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異世界料理道  作者: EDA
第五章 宿場町のギバ肉料理店
108/1705

幕間 ~二人の朝~

2014.10/13 更新分 1/1 2015.10/4 誤字を修正


*作品を書きためるため、数日から1週間ていどのお休みをいただきます。再開の日時は活動報告にて告知させていただきますので、必要な方は「お気に入りユーザ」の登録をしていただければ、活動報告の更新が自動的に通達されます。

なるべく早い再開を目指しておりますので、引き続きご愛顧いただければ幸いです。

 目覚めると、アイ=ファの安らかな寝顔が、目の前にあった。

 目の前すぎて心臓が止まりそうになるほどの、それは超絶的な至近距離だった。


 ほとんど鼻先数センチの位置である。

 そこだけは色素の淡い小さな唇が少しだけ開いて、すうすうと健やかな寝息をたてている。

 金褐色の睫毛が、とても長い。

 同じ色をした綺麗な髪が、まるで装飾品のように額や頬にかかっている。


 何て安らぎきった寝顔だろう。

 昨日の苦しそうにしていた様子が嘘みたいだ。

 赤ん坊のように無防備で、実際の年齢よりもずいぶんと幼く見えてしまう、あどけない寝顔――


 だけどそれが、いささかならず、近すぎる。


 ちょっと言葉にならないぐらいの幸福な心地を獲得しつつ、俺は激烈に錯乱することにもなった。


 アイ=ファは、俺の左肩に頭を乗せて、すやすやと眠っていたのである。


 身体の右側を下にして、アイ=ファは横向きに寝そべっている。

 そして、仰向けに寝た俺の身体に、ぴったりと寄り添っている。


 それを知覚した瞬間、アイ=ファに触れている左半身が急速に熱をおびていくように感ぜられた。

 ただし、左腕だけは感覚が鈍い。たぶん、血流がだいぶん妨げられてしまっているのだろう。


 ……まず落ち着こう。

 心臓のやつが激しいドラミングを開始していたが、とにかく冷静に対処せねばならない。


 えーと。

 えーとえーと。

 昨晩はどのような状態で眠りに落ちたのか、俺は大急ぎで記憶巣を精査する。



 昨日、アイ=ファは、左肘の脱臼という重い怪我を負ったのだ。

 だから、晩餐まではずっと眠っていた。


 その晩餐は、俺が手ずから食べさせてやった。

 熱冷ましの薬草が効いていたのか、アイ=ファは終始ぼんやりとしており、放っておくと器を落としてしまいそうなぐらいだったのだ。


 そうでなくても、卓の存在しない食卓なので、片腕では食事もままならない。スープとハンバーグと焼きポイタンの晩餐を、俺は30分ぐらいかけてゆっくりと食べさせてやった。


 その後は、壁にもたれかかったまま、アイ=ファはずっとぼんやり座りこんでいた。

 熱はずいぶん下がっていたし、ひどい痛みもないようだったが、とにかくアイ=ファはずっとぼんやりしてしまっていた。


 もしかしたら、あの葉には鎮静剤としての効果もあったのかもしれない。普段の張りつめた感じを失ったアイ=ファは、何だかすごく幼げで、すごく頼りなげに見えてしまった。


 そんな常ならぬアイ=ファの様子に心を痛めながら、俺は料理の仕込みに取り組んだ。

 タラパのソースを煮込みつつ、『ミャームー焼き』90食分の肉を切りわけなければならなかったのだ。


 俺が仕込みを終えるまで、アイ=ファは無言のまま寝たり起きたりを繰り返しているようだった。


 そうして、俺が仕込みの作業を終えた頃。

 アイ=ファは再び、熱にうなされ始めてしまったのだ。


 もう1度熱冷ましの薬を飲ませたが、アイ=ファは苦しげなままだった。

 俺は何度も水に濡らした布をしぼって、アイ=ファの顔をぬぐってやったが、そんなものは気休めにしかならなかった。


「もうよい……しばらく隣に座っていてくれ……」


「隣に?」


 わけもわからぬままその言葉に応じると、アイ=ファが俺の肩にもたれかかってきた。

 身体が、ものすごく熱い。

 額などは、火のようだ。


「これでいいのだ……この熱が引いたとき、身体は力を取り戻す……」


 アイ=ファの身体は、少し震えていた。

 額や胴体は熱いのに、俺の胸もとをつかんだ右手の指先は、氷のように冷たくなってしまっているようだった。


 その冷たい指先をぎゅっと握りしめてやると、アイ=ファは熱で潤んだ瞳で、じっと俺を見つめてきた。


「……不快でなければ、しばらくこのままで……」


「不快じゃないし、不快でも関係ないだろ」


 そうして、獣脂蝋燭が尽きるまで、俺はずっとアイ=ファのつらそうな横顔を見つめていた。

 獣脂蝋燭が尽きた後は、月明かりの中で見つめていた。


 やがてその面から苦悶の表情が消え去ると、安らかな寝息が聞こえてきた。


 良かった――と、胸をなでおろしたところまでは、覚えている。

 と、いうことは、俺もそのまま寝入ってしまったということか。



 今、窓からは、うっすらと日差しが差しこんでいる。

 その明るさの加減からして、大きく寝過ごしてしまったわけではないようだ。


 見れば、アイ=ファのすぐ向こう側に家の壁がうかがえる。

 壁にもたれて寝入ってしまった俺たちは、そのままずるずる床に沈没してしまったのだろう。


 俺の身体がクッションになって、左腕にダメージがいかなかったのなら、何よりだ。


 何よりだが、この体勢は、あまりに気まずい。

 かといって、俺が乱暴に動くと怪我に響いてしまいそうだったので、ここはアイ=ファに目覚めてもらう他ないようだった。


「アイ=ファ、朝だぞ……いったん起きてもらえるか?」


 アイ=ファは、「ううん」と、うるさそうな声をあげた。

 そういえば――俺がアイ=ファより先に起きるということ自体が、珍しいことだ。

 それに、普段のアイ=ファであれば、一声かけたところでぱちりとまぶたを開けるはずである。


 だから……こんなに胸が騒いでしまうのだろうか。

 子どものようにむずがるアイ=ファの寝顔は、反則級の愛くるしさだった。


「また寝直してもいいから、いったん起きてくれ。このままだと、俺が動けないんだよ」


「……やかましい……」と、小さな声でつぶやきながら、アイ=ファがぐりぐりと頭を押しつけてくる。


 ああもう何だろう。せっかく落ち着いてきた頭が、また錯乱してしまいそうだ。


「私は家長だぞ……家長に生意気な口を叩くな……」


 これは完全に寝ぼけているな。

 アイ=ファの寝ぼけた姿なんて、ダルム=ルウの笑顔ぐらい貴重なシーンだと思う。

 しかし、そのお姿をいつまでも満喫してはいられない我が身である。


「家長殿。朝の仕事のお時間なのです。わたくしめは晩餐の後片付けをしなくてはならないので、いったん起きていただくことはかないませんでしょうか?」


「ううん……」と、また可愛らしい声をあげながら、アイ=ファはのろのろとまぶたを持ち上げていく。


 その、あまり焦点の合っていない青い瞳が、至近距離から俺を見つめた。


「……アスタか……」


「はい。家人のアスタでございます」


「……うむ……アスタだな……」などと意味のない復唱をしてから、アイ=ファはにっこりと微笑んだ。


 あのアイ=ファが。

 にっこりと、である。


 そしてアイ=ファは、アイ=ファにあるまじきそのあどけない笑顔を浮かべたまま、またゆるゆるとまぶたを閉ざし始めてしまった。


「……アスタだった……」


「いや、そうじゃなくって! 朝です! 朝なのです、家長!」


 すると今度は、そのまぶたがいつも通り、ぱちりと開いた。

 ほっと安堵する俺の顔を、ようやく焦点の合ってきた瞳が、不思議そうに見る。


「……どうしてそのようにべったりと私に引っついているのだ、アスタよ?」


「いや、どう見ても引っついてるのは、お前のほうだけど。……昨晩はうっかり、引っついたまま眠ってしまったみたいだな」


「……そうだったか。覚えていないな」と、アイ=ファはすみやかにまぶたを閉ざした。


「まあ、おかげで熱は下がったようだ……」


 そして、「くう」という可愛らしい寝息をもらす。


「いや、寝直さないでくれ! 仕事! 仕事をしなくちゃならないから!」


 アイ=ファがちっとも苦しそうな様子でないことに安心しながらも、俺はわめかずにいられなかった。


 アイ=ファのまぶたが三たび開き、不満そうに俺を見る。


「……もう朝なのか」


「この明るさは、どう考えてもそうだろ」


「そうだな。やはりロムの葉を口にしてしまうと、身体の調子が狂ってしまうようだ。もうしばらくは、このまま寝ていたい」


 そんなことを言いながら、アイ=ファはまた少し俺の胸もとに頭をこすりつけてきた。


 絶句する俺をよそに、そのままむくりと身を起こす。


「しかし、そういうわけにもいかんか。――すっかり世話をかけてしまったな、アスタ」


「いや……元気になったようで何よりだよ」


 1番しんどかったのはこの数分間だったなと心中でぼやきつつ、俺もゆっくり身を起こす。


 アイ=ファは床の上にあぐらをかき、右腕だけをうーんとのばした。


「熱は下がったし、痛みもだいぶん引いてきた。それでは朝の仕事に取りかかるか」


「え? いや、お前は休んでいてくれよ。洗い物は、俺が片付けてくるから」


「何を抜かすか。スン家の人間が現れたら、何とするつもりだ?」


「いくらあいつらが非常識でも、そんな朝一番で押しかけてくることはないだろ! ある意味、1番人目につく時間帯でもあるんだから。……それより何より、お前は怪我人じゃないか?」


「ふむ? まさかお前は、左腕が使えないていどで、私があのような者どもに遅れを取るとでも思っているのか?」


 と、アイ=ファは不満そうに唇をとがらせる。


「本家の3兄弟がまとめてかかってきても、右腕さえ無事なら何ということはないわ。……あのルウ家の長兄あたりが相手であれば、逃げるしか手はないだろうがな」


 森辺の民とは、そこまで正確に相手の力量を測れるものなのだろうか。

 というか――アイ=ファは五体満足であればジザ=ルウさえも討ち倒せる自信があるのだろうか。


 カミュア=ヨシュを討ち倒すことができるのはドンダ=ルウぐらいだとつぶやいていたルド=ルウの言葉が、頭をよぎる。


「……とにかくさ、その腕じゃあ水仕事はできないだろ? 何かあったら走って逃げてくるから、お前はゆっくり休んでいてくれよ」


「うむ。……まあ、あまりこのような姿をさらして集落を歩きたくはないな。水場の仕事だけは、お前にまかせるか」


 と、まだ少し不満げな顔をしながら、アイ=ファはそう言った。


「それでは私は家の仕事を片付けておく。くれぐれも油断はするなよ?」


「ああ。だけど、お前は本当に休んでおいたほうがいいんじゃないか? また熱でも出ちまったら、そのほうがまずいだろ」


「大丈夫といったら大丈夫だ。骨にもおかしな痛みはないし、手足には力が満ちている。これならば、普段通りに動いたほうが、傷が癒えるのも早い」


 そして、少し穏やかな目つきになって、俺を見つめる。


「それに、昨日の食事が正しく血肉になっているのを感じる。1年前に同じ傷を負ったときよりも、熱が下がるのもうんと早かった。それらはすべてお前のおかげだ、アスタ」


「……そう言ってもらえるのは、すごく嬉しいよ」


 俺はようやく、笑顔を浮かべることができた。

 アイ=ファも、目もとだけで笑う。


「それでは仕事にかかるぞ、アスタ」



           ◇



 もちろん、水場までの道程で、スン家に襲撃を受けるようなことはなかった。


 酒で理性を失ったりしない限りは、おおっぴらに悪ふざけはできないスン家であるはずなのだから、こんな朝方にまで気を張る必要は、本来ないのだ。


 しかし俺は、ミダ=スンにテイ=スンという存在を目の当たりにすることになってしまった。

 あの2名は、酔いにまかせて暴れるようなことはしないのかもしれない。

 その代わりに、何をしでかすかわからない不気味さがある。


 ミダ=スンなどは、どこまで家長の言いつけを理解できる知性があるのかも謎であるし、テイ=スンなどは、それ以上に内心がうかがえない。

 こうなったらもう、二十四時間体勢で警戒するしかないだろう。


「あれ? 何だよ、その格好は?」


 洗い物を済ませて家に戻ると、アイ=ファが狩人の装束で待ち受けていた。

 毛皮のマントは言うに及ばず、刀まで吊るした完全武装である。


「何だとは何だ? 家の仕事が片付いたのだから、次は薪とピコの葉の採取であろうが?」


「いやあ、今日ぐらいは休んでもいいんじゃないか? その身体で森に入るのはしんどいだろう」


 答えながら、俺は洗いたての鉄鍋をかまどにセットして、柄杓で2杯だけ水を注ぎ、薪をくべていく。

 森の端に向かう前に、まずポイタンを煮詰めておかなければならないのだ。


 そして、同じく洗いたての衣類は壁に。

 1着しかないTシャツと白タオルは、だいぶん年季が入ってきてしまった。


 部屋の真ん中で仁王立ちになったアイ=ファは、ちょろちょろと家の中を動き回る俺の姿を目で追いながら、また不満そうな声をあげる。


「その気遣いが不要だというのだ。1日でも仕事を怠れば、明日の仕事がより重くなる。……それに、宿場町での商売を始めてから、ピコの葉の傷むのが早まったようではないか?」


 それはもちろん、俺も気づいていた。


 ピコの葉は、肉の水分を吸い取りつつ、防腐の効果を発揮してくれる香辛料である。

 で、商売用のパテや肉の切り分けを前日までに済ませてピコの葉にうずめなおしておくと、大きく切り分けた肉塊よりも表面積が増すせいか、ピコの葉がいっそうの水分を吸う結果になるようなのである。


「もしかしたら、ひと月を待たずしてピコの葉を総入れ替えする必要が出てくるかもしれん。ならばなおさら、ゆとりをもって集めておくべきであろうが?」


「うーん……それはそうなのかもしれないけれども……」


「それに昨日は、死ぬほど汗をかくことになった。水浴びでもしなくては気色が悪くてたまらぬわ」と、アイ=ファは鼻の頭にしわを寄せた。


「こうして狩人の衣を纏っていれば、傷ついた腕を隠すこともできる。何も案ずることはない」


 それでも俺が困惑の色を消せずにいると、アイ=ファはちょっと表情を改めた。


「アスタ。お前が私の身を案じてくれているのは、よくわかっている。しかし、本当に心配はいらないのだ。私は自分の身体から聞こえてくる声に、忠実に従っているに過ぎない。……私の判断を、信じろ」


「……わかった」


 アイ=ファの瞳には、信じるに足る落ち着きと力強さがあった。

 狩人としての誇りを強く持つアイ=ファが、怪我の回復を遅らせるような無茶をするはずがない、と俺は信じるべきなのだ。


 そうして商売用の50個+予備分3個+まかない用2個+晩餐用4個のポイタンを煮詰めた後は、薪とピコの葉を詰めるための袋を手に、森の端へと出立する。


 いつも通りの、朝の光景である。

 ただ、アイ=ファは少しだけマントの向きをずらして左半身を完全に隠すようにしており、なおかつ金褐色の長い髪を、左側でゆるく束ねていた。


 普段は首から上で複雑な形に結いあげているのだが、何だか今日はヴィナ=ルウのような髪型である。


「アイ=ファ。その髪型は、なかなか新鮮だな。やっぱり片手だといつもの形に結いあげるのが難しいのか?」


「うむ。これだけは如何ともし難い」


「たまにはいいんじゃないかね。なかなか似合ってるよ」


 美人は本当に得ですね、と内心でつけ加える。

 黄色く踏み固められた道を歩きながら、アイ=ファは「ふん」と面白くもなさそうに鼻を鳴らした。


「本当は髪など邪魔にならぬよう短くしてしまいたいのだがな。このしきたりだけは、とっとと廃れてほしいものだ」


 女衆は、嫁に入るまで髪を切ってはいけないというしきたりが存在するのである。

 アイ=ファのこの美しい金褐色の髪が、すっぱりと切りそろえられることは――果たしてこの先、ありうるのだろうか。


 そんなこんなで、ラントの川に到着した。

 森の端を流れる、穏やかな川である。

 このあたりの川べりは岩場だが、もう少しさかのぼっていくと緑が多くなり、ピコの葉も摘み放題だ。

 が、まずはその前に水浴びをして身を清めるのが、ファの家のならわしであった。


「本当に大丈夫なんだな? 川に流されないでくれよ?」


「くどい」と言い捨てて、アイ=ファは首飾りとマントを託してくる。

 そうして、俺にもたせたマントの裏から、身体をぬぐう布と――いま身に着けているのとほぼ同一の柄をした布が引っ張り出された。


「あ、そうか。お前は水場に行かなかったもんな」


 普段は朝一番で着替えて、汚れた衣類を水場で洗うのである。


「片腕で洗えるか? ……って言っても、さすがに俺が洗ってやるわけにもいかないのかな」


「……わかっているなら、わざわざ口に出すな」と少しだけ細めた目で俺をにらみつけてから、アイ=ファは大きな岩塊の陰に回りこんだ。


 これも、いつもの光景である。


 アイ=ファと暮らし始めてから、もうすぐ40日ぐらいが経過する。

 その最初の朝に、この川べりで、俺たちはマダラマの大蛇とギバの波状攻撃をくらったのだ。


 そんな奇禍に見舞われることは、あの朝以来なかったが。アイ=ファの身体が不自由なこの朝に、ピンポイントで厄介事など起きないでくれよ、と俺は祈っておくことにした。


 そうして岩塊に背をあずけて森のほうを監視していると、川のほうから「アスタ」と呼びかけられる。


「何だ、どうした?」


「……お前がファの家に住みついてから、もうひと月以上にもなるのだな」


 何だ、アイ=ファも同じようなことを考えていたのかなと、俺は少し楽しい気分になる。


「そうだな。あっという間の40日だった――って気もするけど、たったの40日かあという気もするな」


「うむ。……今日は青の月の2日目、か」


 おや、アイ=ファの口からそんな言葉が出るのは珍しい。

 ギバの移動の周期を把握するために、アイ=ファはきちんと暦を把握しているようなのだが、その他の日常生活に支障はないので、俺はあんまり把握できていない。


「そうらしいな。カミュアのおっさんが旅立つまで、あと13日だ。……で、青の月が、どうかしたのか?」


「……いや。別に大したことではない」


「まさか、お前の誕生日が近いとか?」


「私が生まれたのは、赤の月だ」


 それはいったい、いつ訪れるのだろう。

 そして俺は、自分が誕生日すら失ってしまっていたのだということを気づかされた。


 逆算すれば、今から何日後に誕生日が訪れるかを知ることは可能であるが、どのみちグレゴリオ歴など通用しない異世界である。3年に1回は13ヶ月になるというこの世界の暦に俺の誕生日などをあてはめても、無為なことであろう。


 何にせよ、元の世界での俺は、17歳になりたての高校2年生だった。誕生日を迎えて半月ていどで、あの奇禍に見舞われたのである。


 だったら――俺がこの異世界に出現した日を、第2の誕生日と定めてしまってもいいかもしれない。


(1年後や2年後にも、俺はこうしてこの世界に居座り続けることができているのかなあ)


 あるいは、いきなり現世の火の海に引き戻されて、本来の運命を辿りなおすことになるのか。

 それとも、またまったく別の世界に放り出されるとか――いや、そんな運命だけは、絶対に御免だ。


 これまでの生活の、すべてを失う。そんな体験に2度までも耐えられるほど、俺の精神は強靭じゃないと思う。


 そんなことを考えていたら、再び「アスタ」と呼びかけられた。


「ちょっとこちらに来い」


「え? 水浴びは完了したんだろうな?」


「うむ」


「きっちり服は着られたんだろうな?」


「……何を考えているのだ、お前は」と、アイ=ファの声に怒気がまざったので、俺はすみやかに岩塊の裏へと移動した。


 川べりにあぐらをかいたアイ=ファが、少しこわい顔をして俺をにらみつけてくる。

 もちろんきっちり着替えは済ませているし、それどころか左腕の処置まで完璧である。


 ただし、右側に傾けられた頭からは、ぐっしょりと濡れそぼった長い髪が地面にまで垂れ下がっていた。


「どうにも片手では頭をふきにくいのだ」と、怒った顔でアイ=ファが手ぬぐいを突き出してくる。


「なるほどです」と、岩場に片膝をついて、俺は家長のご要望に応じてみせた。

 たかがこれしきのことでも、アイ=ファの役に立てるというのは嬉しいものである。


「……本当に、長い髪などわずらわしいばかりだ」と、アイ=ファのほうは口のへの字にしてしまっている。


「まあそう言うなよ。せっかくこんなに綺麗な髪をしてるんだからさ」


「ふん。やたらと光をはねかえすこのような髪は、狩りの邪魔になるだけだ。だったら父ギルのように黒い髪のほうが――」


 と、少しばかり不自然なタイミングで口をつぐむアイ=ファである。


「どうした?」と問うと、「いや」と視線を伏せてしまう。


「遠い昔に、ジバ=ルウやリミ=ルウともこのような話をしたなと思い出しただけだ」


「へえ、そうなのか」


 そういえば、ジバ=ルウともリミ=ルウともずいぶん疎遠になってしまった気がする。

 これが本来の生活なのだろうが、ルウの集落に泊まりこんでいたあの頃が懐かしい。


「……そうだ。なあ、アイ=ファ。いくら何でも、その身体で狩りの仕事までは果たせないよな?」


「当たり前だ。10日から半月ほどは休養が必要であろう」


「それならその間、日中はルウの集落でお世話になったらどうだ?」


 俺に髪の毛をぬぐわれながら、アイ=ファがけげんそうに目を上げる。


「何故だ? そのような真似をする理由がない」


「だって、家にいても休んでいるだけなんだろう? それに……やっぱり、スン家の動向が気になるじゃないか?」


「スン家は、私が手傷を負ったことなど、知らぬ」


「知らなくても、悪ふざけを仕掛けてくる可能性はあるだろう?」


「そのときは返り討ちにするだけだ。一切の手加減はできなくなるから、危険なのはむしろスン家のぼんくらたちであろうな」


「いや、でもさあ……」


「アスタ。眷族でもない私たちがルウ家に甘えるのは間違っている」


 と、湿った前髪の隙間から、アイ=ファが厳しい眼差しを向けてくる。


「そのような真似をするならば、相応の代価を支払うべきであろうな」


「代価を支払えばいいのか? だったら、生活にもゆとりはあることだし、少し考えてみてもいいんじゃないか?」


 すると今度は、アイ=ファの目に不審げな光が灯った。


「だから、どうしてそのような真似をしなくてはならないのだ? さきほども言った通り、このていどの手傷でスン家に遅れを取る私ではないぞ?」


「うん、お前がそう言うなら、それはそうなのかもしれないけど……でも、こんな機会でもなければ、なかなかリミ=ルウやジバ=ルウとも顔を合わせられないだろ?」


「……べつだん、そのようなことは気にせずともよい」と、何故かアイ=ファは少し唇をとがらせた。


「言葉など交わさずとも、私の心はリミ=ルウやジバ=ルウとともにある。……お前が縁を結びなおしてくれたおかげで、私はそのように考えることができるようになった」


「ああ、それは――本当に良かったな」


 思わず笑顔になってしまった俺の胸もとを、アイ=ファが拳で小突いてくる。


「ただし、私はそれ以上の縁をルウ家と結ぶつもりはない」


「え?」


「私はあまり本家の次兄に近づくべきではないと思えるし――それに、次姉には嫌われているように思える」


「レイナ=ルウは……別にお前を嫌っているわけではないと思うけど」


「私とて、他者の心情などわからぬがな。しかし、あの次姉にルウ家への嫁入りを勧められたのは、事実だ。……そして、それがかなわぬならば、せめてお前の身柄をファから他の家に移してはどうか、とも言われた」


「……ああ、そうだったな」


「私は誰に嫁入りをするつもりもないし、お前をファの家から追い出すつもりもない。そんな私が、おめおめとルウの家に甘えられるわけもなかろう」


「だけど……代価を払えば、甘えることにはならないんだろう?」


 なおも俺は食い下がったが、アイ=ファは小さく首を横に振った。


「それが必要なことであるならば、それもいいだろう。しかし私はとりたててルウ家の庇護を求めるほど弱っているわけではないし、ただジバ=ルウやリミ=ルウと顔を合わせるためだけに、そのような真似をしようとは思わない」


「うーん……だけど、そこまで頑なにレイナ=ルウやダルム=ルウを避ける必要はあるのかなあ?」


 俺だって、レイナ=ルウと顔を合わせるのは、気まずい。

 しかし、気まずいからといって避けてばかりいたら、今の良くない状況が一生続いてしまうだけなのではないだろうか?


 もちろん、関係性を回復させる目処も立っていないのに近づくのは、よけいに状況を悪化させるだけの行為なのかもしれないが。それでも彼らは、ジバ=ルウやリミ=ルウの家族であるのだから、「縁を結ぶつもりはない」と一刀両断してしまうには、あまりに気が早すぎはしないだろうか?


「……私は家など関係なく、リミ=ルウやジバ=ルウと縁を結んでいる。知り合った最初の日からずっとそうだったし、それを不満に思ったことは1度もない」


 そうしてアイ=ファは、ひどく静かな目で、俺を見た。


「そして私には、お前がいる。お前がいて、ジバ=ルウやリミ=ルウがいてくれれば、それ以上に望むものはない。父ギルを失い、お前と出会うまでの2年間、私はひとりきりだったのだからな。……私はこれで、十分に満ち足りているのだ」


「……そうか」


 それは、胸がしめつけられるぐらいに、嬉しい言葉だった。

 だけど、それでも――アイ=ファはもっと大勢の人間と縁を結び、もっと豊かな生を送ることができるのではないか、と思えてしまうのは、アイ=ファにとっては大きなお世話でしかないのだろうか。


 ダルム=ルウやレイナ=ルウとの縁が悪縁になってしまっているならば、それを良い縁として結びなおそうと努力するのは――無益であり、無為な行為でしかないのだろうか。


 できることなら、俺自身はダルム=ルウやレイナ=ルウとも、いい関係性を構築したいと思っている。

 ドンダ=ルウやジザ=ルウとも、もう少し友好的な関係を構築できないかと思うことがある。


 そんなのは、平地に乱を起こすような真似でしかないのだろうか。

 自分の器に見合わない、思い上がりの考えでしかないのだろうか。


(だけど……)


 それとは別に、俺もこの状況でルウ家を頼るのは不実なのだなという気持ちになってきてしまった。


 不実というと言いすぎかもしれないが――レイナ=ルウは、ファの家に俺を置いておくのは危険だと主張していたのだ。ならば、手傷を負ったアイ=ファがそれを理由にルウの家を頼るというのは、たとえ不実でないとしても、アイ=ファの面目を潰す行為にはなりうるだろう。


「わかった。さっきの言葉は取り消すよ。俺の考えが浅はかだったんだな」


「お前はたいてい、浅はかだ」


「……おい」


「浅はかでないほうが少ないぐらいではないか?」


「おい! 本当のことを言われると、人は傷つくものなんだぞ?」


「冗談だ。いきりたつな」


 と、アイ=ファはすました顔で言った。

 そして、俺の胸もとをもう1度小突く。


「お前はいつもよくわからないことを言い出すが、べつだん不愉快になることばかりでもない。不愉快なときは叩きのめすから、今後も気にせず思ったことは何でも口にしろ」


「……叩きのめされたくないから無口になろうかな」と軽口で応じたら、「駄目だ」と強い口調で返された。


「何でも口にしろ。気持ちや心情を、私に隠すな」


「……だったらお前もそうしてくれよな?」と応じたら、アイ=ファはまた少し唇をとがらながら、「……努力はしているつもりだ」と返してきた。


 何だか俺は奇妙な風に胸の中をかき回されつつ、アイ=ファの頭を、ぽんと叩いてやった。


「よし。そろそろ髪もいいんじゃないかな」


「うむ」と、アイ=ファは右手と口だけで器用に革紐をあやつって、再び長い髪をくくり始めた。


「……大体な、現在のスン家でもっとも厄介そうなのは、長兄や次兄ではなく、末弟のほうであろうが? ならば、危険な立場であるのは私ではなく、お前のほうなのではないか、アスタよ?」


「ああ。だから毎日、気は張ってるつもりだよ」


「ふん。……今日からは、私も町に下りるからな?」


「え?」


「どうせ身体を休めるしかないのならば、家にいようが町に下りようが同じことだ。……だったら、おたがいの姿が見えたほうが、まだしも心は安まるのではないか?」


 そう言って、アイ=ファはじっと俺の顔をにらみつけてくる。


「仕事の邪魔はしないし、荷物運びなら少しは手伝うこともできるであろう。眠くなれば、適当に眠る。……それとも、私が町に下りては都合の悪いことでもあるのか、お前は?」


「何にもないよ。そうしてくれれば、俺も安心だ」


 俺は、心からそう言うことができた。

 宿場町だって決して安全な場所ではないが、たったひとりで家に残しておくよりは、よっぽど安心することができる。



 ただし――その日が、普段通りに終わることはなかった。


 宿場町での商売は、至極順調に終えることができたのだが。けっきょく俺たちは、その日からルウの集落でお世話になる羽目になってしまったのだ。


 アイ=ファの負った手傷などは、あまり関係ない。

 俺たちの予定を狂わせたのは、仕事中に宿場町を訪れた、とある闖入者の存在だった。


 新たなるスン家の人間が、ついに本腰を入れて、俺とアイ=ファにちょっかいを出してきたのである。

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