礼賛の祝宴⑧~告白と祝福~
2021.8/30 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
「ええと……いったいどういったご用事でしょうか?」
俺がそのように問い返すと、デルシェア姫はいつもの無邪気そうな笑みをたたえつつ「そうですね」と言った。
「ちょっと込み入ったお話ですので、よろしければ外の空気を吸いながらで如何でしょうか?」
そう言って、デルシェア姫が指し示したのは、もちろん俺とアイ=ファが目指していたバルコニーの扉である。
まあ、その後にゆっくり休憩できれば問題はないかと思い、俺は了承の返事をしようとしたのだが――その前に、デルシェア姫はさらに言葉を重ねてきた。
「それで、申し訳ないのですけれど……アスタ様とふたりきりでお話をさせていただけませんでしょうか?」
「ほう」と、アイ=ファは目を細めた。
「それはつまり、私に聞かれては不都合な話をアスタに持ちかけようという心づもりなのであろうか?」
「いえ、とんでもありませんわ。わたくしはアスタ様に口止めするつもりなんて毛頭ありませんし、アスタ様がそんな申し出を聞き入れる理由もありませんでしょう? ……ただ、お話しする際にはふたりきりでいたいというだけのことなのです」
「…………」
「もちろん、森辺の習わしに従って、アスタ様の御身に指一本と触れるつもりはありません。それにロデだって、わたくしから目を離すことはかなわないのです。アイ=ファ様もロデと一緒に、少し離れたところで見守っていていただけませんか?」
「……アスタの身に触れたりはしないと、誓えるのだな?」
「はい。父たる南方神の御名にかけて、第六王子ダカルマスの息女デルシェアは、アスタ様の身に触れることも危害を加えることも決してしないと誓約いたします」
そう言って、デルシェア姫は自分の両肩を押し抱き、深々と頭を垂れた。
西方神に対する誓約の儀とは形が異なるが、きっとこれも神聖な行いであるのだろう。デルシェア姫の小さな身からふわりと漂った厳粛な空気によって、アイ=ファは心を定めたようだった。
「……了承した。アスタよ、王女デルシェアの願いを聞き届けてやるがいい」
「うん、わかった」と、俺も覚悟を固めることにする。俺はもう、ダカルマス殿下やデルシェア姫の真情を疑う気にはなれなかったのだ。たとえこれが王都への移住や色恋にまつわる話であったとしても、こちらは誠意をもって答えるばかりであった。
そうして俺たちは守衛に話をつけて、バルコニーに出ることになった。
キャッチボールができそうなぐらい、広々としたスペースである。そこにはすでに若い貴公子や貴婦人たちの姿もあったが、デルシェア姫の姿に気づくと恭しげに一礼して、みんな大広間に戻ってしまった。
「普段でしたらちょっと物寂しく思うところですけれど、今日に限ってはみなさまのお気遣いをありがたく思いますわ」
デルシェア姫はにっこりと笑いながら、そう言った。
「では、あちらの奥のほうに。……決して長い時間は取らせませんので、ほんの少しだけアスタ様をお借りいたします」
アイ=ファとロデは入り口に近い場所に留まり、俺とデルシェア姫はさらに歩を進めた。
祝宴の熱気に火照った身体に、夜風が心地好い。
バルコニーにもあちこちに燭台の火が灯されていたので目に不自由はなかったし、暗がりの向こうには巡回する守衛の掲げた松明の灯りも見えていた。
もしもそれよりも手前の暗がりに、ジャガルの兵士たちがひそんでいたら――という思いが頭の片隅に浮かびあがり、すぐに消えていく。あらゆる危険性を考慮しつつ、それでも俺はデルシェア姫を信じたかった。
デルシェア姫は優雅な足取りで、バルコニーを斜め方向に横断していく。大広間の人々からは姿を隠せるように、扉の正面を避けようとしているのだろう。アイ=ファとロデだけに見守られながら、俺とデルシェア姫はバルコニーの最奥部を目指した。
「あー、すっかりくたびれちゃった! 祝宴は楽しいけど、やっぱりお行儀よくしてなきゃいけないから、肩が凝るんだよねー!」
と、バルコニーの端に到着するなり、デルシェア姫は貴婦人としての物腰をかなぐり捨てた。
「アスタ様も、お疲れ様! アスタ様こそ、四方八方から声をかけられまくって大変だったでしょ?」
「そうですね。でも、嬉しさのほうがまさっていますので、大変なことはありません」
「うんうん! みんなあの宴料理にご満悦だもんねー! 本当に、アスタ様はすごい料理人だよ!」
アイ=ファたちとは、七、八メートルぐらいしか離れていない。それでこんなに大きな声で語らっていたならば、アイ=ファにまで聞こえてしまいそうなところであったが――もちろん俺は、わざわざ口出ししようとは思わなかった。たとえデルシェア姫のことを信用していようとも、アイ=ファが自分の耳で聞き届けることができるなら、それに越したことはないと考えたのだ。
「それで、内密のお話とは、いったい何なのでしょう?」
「だから、内密じゃないってば! もちろんあんまり大勢の人たちに言いふらされたら困っちゃうけど、わたしはアスタ様のこと、信じてるから!」
そう言って、デルシェア姫はにぱっと笑った。
「さて、それじゃあ本題に入らせていただくけど……うーん、どういう順序で話そうかなあ。あれこれ整理をつけておいたはずなのに、いざ本番ってなると考えがまとまらないもんだね!」
「そんなに入り組んだお話なのでしょうか?」
「そうじゃなきゃ、ふたりきりで話したいなんて言わないよー」
そんな風に言ってから、デルシェア姫は「うん!」と大きくうなずいた。
「やっぱりまずは、この話からかな! ……あのね、わたしはジェノスに留学することに決めたから!」
「りゅ、留学?」
「うん! ジェノスで料理の勉強をするの! 期間は……とりあえず、半年ぐらいかなあ」
俺は一瞬で、驚きの奈落に突き落とされることになってしまった。
「あ、あの、ジャガルの王族であられるデルシェア姫が、半年間も異国に留学されるのですか?」
「うん! 何かおかしいかな?」
「いやあ、自分なんかは貴き方々の常識なんて計り知れないですけれども……デルシェア姫ほど高い身分にあられる御方が、まさか異国に留学されるなんて……」
「高い身分たって、第六王子の息女だよ? ちなみにわたしには3人も立派な兄様がいるから、天地がひっくり返ったって王位継承権なんて巡ってこないの!」
けらけらと笑いながら、デルシェア姫はそう言った。
「それに、シムの連中だってわたしに手出しは出来ないでしょ! 西の領地で諍いを起こさずってのは、絶対の約定なんだもん! これを破ったら、ジャガルばかりじゃなくセルヴァを敵に回すことになるんだからね! しかもジェノスは大事な交易の相手なんだから、二重の意味で安心さ! 第六王子の息女ひとりと引き換えにするには、あまりに代償が大きすぎるってわけだね!」
「はあ、そういうものですか……これはもう、決定事項なのですね?」
「うん! ジェノス侯からも、了承をいただけたよ!」
俺はアイ=ファの様子が気がかりでならなかったが、デルシェア姫の目をはばかって、そちらを振り返ることはできなかった。
「で、これは前置きに過ぎないんだけど……わたし、アスタ様にひとつ謝らないといけないんだよねー」
「謝る? 何をですか?」
「うん、謝るっていうのは、ちょっと違うかな? でも、アスタ様に隠し事をしてたから、それを打ち明けたいと思ったの」
そう言って、デルシェア姫は身体ごと俺のほうに向きなおってきた。
バルコニーの外に身体を向けていた俺も、そちらに向きなおることにする。
「えーっとね、ちょっと気恥ずかしい話なんだけど……アスタ様が優勝した最後の試食会の日のこと、覚えてる? わたし、あの日はロデが心配してるから、あまりアスタ様とおしゃべりしないようにしてたって言ったよね」
「あ、はい。もちろん覚えていますけれど……」
「それは、決して嘘じゃないの。わたしがアスタ様に心を奪われそうとか言っちゃったから、ロデはすっごく心配してたんだー。……でも、理由はそれだけじゃなかったの」
と、デルシェア姫は白い手の平で自分の右頬を覆った。
あらわにされている左頬は、夜目にもはっきりと赤くなっている。
「あれはさ、わたし自身が恥ずかしくて、アスタ様と普通に喋れなかったんだよね。アスタ様の目なんか見たら、真っ赤になっちゃいそうだったから! ……今も顔、赤いでしょ?」
「え、ああ、はい、まあ……」
「でも、しかたないよね! あのときも言ったけど、わたしは初心な小娘なんだからさ! そんなわたしがアスタ様に心を奪われそうだって、聞かれもしないのに自分から告白したんだよ? その話をしてるときだって、実は心臓が痛いぐらいだったんだから!」
そんな風に言いながら、デルシェア姫はせわしなく右の頬を撫でさすった。
この薄暗がりでも、手首を境にして肌の質感が違っているのが見て取れる。水仕事で艶やかさを失ってしまった――俺が魅力的と感じた、デルシェア姫の手だ。
「でさ、それから今日までの10日あまりも、わたしはずーっと同じ気持ちだったの。そうじゃなきゃ、1日か2日ぐらいは森辺にお邪魔したかったよ! アスタ様は忙しかっただろうけど、大人しく見物してる分には邪魔にもならないだろうし! ……でも、それも無理だったんだー。今日だって、恥ずかしくなるたんびに他の厨に逃げちゃったしね!」
「……そうだったんですか」
「うん。こんなことなら、告白なんてしなきゃよかったよ! ……でも、自分の気持ちを打ち明けておかないと、料理の修行に支障が出ると思ったんだよね」
と、デルシェア姫はふいにまぶたを閉ざした。
それからおもむろに右手をおろすと、下から食い入るように俺の顔を見上げてくる。彼女は俺より、頭ひとつ分も小さいのだ。
「だけどさ、そんな思いで自分の気持ちを打ち明けたのに、けっきょく修行に支障が出ちゃったんだ。だから、足りないなって思ったの」
「足りない?」
「うん。わたしは身分違いの恋なんかにうつつを抜かしてるひまはないの。それをしっかり思い知らないと、どれだけジェノスに居座ったって無意味だもん」
デルシェア姫はまだ真っ赤なお顔をしていたが、そのエメラルドグリーンの瞳には強い光が宿されていた。
とても明るくて、とても無邪気で――そして、とても力に満ちあふれた眼差しであった。
「わたしね、レイリス様とスフィラ=ザザ様のことも聞いたんだ。あのおふたりも身分違いの恋に悩んで……それを乗り越えたっていうお立場なんでしょ?」
「ええ、そういうことになりますね」
「それで、シュミラル=リリン様ってお人は神を移してまで、森辺に婿入りを願ったそうだね。そんなお人たちが、わたしに勇気を与えてくれたの」
そうしてデルシェア姫は、小さな手の平を俺のほうに差し出してきた。
「アスタ様。わたしの夢は、ジャガルで一番の料理人になることです。ですから、故郷を捨ててあなたに嫁入りすることはできません。……あなたは第二の故郷である森辺を捨てて、ジャガルの民となり、わたしの伴侶になってくださいますか?」
「いえ。俺は森辺を捨てることはできませんし、すでに心に定めた相手がいます。申し訳ありませんが、デルシェア姫の伴侶になることはできません」
デルシェア姫は、にこりと微笑んだ。
その白い頬に、透明の涙がすうっと流れ落ちる。
それをぬぐおうともしないまま、デルシェア姫はそっと右手を下ろした。
「ありがとう。わたしなんかの茶番につきあってくれて」
「茶番だなんて、そんな風には思っていません。でも……どうしても、デルシェア姫のお気持ちに応えることはできないんです」
「わかってるって! アスタ様の瞳には、あのお人しか映ってないもんね」
デルシェア姫が、横合いに目を向ける。
俺も同じほうに目をやると、アイ=ファは同じ場所にたたずんだまま、じっと俺たちの姿を見つめていた。
「そんなこともね、最初っからわかってたんだよ。一番最初に会った日から、アスタ様とあのお人が強い絆で結ばれてることは丸わかりだったもん。……それでも自分の気持ちを止められないんだから、恋心ってのは厄介だよねー!」
「はい。その厄介さは、俺も十分にわきまえているつもりです」
今でこそ、アイ=ファはいずれ俺と婚儀をあげたいと打ち明けてくれている。しかし、その前は――狩人たるアイ=ファと結ばれることはないと思いながら、それでも俺はどうしてもあきらめる気持ちになれなかった。
当時のアイ=ファも、それは同じことであったろう。俺が最初に自分の気持ちを打ち明けたとき、アイ=ファはとても幸福そうにしながら、とても切なげな眼差しで、「ままならぬものだな……」と言ってくれたのだった。
「でも、これで吹っ切れたよ。わたしはシュミラル=リリン様にはなれないから、スフィラ=ザザ様を見習うの。わたしの一方的な話ばかりで申し訳ないんだけど……今度こそ、艶っぽい話は抜きで、わたしの修行に協力してくれる?」
「はい。自分にできる範囲内でしたら、喜んで」
「あはは。そんなしょっちゅう森辺に押しかけたりしないから、心配しないでね! わたしが城下町の外に出るってなったら、またぞろぞろと護衛の兵士を引き連れることになっちゃうからさ!」
デルシェア姫はバルコニーの外に向きなおり、ロデに気づかれないよう気をつけながら、織布でそっと涙をぬぐった。
「じゃ、わたしはもう行くね! こんなに大変な祝宴の真っ最中に、ありがとう! アイ=ファ様にも、よろしくね!」
そうしてデルシェア姫は最後にとびっきりの笑顔を振りまいてから、元気いっぱいの足取りで立ち去っていった。
その小さな背中は、ロデとともに扉の向こうに消え――それを見送ったアイ=ファが、ゆっくりと俺のほうに近づいてくる。
「お待たせ。もしかしたら、聞こえてたかもしれないけど――」
「風向きのおかげで、あますところなく聞き届けることがかなった。ゆえに、説明は不要だ」
「そうか。さすが、狩人の耳だな」
「うむ。ロデなる兵士には、まったく聞こえていなかったようだ」
俺の正面に立ったアイ=ファは、とても澄んだ瞳で俺を見つめてきた。
「……このような際、お前になんと言葉をかけるべきか、判然としないな」
「だったら、無理に考える必要はないんじゃないかな。俺だって、ジェムドの件ではかけるべき言葉が見つからないからさ」
「ジェムドとデルシェアでは、比較になるまい。そもそもジェムドは、どのような考えであのような願い出をしてきたかもわからぬしな」
「そっか。アイ=ファにもわからないんだな」
「うむ。しかしデルシェアほど切実な思いは抱えていなかったろうと思う」
そう言って、アイ=ファは松明の光が遠く行き交う闇の向こうへと視線を飛ばした。
「デルシェア姫とて、いまだお前とはひと月半ていどの間柄で、そうまで頻繁に顔をあわせていたわけでもないが……レイナ=ルウとて、出会って10日ほどで、お前にルウ家の家人になることを願っていたな」
「おいおい、ずいぶん古い話を引っ張り出すんだな」
「そしてお前はサウティの集落において、ユン=スドラからも切なる心情を打ち明けられていた。お前には、それほどの魅力が備わっているということだ」
そう言って、アイ=ファは少しだけ目を伏せた。
「私などは、たまさかお前と一番最初に出会っただけだというのに……どうして私だけが、涙をこぼさずに済んでいるのであろうな」
「それは違うよ。というか、あまりにアイ=ファらしくない言い草じゃないか。俺がそんな軽い気持ちで、アイ=ファにひかれたと思ってるのか?」
アイ=ファはびっくりしたように、俺のほうを振り返ってきた。
「お前の心情をないがしろにした覚えはない。私は何か、言葉が足りていなかっただろうか?」
「うん。確かに俺とアイ=ファが出会ったのは偶然だし、長い時間を一緒に過ごしたからこそ、こんなに心をひかれたんだろうけど……アイ=ファが魅力的な人間じゃなかったら、どれだけ一緒に過ごしていたって心をひかれたりはしないよ。最初の出会いは偶然でも、あとは自分たちで育んできた気持ちだろう?」
「うむ。しかし私は、決してお前の心情をないがしろにしたつもりはなかったのだが……」
アイ=ファはまだ理解が及んでいない様子であったので、俺も思案を巡らせることになった。
「それじゃあ、こんな話はどうだろう。もしもアイ=ファが森で出会ったのが、俺じゃなく他の誰かだったなら……俺なんて、アイ=ファの人生に割り込む隙間はなかったよなあ。どうしてたまたまアイ=ファに出会えただけの俺が、こんなに幸せな気分でいられるんだろう」
「なんだそれは!」と眉を吊り上げかけたアイ=ファは、途中で眉を下げてしまった。
「……そうか。私はお前に対して、そのような言葉を投げかけてしまっていたのだな」
「うん。アイ=ファはきっと、自分の魅力を過小評価してるんだよ。俺のほうこそ、アイ=ファみたいに魅力的な人間が俺なんかを選んでくれたのが信じられない気持ちさ」
アイ=ファは「やめんか」と頬を赤くしてから、ふっと息をついた。
「しかし、わかったぞ。お前もまた、ひとつの事実を見過ごしているということだ」
「なんの話だよ? 俺は主張を曲げるつもりはないぞ」
「そういきりたつな。私は知らずうちにお前の心情をないがしろにしてしまったのだろうから、その点については幾度でも詫びよう。しかしお前も、少しは私の心情を慮ってみるといい」
そう言って、アイ=ファはふわりと後ろを向いた。
もともとアイ=ファはバルコニーの外に目を向けていたので、そうすると大広間のほうを向く格好になる。角度的に大広間の様相は見て取れないが、扉は大きく開け放たれているので、室内の燦然たる光がバルコニーのほうにあふれかえっていた。
「お前は今日、ジェノスでもっとも優れたかまど番として、300名もの人間から祝福を授かったのだ。ジェノスの領主も、ジャガルの王族も、誰も彼もがお前の力量を認め、満足そうに宴料理を口にしている。それがどれだけとてつもないことであるか、お前はまだ実感できていないのではないだろうか?」
「そう……なのかな? 俺としては、心からありがたく思ってるつもりなんだけど」
「私も、心から誇らしく思っている。お前が私のために作りあげてくれたはんばーぐの料理を、300名もの人間が幸福そうに食しているのだ。それがどれだけ誇らしく、どれだけ幸福な心地であるものか……お前には、正しく理解できているのだろうか?」
そう言って、アイ=ファは俺に向きなおってきた。
俺は最初から、アイ=ファのほうを向いている。右手の側には夜の闇、左手の側には大広間の輝きを控えさせ――俺の視界は、アイ=ファの美しい姿で埋め尽くされた。
「私はこの身が張り裂けんほどの喜びを抱いている。だからこそ、思うのだ。どうして私などが、これほどの幸福と喜びを授かれるのか、と……私などは、多少腕が立つだけの偏屈な女狩人に過ぎんのだぞ?」
「そんな格好でそんな台詞を言われても、説得力は皆無だな。アイ=ファはあんな大勢の人たちの目を奪うほど綺麗な女衆だし、それよりもっと綺麗な心を持ってるじゃないか」
俺は胸の奥底からわきあがってくる情動に従って、アイ=ファに笑いかけてみせた。
「俺は、アイ=ファがいてくれるから頑張れるんだ。俺はアイ=ファに相応しい人間でいたいから、こんなに力を振り絞れるんだよ。それでアイ=ファが自分を卑下することになるなんて、本末転倒だな」
「卑下などはしていない。ただ、身にあまる幸福に困惑しているに過ぎん」
「身にあまってなんかいないよ。アイ=ファと過ごしてきた2年ちょっとの時間が、この結果をもたらしたんだ」
そう言って、俺はアイ=ファの手を取ってみせた。
「アイ=ファがそんなに幸福なら、俺も同じぐらい幸福だよ。せっかくの幸福な心地をもてあましたりしないで、一緒に抱えよう」
「うむ」とうなずいたアイ=ファは、一瞬だけ俺の手を握り返してから、すぐにするりと逃げていってしまった。
「私も、同じ心情でいた。しかし私は自分の心情を語るのが不得手であるので、お前にいらぬ心労をかけてしまったのであろう。……許せ」
「いや、許すも許さないもないけど、でも俺は――」
「もうよいのだ」と、アイ=ファは静かながらも断固とした口調で俺の言葉をさえぎった。
「それよりも、大きな仕事を果たした家人アスタに、家長アイ=ファから祝福を授けようと思う」
「え? アイ=ファまでそんなものを準備してくれていたのか?」
驚く俺の言葉には答えず、アイ=ファは左右の手の平で俺のこめかみを抱え込む。
そうして左右の親指で前髪をかきわけたアイ=ファは、剥き出しになった俺の額に――そっと唇を押し当ててきたのだった。
「え? あ、なに、いや……」
一瞬で困惑の極みに陥った俺の顔を、アイ=ファは間近から見つめてきた。
その顔には、喜びと幸福にあふれかえった笑みだけが広げられている。
「私がまだ幼かった頃、父や母はこうして私のことを慈しんでくれた。血の繋がりを持たぬ私たちには不相応な行いであるやもしれんが……あくまで家族の慈愛ということで、母なる森には容赦を願いたく思う」
「は、母なる森は許してくれるかな?」
「許されなければ、私がその罪を背負って生きよう」
俺のこめかみから手を離したアイ=ファは、そのまま俺の身を抱きすくめて、頬のあたりに自分の額をこすりつけてきた。
「お前は私の誇りだ、アスタよ。……お前を、愛している」
「俺もだよ、アイ=ファ。幸福も罪も、一緒に背負っていこう」
ジェムドとデルシェア姫によってわずかながらに揺らされていた俺の心が、アイ=ファの温もりによって正しい位置に引き戻されたような心地であった。
もちろん俺はアイ=ファの心変わりを疑っていたわけではないし、自分の心変わりなどは論外であった。しかしそれでも、自分やアイ=ファに他者からの恋愛感情を向けられるというのは――どうしたって、看過できない出来事になってしまうのだ。
(きっとアイ=ファだって、それは一緒なんだろう。それでちょっと感情的な言葉をこぼしちゃっただけなんだろうに……それでムキになるなんて、本当に俺は未熟者だな)
普段よりもやわらかい装束に包まれたアイ=ファの背中をぎゅっと抱きすくめながら、俺は「ごめんな」と言ってみせた。
「お前が詫びる必要など、どこにもあるまい。今日はめでたき日であるのだから、喜びだけを噛みしめるがいい」
「それは、存分に噛みしめてるよ」
開け放しの扉からは、いつ誰がバルコニーに踏み入ってくるとも知れなかったが――俺はまだしばらく、この温もりから遠ざかる気持ちにはなれなかった。
アイ=ファも同じ気持ちであるのか、俺の背中をぎゅっとかき抱いている。俺の頬やら下顎やらを蹂躙するアイ=ファの金褐色の髪は、とてもやわらかくて甘い香りがした。
300名もの人々と、アイ=ファに祝福を授かった夜――俺はまた、決して忘れられない思い出をひとつ、胸の一番深い部分に刻まれることになったのだった。