第一話 ゼランドの休日
2021.9/13 更新分 1/1
・今回は全9話です。
「あ、ラービス! こんなところにいたのね!」
ラービスにそんな言葉をぶつけてきたのは、グランナル家の第二息女ミリアルであった。
屋敷の中庭で剣術の稽古に励んでいたラービスは、木剣を腰に戻して一礼する。そんなラービスの姿を、ミリアルはにこにこと笑いながら見やってきた。
「ラービスは、ひまさえあれば剣術の稽古なのね。せっかくの休日なのだから、もっとゆっくり過ごせばいいのに」
「いえ。剣の腕が鈍ってしまっては、主人を守るという仕事も果たせなくなってしまいますので」
「真面目なのね! やっぱりラービスは、ちっとも変わっていないみたいだわ」
そのように語るミリアルは、すっかり年頃の娘に成長していた。ラービスが主人たるディアルの供で故郷を離れている間に、彼女は13歳から15歳になっていたのだ。
やはりこれぐらいの齢の娘にとって、2年弱という時間はとても重要であるのだろう。背丈などは大して変わっていないようなのに、表情や仕草がうんと大人びている。気の早い家であれば、もう嫁に出すことを考えるような年頃であるのだ。長くのばした褐色の髪や、手入れのされた白い肌などは、いよいよ大きく咲き誇ろうという花のような輝きに満ちていた。
(ただやはり同じご血筋でも、ディアル様とはずいぶん様子が異なるようだ。……まあ、ディアル様は13歳というお若さで商売人としての修行を始められたのだから、それが当然か)
ラービスがこっそりそのように考えていると、ミリアルは楽しげに笑いながら「ねえねえ」と呼びかけてきた。
「もうすぐ中天の鐘が鳴るはずよ。ラービスも一緒に、お茶と軽食にしましょうよ」
「いえ。わたしはこのように汚れた姿ですので――」
「だって今日は、わたしとシャリアルが軽食を準備したのよ? だから、ラービスにも感想を聞きたいの!」
と、ミリアルはラービスの腕をつかんで、ぐいぐいと引っ張ってきた。姉のディアルに比べればずいぶんおっとりとしているものの、それでもラービスに対しては遠慮がないのだ。また、生まれた頃からこの屋敷の使用人であったラービスには、それを拒むことも許されないのだった。
「さ、早く早く! 急がないと、せっかくのお茶が冷めてしまうわ」
ラービスはミリアルに腕を引かれたまま、屋敷に踏み入ることになった。
そうして食堂に導かれたラービスは、その場に思いも寄らぬ姿を見出して、慌てて一礼する。
「アメリア様もいらっしゃったのですね。ご家族の団欒の場を乱してしまい、申し訳ありません」
「あら、何を言っているの? ラービスだって、大事な家族の一員でしょう?」
屋敷の主人グランナルの伴侶にして三姉妹の母たるアメリアが、ラービスにゆったりと微笑みかけてくる。アメリアもついに36の齢を数えていたが、その優しげな表情や可憐な花のような容姿にまったく変わるところはなかった。
「あ、ラービスも来てくれたのね! ほらほら、そっちに座って!」
と、卓で茶の準備をしていた末妹のシャリアルが、ミリアルとそっくりの笑顔を向けてくる。3歳違いであるこの姉妹は、容姿も気性もよく似通っていたのだった。
ラービスが恐縮しながらアメリアの正面に腰を落ち着けると、その左右をミリアルとシャリアルがはさみこんでくる。卓の上にはたくさんの菓子が積まれた大皿と、取り分け用の小さな皿、そしてチャッチの茶が注がれた杯が準備されていた。
「では、いただきましょう。とても美味しそうね」
「うん! わたしとミリアル姉様が腕によりをかけてこしらえたのよ! さ、早く食べてみて!」
12歳となって学舎を卒業したシャリアルも、最近では姉ともども帳簿をつける仕事を手伝いながら、時には厨に立つという話であったのだ。そしてここ最近の彼女たちは、ディアルがジェノスからもたらした菓子の作り方にめっきり熱中していたのだった。
本日の軽食として準備されたのは、たしかジェノスにおいて『ロールケーキ』と呼ばれていた菓子である。フワノの生地でスポンジケーキというものをこしらえて、カロンの乳に細工をしたホイップクリームというものを塗りたくり、それをぐるぐると巻いた上で切り分けた菓子である。その断面はスポンジケーキとホイップクリームが層をなして渦巻き模様となり、きわめて物珍しい見目になっている。屋敷の料理番が初めてこちらの菓子を作りあげたときは、いつも清楚なアメリアも娘たちと一緒になって歓声をあげていたものであった。
「うん、美味しいわ。ふたりもずいぶん腕をあげたのね」
アメリアがそのように告げると、仲良し姉妹は嬉しそうに笑顔を見交わした。そしてそのまま、左右からラービスを見やってくる。
「ほら、ラービスも食べてみて! そこまで不出来ではないはずだから!」
「はい」と応じて、ラービスも突き匙で切り分けた菓子を口に運んだ。
スポンジケーキのふわりとした食感が、とても心地好い。その内に巻かれたホイップクリームもカロン乳の風味が豊かで、申し分ない味わいであった。
ただ一点、森辺の民が作りあげる菓子などと比べると――ホイップクリームがべちゃべちゃとしており、あの独特のふんわりとした感じが損なわれていた。
「どうどう? そんなに悪くない出来栄えでしょ?」
「ええ。とても美味です」
「でも、完璧ではないはずよね。どういうところが不出来であるか、教えてくれない?」
「いえ。文句のつけようもないほど見事な出来栄えであるかと存じます」
ラービスがそのように答えると、シャリアルが「えー!」と不満げな声をあげた。
「でもディアル姉様だって、料理番の作る菓子もまだまだ完璧じゃないって仰っていたわ。わたしたちの菓子なんて、料理番のものよりいっそう不出来であるはずよ?」
「いえ、ですが――」
「ラービスだって、ジェノスで森辺の民という方々の作る菓子を口にしていたのでしょう? それなら、違いもわかるはずだわ」
シャリアルがあまりに熱心であるため、ラービスもしかたなく本音を打ち明けることになった。
「ジェノスで口にした菓子との違いという話でしたら……あちらの菓子は、ほいっぷくりーむというものがもっと軽やかな口ごたえであったように思います」
「軽やかな口ごたえ? それじゃあ……かきまぜるのが足りていなかったのかしら?」
「きっとそうよ! ディアル姉様が持ち帰った書面には、『たくさんかきまぜてたくさん空気を取り入れると、いっそうやわらかい食感になる』と記されていたもの!」
ミリアルも熱心に声をあげると、茶の杯を傾けていたアメリアがくすりと微笑んだ。
「ディアルのおかげで、あなたがたはいっそう厨の仕事を楽しめるようになったみたいね。菓子だけでなく料理のほうでも頑張ってくれたら、きっとお父様もお喜びよ」
「でも、あの書面には菓子の作り方しか記されていなかったのよね」
「どうして料理の作り方は教えてくださらなかったのかしら?」
ミリアルとシャリアルは、また左右からラービスを見やってくる。
ラービスは思案して、自分なりの考えを述べてみせた。
「ディアル様が懇意にされていた森辺の民というのは、ギバという獣の肉で料理を作りあげていました。ゼランドではギバ肉を取り扱うことができないため、料理の作り方を書き記すのを控えたのではないでしょうか?」
「ギバ肉の料理というのは、そんなに特別なの? カロンやキミュスの肉では代用できないのかしら?」
「さあ……自分は料理についてなど何もわきまえておりませんため、返答いたしかねます」
「その方々が作りあげるギバ料理というのは、とても美味なのでしょう? ディアル姉様ばかりでなく、父様やハリアスなんかも褒めちぎっていたものね! いいなあ、わたしも一度でいいからジェノスのギバ料理というものを口にしてみたいものだわ」
ミリアルはそのように言っていたが、さしものグランナルも下の娘たちに長旅を許すことはないだろう。ディアルが鉄具屋の仕事を手伝いたいと願い出たときも、グランナルはさんざん思い悩んだ末、ようやく許しを与えることになったのだ。
しかし今ではディアルも商売人としての力量を認められて、ジェノスにおける仕事を任されている。それで今は2年近くぶりに休息を与えられて、里帰りをしているさなかであったのだった。
本日は、ちょうど緑の月の1日。ディアルとラービスがゼランドに戻ってきてから、すでに20日ほどの日が過ぎている。もう半月ほど身を休めたら、両名はまたジェノスに舞い戻ることになっていた。
「そういえば、今日もディアルは出かけてしまったのかしら?」
アメリアが誰にともなく問いかけると、シャリアルが「そうなの!」と元気に応じた。
「また朝からお抱えの工場に出かけてしまったのよ! せっかくゼランドに戻ってきたのに、ちっともわたしたちの相手をしてくれないの!」
「本当よね。父様ばっかりディアル姉様と一緒に過ごして、ずるいわ」
ミリアルも妹と一緒になって、頬をふくらませる。彼女たちは、大好きな姉と過ごせる日々を心待ちにしてくれていたのだ。
「ジェノスで懇意にしている方々から、何か特別な注文を受けたそうね。ディアルはジェノスでの仕事を任されているから、その仕上がりが気にかかってしまうのでしょう。夜には戻ってくるのだから、我慢なさいね」
「でも、あと半月ぽっちで、ディアル姉様はまたジェノスに向かってしまうのよ?」
「そうよ。そうしたら、また1年ぐらいは戻ってこられないという話なのだから、その分まで一緒に過ごしたいわ」
「そうね。でも一番さびしいのは、すべての家族と離れて暮らすディアルのほうなのよ?」
そう言って、アメリアはとてもやわらかい眼差しをラービスに向けてきた。
「まあ、ラービスがいれば何も心配はいらないでしょうけれど……ラービス、これからもディアルをお願いね?」
「はい。生命を懸けて、ディアル様をお守りいたします」
まだ頬をふくらませていたミリアルは、気を取りなおした様子でラービスを見やってきた。
「そういえば、最近ラービスは、ディアル姉様とどうなの?」
「は……どう、と申されますと?」
「だって、ジェノスではいつもふたりきりで過ごしているのでしょう?」
「ディアル様はとても勤勉に働いておられますので、わたしとふたりきりという時間はほとんどありません。ディアル様は毎日数多くの相手と商談を交わしており、それをお見守りするのがわたしの仕事となります」
「だから、そうじゃなくって――」
ミリアルがさらに言葉を重ねようとすると、アメリアがやんわりと「ミリアル」とたしなめた。
「あまり余計な話で、ラービスを困らせないようにね。ディアルだって、今はきっと仕事が一番楽しい時期であるのよ」
「……わかりましたわ、母様」
ミリアルはにっこりと笑いながら、そのように答えた。
普段ののんびりとした笑顔ではなく、ちょっと悪戯小僧めいた笑顔である。こういう笑顔は、姉のディアルに似ていなくもなかった。
そうして中天の軽食を終えたのちは、また中庭へと舞い戻る。ディアルが屋敷にいない間は、剣術の修練ぐらいしか為すべきことも残されていないのだ。
工場に出向いたディアルたちには、ふだんグランナルの身を守っている人間が同行している。グランナルはラービスに休息を与えるために、そのように取り計らってくれたのであろうが――毎日毎日剣術の稽古では、ラービスとしても一抹の物足りなさを感じなくもなかった。
(とはいえ、わたしはもっともっと力をつけなければならないのだ。ジェノスでは剣術の稽古もままならぬし、貴重な成長の機会を与えられたことに感謝せねばなるまい)
ラービスがそんな風に思いながら木剣を取り上げようとすると、別れたばかりのミリアルとシャリアルが追いすがってきた。
「ねえ、ラービス。ディアル姉様の代わりに、少しおしゃべりをお願いできない?」
「は……おしゃべりと申しますと?」
「おしゃべりはおしゃべりよ。あちらの卓で語らいましょう?」
中庭には、家人がくつろぐための卓が設えられている。気が向いたときは、こちらで軽食を取ったりするのだ。ジャガルの厳しい日差しや急な雨をふせぐために立派な屋根もたてられており、眼前には庭師の手入れする庭園の花が咲き誇っていた。
「ねえ、ラービス。あなたは何歳になったのかしら?」
席に着くなり、ミリアルはそのように問い質してきた。
「わたしは、23歳となりましたが」
「そう。ディアル姉様も、もう18歳なのよね。2年近くも離れていたから、もうそんな齢になってしまったのよ」
質問の意図がわからないラービスは、「はあ」と答えるばかりであった。
「23歳なら、もう身を固めていてもまったくおかしくない年頃よね。ラービスは、まだそんな心持ちにはならないのかしら?」
「はい。わたしはきっと、婚儀をあげることもないまま魂を返すことになるかと思われます」
ラービスがそのように答えると、仲良し姉妹はふたりそろって「えーっ!」と大声を張り上げた。
「こ、婚儀をあげないって、どうして? 何か事情でも抱えているの?」
「いえ。結果的にそうなるのではないかと考えています。もとよりわたしは、こちらの屋敷に仕える身ですので」
「使用人だって、婚儀ぐらいあげるわよ! あなたの両親だって、この屋敷の守衛と侍女であったのでしょう?」
「はい。ですがわたしは、ディアル様をお守りするのが仕事ですので……色恋などにうつつを抜かすいとまはございません」
「ディアル姉様だって、いつまでもジェノスに居座っているわけではないわ! 父様だってもう2年もすれば50歳なのだから、遠からぬ内に主人の座を受け継がせるはずよ!」
「ディアル様がそのようなお立場になられたときは、現在のグランナル様のようにジャガル中を駆け巡ることになるのでしょう。ではやはり、それをお守りするわたしにも家庭を持つことは難しいように思います!」
「どうしてよ! 父様だって、こうして家庭を築いたじゃない!」
「それは……主人と従者では、事情も異なりましょう。そもそもわたしのように居所の定まらない人間など、伴侶の迎えようがないのではないでしょうか?」
ミリアルとシャリアルは顔を見交わしてから、ふたり一緒に深々と溜息をついた。
「ラービス、あなたの誠実な人柄は、とてもかけがえのないものだと思っているわ。でも、そのような若さで伴侶を娶ることをあきらめてしまうなんて……あまりに自己犠牲が過ぎるのではないかしら?」
「とんでもありません。わたしは幼き頃に両親を失って以来、グランナル様とアメリア様の温情によって生かされてきたのです。わたしはその恩義をお返しすることに、すべての力を尽くしたく思います」
ミリアルとシャリアルはしばらくラービスの姿を見つめてから、小声で何事かを語らい始めた。
小さな卓をはさんで向かい合っているラービスにも、その内容は聞こえてこない。姉妹の密談が終わるまで、ラービスは黙然と庭園の花を愛でることになった。
「……ねえ、ラービス。あなたは庭師の娘であるリルを知っていたかしら?」
やがて密談を終えたミリアルが、唐突にそのようなことを問うてきた。
「庭師の娘ですか。いえ、その名は存じあげませんでした」
「そう。庭師は通いなのだけれど、時おりそのリルという娘が届けものをしてくるのよ。ちょうどディアル姉様と同い年で、とても可愛らしい娘さんよ」
「はあ……」
「リルって、花の名前なのよね。ラービスは、リルの花をどう思う?」
「リルの花……申し訳ありません。不調法なものなので、花の名前などはまったくわきまえていないのです」
「あら、そうなのね。リルの花というのは……ああ、これよ」
シャリアルのほうが立ち上がって、庭園に咲き誇る花のひとつを指し示した。
くっきりとした青色の小さな花弁が、茎の先端で折り重なっている。名前は知らなかったが、ラービスにとっても見慣れた花であった。
「その花が、リルという名を持つのですね。……はい、とても好ましく思います」
「そう。どういった部分を好ましく思うのかしら?」
「そうですね……ひとつずつの花弁は小さくて可憐であるのに、色合いが鮮烈で、とても力強い印象であるように思います」
「それは素敵な誉め言葉ね」と、ミリアルのほうが微笑んだ。またあの悪戯小僧のような笑顔である。
「わかったわ。どうもありがとう。……稽古のお邪魔をしちゃって、ごめんなさいね。おわびに明日はまた菓子を作ってご馳走するわ」
「いえ。どうぞお気になさりませんように」
姉妹は白い手を取り合って、弾むような足取りで屋敷のほうに戻っていった。
これまでの一幕には、いったいどういう意味があったのか。それも判然としないまま、ラービスは剣術の稽古を再開することになった。
(まあ、婚儀などに興味を示すというのも、あのおふたりが年頃になられた証なのだろう)
末妹のシャリアルがもっと幼かった頃などは、「ラービスをおむこにする!」などと言い張って、周囲の笑いを誘っていたものだ。ラービスは恐縮することしきりであったが、そういった戯れ言は幼子につきものであったらしい。4歳の頃から屋敷のお役に立たねばと思い詰めていたラービスには、そういった当たり前の話がまったく根付いていなかったのだった。
(わたしの知る幼子などは、こちらのお屋敷の方々だけだし……ディアル様やミリアル様は、そのような戯れ言を口にすることもなかったしな)
そうしてラービスが稽古に打ち込んでいると、夕刻になってようやくディアルとグランナルが屋敷に戻ってきた。
ふたりの姿が回廊に見えたので、ラービスが中庭から一礼すると、ディアルだけがてけてけと駆け寄ってくる。まるで親犬を見出した子犬のような所作であった。
「ただいまー! アスタからの注文の品も、だいぶ形になってきたよ! アレをジェノスに持ち帰ったら、アスタは喜んでくれるかなー!」
「ディアル様を納得させられる品であれば、余人には文句のつけようもないことでしょう」
「えへへ。そうだといいんだけどね!」
頭半分ほど高い位置にあるラービスの顔を見上げながら、ディアルはにこりと微笑んだ。
顔立ちなどは、妹たちとよく似ている。ただ、濃淡の褐色が入り混じった髪や、翡翠のような色合いの瞳というのは、姉妹の中でもディアルだけであり――そしてそれ以上に、彼女は内面が違っていた。妹たちも明朗で無邪気な気質だが、ディアルはそこに雄々しいまでの果断さと、父親にも負けない商売人になろうという強い意欲を持ち合わせているのだ。
それにディアルは、余人に対する情愛というものが、とても深い。妹たちが薄情とかいう話ではなく、そういった思いが真っ直ぐ眼差しに込められているように感じられるのだった。
赤みがかった夕刻の日差しに照らされて、不思議な色合いをした髪と父親譲りの瞳が美しく輝いている。そんなディアルの姿を見ているだけで、ラービスはどこかに置き忘れていた半身を取り戻したような心地であった。
(ジェノスにおいても、ディアル様とふたりきりで過ごす時間などはほとんど存在しなかったが……逆にこうして半日も離れていることもありえなかったからな)
ラービスがそんな風に考えていると、ディアルは「どーしたの?」と小首を傾げた。
「いえ。そろそろ晩餐の刻限でありましょう。食堂に向かわれては如何でしょうか?」
「うん! もうおなかがぺこぺこだよー! ……たまにはラービスも、一緒に食べれば?」
「いえ。使用人には、不相応な行いでありましょう」
ディアルは不満げに口をとがらせかけたが、途中で「ま、いっか」と笑った。
「どうせあと半月もすれば、またジェノスだもんね! あー、王都の連中はどうしてるかなー。僕がジェノスに戻る頃には、行き違いになっちゃうんだろうなー」
ディアルとラービスはジェノスからゼランドに向かう途中、南の王都の使節団と街道ですれ違うことになったのだ。旅程に問題が生じていなければ、あちらも半月ほど前にジェノスに到着しているはずであった。
「僕がいれば、王都の連中にも商談を持ちかけてやるのになー! ハリアスじゃ、きっと無理だろうなー! 僕だって、前回の来訪時には手も足も出せなかったもんね!」
「ええ。あまり身分の高い相手では、商談を持ちかけるにも相応の危険がともなうのではないでしょうか?」
「お、ラービスもわかってきたねー! 僕もそう思って、前回は慎重に情報を集めてたんだよ! 次に出くわしたらその成果をぶつけるつもりだったのに、よりにもよってこんな時期に来ちゃうんだもんなー!」
「ですが王都においても、今後はジェノスと定期的に通商を始めようという話なのでしょう? でしたら、また次の機会もあるのでは?」
「うん! 僕もそれを狙ってるんだよ!」
やはりこういう話をしているとき、ディアルの瞳は普段以上に強い輝きをたたえる。父親のグランナルにも負けないその眼光の強さが、ラービスにはとても好ましく思えた。
「ま、そんな先の話で思い悩んでてもしかたないか! 晩餐の後に時間があったら、またおしゃべりしようね!」
「はい。ですが何卒、ご家族とお過ごしになる時間を大切にしてください」
「わかってるって! じゃ、また後でねー!」
来たときと同じ足取りで、ディアルはラービスの前から駆け去っていった。
ラービスはどこか満たされたような心地で、自分も使用人のための食堂を目指す。
現在こちらの屋敷に住み込んでいるのは、侍女と守衛で10名ほどだ。料理番や庭師などは通いであるが、これだけの使用人を抱えられるというのは、グランナルが力のある商人である証であろう。
守衛の半分はお役目を果たしているさなかであるため、食堂には6名ほどの人間が集っている。そのうちの2名は侍女であったが、どちらも年配で、ラービスより年長の子供を持っているという。よって、ラービスがこの場で両親のように婚儀の相手を求めるすべはなかった。
「ラービスも、お疲れ様。今日はキミュスの汁物料理だよ」
侍女の片方が、にこやかに微笑みかけてくる。彼女は3姉妹が育つまで乳母の役割を果たしていた人物で、ラービスにとってはもっとも馴染み深いひとりであった。――というか、この屋敷で生まれ育ったラービスよりも古参であるのは、もはや彼女ひとりであった。
「今日の昼には、お嬢さんがたが手作りの菓子をふるまってくれたねえ。ラービスは姿が見えなかったけど、ちゃんと口にできたのかい?」
侍女がそのように尋ねてきたので、ラービスは「はい」と答えてみせた。
「別の場所でいただきました。とても見事な出来栄えでしたね」
「ああ。あれは上のお嬢さんがジェノスで教わった菓子だってんだろう? 本当に、舌のとろけるようなお味だったねぇ」
すると、ラービスとさして年齢の変わらなそうな守衛の若者も、笑顔で身を乗り出してきた。
「なあ、またジェノスの話を聞かせてくれよ。城下町でも森辺の集落でも、どっちでもかまわねえからさ!」
他の人々も、熱のこもった視線をラービスに向けてくる。このゼランドからほとんど出たことのない人間にとっては、やはり異国の土産話というものがたいそう興味深く思えるのだろう。ラービスは口下手の部類であったが、同じ屋敷に仕える人々のために、なんとか言葉を尽くしてみせた。
そうして食事を終えた後も、しばらくはラービスがあれこれ語ることになり――いい加減に解散しようかという頃合いで、ディアルが食堂に飛び込んできたのだった。
「ちょっと! ラービスに話があるんだけど!」
一同は、きょとんとした顔でディアルを見返すことになった。
ディアルはここまで駆けてきたのか、軽く息を切らしながらずかずかと踏み込んできて、ラービスの腕をつかんでくる。昼にはミリアルに腕をつかまれていたが、それとは比較にならない力強さであった。
「ディ、ディアル様、何処に?」
「どこでもいいよ! ふたりきりで喋れる場所! ……ああもう、僕の寝所でいいや!」
「ですが、このような刻限に使用人が寝所に踏み入るというのは……」
「いいから、来てってば!」
ディアルはずいぶん、泡をくっている様子であった。
その手の燭台の光を頼りに回廊を踏破して、ディアルの寝所を目指す。そうして寝所に踏み入ると、ディアルは扉に鍵まで掛けてしまった。
「どうなさったのです、ディアル様? わたしが何か、不始末でも?」
「いや、不始末とかそういう話じゃないんだけど……」
語尾を濁らせながら、ディアルは部屋の燭台にも火を移した。
しかし、薄暗いことに変わりはない。その薄暗がりの中で、ディアルはたいそう惑乱気味の顔をさらしていた。
「えーと……いや、ほんとにね、何もそんな大騒ぎするような話じゃないんだよ。でもまあ、僕はラービスの主人だし……それ以上に、兄妹みたいに育てられてきた間柄だから……」
と、ディアルは彼女らしくもなく、気恥ずかしそうに身をよじった。
そうして何だか幼子に戻ってしまったみたいな仕草で、おずおずとラービスを見上げてくる。
「えーっとさ、もうゼランドに帰ってきてから20日ぐらい経つけど、僕はあちこち出歩いてたから……ラービスがどこでどんな風に過ごしてたかも、あんまりわかんないんだよね」
「はい」
「それともこれは、僕たちがジェノスに向かう前からの話なのかな? どっちみち、僕は商売のことで頭がいっぱいだったし……ラービスは、ずっとそばにいてくれるのが当たり前になっちゃってたから……」
「はい。……いったい、どういったお話でしょうか?」
ラービスがそのように反問すると、ディアルは決然とした様子で頭をもたげた。
「あのね、リルって娘のこと! ラービスは……いつからその娘と懇意にしてたの?」
「リル……それは、庭師の子であるという娘のことでしょうか?」
「他にリルなんていないでしょ? まあ僕は、その名前も初めて聞いたんだけど……そもそも庭師の娘なんて、見たこともなかったしさ! その娘は、どんな娘なの?」
と、ディアルはラービスに取りすがってきた。
「その娘は、僕と同い年って話だったよね。ラービスはその娘と、どれぐらい懇意にしてるの? ……あ、いや、そんなぶしつけなことを聞くつもりはないんだけど! でもほら、僕は次にジェノスに向かうときも、ラービスが一緒に来てくれると思ってたから!」
「……ディアル様?」
「もちろん僕なんかに、ラービスの人生を邪魔する資格なんてないけど……でも僕は、ラービスと一緒にいるのが当たり前になっちゃってたから……でもでも、もしも婚儀をあげたりするんなら、今後はラービスを好き勝手に引っ張り回すこともできなくなっちゃうし……」
「ディアル様」と、ラービスはディアルのほっそりとした両肩に手を置いてみせた。
「婚儀とは、いったい何のお話でしょうか?」
「え? だからその、リルって娘とラービスの……」
「リルという名は、わたしも本日初めて知るところになりました。そしてわたしも、いまだその娘と顔をあわせたことはございません」
ラービスの装束の胸もとをぎゅっと握りしめたまま、ディアルはきょとんと目を丸くした。
「え……だってラービスは、その娘と懇意にしてるって……とても小さくて可憐だけど、すごく力強い印象の娘さんなんでしょ?」
「それはわたしが、リルの花について述べた言葉であるようですね。何かミリアル様と、言葉の行き違いがあったのではないでしょうか?」
「リ、リルの花? って、あの青い色の?」
「はい。そちらの花を好ましく思うと、昼の軽食の後にミリアル様やシャリアル様と語らうことになりました」
ディアルはめいっぱいに背伸びをして、ラービスに顔を寄せてきた。
「そ、それは本当の話なの? 僕に嘘なんてつかないでよ?」
「はい。わたしが好ましく思っているのはリルの花についてであり、庭師の娘についてはいっさい存じあげません」
ディアルはくにゃりと脱力すると、ラービスの胸もとにもたれかかりながら、「よかったー!」と安堵の息をついた。
「なんだよ、もう! ミリアルのやつ、ややこしいことを言って! 一時はどうなることかと思ったよー!」
「はあ……納得されましたら、お手を離していただいてもかまいませんでしょうか?」
ラービスがそのように呼びかけると、ディアルは弾かれたような勢いで飛び離れた。
そうして白い顔を真っ赤に染めながら、「あははー」と自分の頭をひっかき回す。
「ごめんごめん! 僕の勘違い! ラービスにいい人ができて、婚儀をあげるかもしれないとか思い込んじゃったんだ! 全部、ミリアルたちのせいだから!」
「はあ……わたしはたとえ婚儀をあげようとも、ディアル様をお守りするという仕事を放りだすつもりはありません」
「え? え? ほ、他に懸想している相手がいるとか?」
「いえ、まったく」
「もー、びっくりさせないでよー! みんなして、僕のことをからかってるの!?」
ディアルは赤い顔をしたまま、子供のように地団駄を踏んだ。
その荒っぽい所作に合わせて、濃淡いりまじった褐色の髪がふわりと揺れる。そのきらめきが、ラービスの心にわずかな波紋を生じさせた。
「ディアル様は……ずいぶん髪が長くなられたようですね」
「え? 何さ、いきなり! ……だけどそういえば、もうふた月ぐらいはほったらかしにしちゃってたのかな」
そう言って、ディアルはまた頭をひっかき回した。
まあ、髪がのびたと言ってもふた月ていどではたかが知れている。髪の先端が肩につくかどうかといったぐらいのものであった。
「言われてみると、ちょっと鬱陶しいかな。うん、明日にでもミリアルに切ってもらうことにするよ」
「……やはり、切ってしまわれるのですね」
「うん。僕が自分の髪の色を嫌ってることは、ラービスだって知ってるでしょ?」
ディアルは幼い頃、学舎の学友に「犬のようだ」とからかわれて、長い髪を自分でばっさり切り落とすことになってしまったのだ。それはラービスにとって、ディアルが赤ん坊のように泣いていた最後の記憶であったため、決して忘れることはなかった。
「申し訳ありません。あまりに惜しく思えてしまったため、つい出過ぎたことを口にしてしまいました」
「惜しいって、何が? こんな髪、長くのばしたって汚らしいだけでしょ?」
「ずいぶんな昔にも申し上げましたが、わたしはディアル様の髪を心から美しいと思っています。ご両親からそれぞれの色合いを受け継いだ、とても素晴らしい色合いではないですか」
するとディアルはいっそう顔を赤くして、川面から顔を出した魚のように口をぱくぱくとさせた。
そして深くうつむくと、のびかけの前髪の隙間からラービスを見上げてくる。
「……ラービスは、本当にそう思ってくれてるの?」
「はい。主人たるディアル様に虚言を吐くような真似はいたしません」
「でも……男みたいな僕が髪をのばしたって、滑稽なだけじゃない?」
「そのようなことはありません。きっと母上様にも負けないお美しさでありましょう」
ディアルは「わーっ」と大きな声をあげると、今度は子供のようにラービスの胸もとをぽかぽかと殴打してきた。
「なんでラービスって、真顔でそんな言葉を口にできるの? 本当に僕をからかってるんじゃないだろうね!?」
「とんでもありません。ディアル様はジェノスにおいて宴衣装を纏う機会も少なくはありませんし、その際に長い髪をしておられたら、いったいどれほどの美しさかと――」
「もういいったら! 僕はもう寝るから、とっとと出ていってよ!」
ディアルが小さな手で、ラービスの身体をぐいぐいと押してくる。もちろんラービスであればその場に踏みとどまることも容易かったが、そのような真似をする理由は存在しなかった。
ディアルは扉の鍵を外して、ついにはラービスの身体を回廊にまで押し出してしまう。そうしてディアルは扉を閉めようとしたが、細く残した隙間から最後にラービスをにらみつけてきた。
「……明日も僕は、工場に行くからね。父様は別件で忙しいみたいだから、ラービスがついてきてよ?」
「承知いたしました。ディアル様の供をできることを、心から嬉しく思います」
ディアルは「もう!」と大きな声をあげてから、扉を荒っぽく閉めてしまった。
燭台も手にしていないラービスは、月明かりだけを頼りにしながら自分の寝所を目指すことにする。
(そういえば……)
ひとつずつの花弁は小さくて可憐であるのに、色合いが鮮烈で、とても力強い印象である、リルの花――ラービスがそれを好ましく思うのは、ディアルを連想させるためであるのかもしれなかった。
ラービスは回廊の途中で立ち止まり、ディアルの寝所の扉を振り返る。
なんとなく、この想念をディアルに届けたくてたまらない気分であったが――そのような真似をしたら、またディアルに不興を買ってしまいそうであった。
(明日、ディアル様のご機嫌が戻っていたなら、そのときにお伝えさせていただこう)
そんな風に思いなおして、ラービスは止めていた歩を再開させた。
すると今度は、髪を長くのばしたディアルの姿が頭に浮かびあがる。ディアルが髪を短くしたのはもう10年ばかりも昔の話であったので、それを現在のディアルにあてはめるのは相当に難儀なところであったが――ラービスの想念に浮かびあがったディアルは他の誰よりも可憐で美しく、東の民のようだと揶揄されるラービスの静まりかえった心に、得も言われぬ昂揚と喜びをもたらしてやまかったのだった。