第二話 分かち難きもの
2021.9/14 更新分 1/1
「……それで、礼賛の祝宴とかいうやつは、けっきょくどのような有り様であったのだ?」
晩餐のさなか、そんな風に問いかけてきたのは、彼の父親――ラヴィッツの家長たるデイ=ラヴィッツであった。
「どのような、とは? 俺は口が疲れるぐらい語りたおしていたというのに、親父殿は何も聞いておらなかったのであろうか?」
彼――ラヴィッツの長兄がそのように問い返すと、デイ=ラヴィッツは「だから」と語気を強めた。
「お前はさきほどから、宴料理がどうとか宴衣装がこうとか、上っ面のことしか語ってはおらぬではないか。それよりも、もっと実のある話をせいと言っておるのだ。いったい何のために、お前を城下町に向かわせたと思っておるのだ?」
「そのように声を荒らげるものではない。大事な幼子が目を覚ましてしまうではないか」
彼はそんな風に答えながら、伴侶との間に置かれた草籠へと視線を落とした。
そこですやすやと寝入っているのは、雨季の終わり頃に生まれた彼の第二子である。まだまだ産まれたてであるためか、淡い色合いをした髪はほとんど透けており、ふっくらとした頬や手の先がたまらないほど可愛らしかった。
ラヴィッツ本家の家人は、この新たに産まれた長姉を含めて、7名。
家長のデイ=ラヴィッツ、その伴侶のリリ=ラヴィッツ、長兄たる彼、彼の伴侶、彼の子たる3歳の長兄、産まれたての長姉、そして19歳になる末弟という顔ぶれであった。
本日は、緑の月の29日。城下町にて行われた礼賛の祝宴の翌日である。昨日は遅い帰りであったし、今日の昼間はギバ狩りの仕事であったので、この晩餐の刻限にようよう彼は礼賛の祝宴について語る場を得たのだった。
晩餐の料理は、そろそろなくなりかけている。その間、彼はずっと祝宴の様子について語っており、他の家人たちもたいそう興味深そうに聞いていたのだが――ただひとり、父たる家長だけが満足していない様子であった。
「実のある話とは、どういう内容についてであろうかな。俺にはよくわからんので、親父殿のほうから質問してもらいたく思うぞ」
「……では、王家の者たちの様子はどうであったのだ?」
「王家の者たちか。父親のほうは、ずっと楽しげに笑いながら、ずっと何かを喰らっていた。娘のほうはさきほども言った通り、宴衣装ですっかり見違えていたな」
「だから、身なりのことなどどうでもいいのだ。何かあやしげな行動を取ったりはしておらんかったのか?」
「あやしげな行動……ああ、そういえば、あやつは途中でアスタだけを呼び出して、何事か語らっていたようだな」
「なに?」と、デイ=ラヴィッツは身を乗り出した。
「どうしてそれを早く言わんのだ! 王家の娘は、ファの家のかまど番に何を語らっておったのだ?」
「だから、大きな声を出すなというのに。……家長のアイ=ファですら遠ざけられていたのに、俺が盗み聞きなどできようはずもない。なに食わぬ顔でアスタたちのほうに近づこうとしたら、アイ=ファに追い払われてしまったしな」
「ううむ……あの頑迷なるファの家長も、王家の人間には逆らえないということか……まさかあやつが、たったひとりの家人から目を離そうとは……」
禿げあがった額にびっしりと皺を刻みながら、デイ=ラヴィッツは思案顔になってしまった。
ギバ・カツの最後のひと切れを口に運んで、それを丹念に味わってから、彼は言葉を重ねてみせる。
「実のところ、アイ=ファも目を離したわけではない。石を放れば当たるぐらいの距離を置いて、アスタたちの姿を見守っておったのだ。風向きの如何によっては、話す言葉も聞こえていたやもしれんな」
「だったらお前もその場に留まって、話の内容を聞き届けるべきであろうが?」
「ほうほう。親父殿は、それほどまでにファの者たちの身を案じておったのだな。情に厚くて、けっこうなことだ」
「み、身を案じてなどはおらん! あやつらがまた厄介な話を持ち込んでくるのではないかと用心しておるだけだ!」
「図星を突かれたからといって、そんな慌てることもあるまいに」
彼はにやにやと笑いながら、汁物料理の残りをすすった。
すると、黙って話を聞いていた母親のリリ=ラヴィッツが「これ」と声をあげる。
「そのようにまぜっかえしていたら、ちっとも話が進まないじゃないかね。いいからきちんと、家長の質問にお答えよ」
この母親もよく同じようなやり口で伴侶をからかっているのに、息子が同じ真似をすると口出しせずにはいられないようだ。土台、彼は小柄な体躯ばかりでなく、中身のほうも母親似なのである。
「俺とて、何を話していたのか気にならなかったわけではない。だからこそ、なに食わぬ顔で近づこうとしたのだしな。しかしその場には王女のお供の兵士も控えておったので、大人しく引っ込んでおこうと考えなおしたのだ。……まあ、話を終えた後はアスタも王女も朗らかな顔をしておったので、何も案ずることはないように思うぞ」
「知れたことか。あやつらはそうして呑気な顔をさらしながら、さんざん森辺の習わしを引っかき回してきたではないか」
そう言って、デイ=ラヴィッツは土瓶の果実酒をあおった。
「それで、王家の者たちはいつまでジェノスに居座っておるつもりなのだ? 王国の習わしなど知ったことではないが、そうまで身分の高い人間がひと月半も異国に留まるなど、普通の話ではあるまい?」
「さてな。貴族たちの口ぶりでは、残すは送別の祝宴のみという話であったぞ。ただまあそんな立て続けに祝宴を開いてはありがたみがないから、数日ていどは置くのではなかろうか」
「ありがたみなど、知ったことか。王家だか何だか知らんが、厄介な話ばかり持ち込みおって……」
どうもデイ=ラヴィッツは、王家の人間というものを忌避しているらしい。新たな食材の到来や、ナハムの三姉が試食会という場で授かった誇りよりも、気苦労のほうが上回るということなのだろうか。そもそもデイ=ラヴィッツは、ナハムの三姉がたびたび城下町に招かれることも、他の血族の女衆らが手伝いで同行することも、ひどく心配そうな様子であったのだった。
(まあ、血族の親筋の家長というのは、そういうものなのであろうかな)
デイ=ラヴィッツは元来、意固地な人柄である。本音を言えば、大事な血族の人間を見慣れぬ城下町などに送り出したくはないのだろう。そもそもは、アスタの宿場町の商売を血族の人間に手伝わせることにも、難色を示していたぐらいであるのだ。
頑固で、保守的で、血族に対する情が厚い。それがデイ=ラヴィッツという人間の、本来の人柄であるのだ。
しかしデイ=ラヴィッツは、アスタに諭されて――そして、美味なる料理の作り方を身につけたいという血族らの思いにほだされて、屋台の手伝いを了承することになった。そこで伴侶たるリリ=ラヴィッツを指名したのは、立場ある人間こそが最大の責任を負わなければならないという覚悟の表れであるのだろう。
(本当は、大事な伴侶にそのような仕事を押しつけることなど、苦しくて苦しくてたまらなかったろうにな)
リリ=ラヴィッツ自身は、喜んでその役目を引き受けていた。彼女はとても小さな体躯をしており、実際の齢よりも年老いて見える風貌であったが、その実は豪胆で好奇心の旺盛な人間であるのだ。
ただしそちらも、一番の苦労は家長の伴侶たる自分が負わなければならない、という思いがあったのだろう。母親も母親で、元来は豪胆かつ陽気で人を食った気性をしているのに、家長の伴侶たるつつましさでそれを押し隠していたのだった。
(身分が人を作るのか、人が身分を作るのか……)
彼は時おり、そのような考えにとらわれる。
家長やその伴侶といった身分に元来の気性がねじ曲げられてしまうなら、それは身分が人を作ったように感じられる。
しかし、家長たるものはこうあらねばならないと定義するのは、その本人であるのだ。
それにまた、父や母たちが元来の気性をねじ曲げられているという印象はない。母などはけっこう楽しみながらその役割を演じているように思えるし、父のほうは――家長としての役目を重んじつつ、まだまだ十分に頑固で保守的で血族への情が厚いのだ。それはむしろ、元来の気性を家長たる役目に沿うように合致させて、自分の進むべき道を定めているようにも見えた。決して身分に振り回されているのではなく、自分で定義した家長の役割を果たしているように思えるのだった。
(それは俺も、同じことだしな)
彼はデイ=ラヴィッツの長兄であるのだから、次代の家長だ。父からその座を受け継いだならば、彼が親筋の本家の家長として血族を導いていくのである。
だから彼は家長の長兄という役目を果たすべく、城下町の祝宴にも同行した。森辺の民が間違った道を進んではいないか、同胞らが危険な目にあったりはしないか、町の人間たちは邪な思いを抱いたりはしていないか――それを見届けるために、あの場に参じていたのだった。
しかしその反面、彼はこの状況を心から楽しんでいる。
母から受け継いだ豪胆さと好奇心の強さは、彼の中ですくすくと育って、こういった変事を楽しめる人間を作りあげたのだ。
彼は本家の長兄としての役目を重んじつつ、まったくもって自分の気性をねじ曲げたりはしていなかった。ただそれも、幼い頃から長兄としてのありようを叩き込まれてきた身であるため、どこまでが自然の成り行きであり、どこまでが教育の結果であるのかは、彼自身にも見当がつかなかった。
(身分が人を作るのか、人が身分を作るのか……)
そうして食後の菓子まで食べ終えて、晩餐は終了した。
デイ=ラヴィッツとリリ=ラヴィッツは、早々に寝所に引っ込んでしまう。きっとふたりきりで、彼から聞いた祝宴の様相について吟味するつもりなのだろう。
彼もまた、自分の伴侶と楽しく語らうべく、腰を上げようとすると――末弟が「兄貴」と呼びかけてきた。
「兄貴たちも、もう寝所に引っ込んじまうのか? もうちょっと、その……祝宴の話を聞いておきたいのだが……」
「ふむ。しかしこちらは、幼子をふたりも抱えておるからな」
3歳の長兄のほうは、腹が満たされるなりもう眠そうな顔をさらしている。
すると彼の伴侶がにこやかに笑いながら「いいですよ」と声をあげた。
「上の子は、わたしが寝かしつけます。あなたはここで、下の子を見ていてあげてくださいな。この子が乳を欲しがるまで、まだいくらか時間はあるでしょうから」
「そうか。では、この子が泣きだすまではつきあってやろう」
「ありがとよ」と、末弟ははにかむように笑った。このように図体が大きくなって、厳つい顔立ちになってきても、そういう表情は子供の時分から変わっていない。
「で? 祝宴の何が聞きたいというのだ?」
「そりゃまあ、色々さ。……かまど仕事の手伝いに駆り出された女衆に聞いたんだけどよ、あっちで準備された宴衣装ってのは、そりゃあ見事なもんだったんだろう?」
そのように語らう末弟は、子供のように瞳を輝かせていた。
元来、彼は無邪気な気質であるのだ。見慣れぬ相手にはぶっきらぼうな態度を取ってしまうし、ずいぶん雄々しい外見に育ってしまったので、誤解されることが多いのだが、いかにも末弟らしく無邪気で、時としては甘えん坊な顔を垣間見せるのだった。
(だけどまあ、幼い時分に比べれば、ずいぶん立派に育ってくれたものだ)
彼と末弟の間には、次兄と長姉がいた。次兄は早々に魂を返してしまったが、長姉のほうは身体ばかりでなく心のほうも頑健であったため、甘ったれの末弟をよく泣かしていたのである。
また、末弟の下には末妹もいたのだが、そちらはずいぶん大人びた気性をしていたため、5歳になる頃にはもう末弟よりも堂々としていた。そのせいで、末弟はいよいよ末っ子めいた気性に追いやられてしまったのかもしれなかった。
「あやつはずいぶん、やわらかな気性に生まれついてしまったようだ。兄として、お前が正しく導いてやるのだぞ」
彼は常日頃、父からそのように言いつけられていた。次兄を失ってしまったがために、末弟の行く末が心配でならなかったのだろう。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。
末弟は10歳を超えたぐらいから、ぐんぐん身体が大きくなり始めたのだ。
彼と末弟は、6歳ばかりも離れている。そして彼は母親似の小さな体躯であったため、末弟が12歳になる頃には背丈を追い抜かれてしまった。
なおかつ末弟は上背よりも身幅の成長がいちじるしく、骨格がとてもがっしりとしており、狩人の修練を始める前から腕力が強かった。なにせ13歳となって狩人の力比べに参ずるなり、荷運びで彼を打ち負かしてみせたのである。
そうなったらもう、末弟を侮る人間などいなかった。
というか、10歳で身体が大きくなり始めた頃から、すでにその傾向は表れていた。森辺の男衆というのは狩人としての力量がもっとも重んじられるため、身体の大きな人間は周囲にもてはやされ、それが自信につながっていくのだろう。
(肉体が心を作るのか、心が肉体を作るのか……)
末弟に自信や度胸を与えたのは、頑健なる肉体であるに違いない。10歳ぐらいまではおどおどとした甘ったれであったのに、末弟はすっかり雄々しい気性に育つことができた。今でも無邪気さや甘ったれの部分が残されてはいるものの、それは身内だけに見せるひそやかな内面だ。末弟がもしも彼のように小さな体躯のままであったなら、きっとまったく異なる気性に育っていたのだろうと思われた。
しかし末弟の心のありようは、外見までをも変化させた。
ただ顔立ちが厳ついというだけでなく、その顔は自信に満ちあふれており、一種ふてぶてしいほどであるのだ。よほど身近な人間でなければ、この末弟がそうまで無邪気な気性をしているなど、とうてい信じられないことだろう。これは、心が肉体にまで作用している証のように思われてならなかった。
そしてそれは、彼自身にも言えることであった。
幼い頃から現在に至るまで、彼のほうはずっと「小さな男衆」として扱われてきたのだ。
もちろん彼は、そのようなことで気落ちしたりはしなかった。どんなに小さな体躯でも、彼は本家の長兄であったのだ。一撃でギバを倒せるような膂力を得られないならば、身軽さを活かし、弓の腕を磨き、目や鼻や耳の力でもってギバ狩りの仕事を果たすばかりである。そうして彼は、木登りの力比べであれば誰にも負けないほどの力を身につけることがかなったのだった。
しかし、彼が長らく侮られていたという事実に疑いはない。
侮られていたというのが言い過ぎであるのなら、彼は常に心配されていた。よりにもよって親筋の本家の長兄がこんなに小さな体躯をしていて大丈夫なのか、と――これで本当に血族を導けるような狩人に成り得るのか、と――そんな憂慮の気配に包まれながら、彼は若い時分を過ごしていたのだった。
そのせいか、彼はよく顔つきについて取り沙汰されることが多かった。
そんな探るような目で人を見るな、そんなに冷ややかな顔で笑うな、お前はまるで町の人間みたいな顔つきだ、などと、そんな言葉を浴びせられてきたのである。
彼は何も、人の心情を探っていたつもりはない。冷ややかに笑っていたつもりもない。ただ、どれだけ小さな体躯でも立派な狩人になってみせるぞと、奮起していたまでである。
だけどもしかしたら、彼の心は人々の憂慮を過敏に感じ取って、自分の知らないところで深く傷ついていたのかもしれなかった。だから、無意識の内に探るような視線を向け、いつかお前らを見返してやるぞと冷ややかに笑ってしまっていたのかもしれなかった。
だが、そのような話も昔のことである。
彼が人々に憂慮されていたのは、せいぜい20歳ぐらいまでのことであった。13歳で見習いの狩人となってから、7年という歳月をかけて、彼は己の力量を周囲に示してみせたのである。
木登りや的当ての力比べでは勇者となり、闘技の力比べでも決して恥ずかしい姿は見せなかった。そして何より、彼はギバ狩りの仕事で力を見せることができた。それで20歳になる頃には本家の長兄に相応しい狩人だと認められ、あのように気立てのいい女衆を嫁に迎えることがかなったのだった。
ただ彼は、今でも若い時分と同じような顔つきをしているらしい。
そもそも自分がどのような顔つきで人と接しているかなど、確認のしようはないのだが。相変わらず、目つきが悪くてにたにたと笑う不気味な人間であるようなのだ。
「でもそんなのは、どうでもいいことです。あなたがどれだけお強くて優しい人間であるかは、わたしが一番わきまえていますから」
婚儀をあげてしばらくしてから、伴侶になった女衆はそんな風に言ってくれた。彼よりも拳ひとつぶん背が高くて、ころころと肉づきのいい体格をした女衆である。彼女こそ、強くて優しい女衆の見本みたいな存在であった。
まあ、何にせよ――彼が小さな体躯に生まれついていなければ、こんな顔つきにはなっていなかったのだろうと思われた。
(肉体が心を作るのか、心が肉体を作るのか……)
そんな想念を浮かべながら、彼は末弟と語らった。
末弟は、やたらと女衆の宴衣装にこだわっているようだ。それを末弟に話して聞かせた女衆が、よほど賞賛の言葉を並べたてていたのだろう。しまいには、それこそ幼子に戻ったみたいに「いいなあ」と言い出す始末であった。
「ファの家長だのルウの女衆だの、あの祝宴ではひときわ美しい女衆が居揃っていたではないか。それだけでも、兄貴に役目を代わってほしかったほどだ」
「ふふん。親父殿には、とうてい聞かせられない言葉だな」
「だから、親父が寝所に引っ込むのを待っていたのだ。ファの家長などは、俺たちの収穫祭でもとんでもなく美しい姿をさらしていたものなあ」
末弟が、しみじみと息をつく。末弟は収穫祭でもアイ=ファにぶっきらぼうな態度を取っていたので、まさか影でこのように取り沙汰されていようなどとは、アイ=ファ本人も夢にも思っていないことだろう。
「お前はファの家長に懸想しておるのか? それはあまりに、難しい話であるように思うぞ」
「そんなことは、わかっている。あやつはファのかまど番と伴侶のように睦まじくしていたからな」
そんな風に言いながら、末弟はぐっと身を乗り出してきた。
「だけどやっぱり、あやつらは懸想し合っているのだろうか? 万が一にも、余所の男衆に目が向くことはないのだろうか?」
「ないだろうな。あれほどおたがいの存在を慈しみ合っている男女など……俺と伴侶ぐらいしか心当たりはない」
「ちぇっ! ふたり目の子も無事に育って、幸せなこったな!」
そう言って、末弟はがっしりとした肩をしょんぼり落とした。
「だけどまあ……やっぱりそうなんだろうな。きっとそうだからこそ、俺はファの家長に心をひかれてしまったのだろうと思う」
「うん? そうだからこそとは、どういう意味だ?」
「いや、ファの家長はずいぶん前にもラヴィッツの集落を訪れていたろう? 俺たちが、あやつやフォウの家長から血抜きや解体の手ほどきをされていた頃のことだ。あやつが美しい見た目をしていることなど、あの頃からひと目で知れていたことだが……俺はべつだん、心をひかれたりはしなかった。むしろ、このように美しい姿をしているのに狩人を志すなど、馬鹿な女衆だなと思っていたぐらいなのだ」
「うむ。親父殿も、そのように言いたてていたな」
「ああ。あやつはとにかく生半可な男衆とも比べ物にならないぐらい鋭い目つきをしていたから、俺も女衆として見ることはなかった。しかし、収穫祭でやってきたあやつは……ただ宴衣装が素晴らしかっただけでなく、なんというか、とてつもなく魅力的であったのだ。家人たるかまど番を見るあやつの目が、すごく優しげで、情愛にあふれかえっているように見えて……女衆からあのような眼差しを向けられたら、どれほど幸福であるのかと、俺はそんな思いにとらわれてしまったのだ」
そうして末弟は、深々と息をついた。
「そしてかまど番のほうも、同じ眼差しであやつを見ていた。ならばあやつのほうだって、同じぐらい幸福な心地であったことだろう。そうやって相手を幸福な心地にできたなら、なおさら幸福な心地であるはずだ。俺もそうやって、誰かと幸福な関係を築くことはできるのか、と……そういう思いのほうが先に立っているのかもしれんな」
「ふむ。俺と伴侶の姿からは、そういった思いをかきたてられることもなかったわけか? これはまったく、無念なことだ」
「まぜっかえすなよ! 兄貴は伴侶と一緒にいたって、にたにた笑うばっかりじゃねえか! ……まあ、ここぞというときには、ゆるみまくった顔を見せるけどよ」
「大きな声を出すな。……それならまあ、お前はなおさら別の女衆に目を向けるべきであろうな。もう19歳になったのだし、いよいよ周囲からせっつかれる頃合いだぞ」
「わかってるよ」と、末弟は口をとがらせる。どうやらこの夜は、とことん子供じみた姿を見せつけようという心づもりであるらしい。
「でもさ、なんだか想像がつかねえんだよ。どうやったら、あやつらのようにおたがいを慈しみ合うことができるのだろうな?」
「それは……いささか手本が悪かろう。誰もがあやつらのようになれるわけではないように思うぞ」
「とは、どういう意味なのだ? 頼むから、まぜっかえさずに教えてくれ」
「可愛い弟にそのような真似をするものか。……あいつらがああまで強い結びつきを持っているのは、ともに大きな苦難を乗り越えてきた間柄ゆえなのではなかろうかな。それは、望んで辿れるような運命ではないはずだ」
彼は、そんな風に考えていた。
ファの家のアスタが森辺にやってきてから、およそ2年――その間にファの家を見舞った苦難というのは、余人が一生で受け持つ苦難の何倍もの質量であったように思えるのだ。
しかしまあ、その半分は自らが招いた苦難である。そもそも外界の民を家人に迎えようという最初の一歩からして、森辺の習わしからは大きく外れていたのだった。
その後もアスタとアイ=ファは身をつつしむどころか、暴風雨のような勢いで森辺の習わしをくつがえしてきた。一歩まちがえれば、すべての同胞を敵に回すような所業であったことだろう。いったいどれだけの執念を持っていたら、そんな苦難を自ら背負い、それを退けることがかなうのか――彼には想像することも難しいほどであった。
(ただ間違いなく言えるのは、ひとりきりでは決して成し遂げられなかったということだな)
アスタにはアイ=ファがいて、アイ=ファにはアスタがいた。だからこそ、あのふたりはあれだけの苦難を退けて、自分たちの信ずる道を進むことがかなったのだ。それだけは、疑いのない話であった。
(絆が苦難を打ち破ったのか、苦難が絆をいっそう深めたのか……)
きっとそれは、両方真実であるのだろう。
身分が人間を作り、人間が身分を作るように――心が肉体を作り、肉体が心を作るように――それらは分かつことのできないものであるのだ。
そんな思いを込めながら、彼は末弟に笑いかけてみせた。
「まあ、あやつらを手本にすることはできないのだから、もっと身近なところに目を向けるがいい。もっとも手本に相応しい人間が、目の前であぐらをかいているではないか」
「兄貴だって、手本にならねえよ。だって、兄貴は……あいつらに負けないぐらい、大きな苦難をくぐり抜けてきたじゃねえか」
「うん? 俺がどのような苦難をくぐり抜けたというのだ?」
「兄貴はラヴィッツの長兄に生まれついたのに、いつまで経っても身体が大きくならなかったから、そうやって無茶苦茶に自分を鍛えあげたんだろ? なんの苦労もなくこんな図体に育った俺には、とうてい真似できねえよ。……俺は、性根が甘ったれだからな」
彼は柄にもなく、言葉を詰まらせることになってしまった。
「……ふん。お前からそのような言葉を聞かされるとは、夢にも思っていなかったな」
「なんでだよ。兄貴が周りから軽んじられてるのを見て、俺がどれだけ悔しい思いをしてたと思ってんだ? ま、そんなのは兄貴が伴侶を迎えるまでの話だけどな」
そう言って、末弟は幼子のように無邪気な顔で笑ったのだった。
「そんな探るような目つきで人を見るくせに、意外に鈍いところもあるんだな。でもまあ、ちょっと安心したよ。あんまり兄貴がすごすぎると、今度は俺のほうがまいっちまうからさ」
「馬鹿なことを言ってやがる」と、彼は残りわずかな髪をひっかき回した。
「まあ、自分が甘ったれだって自覚してるなら、幸いだ。お前はきっと、そういう部分で損をしてるんだよ」
「損って? どういうことだよ?」
「だからな、お前はそんなふてぶてしい面がまえのくせに、性根は甘ったれだろ。そうすると、女衆には期待外れだと思われちまうんだよ。俺みたいに貧相で小ずるそうな人間が意外に真面目だったりするのと、まったく正反対の効果が生まれちまうわけだな」
「なんだよ、それ? じゃあ俺は、いったいどうしたらいいんだ?」
「そりゃあ、甘ったれの性根を鍛えなおすか……あるいは、ふてぶてしい面がまえや態度をどうにかするしかないだろうよ」
「そんなこと言われても……俺はそんな、ふてぶてしい態度を取ってるつもりもねえし……」
「わかってるよ。きっと半分は、人見知りの裏返しなんだろうしな。こうやって家族と話してるときみたいに無邪気な面をさらしてるほうが、よっぽど女衆のうけはいいだろうと思うぜ」
「で、でも、女衆の前だと気が張っちまうんだよ。どうやったら兄貴みたいに、いつでもおんなじ顔でいられるんだ?」
「そんなもん、俺は好き勝手に振る舞ってるだけだよ。お前もそうしてみたらどうだ?」
「だから、そのやり方がわからねえんだよ! 頼むから、うまいやり口を教えてくれ! 弟を導くのは、兄貴の役割だろ?」
「しょうがねえやつだな」と苦笑しながら、彼はかたわらの草籠に視線を落とした。
赤子はまだ、安らかな寝息をたてている。そのなめらかな頬にそっと指先を押し当てながら、彼は心中でつぶやいた。
(いい子だから、もうちょっと大人しくしててな。お前の親父の弟が、なんだか切羽詰まってるみたいだからよ)
そうして彼は、末弟と心行くまで語り合うことになった。
どうやったら女衆の気がひけるかという、見習い狩人の小僧っ子めいた問答である。
6歳も齢の離れた彼らにとって、それは初めての体験であり――こんな益体もない一夜こそが、家族の絆を深めるのかもしれなかった。