった。
しかしチル=リムにとって、そういった見かけというのは人間の半分しか示していないのだ。
チル=リムはそれと同じぐらいはっきりと、彼らの抱いている星が見えている。たとえ七色の織布で目をくらまそうとも、それは同じことであった。織布のきらめきは星の輝きと生身の姿を同じぐらいぼやかせるので、けっきょく比率に変わりはないのだ。
だからチル=リムには、北の民がことさら特別な存在だとは思えなかった。
たとえ外見に差異があろうとも、星の輝きに差異はない。マヒュドラの大男でもはかなげな星を抱いている人間はいるし、東の幼子でも強烈に輝く星を抱く人間はいる。それならば、北の民だけを特別に恐ろしがる理由はないように思われた。
(でも、これは間違った考えなのかな……北の民が西の民にとって危険な存在だってことは、確かなんだから……それを区別せずに、自分と同じような存在だと見なすのは、西方神の子として間違った考えなのかもしれない……)
チル=リムのこんな疑問にも、《ギャムレイの一座》の占星師ライラノスは正しい答えを授けてくれるのだろうか。
広い世界に飛び出してしまったチル=リムは、そこで正しく生きていく道を見出さなければならなかったのだった。
ディアの温もりを両腕に感じ、わさわさと蠢くたくさんの足を見やりながら、チル=リムはひたすら歩を進めていく。
途中で何回か立ち止まったのは、先頭を歩くカミュア=ヨシュが道を尋ねるためであろう。往来は大変なざわめに包まれているため、5歩も離れずに後をついていっているチル=リムにも、それを聞き取ることはできなかった。また、聞き取れたところで、それは異国の言葉であるのだ。
「やはりこの地では、西の言葉などほとんど通じないのだろうな。まったく今さらの話だが、落ち着かない心地だ」
隣を歩くディアが、笑いを含んだ声でそのように語りかけてきた。
「ところで、ディアたちはなりが小さいせいか、ほとんど北の民たちの目に映っていないようだぞ。それに、先頭を歩くカミュア=ヨシュは、北の民と見まごう風貌だからな。まあ、あのように痩せ細った北の民は見当たらないようだが……それでも、北の民の目をくらます役には立っているのだろう」
「そ、そうですか。それなら、幸いです」
「……いきなりこのような人混みに連れ出されて、つらいことはないか? あまりつらかったら、目を閉ざしていてもかまわんからな」
「いえ、今のところは大丈夫です」
そんな風に応じつつ、チル=リムにはディアの気づかいが何より嬉しかった。
きっとチル=リムはディアの腕を抱きすくめているから、大勢の人々が織り成す星の輝きの気配にも惑わされずに済んでいるのだろう。もしもこのような場にひとりで取り残されたなら、たちまち平静な心を失って、輝きの奔流に呑み込まれてしまいそうであった。
「この辺りには幕を開けるような広場もないから、もっと海寄りの区域に進んだようだという話だよ。しばらく真っ直ぐ進むから、遅れないようにね」
カミュア=ヨシュのそんな言葉とともに、歩が再開される。
辺りの様相が変わってきたのは、また四半刻ほどが過ぎた頃であった。
周囲の熱気やざわめきが落ち着いてきて、人の気配が遠ざかっていく。チル=リムが顔をあげると、そこはまだ石造りの街路であったが、人通りはずいぶん少なくなっていた。
「何やら、おかしな香りがするな。……いや、先刻からずっと感じていた香りだが、人が減ったためにはっきり感じられるようになったということか」
小さな鼻をランドルの兎みたいにひくひくと動かしながら、ディアはそう言った。
「おい、カミュア=ヨシュ。《ギャムレイの一座》というのは、このようにうらぶれた場所に腰を据えているのか?」
「いや。話の種にと思って、ちょっと遠回りをしてみたんだよ。……ああ、見えてきた」
そこはどうやら、居住のための家屋や商店ではなく、倉庫などが密集した区域であるようだった。
カミュア=ヨシュに続いて街路を進むと、進行方向に木造りの柵が見えてくる。どうやらその先は、切り立った崖になっているようだった。
「おお、これは――!」と、ディアが驚きの声をあげた。
チル=リムも、思わず息を呑んでしまう。
柵の向こうには、これまで通ってきた区域よりもいっそう賑やかそうな町並みが遥かな下界に広がっており――さらにその向こうには、青く輝く水平線がその威容をさらしていたのだった。
「これぞドゥラの繁栄の源である、東玄海だよ。……寒冷気には夜の闇のように黒々とした姿になるそうだけど、この時期は西竜海にも劣らない美しさだねえ」
カミュア=ヨシュは、のんびりとした声音でそう言った。
まだ日は高いため、陽光が海を美しく照り輝かせているのだ。まるで一面に宝石でも敷きつめたかのような――世界そのものが輝いているかのようだった。
「これが、すべて……水なのですか?」
そのように問いかけるチル=リムの声は、思わず震えてしまっていた。
カミュア=ヨシュはいつもの調子で、「うん」と応じてくる。
「とても塩辛い、海の水だよ。さきほどから香っていたのは、海の香りだね。海辺の領地において、それは磯臭いと言われるようだよ」
「海とはこのように美しいのに、このように生臭い香りがするのだな! なんだか、愉快な気がするぞ!」
はしゃいだ声で言いながら、ディアがチル=リムのほうを振り返ってきた。
そして、愕然と息を呑む。チル=リムの頬を濡らすものの存在に気づいてしまったのだ。
「どうしたのだ、チル=リム? どこか苦しいのか?」
「いえ……海というものが、あまりに美しかったので……」
そんな風に答えながら、チル=リムはなんとか笑ってみせた。
「それに、この輝きは……わたしの目に映る星の輝きと、とてもよく似ています……人が生命を散らしたら、その魂は海に返されるのではないかと……そんな風に思えてしまうぐらいです」
「ふむ。海を母とするのは、海岸に住まう自由開拓民ぐらいだろうね。そもそも自然の存在を母と呼ぶことが許されるのは、自由開拓民だけなのだからさ」
そんな風に言って、カミュア=ヨシュはにこりと微笑んだ。
「そして我々は、誰もが大陸アムスホルンの子とされている。大地に根づいた我々が、海に魂を返すいわれはないように思うけれど……まあそのような話を持ちだすのは、あまりに無粋なのだろうね」
「わかっているなら、口を閉ざしておけばよかろうに。……海だろうが大地だろうが、この世界そのものであることに変わりはあるまい。ディアたちはこの世界で生きて、この世界に魂を返す。ただそれだけのことだ」
そう言って、ディアはチル=リムの涙をぬぐってくれた。
「しかしまあ、途方もない見世物であったことに変わりはない。ディアは西竜海にまで足をのばしたこともなかったからな。いちおう感謝しておくぞ、カミュア=ヨシュよ」
「うん。それじゃあ、《ギャムレイの一座》を探す使命に舞い戻ろうか」
一行は道を引き返し、また人混みの中に突入することになった。
街路は、下り坂になっている。きっとさきほど高台から眺めた海沿いの区域を目指しているのだろう。海辺の領地ドゥラにおいては、そここそが繁栄の中心部なのであろうと思われた。
「海に近づけば近づくほど、北の民は増えるはずだからね。用心のしようもないけれど、まあうっかり足を踏んでしまったりしないように気をつけてくれたまえ」
うつむき加減に歩きながら、チル=リムは時おり周囲の様子をうかがってみた。
これまで以上の熱気であるが、海辺の香りが人いきれを圧倒し始めたようである。そして、道端の露店においては銀色に光る魚や貝や海草などが山積みにされていたので、そちらからも海の香りが匂いたっているようであった。
幼子や老人の姿は少なくなり、北の民の姿が増えているように見受けられる。ただ、ドゥラの女人は老若の別を問わず、平気な顔で――といっても、誰もが無表情であるのだが――賑やかな街路を闊歩していた。荷物を積んだ台車を引いていたり、大きな籠を頭や肩に乗せたりして、買い物や商売に励んでいる様子である。
カミュア=ヨシュはまた行く先々で立ち止まり、露店で働く人間などに東の言葉で質問を飛ばしていた。
しかし、なかなか有益な情報は得られないようで、しきりに小首を傾げている。それが5回も続いたところで、カミュア=ヨシュはとうとうチル=リムたちのほうを振り返ってきた。
「おかしいなあ。誰に聞いても、そんな連中は知らないの一点張りだよ。あれほど目立つ集団を見かけたら、たとえ10日が過ぎても忘れられるものではないはずなのにね」
「そやつらとは、異なる道を辿ってしまっているのではないか?」
「いや。俺たちと同じ門をくぐって海辺の区域を目指すなら、まずこの場所を通るはずなんだ。……とりあえず、もう何人かに聞いてみようかな」
カミュア=ヨシュはてくてくと歩を進めて、また聞き込みを再開した。
しかしどれだけの人間に尋ねても、答えは変わらないようである。いい加減にチル=リムも足に疲れを覚えた頃、カミュア=ヨシュは溜息まじりに言った。
「駄目だね。もしかしたら、まっすぐ海辺に向かったという情報のほうが間違いであったのかもしれない。もういっぺん上に戻って、聞き込みをやりなおすことにしよう」
「ディアはなんでもかまわんが、そろそろ夕刻が近いようだぞ。今日はどこで身を休めようという心づもりなのだ?」
「そりゃまあせっかくなんで、宿に部屋を取ろうと思うよ。なるべく北の民が少なそうな場所を選んで、ね。……ドゥラの魚料理はひさびさなんで、俺はそれも楽しみにしていたのさ」
と、カミュア=ヨシュが呑気な面持ちでそんな風に言ったとき――小さな人影が、こちらに近づいてきた。
この区域ではあまり見かけなかった、幼子である。赤みがかった髪を乱雑にくくり、薄汚れた腰巻きひとつを身につけた、よく光る青い瞳をしたドゥラの幼子であった。
「うん? 俺たちに、何か用事かな。……******? ********?」
「**。*********。********」
何か祈りの言葉のような節回しで、言葉が交わされる。
東の民は幼子のほうが感情をこぼしやすいものであるのだが、その幼子は幼子らしからぬ険しい目つきをしているように感じられた。
「ふむふむ。この少年は、《ギャムレイの一座》の行方に心当たりがあるらしい。これから俺たちを、その場所に案内してくれるそうだよ」
虫も殺さぬ笑顔で言いながら、カミュア=ヨシュがこちらを振り返ってきた。
「だけどたぶん、何か裏がありそうだ。レイト、ディア、最大限に用心をね」
「それでも、のこのことついていくつもりなのか?」
「うん。どんな裏があるにせよ、ようやく手に入れた手掛かりだからねえ」
ディアは溜息をつきながら、チル=リムの手をぎゅっと握ってきた。
「何も危ういことはないから、決してディアから離れるのではないぞ? いざとなったら、トトスに飛び乗って逃げるからな」
「は、はい。わかりました」
チル=リムが緊張した声で答えると、ディアは手綱をつかんでいるほうの手で、チル=リムの頭をぽんと優しく叩いてきた。
そうして一行は、少年の先導で街路を進んでいく。
その歩は、なかなか止まらない。そして先刻と同じように、気づけば周囲から人の気配が薄らいでいった。
街路の立派さに変わりはないし、左右には大きな四角い建物がみっしりと立ち並んでいる。だが、この刻限には用事のない倉庫か何かなのだろう。さっきの高台の崖のそばよりも、いっそう人気は希薄である。
やがて少年はふいっときびすを返すと、建物にはさまれた小路に姿を隠してしまった。
トトスが並んで歩くことも難しいぐらいの、せまい路地だ。カミュア=ヨシュは当然のように先頭を進み、ディアとチル=リム、レイトがその後に続いた。
5人の人間と3頭のトトスが、黙然と薄暗い小路を進んでいく。
そうしてしばらくすると、一行は建物の裏手に出て――それと同時に、巨大な人影に取り囲まれてしまったのだった。
「おやおや。北の民のご登場だ」
カミュア=ヨシュは慌てる素振りも見せずに、そうつぶやいた。
いずれも巨大な、5つばかりの影――それはまさしく、魁偉なる北の民たちであった。しかもその手には、いずれも手斧や鉈のような刃物が握られている。青や紫の瞳には、確固たる敵意の炎が渦巻いていた。
「これは、どういうことなのかな? 東の地で諍いを起こすのは禁忌だろう? ……****。**********?」
カミュア=ヨシュが、これまでとは異なる抑揚を持つ言葉を発した。
北の民のひとりがぎょっとしたように顔をしかめつつ、カミュア=ヨシュと似たような言葉を返してくる。これはきっと、北の言葉であるのだ。
「お前たちは何者だ? どうして西の民が、ドゥラの無法者の手先になっているのだ? ……だそうだよ。これは何か、根本から誤解が存在するようだねえ」
「だったらさっさと、誤解を解いてやるがいい」
「そうしたいのは山々だけど、頭に血がのぼった北の民というのは、なかなか余人の言葉に耳を傾けてくれないのだよね」
ひょろひょろとした肩をすくめつつ、カミュア=ヨシュはとぼけた顔で笑った。
「まあ、相手が5人なら、俺ひとりで十分さ。適当に大人しくさせるから、トトスの手綱を預かってもらえるかな?」
「いやいや、そいつは勘弁してもらえないもんかねェ。アンタとこのお人らが刀を交えたら、アタシらが板挟みになっちまうからさァ」
と――どこからともなく、幼い娘の笑いを含んだ声が響きわたった。
そして、建物の陰で薄暗くなったその場所に、目にも鮮やかな朱色の姿が現れ出る。
その姿を目にした瞬間、チル=リムは驚嘆に身を震わせることになった。
七色にきらめく織布を透かして、これまで見たこともなかったような不思議な星の輝きが、チル=リムの目と心に焼きつけられたのである。
「なんだ、こちらの方々は、ピノのお知り合いだったのかな? 北の民にまで友人を作るとは、相変わらずの手腕だねえ」
カミュア=ヨシュがのんびり応じると、その不思議な星を抱いた童女は、赤い唇を愉快そうに吊り上げた。
「それはこっちの台詞だよォ。ひさびさにお会いできたと思ったら、ずいぶん楽しそうなお仲間を引き連れてるじゃないかさァ? まったく、隅に置けない御仁だねェ」
そう言って、謎めく童女はチル=リムたちに妖しく笑いかけてきたのだった。
「どうもお初にお目にかかりますよォ。アタシは《ギャムレイの一座》ってェはぐれものの集団で軽業師を生業にしてる、ピノってもんでさァ。どうぞごひいきによろしくお願いいたしますねェ」