埋れ木の部屋(下)
2021.9/16 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
それからジェムドはフェルメス専属の従者となり、現在に至っている。
フェルメスは2年ていどで正式に外交官としての官職をあずかることになったので、もう4年ばかりはこうして各地を転々としながら常に行動をともにしているのだった。
ジェノス城の寝所において、長椅子にしどけなく座したフェルメスは、まだ悪戯な幼子のようにくすくすと笑っている。再会の日から6年ばかりが過ぎて、フェルメスはいっそう美麗に成長していた。
「まあ、僕が運命神に嫌われているかどうかはともかくとして……ジェムドには、ひとつ確かめておきたいことがあったのだよね」
「はい。如何なるお話でありましょうか?」
「……燭台の灯りだけだと、ただでさえ読みにくい君の表情がいっそう見えないな。ちょっとこちらの長椅子に来てくれる?」
主人と従者が同じ椅子に座するなどとは――と、頭に浮かびかけた言葉を呑み込んで、ジェムドはフェルメスの言葉に従った。
「それじゃあ、聞かせてもらうけど……ジェムドは本当に、アイ=ファに心をひかれてしまったのかな?」
ジェムドが同じ長椅子に座するなり、フェルメスはそのように言いたてた。
その複雑な色合いをした瞳が、間近からジェムドを見つめている。それを見返しながら、ジェムドは「いえ」と応じてみせる。
「それじゃあどうして、君はアイ=ファにちょっかいを出すんだろう? 今日なんて、またアイ=ファを舞踏に誘っていただろう?」
「……フェルメス様は、それをご覧になられていたのですか?」
「いや。ガズラン=ルティムと語らいながら、遠目にうかがっていただけだよ。でも、舞踏にでも誘わない限り、手袋なんて不要だろうしね」
森辺の民は家人ならぬ異性と触れ合うことを禁じているために、ジェムドは貴婦人の手袋を準備した上でアイ=ファを舞踏に誘ったのだ。
「前回は、闘技会の祝賀の宴だったっけ。そんな何ヶ月も置いてまた舞踏に誘おうだなんて、よほどの執心を抱いていると思われても無理からぬことなんじゃないのかな?」
「はい。それでアイ=ファの気をひくことはできないものかと画策しましたが、やはりわたしごときでは荷が勝ちすぎていたようです」
「画策って、どうしてそんなことを?」
「はい。アイ=ファの関心がわたしに向けば、『星無き民』たるアスタとの絆がゆらぎ……結果的に、フェルメス様の望まれる行く末に近づくのではないかと考えた次第です」
フェルメスは、こらえかねたように忍び笑いをもらした。
「僕の望む行く末って、どんなものなのだろう? ジェムドには、その見当がついているというのかな?」
「いえ、皆目。……ですが、アスタの心は自由であるほうが望ましいのではないかと愚考いたしました」
「まさしく、愚考だね。たぶんアスタとアイ=ファの結びつきをこの世でもっともありがたく思っているのは、この僕だろうと思うよ」
悪戯な幼子めいた笑みをたたえたまま、フェルメスはそう言った。
「『星無き民』というのは、とても不安定な存在だ。だから遥かなるいにしえの時代、聖アレシュも王都を出奔することになってしまったのだしね。アスタはアイ=ファと愛し合っているからこそ、この地に根付いていられるんだよ。そうじゃなかったら……今回の騒ぎで、南の王都に出奔してしまっていたかもしれないね」
「南の王都に?」
「うん。ダカルマス殿下はアスタの腕に魅了されているし、デルシェア姫のほうは恋心を抱いている。きっと僕の目の及ばないところでは、とっくに誘いをかけているはずだよ。だから僕は、余計に神経をすり減らしていたのさ。……さすがに南の王都までは、追いかけることもできないしねぇ」
「そうだったのですか……」
「うん。だから、アスタとアイ=ファの仲を引き裂こうだなんて、とんでもないことだよ。万が一にも、そんな画策が成功してしまったら……ジェムドの主人である僕は、アスタに恨み抜かれてしまうのではないかな? それこそが、考え得る限りで最悪の結末と言えるだろうね」
ジェムドはおのれの不明に恥じ入りながら、深く頭を垂れてみせた。
「申し訳ありません。わたしごときが勝手に動いてフェルメス様にいらぬご心労をかけてしまったことを、心よりお詫びいたします」
「うん。だけどジェムドは、本気でアイ=ファを口説き落とせる自信があったのかな? 相手はあの、アイ=ファだよ?」
「もとよりわたしには、男女の機微などわかろうはずもありません。ただ真情を尽くせば、思いが伝わることもありえるかと考えた次第です」
「思いが伝わるって、ジェムドはアイ=ファに心をひかれたりはしていなかったんだろう?」
「はい。ですが、森辺の民は他者の心情を汲み取るのに長けていると聞き及びますので、虚心で望んでも結果は得られないかと思われます。よって、アイ=ファに思慕の情を抱けるように、ずっと努めてまいりました」
「うん? 好きでもない相手を好きになれるように努力していたってこと?」
「はい。もとよりアイ=ファはあれほど魅力的な女性でありますため、いずれは真情から愛せるものと見なしておりました」
フェルメスは「あはは」と子供のように笑った。
「それで、いちおう確認しておくけれど……それはすべて、僕のためだと言うんだね?」
「はい。『星無き民』を通じてこの世の真実を解明したいと願う、フェルメス様の一助になれればと……」
「君はすごいねぇ、ジェムド。言っては悪いけど、それは狂信者のごとき妄執だよ」
そんな風に言いながら、フェルメスは右の手の平をジェムドの頬にあててきた。
まるで――6年前の、あの夜が蘇ったかのようである。
「それだけの忠誠と情愛を僕なんかに傾けてくれるのは、本当にありがたい限りなんだけど……でも、僕の気持ちも少しは汲んでもらえないものかなぁ?」
「はい。フェルメス様のお気持ちですか?」
「うん。君が真情からアイ=ファを愛してしまったら、森辺の集落に移り住むこともやぶさかではないって気持ちに至ってしまうかもしれないじゃないか。君はまた、僕をひとりぼっちにしてしまおうというつもりであったのかな?」
完全に虚を突かれたジェムドは、言葉を失うことになった。
そんなジェムドを、フェルメスは甘えるような眼差しで見つめ続けている。
「そこまでは……考えが及んでおりませんでした。心より、お詫びの言葉を――」
「君はこのひと晩で、何回謝るつもりなのかな?」
フェルメスは、ジェムドの額に自分の額をこつんと当ててきた。
それもまた、6年前と同じ仕草である。
「もう、あまり心配をかけないでおくれよ。大体そんな悪だくみなんて、君にはまったく似合わないんだからさ」
「はい。少しでも、フェルメス様のお役に立てればと考えたのですが……」
「……君はこうやって、僕に寄り添ってくれていればいいんだよ」
ジェムドとフェルメスは6年の歳月を離れて過ごし、それから6年の歳月をともに過ごした。それでようやく、絆を正しく結ぶことがかなったのだろうか。
余人の心をはかることが苦手なジェムドには、それもまったく判別がつかなかったのだが――こうしてフェルメスと身を寄せ合っていれば、ジェムドの心に後悔や焦燥の念が忍び込むことはなかった。
「もしも君が――」
と、フェルメスがジェムドの額に自分の額を押し当てたまま、囁くような声で言った。
「……もしも君が12年前に、学士になりたいと願う僕を引きとめていたなら……僕はこんな人間に成長することもなく、人並みの幸福を抱きながら魂を返すことができたのかな」
「それは……どういう意味でありましょうか?」
「どういう意味って、そのままの意味だよ。もしもあの夜に、君が本心を打ち明けていたなら……君が僕と一緒にいたいと願っていたなら、きっと僕は家を出る覚悟が揺らいでしまっていただろうからさ」
ジェムドは小さく息を呑み、手探りでフェルメスの手をつかみ取った。
「それが真実であるのでしたら、わたしは……自分の本心を見定められずに何も語れなかったことを、幸いと考えます」
「幸い? どうしてかな?」
「フェルメス様は、『賢者の塔』におもくことで病魔を克服されたのです。もしもあのままお屋敷に留まっていたなら、いずれ兄君の代わりに父君の手伝いを申しわたされて……あえなく魂を返されることになっていたでしょう」
「だけどそうしたら、人の身に余る野望などにも取り憑かれず、至極平穏に人生を終えることができただろう。……あの古びた寝台で、君に看取られながらね」
フェルメスの声は笑いを含んでおり、本心とも戯れ言とも判断がつかなかった。
しかしジェムドが、もうそのようなことで思い悩むことはない。ジェムドはたとえフェルメスの本心がわからなくとも、自分は本心で語ろうと決意し――そうしてこの6年間を過ごしてきたのだった。
「わたしはフェルメス様の死を看取るのではなく、ともに生きたいと願います」
「でも僕は、いずれ神の怒りに触れて非業の死を遂げることになってしまうかもしれないよ。人の身で世界の真実を暴きたてようなんて、決して許されることではないのだろうからね」
「そのときは、わたしもご一緒いたします。それよりも、わたしはフェルメス様と1日でも長きの時を過ごせることを嬉しく思います」
フェルメスはくすくすと忍び笑いをもらして、ようやく身を引いた。
その美麗なる面に浮かべられていたのは――悪い精霊のような笑顔ではなく、甘える幼子のような表情であった。
「本当に、ジェムドの忠心は狂信者さながらだね。僕は邪神教団の教祖にでもなったような気分だよ」
「フェルメス様は、そのように俗悪な存在には収まらないお人であるかと思います」
「またそうやって、僕の虚栄心をくすぐるんだから。これが全部、僕を篭絡するための手管であったのなら、ジェムドは希代の人たらしだね」
そんな風に言いながら、フェルメスはジェムドの手を握り返してきた。
「でも、ジェムドが僕のために他の誰かをたらしこもうとするなんて、御免だよ。君はずっとそうやって、僕に寄り添っていてくれればいいのさ」
「はい、承知いたしました。……フェルメス様もそろそろお疲れなのではないでしょうか?」
「嫌だなあ。ジェムドのせいで、余計に気が昂ってしまったんだからね。今日はそうそう簡単に解放してあげないよ」
フェルメスは長椅子の背にぐったりともたれながら、変わらぬ眼差しでジェムドを見つめ続けている。
幼き頃のフェルメスでも、こうまではっきりとジェムドに甘えたりはしなかったものだが――それでもやっぱりジェムドは、あのお屋敷の寝所で幼いフェルメスと過ごしているような心地であった。
(もしも神々に願うことが許されるなら……どうかわたしとフェルメス様の魂を、同じ日の同じ時に召していただきたい)
ジェムドはフェルメスを失う悲しみを背負うことも、フェルメスに自分を失う悲しみを背負わせることも、どちらも我慢ならなかった。
もしもフェルメスが神々の怒りに触れて魂を砕かれてしまうなら、自分の魂も捧げてみせる。だからどうか、それは同じ日に――と、ジェムドは繰り返し祈ることになった。
「……そんな真剣な眼差しをして、ジェムドはいったい何を考えているのかな?」
と、フェルメスがジェムドの手を軽く引いてくる。
まるで家族の気を引こうとする幼子のような仕草である。その美麗なる面には、ちょっとすねているような表情が浮かべられていた。
「わたしは常に、フェルメス様のことを考えています。ですからどうぞ、ご心配なきように」
フェルメスは、ジェムドの顔を探るように見つめ――それからにわかに、口もとをほころばせた。
それはこの世の真実などという御大層な題目にはこれっぽっちも興味がなさそうな、赤ん坊のように無垢であどけない笑顔であった。