礼賛の祝宴①~出発
2021.8/23 更新分 1/1
・今回は全8話の予定です。
当作の掲載7周年を記念して、人気投票と番外編の主人公を選出するアンケートを実施いたします。
*2021.8/31 アンケートの受付は終了いたしました。8/31付けの活動報告にて結果を発表いたしましたので、ご興味をもたれた御方はご笑覧くださいませ。
礼賛の祝宴というものの開催が正式に決定されたのは、最後の試食会の2日後、緑の月の18日のことであった。
礼賛の祝宴とは、大きな試食会で優勝を果たした料理人を祝福するための祝宴であるという。その大層な祝宴に、俺とトゥール=ディンが主賓として招待されることになったわけである。
しかし俺たちは、主賓であると同時にその日の料理番でもあった。俺たちはジェノス中の人々から祝福のお言葉を受け取りつつ、それらの人々が楽しむ宴料理を自ら手掛けなくてはならないのである。これはダカルマス殿下が故郷において独自に考案した、試食会とセットの催しであるそうだが――ずいぶんとまた、愉快な企画を考案してくれたものであった。
その祝宴に招待される人間は、およそ300名。城下町の貴族は言うに及ばず、試食会に関わった各関係者たちや、ジェノス全土の立場ある人間をかき集めて、それだけ大がかりな祝宴を開こうという目論見であるのだ。
言うまでもなく、俺やトゥール=ディンがそれほど大きな祝宴の取り仕切り役を任されたことはなかった。そもそもこれはジェノスにおいても十年ぶりぐらいに行われる大がかりな祝宴であるという話であったのだから、当然のことだ。
よって、この申し出を受け入れるかどうか、森辺においては三族長およびファとディンの家人で協議が行われることになったわけであるが――その結果、俺たちはこの大役に挑むという結論に至ったのだった。
「わ、わたしなんかがそのような大役を任されるのは、非常に心苦しいことなのですが……でも、菓子の準備だけであれば、できないことはないかと思います。ですから、それ以上の苦労を負うことになるアスタのお気持ちを尊重してください」
トゥール=ディンは、そのように主張していた。
「そうですね……前日のうちからあるていどの下ごしらえをしておけば、なんとかなると思います。ただもちろん、それなりの人数の方々に手伝ってもらえればの話ですが……」
俺がそのように発言すると、一緒に三族長と相対していたアイ=ファが鋭い眼差しを向けてきたものであった。
「本当に、それで300名分もの宴料理を準備することがかなうのか? もとよりこれは無茶な申し出であるのだから、せめて客の人数を減らすように申し入れることも許されるはずだぞ」
「うん。もちろん初めての試みだから、あまり軽はずみなことは言えないけど……今のみんなの調理技術だったら、できないことはないように思うよ。まったく勝手のわからなかった時代に100名分の宴料理を準備するって話よりは、気分的に楽なぐらいかもしれないな」
俺がそのように答えると、三族長の会合の場には同席する習わしであるガズラン=ルティムが申し訳なさそうに微笑んだ。
「それは、私とアマ・ミンの婚儀の祝宴についてですね。私たちの無茶な申し出を聞き入れていただいたこと、今でも深く感謝しています」
「あ、いえいえ、とんでもない! あのときも、俺は大きな喜びと達成感を授かることができましたからね。……それで今回も、あちらが俺たちの力を見込んで申し入れてきた話なのですから、なるべくそのままの形でお引き受けしたいと思います」
そんなやりとりを経て、俺たちは気持ちを固めることに相成ったのだ。
族長たちとの会合が試食会の翌日で、その翌日には受諾の返事を城下町に届けることになった。それでめでたく、礼賛の祝宴の開催が決定されたわけである。
そうなると、次の苦労を担うことになるのは、周囲の人々のほうだった。
もちろんもっとも大きな苦労を担ったのは、ジェノスの城下町の人々であろう。これまでの歴史でもなかなか類を見ない大規模な祝宴が滞りなく開催できるように、段取りを整えなければならないのだ。しかも名義上の主催者は南の王族たるダカルマス殿下であるのだから、これはジェノスの威信をかけた一大イベントになるはずであった。
まあ、それがどのような騒ぎであったかは、ひとまず横に置いておくことにして――とりあえず、祝宴の開催日は緑の月の28日に定められた。
最後の試食会からは、12日後のことである。すべての段取りを整えるのに、それだけの期日が必要であったのだろう。俺にしてみても、献立の設定や手伝ってもらうかまど番の人選に作業手順の確立など、為すべきことは山積みにされていたので、まったく時間を持て余すことにはならなかった。
「しかしそうすると、王家の者たちはさらに半月ばかりもジェノスに居残ることになるわけだな」
アイ=ファはむすっとした面持ちで、そのように言いたてていた。最後の試食会の時点で王家の方々の滞在はひと月に及んでいたのだから、それもあわせればひと月半ばかりの滞在になってしまうわけである。
が、こちらの案に相違して、試食会以降もデルシェア姫が森辺への来訪を希望することはなかった。
まあ、こちらは祝宴の準備で手一杯であるのだから、それを慮ってくれたのかもしれないが――それにしても、かつてのアルヴァッハやプラティカなどと比べても、それは謙虚な振る舞いであっただろう。デルシェア姫は森辺の調理法を学んでいきたいと願っているはずであるのに、けっきょく森辺にはまだ2回しか来訪していないのだ。
「まあ、試食会では毎回調理の見学をしていたし、礼賛の祝宴でもそれは同様だろうからな。それであるていどは、満足してるってことなんだろうと思うよ」
そんな具合に、俺は自分を納得させていた。何にせよ、今は祝宴の下準備に注力しなければならないのだ。
しかし俺はその合間にも、バランのおやっさんたちを再びファの家に招待したりもしていた。今回は、フォウ、ラン、スドラ、ディン、リッドの家が建築屋の面々を招待することになったので、おやっさんたち3名はまたファの家にお招きさせていただいたのである。
「こんな忙しい折に、なんだか申し訳ないね。アスタたちは、祝宴の準備でてんやわんやなんだろう?」
「いえいえ。それと晩餐の準備は関係ありませんからね。それに、祝宴が行われるのは緑の月の終わりごろですし……そうしたら、みなさんの逗留期間も半分が終わってしまうでしょう? それまでじっと我慢しているなんて、とうていできなかったんです」
俺がそのように答えると、アルダスやメイトンは嬉しそうに笑い、仏頂面のおやっさんもたいそう優しげな眼差しをしてくれたのだった。
ちなみにおやっさんとアルダスも、礼賛の祝宴には招待されている。試食会に関わった人々は、ごく一部を除いて優先的に招待されていたのだ。
それから除外されたごく一部の人々というのは、ククルエルを筆頭とする東の商団の人々に他ならなかった。
プラティカやアリシュナは招待されているので、出自が原因なわけではない。むしろククルエルたちのほうこそが、辞退を申し出ていたのである。
「申し訳ありませんが、我々も現時点でジェノスの滞在がひと月に達しています。本当でしたら是が非でも参席させていただきたいところなのですが……これ以上ジェノスに留まると、今後の旅程が大幅に狂ってしまうのです」
そんなわけで、ククルエルの率いる《黒の風切り羽》は、最後の試食会の翌朝にはジェノスを出立してしまったのだった。
「3ヶ月後には、西の王都の食材を携えて戻ってまいります。アスタたちも、それまでどうかお元気で」
最後の試食会の会場で、ククルエルはそんな言葉を告げてくれていた。
そしてもうひとつ、思いも寄らない話をこっそり聞かせてくれたのである。
「それでこれは、他言無用で願いたいのですが……次にシムからジェノスにおもむく際は、これまで以上の食材を携えてくるようにと、あの南の王子ダカルマスに申し渡されました。これはわたしばかりでなく、すべての商団の責任者に伝えられていたようです」
「え? それはどういうことでしょう? 南の使節団が持ち帰るのは、ゲルドの食材だけのはずですよね?」
「あの御方はジェノスを中継地点として、かなう限りの食材を南の王都に流通させたいと願っているようです。ジギもゲルドと同様に、東と南の戦乱には直接関わっていない立場となりますが……それでも、破天荒な行いであることに間違いはないでしょう。もしかしたら我々は、そういった話を通すために試食会に招かれていたのかもしれません」
ダカルマス殿下の胸中は、本人にしかわからない。
しかしまあ、あの御方が破天荒の権化であることに間違いはないようだった。
そしてもう一点、こちらは嬉しい驚きを秘めた事態が勃発した。
なんとダレイムからは大きな畑の管理者までもが招待されることになり、そこにドーラのおやっさんが含まれていたのである。
「まさか、俺たちまで城下町の祝宴に招待されようとはね! やっぱり王家の方々ってのは、懐の深いお人たちじゃないか!」
有り体に言って、ダレイムという領地には畑しか存在しない。よって、ダレイムの名士というのはすなわち畑の管理者ということになってしまうようなのだ。だからこれまではどれだけ大きな祝宴が開かれても、ダレイムの民にお呼びがかかることはそうそうありえなかったわけであるが――ここでもまた、ジェノス始まって以来の破天荒な行いが実現されたのだった。
ちなみに宿場町から招待されるのは、さまざまな商売の商会長を務める人々などである。そういう人々はタパスと同様にサトゥラス伯爵家とゆかりが深いため、よほど大きな祝宴であれば招待されることもなくはない、といったぐらいのポジションであるようだった。
「それにしても、すべての商会長が招待されるというのは、これまでになかった椿事でありましょう。逆に言えば、そうまでしない限りはジェノスだけで300名もの人間を集めるのは難しい、ということなのでしょうな」
参席者の概要が告知されると、当のタパスもそのように言いたてていたものであった。
今回は、それほどに大がかりな祝宴であるのだ。
俺やトゥール=ディンにしてみれば、いっそう身が引き締まる思いであるが――何にせよ、為すべき仕事に変わりはない。見知った人々もそうでない人々も区別なく、参席者の全員に喜んでいただけるように力を尽くすばかりである。
そうして俺たちは、最後の試食会を終えた後も慌ただしく日々を過ごすことになり――ついに、礼賛の祝宴の当日を迎えることに相成ったのだった。
◇
前日に入念な下ごしらえを果たした俺たちは、それらの成果を携えて、いざ城下町に向かうことになった。
ただし今回は自前の荷車ではなく、迎えのトトス車がわざわざ森辺まで迎えに来てくれることになっていた。このたびは人数が人数であるし、そこに莫大な量の食材まで加えると、さすがに自前の荷車ではキャパオーバーになってしまうためである。下ごしらえが必要な食材に関しても、前日の内に城下町からのトトス車が届けてくれていたのだった。
出発の刻限は、上りの三の刻。
この時点で城下町を目指すのは、50名のかまど番と10名の狩人である。そうして祝宴の始まりにはもう10名の狩人が駆けつける手はずになっていたため、これは間違いなく過去最大の人数であるはずであった。
ちなみに50名のかまど番の内、20名は祝宴の参席者を兼ねている。城下町からは男女20名ずつを招待したいという話をいただいていたので、そういう割り振りになったのだ。残る30名のかまど番は祝宴の間も料理の取り分け役などを担うわけであるが、そういった人々も城下町で大仕事を果たすとあって、大きな熱意をその眼差しに宿らせていた。
(それにしても、50名のかまど番ってのはすごい人数だよな。たぶん森辺の民は総勢で600名ていどなんだから、人口の1割近い女衆が城下町に向かうことになるわけだ)
なおかつ、本日の祝宴の参席者は300名ていどであるため、そのうちの40名が森辺の民ということになるのだ。これもまた、ジェノスの人口の分布を考えれば、とほうもない人数であるはずであった。
集合時間の少し前、ファの家の前には30名ていどの人々が集まっている。あまり人数が多いと混乱を招きそうであったので、もう半数の人々はルウの集落に集まってもらったのだ。
そしてこの場には、前日からディンやリッドの家に泊まり込んでいた北の集落の面々も集っていた。その顔ぶれは、ゲオル=ザザ、スフィラ=ザザ、ディック=ドム、モルン・ルティム=ドムというものである。
「……スフィラ=ザザが城下町に出向くのは、1年以上ぶりということになるわけだな」
と、アイ=ファが珍しくも自分から声をかけると、スフィラ=ザザはいつも通りの鋭い面持ちで「ええ」と応じた。
「あのような騒ぎを起こしたわたしはしばらく城下町に近づくべきではないと言い渡されていましたが、ようやく許しを得られることになりました。決して同じ過ちを犯したりはしませんので、心配はご無用です」
「スフィラ=ザザに限って、そのような心配はしていなかったが……ただ、あえてお前を城下町に出向かせる理由はないのではないだろうか?」
アイ=ファがそのように言葉を重ねると、スフィラ=ザザはいっそう鋭い眼差しになった。
彼女はかつて、サトゥラス騎士団の騎士レイリスに思慕の情を寄せてしまい、小さからぬ騒乱を森辺と城下町に招いてしまったのだ。そして本日は、そのレイリスも祝宴に参ずるはずであったのだった。
「やはりアイ=ファは、いらぬ心配をされているようですね。この上は、言葉ではなく行動によって我が身の潔白を示してみせましょう」
「だから、お前が騒ぎを起こすなどと案じているわけではない。私はただ……お前がいらぬ苦しみを抱えることになるのではないかと考えたまでだ」
アイ=ファが落ち着いた声音でそのように続けると、スフィラ=ザザは何かを思いなおした様子で眼差しをやわらげた。
「申し訳ありません。やはりわたしも、少々気を張ってしまっているようです。……ですが今日は、大きな仕事を果たしたトゥール=ディンが祝福される祝宴であるのですから、どうしても同行したいと自ら族長たちに願ったのです」
「そうか。トゥール=ディンと懇意にするお前であれば、そのように願うのも当然のことであろう。余計な口をはさんでしまい、申し訳なく思う」
「とんでもありません。わたしなどの心情を慮っていただき、感謝しています。……決してぶざまな姿はお見せしないと約束しますので、どうか安心してお見守りください」
アイ=ファとスフィラ=ザザがこんなに穏やかな雰囲気で語らうのは、珍しいことであろう。やはり時間というものは、人と人との関係を大きく変えていくものであるのだ。
俺がそんな感慨を噛みしめていると、ようよう迎えのトトス車がやってきた。
30名という人数に対して、10名乗りのトトス車が5台だ。空いたスペースに食材を積めば、これでちょうどいい計算になるはずであった。
「お、お待たせいたしました。ほ、本日は小官がファの家のアスタ殿を紅鳥宮までお送りいたします」
と、先頭の御者台から降りた人物が、恭しげな仕草で膝を折る。兜の下からくりくりの巻き毛をこぼした大柄で気弱そうな若者、ガーデルである。
「ど、どうしたんですか? 俺なんかを相手に、そんな仰々しい挨拶は不要でしょう?」
「い、いえ。本日は、アスタ殿が祝宴の主賓でありますので」
ガーデルは地面に膝をついたまま、彼らしい気弱そうな微笑を浮かべた。
しかしこちらは、これから数時間がかりで宴料理を準備する所存である。主賓だ何だと言われたところで、頭の中身は調理のことでいっぱいの状態であった。
「とにかく、出発しましょう。まずは、荷物の積み込みをしますので」
森辺の民が30名がかりであれば、そんな作業も一瞬だ。
あらためて、俺たちは城下町の紅鳥宮に向かうことになった。
「いよいよですね! 今日という今日は、試食会以上に胸が高鳴ってしまいます!」
同じ車に乗り込むことになったレイ=マトゥアが、そのように言いたてていた。
「300名分の宴料理というのは大変な話ですけれど、でもこちらは50名がかりですからね! ひとりで6名分ずつ作りあげると考えれば、どうということもないように思えてきます!」
「でも、宴に参じた人間はひとりで10種以上の料理や菓子を口にするのですからね。その6名分をひとりで作りあげると考えたら、やっぱり大変なのではないでしょうか?」
そのように応じたのは、度重なる試食会ですっかり仲良しになったナハムの末妹であった。
「そうして大変だからこそ、わたしは胸が浮き立ってしまいます! レイ=マトゥアも、きっとそうなのではないですか?」
「そうですね! 簡単な仕事では、やりがいもないでしょうから!」
明朗さの塊であるレイ=マトゥアたちのおかげで、トトス車の席内にはきわめて和やかな空気が満ちることになった。
本日は、試食会に関わった16名のかまど番が、全員参じている。というか、ふだん屋台の商売に関わっている女衆のほとんどが、50名の中に含まれているのだ。辞退を申し出たのは、ふたりきり――ヤミル=レイとリリ=ラヴィッツのみであるはずであった。
「わたしがその中に加われば、どうしたって家長もくっついてきてしまうでしょうからね。朝から晩までかまど仕事に励んで、夜には家長のお世話だなんて、考えただけでも気が遠くなってしまうわ」
ヤミル=レイは、そんな言葉でこの仕事を辞退していたのだった。
確かにラウ=レイは酒が入るとやんちゃの度合いが急上昇してしまうため、このように大きな祝宴に連れ出すのは、いささかおっかないところである。森辺の祝宴ではダカルマス殿下と意気投合していた様子であったが、逆に言うと、ああいった無礼講のノリが城下町で通用するかどうか、はなはだ心もとなかったのだった。
だがしかし、ヤミル=レイがそれだけの理由で辞退を申し出たとは考えにくい。だから俺は、「男性陣は20名まで」という取り決めの中で、ルウの血族ばかりが参席を望むのは公平性を損なってしまう、と――ヤミル=レイにはそんな思惑もあったのではないかと考えていた。
リミ=ルウやララ=ルウやマイムが賓客として招待されている関係から、ルド=ルウやシン=ルウやジーダも早い段階から参席したいと表明していたのだ。さらにジザ=ルウやガズラン=ルティムは最初から族長たちに参席を申し渡されていたため、この時点でもうルウの血族はそれなりの人数に達してしまっていたのだった。
(それにラウ=レイは、容姿だけなら森辺で指折りの美形だし、もしも城下町の姫君にでも見初められたら厄介だ……なんて、ヤミル=レイでもそんなことを考えたりするのかな)
まあ、そういった裏事情はさておき、本日はヤミル=レイとリリ=ラヴィッツを除く精鋭部隊が顔をそろえていた。屋台に関わっていないメンバーからは、スフィラ=ザザやモルン・ルティム=ドム、イーア・フォウ=スドラやミル・フェイ=サウティ、それにフォウやランの女衆などが参じてくれたのだから、もう盤石である。
そうして意欲に燃えるかまど番たちと、それを護衛する狩人たちを乗せて――トトス車は、本日の会場である紅鳥宮に到着した。
ルウ家で合流したトトス車からも、レイナ=ルウたちがぞろぞろと降りてくる。そんな中、2台のトトス車は扉を開いただけで、誰も降りてこない。そこから顔を出したのは、トゥール=ディンであった。
「そ、それではアスタに他の方々も、またのちほど」
「うん、おたがい頑張ろうね」
紅鳥宮の厨だけでは手狭であったため、トゥール=ディンが率いる菓子担当の部隊は白鳥宮の厨で仕事に励むことになったのだ。
その隊員は、スフィラ=ザザやモルン・ルティム=ドム、普段からトゥール=ディンの仕事を手伝っているディンやリッドの女衆など、ザザの血族の10名で構成されている。護衛役は、もちろんゲオル=ザザとディック=ドムだ。
それらの面々と別れを告げて、俺たちはいざ紅鳥宮へと乗り込んだ。
かまど番は40名、護衛役は8名である。こちらには4つの厨が存在するため、10名と2名で分かれる段取りになっていた。
しかしその前に、まずは恒例の浴堂だ。
俺と一緒に身を清めるのは、ジザ=ルウ、ガズラン=ルティム、ルド=ルウ、シン=ルウ、ジーダ、チム=スドラ、ジョウ=ラン、そしてベイムの長兄という、これまた頼もしい顔ぶれである。ルウの血族は多数の参席の権利を譲ってもらった代わりに、この長時間にわたる護衛の仕事を率先して引き受けてくれたのだった。
「今日はようやく、城下町に参ずることができました。ここしばらくはユーミもずっと忙しそうにしていたので、なかなか顔をあわせることもできなかったのです」
鼻歌まじりに身を清めながら、ジョウ=ランがそのように言いたてた。森辺の狩人としてはやわらかい面立ちをしているが、やはりその身は他の狩人たちに負けないぐらい研ぎ澄まされている。
「今日はユーミも、城下町の宴衣装なのでしょう? それがどれほどの美しさであるのか、想像しただけで胸が弾んでしまいます」
「ふーん。そうまで気持ちが固まってるんなら、とっとと婚儀をあげちまえばいいように思うけどなー」
ルド=ルウが気安く相槌を打つと、ジョウ=ランは「いえいえ」と笑顔で首を横に振った。
「ユーミの心にわずかでもためらいがあるうちは、決して軽はずみな真似はできません。それに俺自身、もっともっとサムスやシルと絆を深めたく思っています。そうしたら、彼らも安心して嫁に出すことができるでしょうしね」
「ふーん。そうこうしてる間に、ユーミが他の男にちょっかいをかけられるとは考えねーのか? 森辺と違って、町では一夜の恋とやらも許されてるんだぜー?」
ジョウ=ランはにこにこと笑ったまま、ルド=ルウを振り返った。
「そんな真似は、ユーミ自身が決して許しません。ルド=ルウは俺よりも古くからユーミを見知っているのに、彼女の清廉さを疑うのですか?」
「腹が立ったんなら、無理して笑うことねーだろー。お前、やっぱ変わってんなー」
そんな微笑ましい一幕を経て、俺たちは浴堂を出ることになった。
ルド=ルウたちには、お馴染みの武官のお仕着せが準備されている。もう小姓の手を借りずとも着方を覚えたルド=ルウは、それに腕を通しながら小首を傾げていた。
「どうせ祝宴になったら、俺たちも宴衣装に着替えさせられるんだろ? それなのに、いちいちこいつを着ないといけねーのか?」
「うん。それがこの宮殿の習わしなんじゃないのかな。きっとデルシェア姫も、厨の見学に出向いてくるんだろうしね」
すると、シン=ルウも「しかし」と声をあげてきた。
「祝宴に参ずる40名のすべてに宴衣装が準備されたとは、驚くべき話だな。城下町の宴衣装というのは、たいそう値の張るものなのだろう?」
「ああ、それも含めてダカルマス殿下からの感謝の気持ちであるそうだよ。何せ王子殿下なんだから、銅貨や銀貨は有り余ってるんだろうね」
「となると……もしかして、この日の祝宴にかかる費用も、すべてあのダカルマスが準備したということなのだろうか?」
「詳しくは聞いてないけど、主催はあくまでダカルマス殿下って話だから、そうなのかもしれないね」
それにもちろんこれまでの試食会やジェノス滞在の費用だって、ダカルマス殿下が捻出しているはずであるのだ。ダカルマス殿下はそこまでの身銭を切ってまで、これだけのイベントを乱発しているのだった。
(まあ俺たちとしては、ダカルマス殿下をガッカリさせないように宴料理の準備を頑張るだけだからな)
女性陣と合流したのちは、4つの班に分かれてそれぞれの厨に向かう。班長は、俺、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、ユン=スドラが受け持ち、それぞれ担当の料理を仕上げるのだ。
しかしこれは、あくまで俺が取り仕切り役を務める仕事である。よって、俺の班にはマルフィラ=ナハムにレイ=マトゥアにフェイ=ベイムといった実力者を集めて、俺の留守を預けられるように取り計らっていた。
(ここまで俺が先頭に立つってのは、ちょっとひさびさのことだもんな)
合同収穫祭においては取り仕切り役も持ち回り制とされていたし、他の氏族の収穫祭ではゲストのかまど番としていくつかの料理を準備するのが、ここ最近の俺のスタンスであった。森辺ではもう数多くの優秀なかまど番が育っていたのだから、俺はなるべくしゃしゃり出ないように気をつけて、みんなに同じだけの責任を割り振り、同じだけの喜びと達成感を分かち合えるように取り計らっていたのだ。
そうしてルウ家ではレイナ=ルウが、北の集落ではトゥール=ディンが、ラヴィッツを含む合同収穫祭ではマルフィラ=ナハムが、それぞれ取り仕切り役を担うようになった。彼女たちがそれだけのかまど番に育ったことを、俺はかねてより喜ばしく思っていたのである。
しかし本日の取り仕切り役は俺であり、全責任は俺が負うことになる。菓子においてはトゥール=ディンの領分であるが、この紅鳥宮で行われる調理に関しては、一から十まで俺の責任のもとに果たされるのであった。
(そう考えると、これもダカルマス殿下に与えられた試練みたいに思えてきちゃうな)
俺は3度の試食会を経て、料理人としての自負や初心を問われたような心地になっていた。俺はみんなの成長を見守ったり、ジェノスの食文化の発展を後押しするために、一歩引いたところから全体を見渡そうとする節があったように思うのだが――ダカルマス殿下にその襟首をひっつかまれて、舞台のど真ん中に引きずり出されたような心持ちであったのだ。
もちろん俺は、今後もそういったスタンスを守るのだろうと思う。俺が求めているのは、森辺の民の豊かな生活が維持されることと、あとは俺がいない場所でも人々が美味なる食事を楽しめるような食文化が確立されることであり、個人としての名声などにはこれっぽっちも興味はないのだ。
しかしまた、俺は親父を超える料理人になりたいと、強く願っている。
であれば、こうして時には最前線に立って、大きな苦労を背負うべきであるのだろう。俺は案内人としてみんなを導くのではなく、同じ世界に暮らす同胞のひとりとして同じ道を歩みたいと願っているのだった。
(そもそも自分が先頭に立ってるだなんて思うのは、とんでもない驕りだからな。レイナ=ルウたちは、たった2年やそこらであれだけの力を身につけることができたんだ。うかうかしてたら、俺なんて簡単に追い抜かれちゃうんだろう)
俺は別に、レイナ=ルウたちに負けたくないと勇んでいるわけではない。
ただ、同じ志を胸に抱いて、一緒に頑張っていきたいと願っているのだ。
だから俺は、レイナ=ルウやトゥール=ディンやマルフィラ=ナハムたちがそれぞれの氏族の祝宴で取り仕切り役を頑張っているように、この礼賛の祝宴の取り仕切り役を頑張りたかった。血族を持たないファの家人である俺にとって、これはきっとまたとない成長の機会であるのだろう。
(それでけっきょく、話を突き詰めると……俺はアイ=ファに相応しい人間でいたいってことなのかな)
そんな想念に身をゆだねつつ、俺は自分に割り振られた厨に足を踏み入れた。
そこで待ちかまえていたのは、満面の笑みをたたえたデルシェア姫である。
「アスタ様、ひさしぶりー! けっきょく10日以上も空いちゃったね! 今日は今まで会えなかった分まで、しっかり見学させていただくよー!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そうして俺は、その日の大仕事に取り掛かることになったのだった。