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異世界料理道  作者: EDA
第五章 宿場町のギバ肉料理店
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宿場町のギバ肉料理店(下)①六日目~背徳の使者(上)~

2014.10/19 更新分 1/1 2015.10/4 誤字を修正

 ともあれ、仕事は順調だった。

 営業6日目であるその日も、開店前から南と東のお客さんが詰めかけて、『ギバ・バーガー』も『ミャームー焼き』も、それぞれ20食以上ずつを売ることができた。


 しかし、本日準備してきたのは、『ギバ・バーガー』が60食に、『ミャームー焼き』が90食の、計150食である。


 本来設定されていた営業時間は5時間半ていどであり、昨日は4時間ていどで120食を売りつくす結果になりおおせたが。今日はどのような結果に終わるだろう。


「うーん……だけど何だか、今日は昨日より勢いがなかったんじゃない?」と、朝一番のラッシュを乗り切ったところで、ララ=ルウがそう発言した。


「そうだね。シムの《銀の壺》やジャガルの建築屋っていう1番の団体様も来てなかったみたいだしね」


「えー、大丈夫なの? 肉とか、めちゃくちゃ余っちゃうんじゃない?」


「それはそれでしかたないさ。何せまだ店を開いて6日目だから、集客に関しては手探り状態なんだ。もしも物珍しさだけでやってきてくれていたお客さんが多かったなら、いきなり売り上げが落ちることもありうると思うよ」


 しかし、料理の数が足りなくて大騒ぎを誘発してしまった我が店であるのだから、しばらくは商品を多めに準備して様子を見るしかない。

 幸いなことに、軍資金はたっぷり蓄えることができたのだから、少しぐらいの赤字ならば持ちこたえることもできる。


 このまま数日様子を見れば、集客の平均値を探ることもできるだろう。

 まずは本日、何食をさばけるか、である。


「で、肉が余ったら、どうするの? 明日に使い回すわけ?」


「いやあ、焼いたパテや漬けた肉はピコの葉に戻すこともできないから、今日の内に食べちゃうしかないだろうね。そのときは、ルウやルティムにおすそわけするよ」


 それで無駄になってしまうのは、パテで使った香味用のアリアと、漬け汁で使用した食材――そして、焼いてしまったポイタンである。

 ポイタン以外は、大した損失ではない。

 では、このポイタンは、どうするべきか?


「……ちなみにさ、ララ=ルウの家では、焼いたポイタンを翌日に食べたこととか、あるかい?」


「ないよ。ポイタンは焼いたら焼いただけドンダ父さんやダルム兄がきれいにたいらげちゃうもん」


「そうか。……シーラ=ルウの家では、どうですか?」


『ギバ・バーガー』の屋台でトマトソースを攪拌していたシーラ=ルウが、にこりと柔らかく笑い返してくる。


「ほんの何回かですが、そういう日はありました。べつだん、味に変化はなかったように思います」


「そうですか。でも、店で出すんなら、もっと検証が必要だよなあ」


 万が一にも食中毒など出してしまったら、どんな売り上げを叩きだしていても、すべてがおしまいになってしまう。


「それなら、余ったポイタンはルウの集落で焼いてないポイタンと取り替えてもらえばいいじゃん。焼く手間がはぶけるんだから、みんな喜んで交換してくれるでしょ」


「なるほど! ララ=ルウは頭がいいなあ」


「なに言ってんだか。……でも、こっからひとりもお客が来なかったら、100人分は余っちゃうんだねー」


「あはは。さすがにもうちょっとは売れてほしいところだね」


 だけどまあ、昨日だって中天以降の2時間で40食はさばくことができたのだから、そこまで悲観することもないだろう。


 本日の朝一番に今までほどの勢いがなかったのは、昨日、中天以降まで店を開け続けた効果なのかもしれない。客足がほどよくバラけてくれるならば、それはそれで悪い話ではないとも思う。


 それに現在も、完全に人通りが絶えてしまったわけではない。

 時おり南や東の人たちが立ち寄って、ぽつりぽつりと買っていってくれるし、それにやっぱり道の端には、西の民たちが小さな輪を作ってこちらを様子見したりもしていた。


 開店初日と比べれば、格段に活気はあるほうであろう。


「よし。とりあえず客足は落ち着いたみたいだから、また2人ずつ軽食をとりがてらの休憩にしようか。その後は、ララ=ルウにも『ギバ・バーガー』のほうを担当してもらうからね?」


「うん、わかった。……今日はどっちの料理を食べさせてくれるの?」


「今日はね、『ミャームー焼き』の肉にタラパソースをからめてみようと思うんだ。従業員用の特別献立だね」


「え」と、ララ=ルウが青い目をまん丸にした。

 そのあまりの驚きように、俺も少し驚いてしまう。


「どうしたの? 普通の肉でもタラパソースは合うと思うよ? ていうか、ルウの家ではそういう食べ方をしていないのかな?」


「う、ううん。今日はそういう食べ方だったらいいのになあとか思ってたから、びっくりしただけ」


「そっかそっか。まあ、ララ=ルウには喜んでもらえるとは思ってたけど」


 俺が言うと、ララ=ルウはまた「なんで?」と目を丸くした。


「なんでって……ララ=ルウはあんまりハンバーグの柔らかさが好きじゃなくて、なおかつタラパソースは大好きだって言ってくれてたから、この組み合わせが理想的っていう結論になるだろう?」


「……何でそんなこと、いちいち覚えてんの?」


「ええ? そりゃあまあ、森辺の人たちはあんまり具体的な感想を言ってくれないから、やっぱりララ=ルウの言葉は印象的だったのかな」


 そんな風に答えると、ララ=ルウは少し口もとをごにょごにょさせてから、小さな声で「ありがと」とつぶやいた。


 俺は笑って、「どういたしまして」と返す。


「それじゃあ、誰から休憩にしようかね。ララ=ルウはもう食べられそうかな?」


「うん。あたしはいつでも大丈夫だけど……ね、アイ=ファはどうするの?」


 宣言通りに宿場町まで同行したアイ=ファは、荷物運びの任を終えると、背後の雑木林の木陰でずっと身体を休めていた。


 毛皮のマントで左腕を隠し、片膝あぐらで木の幹に寄りかかり、そして右腕で大刀を抱えこんでいる。

 5メートルほどの距離があり、少しうつむいてしまっているので、寝ているのか起きているのかも判然としない。


「アイ=ファの分も準備はしてきたけど。まず起きてるかどうかを確認してみようか」


「あ、それじゃあ、あたしが聞いてくるよ」


 言うが早いか、ララ=ルウは速足でアイ=ファに近づいていった。

 どうやらアイ=ファは起きていたらしく、二言三言、言葉を交わしてから、ララ=ルウはすみやかに帰還してくる。


「もう食べられるってさ。それじゃあ最初は、あたしとアスタとアイ=ファで食べようよ」


「うん、別にかまわないけど」


 そういえば、いつだったか、ララ=ルウはもしかしてアイ=ファと仲良くなりたいのではないかと思えたことがある。


 ルウ家とこれ以上の縁を結ぶ気はない、と宣言されたばかりではあるが。

俺としては、意識的にルウ家の人間をアイ=ファから遠ざける気持ちにはなれない。


 そんなわけで、『ギバ・バーガー』の屋台はシーラ=ルウに、『ミャームー焼き』の屋台はヴィナ=ルウに託し、俺たちはまかない用の軽食を手に、アイ=ファのもとへと馳せ参じた。


「お待たせいたしました。ギバ肉のタラパソース和え、焼きポイタン包みでございます」


「うむ」と、アイ=ファは鷹揚にうなずき返してくる。


 朝からそこそこ以上に働いているアイ=ファであるが、とりたてて傷が痛んだり熱が上がったりもしていないようだ。普段通りの、厳粛な面持ちである。


 アイ=ファをはさみこむようにして、俺とララ=ルウも地べたに腰を落ち着ける。


「身体のほうは大丈夫そうだな。今日はなかなかの大荷物だったから、結果的にはすごく助かったよ」


 40食分の追加用のパテに、90食分の漬けた肉だけで、大きな皮袋3枚分、重さは20キロ以上にも及ぶのだ。


 鉄鍋とその皮袋は俺とヴィナ=ルウが受け持ち、アイ=ファには焼きポイタンや調理道具の詰まった袋を託したのだが。間に吊り橋さえなかったら、引き板でも使いたいぐらいの大荷物である。


「傷が癒えて森に出られるようになるまでは、毎朝でも手を貸してやろう。しかし、その先のことは自分で考えろ」


「まあ、考えるまでもなく、腕力と体力で解決するしかないんだけどね」


 そんな会話を交わすだけで、ミニサイズの軽食はあっさり食べ終わってしまいそうだった。


 俺はちょっと意識的に口をつぐみ、それを待ちかまえていたかのようにララ=ルウが口を開く。


「あのさ、アイ=ファ。……あんたに御礼を言っておきたいんだけど」


「……御礼?」


「うん。シン=ルウから『贄狩り』ってやつの話を聞いたんだ。……アイ=ファがきちんと話をしてくれたおかげで、シン=ルウが危ない真似をしないで済んだ。だから、ありがとう」


 と、ララ=ルウはヴェールに包まれた赤い頭をぺこりと下げた。

 アイ=ファは、いぶかしそうに首をひねる。


「私は私の思った通りのことを口にしただけだ。……あれだけ大勢の眷族に囲まれながらギバ寄せの実を使うなど、愚かなことだからな。ましてや『贄狩り』などをしてしまったら、自分の周りにいる眷族までをも危険にさらすことになる」


「うん。シン=ルウもすっごく落ち込んでた。自分は自分の誇りのことにしか目がいってなかったんだなってさ」


「……眷族に甘えようとしないその心意気は、別に恥じ入るようなことではない」


 アイ=ファの声や表情はきわめてぶっきらぼうであったが、ララ=ルウはとても満足そうに「そうだね。あたしもそう思う」と、うなずいた。


「それじゃあ、戻ろっか。ヴィナ姉なんかがやきもきしてるだろうから」


「そうだね」と、俺はララ=ルウとともに立ちあがった。

 そこに、アイ=ファが「アスタ」と呼びかけてくる。


「まだお前の仕事は始まったばかりなのだろうが――それでも、お前がきちんと自分の仕事を果たしているということは十分に伝わってきた」


 そして、口もとを少しだけほころばせる。


「それだけだ。仕事に戻れ」


「は、了解であります」


 俺は大いに励まされつつ、屋台に向かう。

 その短い道行きで、ララ=ルウが素早く囁きかけてきた。


「びっくりした。……アイ=ファって、あんな顔して笑うんだね」


「え? ああ、うん」


 今のは最近のアイ=ファにしてはかなりひかえめな笑顔であったのだが。それでもララ=ルウにとっては驚きに値したらしい。

 それぐらい、余人の前ではポーカーフェイスを崩さないアイ=ファであった、ということか。


 その後はヴィナ=ルウとシーラ=ルウの休憩を済まし、新人2名はポジションを交代することになった。

 俺とシーラ=ルウが『ミャームー焼き』で、ルウ本家の2名が『ギバ・バーガー』である。

 こんなに研修を急ぐつもりはなかったが、ふたりの物覚えの良さが、俺の予測を上回っていたのだ。


「やっぱり、一緒にルティムの祝宴で頑張った経験が活きてるんでしょうね。みんな、お見事な手際です」


「アスタにそう言っていただけるのは、本当に光栄なことです」


 と、またシーラ=ルウが微笑み返してくる。

 この人はこんなに笑顔の多い人だったかなとか考えていると、シーラ=ルウは試食用の皿をじっと見つめだした。


「アスタ。この料理はとても味が強いですが、もっと味を弱めることは可能なのですか?」


「ええ、もちろん。肉を漬け汁にひたす時間を短くすれば、可能です。森辺の民にとってはちょっと味付けが強すぎるみたいなんで、俺も家で作るときはそうやって味を薄めるつもりでいますよ。あと、ミャームーの量ももっと少なめで良さそうですね」


 すると、シーラ=ルウの瞳がとても切なそうな光を浮かべて、俺を見つめてくる。


「あの……わたしは家族にもこの料理を食べさせてあげたいと思っているのですが……その時間の加減と、漬け汁の作り方を、いつか教えていただいてもよろしいでしょうか……?」


「それぐらいなら、いま教えてあげますよ。シーラ=ルウの家は6人家族でしたっけ?」


 頭の中で、俺はざっくり計算した。


「えーと……果実酒は土瓶の4分の1よりやや少なめなぐらいで、刻んだアリアは半分の半分、ミャームーなんかは指一本分ぐらいの長さで十分だと思います。で、肉を漬ける時間は、ちょうど煮詰めたポイタンが乾ききるぐらいの時間なので、それを目安に減らしてみてください。……もしくは、肉を厚めに切ってみるのもいいかもしれませんね。森辺の民ならここまで肉を薄くする必要もありませんし、それなら自然と漬け汁の味を弱めることができますよ」


「はい! ありがとうございます!」


 嬉しそうに破顔するシーラ=ルウの顔を見返しながら、俺は「ただし」と、つけ加えた。


「味付けに関しては俺の好みに過ぎませんから、家の料理で忠実に守る必要はありません。甘い味にしたかったらもっとミャームーを減らしてみたり、まろやかな味にしたかったらアリアを増やしてみたり……何なら、他の食材も刻んで混ぜてみてもいいと思います。そうやって、もっとシーラ=ルウの好みに合う味付けを探してみてください」


 シーラ=ルウはちょっときょとんとしてから、またひそやかな花が咲くように微笑んだ。


「ありがとうございます。……何だかわたしは、アスタと知り合って以来、とても幸福な気持ちを得ることができています。家族が美味しそうに食事を食べてくれるのが、とても嬉しいのです」


「そんな風に言ってもらえたら、俺のほうこそとても嬉しいですよ」


 そんな言葉を交わしている内に、珍しい組み合わせのふたりがやってきた。


 ターラと、レイト少年だ。


「アスタおにいちゃん、ふたつ下さい!」


「僕にもふたつお願いします」


「はい。毎度ありがとうございます。……今日はご主人はどうされたのかな?」


「カミュアはまた朝まで働きづめで、宿屋で眠っています。しかし、2日連続で買い逃すわけにはいかないので、と僕がお使いを頼まれてしまいました」


 レイト少年は、にこにこと笑っている。

 ターラも、にこにこと笑っている。


 だけど、やっぱりこうして見比べてしまうと――その差は、あまりに歴然としてしまっていた。


 ターラは本当に、楽しそうに笑っている。

 だけど、レイト少年は……何と言ったらいいのだろう。年齢なんて2、3歳しか変わらないのであろうに、あまりに大人びているように見えてしまうのだ。


 あのうさんくさい男の弟子である、という先入観もあるのかもしれないが。やっぱりちょっと、ただの無邪気な男の子ではありえない雰囲気を、俺はこの少年から感じるようになってしまっていた。


「はい、お待ちどうさまでした」


「ありがとうございます。……あの、あちらはファの家の家長ですよね? 今日はご一緒に町まで下りてこられたのですか?」


 さすがに目ざといなと思いつつ、俺も営業用スマイルを浮かべてみせる。


「うん。今日は荷物運びを手伝ってくれたんだ。ここ最近、ギバ狩りの仕事がけっこう大変だったから、何日かは森に入るのを休むらしい」


「なるほど。そういうこともあるのですね」


 レイト少年の笑顔に変化はない。

 カミュアはアイ=ファの負傷を知っているのやら知らないのやら。

 このレイト少年はそれを知らされているのやら知らされていないのやら。

 この師弟コンビと腹の探り合いをする気にはなれそうもない。


 そうしてターラが『ギバ・バーガー』をも2食購入してレイト少年とともに姿を消すと、にわかに店が忙しくなってきた。


 朝一番には現れなかった《銀の壺》と建築屋の一団がまとめて来店してくださったのである。

 営業3日目の大騒ぎを思い出させる一斉砲火だった。

《銀の壺》は10名で、建築屋のほうは12名だ。


「何だ、こいつらとは妙な巡り合わせがあるみたいだな。……まさか、これで品切れになったりはしないだろうな?」


 アルダス氏が目線でシム人を牽制しつつ、俺に笑いかけてくる。


「大丈夫です! 今日はまだまだたっぷり残っておりますよ」


「当たり前だ。品切れだなんて抜かしたら、俺が屋台をひっくり返してやるぞ?」と、おやっさんも笑っている。


《銀の壺》はきっちり5名ずつ分かれて、建築屋のほうは8名が『ミャームー焼き』、4名が『ギバ・バーガー』だった。


「今日は朝からお仕事だったんですか?」


 アリアと肉を炒めながら俺が問うと、アルダス氏は心地よさそうにミャームーの香りを満喫しながら「ああ」とうなずいてくれた。


「朝一番で仕事をしてほしいって店と、仕事は中天からにしてほしいって店と、何の商売をしているかでさまざまだからな。この後はもう一件、宿屋の屋根の修理をして、おしまいだ」


「なるほど。今月いっぱいご滞在の予定だそうですが、いったいいつからこのジェノスでお仕事をされているんですか?」


「ちょうど先月の頭からだよ。2ヶ月がかりの大仕事さ。まあ、あとひと月でお前さんの料理を食べられなくなるのは残念だけど、来年やってくるのがまた楽しみだな」


 来年、か。

 来年、俺はどうなっているだろう。

 だけど、俺がどのような運命をたどるとしても、その頃までにはギバ肉の料理が普通に流通していればよいな、と思う。


 何はともあれ、これで一気に『ミャームー焼き』は残り55食、『ギバ・バーガー』は28食と成り果てた。


 中天までは、残り半刻足らずであろう。

 人通りは、またじわじわと増え始めている。


 昨日よりはゆるやかな立ち上がりとなったが、それでも合計で63食は売れている。

 他の店と比べればすでに破格の売り上げであるし、中天で70食を完売させた一昨日とも大差はない。


 きわめて順調な売れ行きだ。

 150食もの準備をしてしまったことは、後悔せずに済みそうである。


「ララ=ルウ。悪いけど、今のうちに買い出しをしてきてもらえるかな? タラパとティノを2個ずつと、アリアを20個ね」


「はーい」とララ=ルウが銅貨を握りしめて駆け出していく。

 背後に人の気配を感じたのは、ちょうどそのときだった。


「うん? どうしたんだ、アイ=ファ?」


 いつのまにやら、アイ=ファが俺たちの背後に立ちつくしていた。

 シーラ=ルウも、びっくりまなこでアイ=ファを振り返る。


 アイ=ファは。

 少し目を細めて、北の方向に視線を飛ばしていた。


「……森辺の民だ」


 俺は一気に緊張し、アイ=ファと同じ方向に目線を向ける。

 北の街道からやってくるなら、それはスン家の人間である可能性もある。


 果たして――その内の片方は、テイ=スンであるようだった。

 あの灰色がかった髪には、はっきりと見覚えがある。


 ただし、その隣りを歩いているのは、肉風船ではなかった。

 ヴェールとショールを纏いつけた、細身の女衆だ。


 ならば、単なる買い出しであろうか。

 いや――ただの買い出しに男衆がつきそうものであろうか?

 いやいや、一昨日のテイ=スンは、ミダ=スンの間食のためだけに宿場町まで下りてきた様子であったから、俺の知る森辺の常識では判断がつかない。


 何にせよ――彼らは、まっすぐ俺たちの屋台に足を向けてきた。


 テイ=スンと、見知らぬ女衆が、屋台の前で立ち止まる。


「ふうん……ちょっと信じがたい話だったけど、本当に森辺の民が町で商売などをしているのねえ」


 キンキンと耳につく金属的な声音だった。


 それに――この女は、何なのだろう。

 何だか、ざわざわと背筋が寒くなってくる。

 しかし、その理由がわからない。


 美しい女である。

 顔の造作は整っており、プロポーションの素晴らしさはヴィナ=ルウにすら匹敵するかもしれない。


 長い髪は褐色で、こまかく編んだ髪が幾筋もヴェールからこぼれ落ちている。


 少し黒みがかった瞳は、光が強い。

 ただし、毒蛇のように冷たくて、酷薄そうな光である。

 その口もとに浮かんだ微笑も、どこか毒々しい。


「まあ、ファの家におかしな異国人が住みついたという話は聞いていたけれど。まさか家長のあなたまで町に下りてきているとは思わなかったわ。森辺でただひとりの女狩人――ファの家の家長アイ=ファ、だったかしらねえ?」


 わかった。

 俺の背筋を寒くしているのは、その外見からもたされるものではない。

 その耳障りな声でもない。

 嗅覚からもたらされる情報であったのだ。


 屋台の周囲には、果実酒とミャームーの芳しい香りがたちこめている。

 その香りの向こう側から、きわめて不吉な匂いが漂ってきているのだ。


 さびた鉄を少し生臭くしたような、その匂いは――

 明らかに、腐敗しかけた血の匂いだった。


「……貴様は、何者だ」


 低い声で、アイ=ファが問う。

 不吉な匂いを発散させているその女は、唇の両端を吊り上げるようにして、にいっと笑った。


「わたしはスン本家の長姉、ヤミル=スンよ。いつぞやは、弟のディガやドッドたちがお世話になったそうね、ファの家の女狩人さん」

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