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異世界料理道  作者: EDA
第六十四章 群像演舞~七ノ巻~
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第四話 東の果てより(一)

2021.9/17 更新分 1/1

 3頭のトトスが、荒野を駆けている。

 その内の1頭に乗せられた、小柄で白銀の瞳をした少女――チル=リムは、いつ果てるとも知れない茫漠たる荒野を、ひどくしみじみとした心地で見回していた。


(すごいなあ。世界は、なんて広いんだろう)


 ここは東の王国シムにおいて、草原地帯と海辺の領地の間に広がる荒野であるという。さまざまな騒乱に見舞われたジェノスを出奔してから、ひと月と少し――ついにチル=リムを預かったカミュア=ヨシュの一行は、ここまで歩を進めることがかなったのだった。


 シムの草原地帯に到着したのは、数日前である。荷車を引いていたらひと月半ばかりもかかるという話であったが、この一行はトトスに直接またがって駆けさせていたため、ひと月たらずでその道を踏破することがかなったのだ。


 その間にも、チル=リムはさまざまな光景を見せつけられている。

 まずは森辺の間に切り開かれた街道から始まって、さらにごつごつとした岩場の地帯を抜け出すと、そこに広がるのは最初の荒野であった。岩場を出てすぐのところには、新しい町を切り開こうとする人跡が見られたが、そこから数日ばかりは人間どころか獣の姿すらない、まごうことなき不毛の荒野が広がっていたのだった。


「この荒野を北にのぼると、アブーフに通ずる街道に行き当たるんだよ。シムの勇敢なる先人たちが築いた、東と西をつなぐ最初の行路だね」


 この一行の案内人を称するカミュア=ヨシュは、そんな風に言いたてていた。

 金褐色のぼさぼさとした髪を肩までのばした、長身痩躯の飄然とした男である。細長い顔には紫色の瞳が光り、髪と同じ色合いをした無精髭がまばらに散っている。態度は軽妙で、時としては浮ついて見えるほどであったが――彼はとても強い輝きを持つ、紫の狼の牙の星であった。


 その弟子であるというレイトは、亜麻色の髪をした細身の少年である。一見少女と見まごうような繊細で気品のある顔立ちであり、物腰などは師匠のカミュア=ヨシュよりも落ち着いている。また、あまり内心をさらさないように心がけているように見受けられるが、青の鷹の翼を司る彼の星は、とても誠実で優しげな輝きを帯びていた。


 そして、最後のひとり――チル=リムと同じトトスに乗って手綱を操っている少女、ディアである。

 燃えるような緋色の髪と、金色に輝く瞳を持つ、かつて聖域の民であったという強靭な少女だ。彼女は野生の獣めいた空気を纏っており、刻印を焼き潰したという両頬の傷痕がいっそうの迫力をもたらしていたが――金の豹の瞳である彼女の星は、はっとするほど無垢で澄み渡った光を放っていた。


 それらの人々の稀有なる輝きに比べて、自分はなんとちっぽけな存在なのだろう――と、チル=リムは思う。チル=リムは奇妙な力を持って生まれ落ちてしまったが、その力でもって見せつけられる自分の星の輝きは、あまりにも脆弱で取るに足りなかった。誰かの庇護の下でしか生きていけないような、銀の兎の耳の星である。


 ただチル=リムは、自分や余人の星の輝きに思いを馳せてはならないと、ジェノスに住まうシムの占星師アリシュナに言いつけられている。

 だからチル=リムは、なるべく人間ではなく外の世界に目を向けようと心がけていたのだが――それでこのひと月余りの間、実にさまざまな光景を見せつけられることに相成ったのだった。


 チル=リムは、これまで一歩として故郷を出たことがなかった。そして邪神教団に故郷を滅ぼされて、外界に引きずりだされたのちは、ずっとおかしな薬のせいで意識が朦朧としていたために、世界の様相に目を向けるゆとりもなかったのだ。


 世界はあまりにも果てしなく、そして美しかった。

 人跡も稀である荒野でさえ、チル=リムの心を震わせてやまなかったのだ。

 しなびた草木が点在するだけの、広大なる原野――遠くに見える、突兀とした岩山の影――何も隔てるもののない空は大地よりもさらに広く、ぼんやり見上げていると魂を吸い込まれてしまいそうだった。


 太陽が西の果てに隠れ始めると、それらの光景が赤と朱と黄金の色合いに霞んでいく。最初に荒野に出た日の夕刻などは、その世界の終わりめいた美しさとやるせなさに、涙をこぼしてしまうほどであった。


「まあ、その気持ちはわからなくもないぞ。ディアも長らく、山の中で過ごしていた身だからな」


 ディアは陽気に笑いながら、チル=リムの頬にこぼれた涙を優しくぬぐってくれたものであった。


「世界というのはとても広くて、美しくて、容赦がない。ディアはそれらを味わいたいがために、故郷を捨てることになったのだ。お前は自分の意思と関わりなく、故郷を失うことになってしまったが……お前の居場所など、この世界には有り余っている。魂を返した同胞らの分まで、満ち足りた生を送るがいい」


 そんな風に語るディアの優しさが、チル=リムにいっそうの涙をこぼさせることになった。

 ディアは見ず知らずのチル=リムを救うために、こうして力を尽くしてくれているのである。それはカミュア=ヨシュや、ジェノスで出会ったさまざまな人たちも同じことであったが――一番最初に手を差し伸べてくれたのは、このディアであった。チル=リムが最初につかみ取ったのはファの家のアスタの手であったが、ディアはその前からずっとチル=リムのことを追いかけて、手を差し伸べ続けてくれていたのである。


 チル=リムがそれをしっかり理解できたのは、恐るべき邪神教団の魔手を退けてからのちのことであった。みんなのおかげで茫漠としていた心が自分の形を取り戻して、それでようやくディアの優しさや勇敢さなどが理解できるようになったのだ。


 ディアは星見の力を持つというチル=リムの風聞をどこかで聞きつけて、わざわざ集落を訪れてくれた。そこでチル=リムがあやしげな集団にさらわれたと知り、数日をかけて追いすがってきたのである。

 そして邪神教団を退けたのちは、自分がチル=リムをシムまで送り届けると言ってくれた。騒乱の渦中でムントに噛まれてひどい手傷を負ってしまったのに、それでもなお、チル=リムを救うために尽力したいと申し出てくれたのだ。


 もしもディアがいなかったら、自分は途中で心がくじけていたかもしれない――チル=リムは、そんな風に思っていた。

 同じように同行を申し出てくれたカミュア=ヨシュには申し訳なかったが、彼の中に瞬くのは世界を正しく運行させたいという使命感であるように思えた。カミュア=ヨシュは世界の平穏を守るために、チル=リムを救うべきであると考えているようであるのだ。


 もちろんチル=リムは彼にも感謝していたし、その強く輝く狼の星をとても好ましく思っていたが――チル=リムの脆弱な心を支えてくれているのは、ディアのほうだった。ディアもまた、星見の力を悪用されてはならじという思いでチル=リムを救ってくれたのだが、その根底にあるのは慈愛の心であった。ディアはチル=リムがいわれのない凶運のために破滅することを食い止めるために、こうまで力を尽くしてくれているのだった。


 そして――ファの家のアスタを始めとする、ジェノスの人々である。

 彼らが投げかけてくれた優しい気持ちの数々も、チル=リムの大きな支えになっていた。


 チル=リムが最初にアスタを頼ったのは、彼が『星無き民』という不思議な存在で、チル=リムの力をもってしてもその行く末が見て取れないためであった。

 しかしそれは、ただ見えないというだけの話であった。たとえアスタがこの世の星を抱いておらずとも、チル=リムと関われば運命が変転してしまうのだ。アスタが自分のために手傷を負ってしまったとき、チル=リムはその事実を理解した。理解して、絶望した。やはり自分の存在は、この世のすべての人々に凶運をもたらすのだ、と――それこそ星の輝きも存在しない絶望の暗闇に叩き落とされてしまったのである。


 しかしそれでも、アスタは自分を救おうとしてくれていた。というよりも、アスタは最初からどのような苦労も厭わずに、ずっとチル=リムの身を案じてくれていたのである。もしもアスタがあれほど優しくなくて、チル=リムの身をさっさと衛兵にでも引き渡してしまっていたならば――きっと邪神教団は力を失うことなく、チル=リムを破滅させていたはずであった。


 アスタの優しい笑顔を思い出すと、チル=リムは涙を流してしまいそうになる。

 アスタとディアがいなかったら、きっとチル=リムはあの夜に魂を返していただろう。自分はこの世に存在してはならないのだと絶望して、自らの咽喉に短剣を突き立てていたに違いない。それを止めてくれたのも、アスタとディアの言葉であったのだ。


 それにもうひとり、あのときは名前も把握できていなかったが、アスタの家族である女狩人――あの、とても温かくて強靭で清廉な赤の猫の心臓の星を抱くアイ=ファという娘も、チル=リムに優しい言葉と気持ちを届けてくれていた。

 さらに他にもたくさんの人々が、チル=リムのために力を尽くしてくれた。チル=リムが世をはかなむ必要はないと、誰も彼もがチル=リムをこの世界に引きとめてくれたのだ。


 それらの人々の思いを踏みにじらないように、チル=リムも懸命に力を尽くしている。

 ただ――チル=リムはとても脆弱な人間であるため、思い出だけをよすがにしていたなら、いつか挫折していたかもしれなかった。それを身近なところから支えてくれているのが、このディアなのである。


 ディアがすぐそばで見守ってくれているからこそ、チル=リムは絶望せずに済んでいる。アスタたちの優しさを忘れずに済んでいる。あの幸福で満ち足りた記憶が夢や幻ではなかったのだと、ディアの存在がそれを証明してくれているのだ。現在のチル=リムにとっては、それが何よりかけがえのないことであったのだった。


(でも……いつかはディアとも離ればなれにならないといけないんだ)


 カミュア=ヨシュの目的は、チル=リムの身柄を《ギャムレイの一座》という旅芸人の一団に預けることである。そこにはチル=リムと同じ力を持つライラノスという老人がいるため、今後の生き方を指南してくれるだろうと、カミュア=ヨシュはそのように判じたのだ。


《ギャムレイの一座》がチル=リムの存在を受け入れてくれたならば、いつかまたジェノスに戻ってアスタたちと再会することができるかもしれない。チル=リムにとっては、それこそが唯一の希望の道であった。

 ただ――そうすると、今度はディアとお別れしなければならなくなる。ディアにはディアの人生があるのだから、《ギャムレイの一座》にチル=リムの身を預けたのちは、いずれまた自分の生活に戻っていってしまうのだった。


(わたしは、なんて弱い人間なんだろう。これだけの希望を授かりながら、まだそんな不安を抱くだなんて……)


 自分がこれほど浅ましい人間だと知られてしまったら、ディアに嫌われてしまうのではないだろうか?

 チル=リムがそんな想念にとらわれかけると、ディアはすかさず笑い声をあげながら、チル=リムの頭を小突いてくるのだった。


「おい。また余計なことを考えているな? お前はまだ子供なのだから、いちいち思い詰めるな。お前はこれまで不幸であったぶん、誰よりも幸福になるべきであるのだぞ」


 ディアはどうして、こうまでチル=リムの心を読み取ることがかなうのか――それもやっぱり、彼女が常にチル=リムの身を案じてくれているためなのだろうと思われた。


 だからチル=リムも懸命に、正しき道を歩もうと力を尽くしている。

 心を平静に保ち、人の持つ星の輝きにとらわれず、日々を過ごすのだ。そんな助言を与えてくれた占星師のアリシュナもまた、チル=リムを支えてくれる存在のひとりであった。


 幸いなことに、日が過ぎるごとに邪神教団から与えられた薬の効果が薄らいでいくようだった。もとよりチル=リムが持っていたのは夢の中で他者の運命を見て取ってしまうという星見の力であったのだが、邪神教団から与えられたおかしな薬のせいで現実と夢の境が曖昧になり、常に他者の運命が心になだれこんでくるような有り様に成り果ててしまったのだ。


 今でもチル=リムには、ディアたちの持つ星の輝きが見て取れる。しかし心を平静に保っている限り、その行く末まで見て取ることはできなかった。また、夢の中では金色の豹や紫の狼がうるさいぐらいに乱舞していたが――あまりに騒々しい輝きであるために、彼らがどのような運命を辿るのかも判然としなかった。そしてまた、彼らはどのような凶運にも屈しはしないと、そんな風に信じることがかなったのだった。


 そうしてチル=リムは、彼らとともに旅を続けている。

 最初の半月ほどが過ぎると、荒野には緑が増えていき、川のある場所には自由開拓民の集落が築かれていた。そこに住まうのはおおよそ東の民か、東と西の混血らしい風貌をした人々であり、かつてのチル=リムと同じような、貧しいながらも平穏な日々を送っている様子であった。

 

 それからさらに半月ほどが過ぎると、目前に広がったのは広大なる草原地帯である。

 最初にその光景を目の当たりにしたとき、チル=リムはディアと一緒に歓声をあげてしまったものであった。


 目に映る限り、緑色の濃淡で構成される草原の美しさである。

 カミュア=ヨシュの弁によると、草原の内にも岩場や砂漠などが点在するという話であったが、そうとは思えないほど、それは緑一色の美しい世界であった。


「ふむふむ。ディアはもう2年も大陸を放浪していたという話だったけど、ジギの草原を訪れるのは初めてだったのかな?」


「うむ。何せシムでは、言葉が通じないからな。自由開拓民の集落ぐらいまでは踏み込んだこともあったが、面倒なのでそれ以上は進む気になれなかったのだ」


 そんな風に応じながら、ディアは金色の目をきらきらと輝かせていた。

 そうしてチル=リムに向かって「すごいな」と笑いかけてきたので、チル=リムも「はい」と笑顔を返すことになった。


 そうして最初に訪れたのは、『ジ』という短い名前を持つ区域である。

 占星師アリシュナの故郷――祖父の代に追放され、アリシュナがまだ足を踏み入れたことがないという地だ。


 草原の民は、天幕の中で暮らしていた。彼らはギャマという獣とともに生きているため、ひとつところに留まっていると、その地の恵みが尽きてしまうそうなのである。それで集落ごと転々と住処を移しつつ、風に吹かれるように生きているのだった。


 最初の集落を訪れたとき、カミュア=ヨシュはチル=リムに美しい織布を買い与えてくれた。きらきらと七色に輝く、半透明の綺麗な織布である。


「人前に出るときは、これを頭からかぶるといいよ。……と、アリシュナから言い渡されていたのだよね」


 最初は意味がわからなかったが、実際に織布をかぶってみると、すぐに理解することができた。織布のきらめきが、他者の星の輝きを緩和してくれるのだ。また、周囲の人間の目から、チル=リムの白銀の瞳を隠すという役目もあるようだった。


「ふむ。シムには占星師が多いと聞いていたが、チル=リムのような瞳の色をした人間はあまりいないようだな」


 ディアもこっそりと、そのように言っていた。

 これもアリシュナからの受け売りであるが、銀色の瞳をした人間には占星師としての資質が備わっていることが多いそうなのだ。森辺の集落にも銀灰色の瞳をした娘がいて、アリシュナは彼女の身もいささか案じている様子であった。


 ともあれ、草原の人々の生活というのは、とても興味深かった。

 彼らはギャマを育てつつ、その乳を搾りながら、自らも草原の恵みを収穫し、時にはちょっとした畑なども耕して、日々の糧を得ていた。また、樹皮から取った繊維や虫の紡ぐ糸などで美しい織物をこしらえ、自分たちの衣服に仕立てたり、売り物にしたりもしていた。おおよその集落には行商人を志す人間が生まれるため、そういった人々が織物や乳酒や革細工などを携えて、東の王都や西の領土などまで足を運ぶのだそうだ。


「もっと奥のほうまで足をのばすと、今度は銀や硝子の細工物などをこしらえる一族があるのだよ。シムといえばギャマと織物、それに銀細工と硝子細工だからね」


 東の王国にも詳しいカミュア=ヨシュは、そんな風に言っていた。


「で、南に下ると王都ラオリム、北にのぼるとギの領土になるわけだけど……《ギャムレイの一座》は、どうやら北上したようだね」


 この一行の中で、東の言葉をあやつれるのはカミュア=ヨシュのみである。レイトも習得中であるとのことだが、まだ簡単な挨拶ぐらいしかできないそうだ。

 そうしてカミュア=ヨシュが集めた風聞をもとに、一行は草原を北上した。

 そこでギの草原に住まう人々から、《ギャムレイの一座》は東の方角――海辺の領土ドゥラを目指したようだという話を突き止めたのだった。


「彼らは朱の月の頭ぐらいまで、ギの領土に留まっていたらしい。となると――まあ、半月ばかりは経過してることになるのかな」


 ギからドゥラまで、荷車を引いていれば10日と少し、トトス単身であれば5日ていどの道程であるという。


「こちらは身軽だから、5日ばかりは詰められるとして……うん、彼らがドゥラに10日ほども留まっていれば、そこで追いつける計算だ。ドゥラというのは楽しい土地だから、彼らもそれぐらいは腰を据えているんじゃないのかな」


「ふむ。カミュア=ヨシュは、それほどシムの奥深くにまで踏み入ったことがあるのか? 海辺の領土ということは、そこがシムの東の果てであるのだろう?」


「うん、まあ何度かはね。……あ、レイトは初めてのドゥラだっけ?」


「はい。楽しい反面、とても危険な区域だと聞かされていました」


 レイトが微笑みながらそのように応じると、カミュア=ヨシュもにんまりと微笑んだ。


「うんうん。多少の危険は否めないところだね。何せドゥラというのは、シムにおいてもっとも北の民が多い区域だからさ」


「なに? マヒュドラともっとも親交が深いのは、ゲルドなのではないのか? 何せあちらは、北と東の国境なのだからな」


「うん。だけどドゥラとマヒュドラは、海路で繋がれているからね。商人の行き来という面では、ゲルドを上回るぐらいのはずだよ」


 そんな話を聞かされていると、チル=リムは血の気が下がる思いであった。もとよりチル=リムは北寄りの地の生まれであり、ゲルドやマヒュドラの恐ろしさを懇々と諭されながら育った身であるのだ。

 するとカミュア=ヨシュはチル=リムの弱気を見て取った様子で笑顔を向けてきた。


「だけどまあ、王国同士の反目をよその王国に持ち込まないというのは、絶対の決まり事だからね。東と南の民がジェノスで諍いを起こさないように、北と西の民がドゥラで諍いを起こすことはない。……と、信じたいところだよね」


「おい。チル=リムが余計に不安がるではないか。そのような決まり事があるなら、何も危険なことはあるまい?」


「いやあ、だけどドゥラにまで足を運ぶ西の民なんて、そうそういないからねえ。いったいどこまで北の民たちが理性的でいられるのか、はなはだ心もとないんだよ。そもそもドゥラの民だって、ゲルドに劣らず勇猛さで知られる一族だからさ」


「だから、チル=リムを不安がらせるなというのに!」


「大丈夫。そのための俺たちじゃないか。ディアもすっかり腕の傷は癒えたようだし、北の民とドゥラの民が束でかかってきたって、どうにか切り抜けられるはずさ」


 そう言って、カミュア=ヨシュはレイトのほうを振り返った。


「それにもちろん、レイトもね。ムフルの大熊に比べれば、北の民なんてどうってことはないだろう?」


「はい。決して足手まといにはならないとお約束しますよ」


 そのように応じるレイトもまた、普段通りの穏やかな笑顔であった。

 チル=リムとそれほど年齢の変わらなそうな少年であるのに、大した胆力である。やはり平和な集落で育ってきたチル=リムなどとは、覚悟のほどが違っている様子であった。


「まあさんざん脅かしてしまったけど、北の民もドゥラの民も無法者の集まりってわけじゃない。ただ船乗りというのは少々気性が荒いところがあるので、こちらはお行儀よく振る舞う必要があるってところかな」


 最後までチル=リムの不安感を煽りつつ――ドゥラに向かう旅が始められた。

 草原地帯とドゥラの間に広がるのは、また不毛の荒野である。水源が少なく畑の実りも期待できない土地は、どうしたって人間の住処たりえないのだ。もしかしたら、この世界では人間の住処よりも不毛の荒野のほうが、よほど広いのではないのか――と、チル=リムはそんな思いを新たにしていた。


「うんうん。その感慨は、正しいと思うよ。だから人間は蜘蛛の巣のように街道を巡らせて、町と町を繋ぐことになったのさ。そうして石の都の人間たちが支配した領地なんて、この大陸の地の半分にも満たないのだろうね」


 ドゥラを目指す道中の夜、草原で買いつけたギャマの干し肉を焚火で炙りながら、カミュア=ヨシュはそんな風に語っていた。


「だから、大神が眠りから覚めて、聖域の民が外界に出ることを許されても、住む場所に困ることはないさ。魔術を行使できるようになれば、こんな荒野もちょちょいと肥沃な大地に作りかえることができるのだろうしね」


「おい。ディアは聖域を捨てた身だが、大神や魔術を茶化されることは不快に思うぞ」


「何も茶化したりはしていないさ。俺は心底から、自分の生きている間に大神が目覚めて、魔術の文明が再興するさまを見届けたく思っているよ」


 そう言って、カミュア=ヨシュはひどく澄み渡った目でチル=リムのほうを見てきた。


「そして、そんな時代が到来したならば……石の都の住人でありながら魔術を行使できるチル=リムみたいな存在が、両者の架け橋になってくれるのじゃないかな。あと、森辺の民みたいな存在もね」


「も、森辺の民もですか?」


「うん。彼らこそ、石の都と大自然の狭間に住まう存在だ。彼らがその両方の民と心を通いあわせられることは、すでに証明されている。それは本来、自由開拓民の役割であったようにも思えるけど……それでは足りないと判じた大神や四大神が、森辺の民という得難い存在を生み出したのかもしれないねえ」


 この世のすべてを見透かしているようなカミュア=ヨシュの言葉は、チル=リムにはあまりに難しかった。

 ただ――自分が森辺の民と似た存在だと言われただけで、チル=リムの胸にはこれ以上もない嬉しさと誇らしさがあふれかえっていた。


(わたしはアスタやアイ=ファみたいな、心正しい存在になりたい。だからどんなに心細くったって、頑張るんだ)


 チル=リムがそんな風に念じていると、いつしかディアが優しい眼差しで見守ってくれていた。


 そうして一行は、5日間ほどの道程を踏破して――ついにシムの海辺の領土、ドゥラに到着したのだった。

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