埋れ木の部屋(中)
2021.9/16 更新分 1/2
それからジェムドは、剣の修練に打ち込むことになった。
フェルメスと別れた年――13歳の頃からである。
理由は、特に思い当たらない。ただ、じっとしていられない心境であったのだ。
幸いなことに、屋敷の主人もその行いを許してくれた。屋敷には守衛も必要であったので、無駄にはならないと考えたのだろう。屋敷の守衛たちが指南役となり、若いジェムドをぞんぶんに鍛えあげてくれた。
「なんだ、剣士として名をあげようという心づもりなのか? 剣士だって、けっきょく重んじられるのは血筋なのだ。下賤の人間がどれだけ血眼になったところで、騎士になることなどできんぞ」
ジェムドと同じ齢の第一子息は、そのように言ってせせら笑っていた。
彼は彼で、官職につくための勉強に多くの時間を割いている。彼の父親は外務官の補佐役という役職であったため、その頃には父親と同伴してしょっちゅう王都にまで出向くようになっていた。
まあこのヴェヘイム公爵領とて王都の一部であるのだが、この地から王宮や城下町まで出向くには、トトスの車でも1日がかりである。彼らが王都に向かうと数日は戻ってこないので、ジェムドも心置きなく修練に打ち込むことができた。
(……きっと王都にまで出向いても、あの方々はフェルメス様に面会を求めたりはしないのだろうな)
フェルメスが暮らす『賢者の塔』も、王都の宮殿のすぐそばに存在するという話であったのだ。それがどのような場所であるのか、ジェムドには想像することも難しかったが――書物の山に囲まれたフェルメスが瞳を輝かせながら学問に励んでいる姿は、容易に想像することができた。
(あの御方は、本当に書物を読むことを楽しんでおられたからな)
あるいはそれは、フェルメスが家族に恵まれなかった結果であったのだろうか。
フェルメスは7歳という幼さで母親を失い、父親と兄からも疎まれていた。本人が言っていた通り、使用人からも疎まれていた。3年の日を過ごすことで、ジェムドもそれが事実であることを知ってしまっていた。この没落した貴族の屋敷において、病弱な第二子息には書物に没頭することだけが心の拠り所であったのである。
(しかし……たとえ家族に恵まれていたとしても、フェルメス様の気性に変わりはなかったのかもしれない)
ジェムドは、そんな風にも思っていた。
フェルメスは病弱でしょっちゅう寝込んでいたが、しかし7歳の頃からすでに泰然とした雰囲気を有していた。現世の出来事には頓着せず、書物の中に描かれた王国の歴史や神話やおとぎ話のほうにこそ、自分の居場所を見出していたような――そんな浮世離れした少年であったのだった。
書物に興味のないフェルメスなど、ジェムドには想像することもできない。そもそもフェルメスは病魔に臥していなくとも、ずっと寝所にこもって書物ばかり読みふけっていたのだ。使用人たちに面倒がられつつ、町の書庫から何冊もの書物を運ばせては、あっという間にそれを読みくだし、また新たな書物を運ばせる。この3年間は、その繰り返しであった。もしかしたら、そんな風に書物ばかり読んでいるから熱を出してしまうのではないかと、そんな心配を覚えるほどであった。
ともあれ――現在のフェルメスはきっと、満ち足りた生を過ごしていることだろう。
そんな風に考えると、ジェムドは大きな喜びと大きな喪失感を同時に覚えることになった。
フェルメスが幸福であるのは、喜ばしい。たとえ本心を打ち明け合うことのできなかった相手であっても、ジェムドはフェルメスを好ましく思っていた。フェルメスが楽しく日々を過ごしているのなら、それはジェムドにとっても喜ばしい限りであった。
しかし、その反面――もうフェルメスは手の届かない存在になってしまったのだという喪失感が、ジェムドの心を静かに苛んでいた。
もしかしたら、ジェムドはもう一生、フェルメスと相まみえることもないかもしれないのだ。本人も言っていた通り、病弱なフェルメスは若くして魂を返してしまうかもしれないのだから、それは決して大げさな話ではなかった。
なおかつジェムドにとって、他者との別れというのは馴染みのないものではなかった。3年前には母親を失い、近在で暮らす友人知人とも決別を果たすことになったのだ。その気になれば、下町で暮らす知人らの家を訪れることもできなくはなかったが――そのような真似をして何になるのか、ジェムドにはわからない。母親の死とともに住む場所を失い、孤児として聖堂に引き取られた時点で、ジェムドはそれまでの生活をすべて失った心地であった。今さら過去の知人らと再会したところで、何を語ればいいのかも思いつかなかったのだった。
(わたしはこうしてぼんやりと運命に押し流されて……何を為すこともないまま、魂を返すことになるのだろう)
ジェムドの中には、何も確固としたものがなかった。母親のことは愛しているつもりであったが、「いつか主様が何とかしてくださる……」という母親の呪文めいた繰り言には、空虚な心地を抱かされていた。母親にとってもっとも重要なことが、自分には隠されているような――つまりは母親の真情が、ジェムドにはまったく見えなかったのだ。それでジェムドは、人の本心を知りたいと願ったり、自分の本心を知ってほしいと願ったりすることのない人間に育ってしまったのかもしれなかった。
(だからわたしは、父親であるはずの人間から使用人として扱われて、兄弟であるはずの人間から憎悪を向けられても、とりたてて苦しく感じなかったのだろうか。そもそも、人の心に興味がなかったから……人間らしい痛みを感じることもないのだろうか)
ジェムドの心は、茫洋としている。痛みや苦しみに鈍い代わりに、喜びや幸福感にも鈍い人間であるのだ。
だからジェムドは、フェルメスと過ごしていた時間のありがたみや、フェルメスを失った痛みにも、なかなか実感をともなわせることが難しく――結果、自分の気持ちを持て余して、剣の修練などに打ち込んでいるのかもしれなかった。
(これが、後悔というものなのだろうか。これが今生の別れなら、最後に本心を打ち明けておくべきだったと……わたしはそのように後悔しているのだろうか)
それもジェムドには、判然としなかった。
そもそもフェルメスに対する自分の本心というのは、どういったものであるのか。それすら、自分にはわからないのだ。
ジェムドはただ、フェルメスの本心を知ろうとしなかっただけだった。
異母兄弟である自分のことを、フェルメスはどのように思っているのか――それを知ろうとしなかっただけだった。それを知ることで、安らかな空間が失われてしまうことを恐れていただけだった。そして、そういった思いを体感したのは、フェルメスが屋敷を出た後のことであったのだから、どのみちジェムドには何を語る機会も存在しなかったのだった。
(しかし何にせよ、わたしたちの運命は分かたれてしまったのだ。ならば今さら、何を後悔しようとも……そんなものは、詮無きことではないか)
そんな風に自分の気持ちを誤魔化しながら、ジェムドは長きの時を生きることになった。
その運命が新たな変転を迎えたのは、およそ6年後――ジェムドが19歳となった年である。
フェルメスの兄が、肺の病で亡くなってしまったのだ。
前日の夜から胸の痛みを訴えて、医術師たちに看護されながら――その翌朝には大量の血を吐いて、彼は呆気なく魂を返してしまったのだった。
「何故だ! どうして誰も彼もが、わたしを置いて死んでしまうのだ! このような家にわたしひとりを残して、いったいどうせよというつもりなのだ!」
父親たる屋敷の主人は三日三晩狂乱して、使用人たちを恐れおののかせた。
そして、4日目の朝――ジェムドを部屋に呼びつけて、別人のように鬱屈した眼光を突きつけてきたのだった。
「かくなる上は、フェルメスを呼び戻す他ない。どうせあやつも長くは生きられんだろうが……官職につければ、伴侶を迎える算段を立てることもかなおう。あやつよりも長きを生きられるような赤子を産ませて、この家の跡取りとするのだ」
そうしてジェムドは、『賢者の塔』までフェルメスを迎えにいくように命じられたのだった。
そのときのジェムドの心境こそ、筆舌に尽くし難かった。
6年ぶりにフェルメスと相まみえるのだという昂りと、フェルメスが学士になるという志を捨てなければならないやるせなさと、よりにもよってそれを自分の口で伝えなければならないというおののきが、ジェムドの心をぞんぶんにかき乱したのだった。
(フェルメス様は、どれほど落胆されるだろう。学士を志したままお家を継ぐということは、どうしてもかなわないのだろうか?)
そんな煩悶を抱えつつ、ジェムドは王都を目指すことになった。
生まれて初めてヴェヘイム公爵領を離れ、トトスの車で1日をかけて王都の領土に踏み入り――主人から授かった書状を守衛に差し出して、『賢者の塔』のフェルメスと面会をする許しをもらう。やはり『賢者の塔』というのは宮殿と同じ敷地内に存在し、許しをもらうまで半日の時間を待たされることになった。
やがて案内されたのは、石造りの巨大な塔である。
2名の兵士に前後をはさまれて階段をのぼり、飾り気のない一室に通される。
そこでしばらく待っていると――ついに、フェルメスが姿を現した。
「やあ。ひさしぶりだね、ジェムド。息災なようで、何よりだ」
6年ぶりの再会だというのに、フェルメスはまったく格式張ることなく、そんな気安い言葉を投げかけてきた。
10歳の幼子であったフェルメスが、16歳の少年に成長している。6年という歳月は、もともと秀麗な容姿をしていたフェルメスを貴婦人と見まごう美貌に成長させていた。
くすんだ色合いをした学徒の制服に身を包んでいるというのに、光り輝いているかのような美しさである。淡い色合いをした髪も長くのびて、緑色と茶色が複雑に絡み合ったその瞳も、さらに神秘的な輝きを宿していた。
「フェルメス様も……ご壮健なご様子で何よりです」
ジェムドはようよう、それだけ答えることができた。
フェルメスは薄く笑いながら、長くなった前髪を優雅にかきあげる。
「それじゃあちょっと着替えてくるから、ここで待っていてもらえるかな? 四半刻はかからないはずだからさ」
「え? 着替えとは……?」
「僕は家に連れ戻されるのだと、書状にしたためてあったそうだよ。それなら、学徒の制服をお返ししないとね」
そう言って、フェルメスは何でもない風にまた微笑んだのだった。
「まあ、兄君も僕に劣らず身体が弱かったから、いつかこんな日が来るんじゃないかと覚悟を決めていたよ。……僕の忠告に従っていれば、もう少しは長生きできたろうにね」
「は……忠告とは……?」
「この『賢者の塔』の学士になれば、最新の医療で病魔を克服できるのさ。僕はもう、2年ばかりは熱も出さずに過ごすことができているんだよ。医術師いわく、もともと肺が弱かったようで……しかもこれは、親から子へと受け継がれる類いの病魔だった。僕も兄君も、母君からそんな病魔を受け継いでしまっていたわけだね」
そんな風に言葉を重ねながら、フェルメスは悪い精霊のように微笑んだのだった。
「まあ、兄弟の両方を学士にしていたら、けっきょく家を継がせることもできないからね。父君にしてみれば、僕の忠告なんて耳障りでしかなかったんだろう。……でもさ、こうやって僕を家に引き戻すのだったら、やっぱり兄君も学士にさせるべきだったんじゃないのかな。数年ばかりもこらえていれば、兄君だってもっと丈夫な身体を手にすることができたわけだからさ。まったく凡夫というものは、目先のものしか見ることができないのだね」
「フェ、フェルメス様……」
「おっと、凡夫は言い過ぎだったかな? まあ、恨み言のひとつぐらい許しておくれよ。僕は学士となる志を捨てて、家に引き戻されてしまうのだからね」
そうして言葉を失うジェムドを残して、フェルメスは部屋を出ていったのだった。
(やはり、6年の歳月というのは……人を変えるのに十分な時間なのだろう)
かつてのフェルメスは妙に達観した子供であったが、あのように人を食った言葉を連ねるような人間ではなかった。そして、あんな妖しい微笑を浮かべる人間でもなかった。変貌し果てたフェルメスの姿を目の当たりにして――ジェムドは得も言われぬ焦燥に取り憑かれることになってしまった。
(やっぱりわたしたちは、どこかで道を間違えてしまったのではないだろうか?)
そんな疑念は、ジェムドのもとから長らく離れることはなかった。
そんなジェムドの思いも余所に、フェルメスは生家に舞い戻り――兄に代わって官職を得るための勉強に取り組むことになった。
かつての兄と同じように、父親と同行して王都に出向き、外務官としての職務を学ぶのだ。官職というのはべつだん世襲制ではないと聞き及んでいたが、他の職務について学ぶ道筋をもたないなら、けっきょく親から学ぶしかないのだろう。
フェルメスは本当に身体が丈夫になったようで、そんな生活を苦もなくやりとげているように見えた。
これでお家も安泰かと思われたが――フェルメスが戻ってふた月も経たない内に、ほころびが生じ始めた。フェルメスと父親が屋敷の執務室にこもっている際、たびたび怒鳴り声が聞こえてくるようになったのだ。
「賢しげなことを抜かすな! お前は大人しく、わたしの言う通りにしておればよいのだ!」
「そうして父君のかたわらで置物のように黙りこくっているのが、僕の職務ということでしょうか? それでいったい、何が学べるというのでしょう?」
「見て学び、聞いて学ぶのだ! 外務官の何たるかも知らぬお前が会談の場で口をはさむなど、浅はかにもほどがあろう!」
「それで僕の意見が退けられたなら、浅はかの極みでありましょうね。ですがジャガルの使節団の方々は、けっきょく僕の意見を取り入れてくださることになりました。それでどういった不都合が生じるというのでしょう?」
フェルメスは決して声を荒らげることもなかったが、その澄み渡った楽器のような声音は父親の怒鳴り声と同じぐらい扉の外までよく響いていた。
「ああ……ですが僕は、外務官の補佐役たる父君の、さらに補佐役でありましたね。そんな人間の意見が採用されてしまったら、多くの人々の面目が潰されてしまうということですか。そういうことでしたら、つつしんでお詫びを申し上げますよ」
ジェムドもその声を扉の外から盗み聞くばかりであったが、あの悪い精霊じみた微笑を想像するのに難しいことはなかった。
そんな父子の諍いが起きるようになってからしばらくして、フェルメスと父親は行動をともにしなくなった。他の使用人からの話によると、フェルメスは父親の上官のはからいで別なる外務官の補佐役に任命されたそうである。
(つまり……わずかふた月ていどで、フェルメス様は主様の身分に追いついてしまわれたということか)
それから主人たる父親は、いっそう荒れるようになった。酒の量が増え、粗相をした使用人にものを投げつけるような、粗暴な主人になってしまったのだ。
いっぽうフェルメスは貴公子に相応しい優雅さで日々を過ごしている。屋敷の使用人などはあらかたフェルメスの美貌や聡明さに心を奪われてしまい、それがいっそう父親の神経を逆なでしてしまうようだった。
(このままでは、いけない)
ジェムドがそのように判じたのは、フェルメスが補佐役となってひと月ばかりが過ぎた頃であった。
フェルメスが屋敷に戻ってからの3ヶ月、ジェムドは挨拶を交わすぐらいでほとんど口をきいていない。フェルメスはあまりに人柄が変貌してしまったため、昔のように気安く口をきく気にはとうていなれなかったのだ。
しかしそれでもジェムドは、自分を奮い立たせてフェルメスに意見することになった。
このままでは、父子の関係性が際限なくこじれてしまうと思い至ったためである。
「フェルメス様、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
その日の夜、ジェムドは覚悟を固めてフェルメスの寝所を訪れた。
まだ晩餐を終えたばかりだというのに、フェルメスはすでに寝台で書物を読みふけっていた。その姿が幼き頃のフェルメスと重なって、ジェムドを少なからず動揺させる。
「やあ、君が僕の寝所を訪れるなんて、初めてのことだね。……それとも、6年ぶりというべきかな?」
フェルメスは、すでに悪い精霊のように微笑んでいた。
「今、書物が面白いところなのだよね。失礼だけど、読みながらでかまわないかな?」
「ええ、かまいません。フェルメス様の憩いの時間にお邪魔してしまい、心よりお詫びを申し上げます」
「そういう慇懃な物言いも、だいぶん板についてきたみたいだね。……それで、どういった用件なのかな?」
書物のほうに目を戻しながら、フェルメスは気のない調子でそう言った。
あらためて心を引き締めつつ、ジェムドは声をあげてみせる。
「フェルメス様と主様についてのお話となります。わたしのような一介の使用人が口をはさむのは、あまりに恐れ多きことなのですが……今少し、主様の心情を慮って差し上げるべきなのではないでしょうか?」
「父君の心情って? 頼りにならないと思って一度は見捨てた次男坊に、あっさり役職を追いつかれてしまったこと?」
書物の頁を繰りながら、フェルメスはほっそりとした肩をすくめた。
「僕はべつだん、父君を貶めようだなんて、これっぽっちも考えてはいないよ。立派な官職を得られるように死力を尽くせと言い渡されたから、その通りに振る舞っただけのことさ」
「いえ、ですが……」
「それとも父君の面目を保つために、無能のふりをするべきだったのかな? それこそ父君への侮辱にあたるんじゃないかと思えてしまうね。息子にあわれみをかけられるなんて、父親としては最大の恥辱だろうさ」
書物から顔を上げようとしないまま、フェルメスはまた妖しく微笑んだ。
かつては悪戯小僧のように微笑んでいたフェルメスの面影が、ジェムドを苦しめる。あの、利発で病弱で時おり可愛らしい笑顔を見せる幼子は、もうどこにもいないのだ――と、ジェムドの心はそんな想念に揺さぶられてしまうのだった。
「ですが、このままでは主様とのご関係がこじれるいっぽうでありましょう。たったふたりのご家族であられるフェルメス様と主様が、このように仲違いしたままでは――」
「ジェムドは、おかしなことを言うんだね。僕と父君の間に、どんな絆があったっていうのさ? 僕はずっと、父君に疎まれていた立場じゃないか。……それともそんな大昔の話は、とっくに忘れてしまったのかな」
「いえ、そのようなことは決してありません。ですがそれならなおのこと、主様との絆を結びなおすために――」
「絆というのは、双方が引っ張り合うことで初めて結び合わされるのだよ。父様は自分の代で家が取り潰しになったら死んでも死にきれないから、しぶしぶ僕に跡を継がせようとしているだけのことさ。だから僕も、父君の期待に全力で応えてあげようと力を尽くしているのだよ」
ジェムドの言葉をさえぎって、フェルメスはそのように言いたてた。
「ジェムドは僕なんかじゃなく、父君に進言するべきだったね。家の存続と、自分の自尊心と、いったいどちらが大事なのかってさ。跡継ぎは欲しいけど自分より有能な息子は許せないなんて、そんな独善的な話はないと思うよ。なんでもかんでも自分の思い通りにことを進めたいなんて、あまりに虫がよすぎるのさ」
「フェルメス様は……やはり主様をお恨みになられているのでしょうか?」
「僕が、父君を? それはまた、ずいぶん素っ頓狂なことを言うもんだね」
「そうでしょうか? 主様の命令で学士として生きる道を断たれたことを、お恨みになられているのではないのですか?」
フェルメスは、芝居がかった仕草で溜息をついた。
「貴族の子弟が学士を目指すなんて、本来はありえないことさ。そんな我が儘を6年間も許してもらえたんだから、僕はむしろ父君に感謝しなければいけないはずだよ」
「……本当に、それがフェルメス様の本心なのでしょうか?」
ジェムドの言葉に、フェルメスは「へえ」と唇を吊り上げた。
「ジェムドに本心を問われるなんて、生まれて初めてなような気がするね。君は他者の心持ちなんて、いっさい気にかけていないように思ってたからさ」
「いえ、それは――」
「せっかくだから、答えさせてもらうよ。……もちろん、本心さ。まあ、『賢者の塔』の生活というのはきわめて快適だったから、それを惜しむ気持ちがないと言ったら、それは嘘になってしまうけれど……でも僕も6年ばかりをあの場所で過ごして、少しばかり行き詰まりを感じていたのだよね」
ジェムドに言葉をさしはさむ隙を与えず、フェルメスはそのようにまくしたてた。
「書物の山に囲まれて、ひたすら知的好奇心を満たしていくだけの生活を送れるなんて、まるで楽園さ。でもね、僕は少しだけ物足りなく感じていたんだ。だって、そうだろう? どれだけの書物を読みあさって、どれだけこの世界の真実に近づこうとも、それは僕の頭の中だけに存在する空想だ。思いも寄らない歴史書や神話やおとぎ話に読みふけって、悦楽の極みに陥りながら書物を閉じると――僕は、石の壁に囲まれている。書物の中の神々や精霊や英雄たちはあんなに生き生きと自分たちの世界を謳歌しているのに、僕はただ石造りの部屋に閉じこもって妄想をふくらませているだけのちっぽけな存在に過ぎない。僕はこの世界のすべてを知りたいと渇望しているのに、実際は書物の文字を目で追っているだけなんだ。こんなことで本当に世界の真実を見定めることは可能なのかと、僕はそんな考えを抱かされてしまったのだよね」
虚空の向こうに漂う何かを追い求めるかのように視線を遠くに飛ばしながら、フェルメスは決して昂らない声で――それでも、疑いのない真情を込めて、そう言った。
「だから、外の世界に踏み出すのも悪いことではないのかな、と思っているよ。むしろ、僕みたいに不穏な生まれ損ないがずかずかと踏み入ってきたら、世界のほうに迷惑がられてしまいそうだけれどね」
「フェルメス様は……決して生まれ損ないなどではありません」
ジェムドが何とかそれだけ言ってみせると、フェルメスはまた「へえ」と唇を吊り上げた。
「ずいぶん心にもないことを言うんだね。まあ、使用人としてはそのように振る舞うしかないのかな」
「いえ、心からそのように思っています。フェルメス様がそのようにご自分を卑下されるいわれはありませんでしょう」
「どうしてさ?」と――フェルメスが、ゆっくりとジェムドを振り返ってきた。
緑色と茶色の輝きが複雑に入り混じった瞳が、真正面からジェムドを見据えてくる。
「僕はどのように振る舞っても他者から疎まれるだけの、生まれ損ないだよ。ジェムドだって本当は、僕なんかと口をききたくもないのだろう?」
「そのようなことはありません。わたしは――」
「いいんだよ。君の心情は、6年前からわかっていたからね。……悪い主人というものは、使用人から嫌われて当然なのさ」
それは遥かなる昔、同じこの場所で聞かされた言葉であった。
思わず立ちすくむジェムドから目をそらして、フェルメスはその手の書物を閉じる。
「さて、そろそろ眠ろうかな。君の忠告は、いちおう心の片隅に留めさせていただくよ」
「いえ、お待ちください。わたしは、誤解を解かなければなりません」
ジェムドはフェルメスからの許しも得ないまま、勝手に寝台のそばまで歩を進めてしまった。
フェルメスはそっぽを向いたまま「誤解?」と反問する。
「わたしはこれまで、どうしても本心を打ち明けることがかないませんでした。悪い主人は嫌われて当たり前と言われたときも、わたしなどに会えないことが心残りだと言っていただけたときも……言葉を濁して、うまく答えることができなかったのです」
フェルメスはいささかならず虚を突かれた様子で、再びジェムドのほうに目を向けてきた。
「ちょっと待って。悪い主人は嫌われて当たり前って……僕の記憶に間違いがなければ、それはまだ僕たちが出会って間もない頃の話であるはずだよ」
「やはりフェルメス様も、あの問答を覚えておられたのですね。フェルメス様はまだ7歳であられたのに、驚異的な記憶力であるかと存じます」
そんな風に答えながら、ジェムドは寝台のそばに膝をついてみせた。
寝台に半身を起こしたフェルメスと、それで目線の高さが同じぐらいになる。フェルメスはいくぶん戸惑っているかのように、ジェムドを見つめていた。
「その際も、わたしはこちらの屋敷に連れてこられたことに感謝しているなどと言いたてて、フェルメス様の質問をはぐらかしてしまいました。もちろんあの頃はまだ出会って間もなかったので、好くや嫌うといった明確な気持ちも生じていなかったのですが……」
「驚いた。本当に、あのときのやりとりを覚えているんだね」
「はい。そして、フェルメス様がお屋敷を出られる際にも、わたしは自分の心情を見定めることができず、お答えすることができませんでした。それをずっと、心残りに思っていたのです」
「だったら……」と、フェルメスは彼らしくもなく口ごもった。
その複雑な色合いをした瞳に、どこか懐かしく思えるような輝きが灯されている。
「……だったら、どうして6年間も……僕を放っておいたのさ?」
「それは……フェルメス様の本心を知るのが、怖かったのかもしれません」
「僕の本心?」
「はい。わたしと会えないのが心残りと言ってくださったあのお言葉が、果たして本心であったのか戯れ言であったのか……フェルメス様はわたしを疎んでおられるのか、そうでないのか……それを確かめるのが、怖かったのかもしれません」
「どうしてさ。僕がジェムドを疎む理由なんて、どこにもないじゃないか」
「ですが、ことさら好む理由もないように思われます。わたしはこのように、不調法な人間ですので」
「君は……」と、フェルメスは再び口ごもった。
その白い指先が、ジェムドの左の頬にそっと押し当てられてくる。
「……君はなんて不器用な人間なのだろうね、ジェムド」
「はい。お恥ずかしい限りです」
「それで? 以前に聞かせてもらえなかった返答を、この場で聞かせてもらえるということなのかな?」
「はい。これが明確な答えになっているのか、自分でも判然としないのですが――わたしにとっても、フェルメス様とともに過ごす時間は安らぎに満ちていました。あの時間が失われてしまうことを、心から残念に思っていたのです」
「そう」と、フェルメスは微笑んだ。
それは悪戯を楽しむ幼子のような笑い方であり、その瞳にはジェムドに甘えるような眼差しが宿されていた。
「それじゃあ僕たちは、6年ぶりにそれを取り戻すことができたということなのかな」
「もしもそうであるのなら、心より喜ばしく思います」
フェルメスは同じ微笑をたたえたまま、ジェムドの額に自分の額をこつんとぶつけてきた。
まるで陶磁器のように白くてなめらかなフェルメスの肌は、きちんと人間らしい温もりを有していた。