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異世界料理道  作者: EDA
第六十四章 群像演舞~七ノ巻~
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第三話 埋れ木の部屋(上)

2021.9/15 更新分 1/1

・明日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。

「ああ、すっかり疲れ果ててしまったねぇ」


 紅鳥宮にて行われた礼賛の祝宴を終えて、ジェノス城に準備された外交官のための部屋に帰りつくなり、フェルメスはそう言った。

 ジェムドはとりたてて疲労を覚えたりはしていなかったが、主人のために「はい」と答えてみせる。フェルメスはそんなジェムドの姿をちらりと横目でうかがってから薄く笑った。


「とりあえず、着替えを済ませてくつろごうじゃないか。寝所で待っているよ」


「はい。……フェルメス様は、まだお休みになられないのでしょうか?」


「身体はくたびれきっているけれど、頭のほうは祝宴の熱気にあてられてしまったからね。それじゃあ、また後で」


 フェルメスは小姓とともに寝所へと姿を隠す。

 外交官に割り振られたこの部屋は、入ってすぐが応接と執務の間になっており、そこに寝所と従者たちの控えの間に通ずる扉が設えられていた。


 控えの間に移動したジェムドは、武官の礼服から平服に着替えたのち、フェルメスの待つ寝所へと向かう。扉を叩くと、小姓ではなくフェルメスの声で「どうぞ」と聞こえてきた。


 扉を開いたジェムドは、わずかに息を呑んで立ちすくんでしまう。

 フェルメスはまだ着替えのさなかであり――宴衣装を脱ぎ捨てて、下帯ひとつの裸身をさらしていたのだった。


 フェルメスは南の血でも入っているのではないかと疑わしくなるほど、肌の色が白い。そして、貴婦人と見まごう美麗な面立ちをしている上に、とてもほっそりとした華奢な体躯をしていた。

 手足も胴体も、武官のジェムドとは比べようもないほど細い。それも、うら若い少年のような――いや、それこそ未成熟な少女を思わせるような細さであるのだ。

 作りもののようになめらかな質感をした白い肌が、いっそう少女めいている。筋肉の起伏も見られない二の腕も、かろうじてあばらが見えないぐらいの薄い胸もとも、乱暴に扱ったら折れてしまいそうな腰も――何もかもが、少女や精霊のように可憐で繊細に見えてしまうのだった。


 王都から付き従ってきた小姓の少年は、すべての感情を押し殺して夜着の準備をしている。この少年は、朝にも晩にもこうしてフェルメスの着替えを手伝っているはずなのだ。それでよくもこうまで内心を隠しおおせるものだと、ジェムドは感心してしまうぐらいであった。


「ありがとう。寝酒の準備をしてくれたら、君はもう休んでかまわないよ」


 灰色の夜着を纏ったフェルメスは、高々と結いあげていた長い髪をほどきつつ、そう言った。その淡い色合いをした髪がふわりと広がる美しさに、小姓の少年が一瞬だけ心を奪われたように動きを止める。しかしその後は礼儀正しい所作を取り戻し、卓の上にママリア酒の準備をしてから、一礼して寝所を出ていった。


「さ、ジェムドもお座りよ。……なんだ、夜着に着替えなかったのかい? そんな姿は、窮屈だろう?」


「いえ。主人の部屋に夜着で訪れるなど、許されることではありませんので」


「君は相変わらずだね。……まあいいから、お座りよ。ママリア酒はいかがかな?」


「いえ、主人の寝所で酒を口にすることなど――」


「ああもういいよ。とにかく、座りなったら」


 フェルメスはジェムドの言葉をさえぎって、自らも長椅子に腰を落とした。

 余人の目のない場所では、フェルメスもジェムドに奔放な姿を隠したりはしないものであるのだが――それにしても、今のはフェルメスらしからぬ性急な物言いであった。長椅子にしどけなく座ったその姿も、どこかけだるげである。


「フェルメス様は、やはりお疲れなのではないでしょうか? できうれば、早めにお休みになられたほうが――」


「なに? 僕がまた熱でも出すんじゃないかと心配してくれているのかな? それは親切なことだね」


 フェルメスは悪い精霊のように微笑みながら、無造作な手つきで酒杯に果実酒を注いだ。


「ようやくふたりきりになれたんだから、僕の好きにさせておくれよ。これでジェムドにまで煙たがられたら、僕にはくつろげる場所なんてなくなってしまうね」


「……フェルメス様のご気分を害してしまったのでしたら、幾重にもお詫びを申し上げます」


「だからさ。そういう堅苦しい態度が、今の僕には苦痛なんだよ」


 どこかすねている子供のような口調で言いながら、フェルメスは酒杯の果実酒に口をつけた。

 最近のフェルメスは南の王族たちに心を砕いているため、少なからず消耗しているのである。むろん、人前でそのような姿をさらすフェルメスではないのだが――ジェムドの前では、遠慮をする理由がなかったのだった。


「でもこれでようやく、残すは送別の祝宴だけか。王家の方々が来訪してから、ひと月半……本当に長かったねぇ」


「はい」


「こんな時期に限って、オーグ殿がいないんだものなあ。オーグ殿さえいてくれたら、こんな面倒ごとはすべて押しつけて、僕は自由に振る舞えたのに……僕は運命神ミザに不興でも買ってしまったのかなぁ」


「はい」


「……それは、僕が運命神の不興を買って当然という意味なのかな?」


「いえ。そのようなつもりはありませんでした。フェルメス様のご気分を害してしまったのでしたら、幾重にも――」


「だからもう、それはいいってば」


 長椅子の肘掛けに頬杖をつきながら、フェルメスは苦笑した。

 茶色と緑色が複雑にからみあったフェルメスの瞳が、ジェムドを揶揄するような光をたたえている。


「本当に君は、いつまで経っても変わらないね。……君はいくつになったんだっけ?」


「はい。わたしは25歳となりました」


「それじゃあ僕は、22歳か。おたがい、歳をとったものだねぇ」


 フェルメスは、悪戯を楽しむ幼子のようにくすくすと笑う。

 それは、なんとなく――フェルメスの幼い頃を思い出させてやまない姿であった。


                 ◇


 ジェムドがフェルメスと出会ったのは、およそ15年前。ジェムドが10歳、フェルメスが7歳の頃であった。

 当時のジェムドは、王都のヴェヘイム公爵領の下町に住む貧しい子供であった。家族は病弱な母親ひとりきりで、他に頼れる親戚もなかったため、ジェムドももっと幼い頃から家の仕事を手伝わされていた。


「でも、こんな暮らしももう長くはないからね。すぐに主様が、救いの手を差し伸べてくださるから……あなたもそれに相応しい人間になるのよ」


 母親からは、しょっちゅうそのような言葉を聞かされていた。

 主様とはどこの誰であるのか、それだけは固く押し黙ったまま、そんな言葉を繰り返していたのである。それはジェムドを励ますのではなく、自分自身に言いきかせるための言葉であるようだった。


 そうしてジェムドが10歳の頃、母親は病魔で亡くなってしまった。

 たったひとりの家族を失ったジェムドは、下町の聖堂に引き取られることになったのだが――それから何日も経たぬ内に、見慣れぬ老人が聖堂を訪ねてきたのだった。


「おぬしには、今日より家と役目が与えられる。主様に感謝して、しっかり励むのだぞ」


 そんな言葉を言いたてながら、老人はジェムドをトトスの車に押し込んだ。

 それで連れてこられたのが、貴族の住まうお屋敷である。

 それがヴェヘイム公爵家に連なる貴族の屋敷だと聞かされて、ジェムドはたいそう驚かされたものであった。


(これが母さんの言ってた、主様の屋敷なのかなあ。でもまさか、公爵様に連なる貴族だなんて……下町の仕立て屋だった母さんが、そんなお偉いお人とどこで巡りあうことになったんだろう)


 だが、そんな感慨はすぐさま薄らぐことになった。

 そちらの屋敷にいざ踏み込んでみると、思っていたほど立派な様相ではなかったのである。

 屋敷そのものは、かなり大きい。しかし、大きいわりに使用人の手が足りておらず、なんともうらぶれた雰囲気であったのだ。庭園なども長らく手入れをされている様子がなく、回廊の壁掛けにはあちこちにどす黒いしみができていた。


「お前が、ジェムドか。……本日から、お前の身柄はわたしが預かることになった」


 その屋敷の主人は、まだ若いのにどこか老人めいた人物であった。

 着ているものなどは立派だが、痩せた顔には疲労と苦悩の色がにじんでいる。南の民のように緑色をしたその瞳には、どこか切迫した光がたたえられていた。


「とりあえず幼い内は、子供らの面倒を任せよう。お前の母親の分まで、誠心誠意尽くすのだぞ」


 その場には、ふたりの子供も控えさせられていた。

 ジェムドと同じぐらいの年頃である、どこか険のある眼差しをした少年と、それよりは年少で、とても綺麗な顔立ちをした病弱そうな少年である。

 その下のほうの少年が苦しそうに咳き込むと、父親たる屋敷の主人は肉の薄い額に深い皺を刻んだ。


「また調子を崩しているのか。なんと病弱な子であるのだ。……ジェムドよ、そやつを寝所まで連れていき、看病してやるがいい」


 いまだこの状況を把握できないまま、ジェムドは主人の言葉に従うしかなかった。

 ジェムドに手を取られた少年は、血の気の薄い顔で「ありがとう」と微笑む。その瞳には、父親と似た緑色に茶色がまじった、とても不思議な色合いの輝きが宿されていた。


 これが、ジェムドとフェルメスの出会いであったのだ。

 その頃のジェムドにとって、フェルメスというのはただ病弱で、やたらと美しい面立ちをした少年というだけの存在であった。フェルメスはあまり口をきかないし、月の半分は寝所で臥せっているような有り様であったので、ほとんど交流を結ぶ機会もなかったのだ。


 よって、ジェムドにこの一幕の舞台裏を教えてくれたのは、その兄たる第一子息のほうであった。こちらも痩せていてあまり丈夫そうには見えなかったが、気性のほうは活発であり――そして、いささかならず意地が悪かったのだった。


「お前はな、父様が使用人に産ませた子なんだよ。それで母様が怒り狂って、お前の母親を屋敷から叩き出したのさ。それで母様が魂を返してしまったから、ようやく父様もお前を屋敷で引き取ることがかなったわけだな」


 では、この兄弟の母親も、ジェムドの母親と時を同じくして魂を返すことになった、というわけであった。


「まったく、愉快な話だよな。何が愉快って、俺もお前も同じ10歳なんだぜ? つまり父様は、伴侶と端女を同じ時期に孕ませたってわけだ。そりゃあ母様が怒り狂うのも当然だ。腹の大きな母様が、同じぐらい腹のふくれたお前の母親を屋敷から追い出してる姿を想像すると、笑いが止まらないよな」


 ジェムドはとうてい笑えるような気分ではなかったが、彼がこのようにとげとげしい目つきをしているわけが理解できた。彼の母親が病魔で身罷るなり、彼の父親はよそで産ませた不義の子を屋敷に引き取ったのである。それでは、彼がジェムドを憎むのも当然であるように思えてならなかった。


 どうして彼の父親がそのような真似をしたのか、ジェムドにはわからない。単に人手が欲しかっただけなのか、はたまたジェムドの母親に対する申し訳なさの表れであったのか――少なくとも、彼の父親がジェムドに情愛を向けることはなかった。母親とのいきさつについてもまったく語ろうとはしないまま、ただジェムドを使用人として扱ったのだ。ジェムドもまた、この主人を父親と思うつもりにはまったくなれなかった。


「言っておくけど、妾腹の子に継承権なんてあると思うなよ。お前が父様の種だなんていう証は、どこにもないんだからな。お前は一生、使用人として俺たちに仕えるんだ」


 兄のほうは、しきりにそんな風に言いたてていた。

 もちろんジェムドに家督を奪おうなどという気はなかったし――そんなものに価値があるとも思えなかった。この家は、どう考えたって没落貴族のそれであるのだ。公爵家とどのような血の繋がりがあるのか知らないが、もう何代も続かないことは目に見えていた。


 そうしてジェムドは兄のほうになじられながら、楽しくも可笑しくもない日々を過ごし――時おり、フェルメスの寝所で過ごすことになった。侍女の手が足りないときなどは、ジェムドがたびたび引っ張り出されることになったのだ。


 フェルメスのほうは、手のかからない子供であった。看病といっても、熱を出したときに汗をふいてやったり、薬や食事の世話をしてやるぐらいのものであったのだ。そうして少し加減がよくなると、この少年は書物に没頭してしまうため、ジェムドはその姿をぼんやり見守るぐらいの仕事しかなかった。


「……書物とは、それほど楽しいものなのでしょうか?」


 とある日、ジェムドが気まぐれでそのように問うてみると、寝台に半身を起こして読書をしていたフェルメスはきょとんとした顔を向けてきた。


「面白いよ。ジェムドは、書物が嫌いなの?」


「嫌いというか……わたしは、字が読めませんので」


「ええっ!? ジェムドは僕より年上でしょ? それなのに、字が読めないの?」


 フェルメスは心底から驚いた様子で大きな声を出し、その弾みで咳き込むことになった。


「ああ、どうぞ安静に。余計な言葉をかけてしまい、申し訳ありません。お水をお飲みになられますか?」


「ううん、大丈夫。……そっか。ジェムドは下町で育ったんだもんね。下町で育った子は、読み書きを学ぶことも許されないの?」


「いえ。商売人の子であれば、きっと聖堂で学んだりするのでしょうが……わたしには家の仕事があったので、そういう時間を作ることもできませんでした」


「そっか。……字を読むことができなかったら、僕なんて退屈で退屈で我慢がならなかっただろうなぁ」


 まだ7歳であったフェルメスは、妙にしみじみとした調子でそのように言っていた。


「まあそんなのは、なに不自由なく暮らしている貴族のたわごとなんだろうけどね。ジェムドなんて、仕事で忙しいからこそ読み書きを学ぶことができなかったわけだしさ」


「ええ、まあ……どうぞわたしのことなどは捨て置いて、読書をお楽しみください。もうお邪魔はしませんので」


「どうして? ジェムドは僕のことが嫌いなの?」


 茶色と緑色の輝きが複雑に入り混じった瞳で、フェルメスは真っ直ぐにジェムドを見つめてきた。

 その眼差しに、どこか魂を吸い込まれるような恐れを抱きつつ――ジェムドは「いえ」と答えてみせる。


「わたしはこの屋敷に仕える使用人です。主人たるフェルメス様を嫌うなど、滅相もありません」


「いや。屋敷に尽くすのは使用人の仕事なんだから、主人を好くか嫌うかは別問題でしょ? 悪い主人なら、使用人に嫌われるのが当たり前じゃない?」


 読書ばかりしているせいか、フェルメスはやたらと言葉が達者であった。

 まだその不思議な眼差しに心をかき乱されつつ、ジェムドは懸命に答えてみせる。


「ですがわたしは、ずっと貧しい暮らしをしていましたし……先日には、すべての家族を失うことになりました。聖堂における暮らしも、あまり自分には合っていないように思えましたので……こちらの屋敷に引き取っていただけたことを、感謝しています」


「ふうん。ジェムドは、変わっているんだね」


 そう言って、フェルメスは薄く笑った。

 どこか、悪戯を楽しんでいるような笑い方である。


「まあ、ジェムドに嫌われていないなら、よかったよ。この屋敷でもっとも僕を人間らしく扱ってくれるのは、ジェムドだからさ」


「え? そのようなことはないかと思いますが……」


「どうしてさ。僕みたいにしょっちゅう熱を出す子供は、使用人たちからもうんと疎まれるものなんだよ。ただでさえ人手が足りていないのに、余計な仕事が増えてしまうわけだから、それも当然のことだよね」


「ですが、ご家族の皆様が……」


「家族のほうこそ、僕を疎み抜いてるさ。まあ、疎むというよりは、いないものとして扱っている感じなのかな? どうせ僕みたいな子供は長生きしないだろうし、家の役に立たない家族なんて用無しなんだろうと思うよ」


 そうしてフェルメスは、寝台の上に身を倒した。


「ひさびさにたくさん喋ったから、少し疲れちゃったかな。僕は眠るから、ジェムドも身を休めておくといいよ」


「いえ。フェルメス様をお見守りするのが、わたしの仕事ですので」


「いやだなあ。そんな風に見られていたら、眠りにくいよ。……これまでそんな風に僕を見守ってくれる人間は、他にいなかったしね」


 そのようにして、ジェムドは少しずつフェルメスと絆を深めていったのだった。

 そんな生活が、3年ほども続いただろうか。フェルメスが、初めてジェムドが屋敷にやってきたぐらいの齢に達した頃、大きな変転が訪れた。フェルメスが、学士になりたいと言い出したのである。


「10歳の幼さで、何が学士だ。そもそもお前は、学舎すら通っていなかったではないか。世迷いごとも、大概にするがいい」


 父親たる主人は、そんな風に憤慨をあらわにしていたらしい。

 しかしフェルメスは、あきらめなかった。それで最後は父親を説き伏せて、とうとう学士の編入試験というものを受けることに相成ったのである。


「あの、わたしには学士というものがよくわかっていないのですが……それは、学舎に通うという意味なのでしょうか?」


 その夜、多忙な侍女の代わりにフェルメスの面倒を見る役割を与えられたので、ジェムドはそんな風に問うてみた。


「ううん。ただ学舎に通う人間なんて、山ほどいるからね。その中で、学ぶことを本題にする人間のことを、学士と称するんだよ」


 10歳になったフェルメスは、少し大人びてきた面持ちでそのように答えてくれた。


「学ぶことが、本題……申し訳ありません。やはりわたしには、よくわからないようです」


「だからさ、貴族や商売人の子弟が学舎で学ぶのは、それぞれの生活に見合った知識を得るためだろう? そうじゃなくって、学士というのは文明を発展させるために知識を磨こうとする学究の徒であるわけさ。便利な道具をより便利にするだとか、これまでの歴史から新たな教えを導きだすだとか……簡単に言うと、そんなところかな」


「はあ……フェルメス様も、そのような志を抱くことになられたというわけですか」


「ううん。僕はただ、この世界のことをもっと知りたいだけだよ。もう普通の書庫で借りられるような書物は読み尽くしちゃったから、あとは『賢者の塔』にでも出向くしかないと思ってさ」


 そう言って、フェルメスはまた悪戯を楽しむ幼子のように笑うのだった。


「編入試験というものに合格されたら、その『賢者の塔』という場所で過ごされることになるわけですね? お身体のほうは大丈夫なのでしょうか?」


「うん。『賢者の塔』には、医療の施設も整えられているんだよ。だってあちらでは、医療の知識を学んでいる人間だってたくさんいるわけだからね。学士と医術師を兼任している人間も少なくはないみたいだし、むしろ僕みたいに病弱な人間には都合がいいぐらいなのさ」


 と、フェルメスはいっそう悪戯小僧めいた笑顔になる。


「で、学士たる身分の人間が病魔に倒れたなら、きっと無償で治療してくれるはずだからね。今後は僕の薬のために財産を削る必要もなくなりますよと進言したら、ついに父様も折れてくれたよ。官職につくこともできない病弱な第二子息なんて、家に置いておくだけ無駄だからね」


「フェルメス様……」


「あはは。そんな顔しないでよ。折り合いの悪い家族と離れられるなら、僕だって清々するぐらいさ」


 と――フェルメスはふいに幼げな笑みを消して、甘えるような眼差しをジェムドに向けてきた。


「ただ心残りなのは、ジェムドになかなか会えなくなっちゃうことかな。この屋敷で僕に心を砕いてくれたのは、ジェムドただひとりだったからね」


 ジェムドは思わず言葉に詰まり、とっさに返事をすることができなかった。

 するとフェルメスもそっぽを向いて、その眼差しを長い前髪に隠してしまう。


「だけどまあ、そんな心配は試験に受かってからのことだね。これまでの最年少合格者は13歳だっていう話だから、果たして僕にその記録を塗り替えることができるのかな」


 そうしてフェルメスは数日後に、学士になるための編入試験というものに挑み――見事、『賢者の塔』の歴史を塗り替えてみせたのだった。


 それからの数日は慌ただしく過ぎ去って、けっきょくジェムドはフェルメスとじっくり語らう機会も得られないまま、長きの別れを迎えることに相成った。いったん『賢者の塔』で暮らす学士となったら、危急の用事でもない限り家に戻ることはないという。また実際、ジェムドはそこから数年間、フェルメスと顔をあわさないまま過ごすことになってしまったのだった。


(あの夜、わたしはフェルメス様に、なんと答えるべきだったのだろう)


 ジェムドは長らく、そんな疑念を抱え込むことになった。

 フェルメスは、内心を読むのが難しい存在であるのだ。べつだん感情を隠したりはしないのだが、いったいどこまでが本気でどこまでが戯れ言であるのか、ジェムドにはなかなか判別がつかないのである。


 それにジェムドは、自らの出自についてフェルメスと語らったことがなかった。この屋敷において、それを取り沙汰するのはフェルメスの兄ただひとりであったのだ。屋敷の主人も使用人たちも、すべてをわきまえていながら固く口をつぐんでいるような――そんな居心地の悪さの中で、ジェムドは3年ほどを過ごしていたのだった。


 フェルメスの兄は明確に、ジェムドの存在を疎んでいる。父親と不義な行いに及んだジェムドの母親を憎み、その子であるジェムドのことも嫌悪している。自分の母親に対する情愛が、そのままジェムドへの憎しみに転化したのだろう。

 ジェムドはその憎しみを、正当なものだと思っている。フェルメスの兄は、父親に向けるべき反感までをもジェムドに向けているようにも思えたが――実の父親を憎みたくないという彼の心境も、わからないではなかった。ジェムドひとりを憎んで気が晴れるならそれでいいという、諦観の念に達していた。


 では、フェルメスはどういった心境であったのか?

 ジェムドのことを疎ましいと思う気持ちはなかったのか?

 そもそもジェムドの出自について、兄と同じぐらいわきまえていたのか?


 まあ、フェルメスだけが何も知らされていないことなどはありえないように思うのだが――ジェムドもフェルメスもこの3年間、申し合わせたようにその話題には触れずにきたのだった。


(わたしは、もしかして……フェルメス様の本心を知るのが怖かったのだろうか?)


 居心地の悪い屋敷の中で、ジェムドがもっとも心安らかでいられるのはフェルメスの寝所であった。あの部屋はどこか時間が止まっているかのような雰囲気で、外界の煩わしさとも無縁であるように思えてならなかったのだ。


 だからジェムドは、あの安らいだ空間を壊したくなかったのかもしれない。

 フェルメスが屋敷からいなくなることで、ジェムドはそんな思いを抱くようになってしまった。

 そしてジェムドは、フェルメスの本心を知ろうとしないまま別れの時を迎えることになり――それでフェルメスの呼びかけに、本心で答えることができなかったのだった。


(ただ心残りなのは、ジェムドになかなか会えなくなっちゃうことかな。この屋敷で僕に心を砕いてくれたのは、ジェムドただひとりだったからね)


 フェルメスのあの言葉に、ジェムドはなんと答えるべきだったのか。

 フェルメスがふっと見せた甘えるような眼差しとともに、その言葉はいつまでもジェムドの頭の片隅にこびりつき、決して離れなくなってしまったのだった。

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[一言] フェの字「疲れたーまじだりーわー」 義理の兄「やはりお疲れなのでは?」 フェ「もー!だからそう言ってんじゃん!」 なにこのじゃれあい
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