最後の試食会・料理編②~開会~
2021.8/7 更新分 1/1 ・11/29 誤字を修正
そうして時間は過ぎ去って、下りの五の刻である。
料理を仕上げた俺たちは、大広間へと案内されることになった。
その場では、すでに8名の料理人たちも待ち受けている。
レイナ=ルウは昼間に別れたときと同じような凛々しい面持ちで、マルフィラ=ナハムはあたふたと笑いかけてきた。レイの女衆とナハムの末妹は、大仕事をやりとげた昂揚に頬を火照らせている。
小姓が内側からの合図に従って扉を大きく開け放つと、お行儀のいい拍手と熱のこもった視線があちこちから届けられてきた。
本日の、投票権を持つ参席者は106名だ。料理を準備する側の人間が菓子の試食会よりも3組多いため、助手の分を含めて6名減じた勘定である。しかし何にせよ、一昨日とほぼ同じ顔ぶれがこの場に集結しているはずであった。
ワゴンの料理はそれぞれのブースに運ばれて、俺たちは貴き方々の席まで導かれる。2日前にも試食会には参席していたものの、やはり審査をする側とされる側では心持ちがまったく違っていた。
「では、本日の料理を準備してくださった料理人たちをご紹介いたします」
ポルアースが、俺たちの名前をひとりずつあげていく。
《銀星堂》の主人、ヴァルカス。
その弟子である、ボズル。
《セルヴァの矛槍亭》の料理長、ティマロ。
《キミュスの尻尾亭》の厨番、レビ。
《南の大樹亭》の主人、ナウディス。
《玄翁亭》の主人、ネイル。
森辺のかまど番、アスタ。
同じく、レイナ=ルウ。
同じく、マルフィラ=ナハム。
一昨日の試食会も錚々たる顔ぶれであったが、今日も決して負けてはいないだろう。俺がどのように謙遜しようとも、やはりこれはジェノスを代表する料理人たちであるはずであった。
「では、試食会を開始いたします。一刻の後に味比べの投票を開始いたしますので、それを目処に試食をおすすめください」
9名の責任者は料理人の卓に導かれ、同じ数の助手たちはそれぞれのブースに散っていく。こちらにはアイ=ファとダリ=サウティだけが残り、ジザ=ルウとラヴィッツの長兄は血族の後を追っていった。
「ついに、最後の試食会と相成りましたな! ジェノスで選りすぐりの料理人たる皆様がどのような料理を準備してくださったのか、ずっと心待ちにしておりましたぞ!」
ダカルマス殿下は、本日も元気いっぱいの様子である。一昨日はけっきょく会話らしい会話もしていなかったので、この熱気を眼前に迎えるのも森辺の祝宴以来であった。
「なおかつ本日は食材の指定もなく、それぞれご自慢の料理をご準備くださるようにお願いさせていただきました! 手慣れた料理を選ぶか、目新しい料理を選ぶかは、人それぞれでありましょうが……何にせよ、期待は高まるばかりですな!」
すると、今日も王家の方々のすぐそばに席を作られていたエウリフィアが声をあげた。
「先日の試食会では、宿場町、城下町、森辺の順番で菓子を出されていましたわね。本日も、同じ順番なのでしょうか?」
「はい! そのように取り計らせていただきました! ……もちろんこれは、宿場町の方々を軽んじた結果ではございませんぞ? むしろわたくしは複雑な味付けに慣れていないため、城下町の方々を中盤に置かせていただいたのです!」
もちろんそれで、不満の声をあげる人間はいなかった。どのような順番で食されようとも、それで結果が変わることはないはずだ。
(でも、それで森辺を最後にするってのは、やっぱり期待をかけてるって証拠なのかな)
アイ=ファいわく、ダカルマス殿下は最初の試食会において俺の料理を最後に回したという話であったのだ。ならば本日も、同じ措置が取られるのかもしれなかった。
レビやナウディスは、いくぶん緊張気味の面持ちでぴんと背筋をのばしている。ネイルはいつも通りの無表情で、城下町の3名も変わりはない。レイナ=ルウはきゅっと引き締まった表情を保持しており、マルフィラ=ナハムはきょときょとと目を泳がせており――そしてその全員が、白い調理着を纏っている。今さらながら、宿場町と城下町と森辺の民が同じ役割を担って集結している図というのは新鮮なものであった。
「お待たせいたしました。こちらが、最初の料理となります」
大勢の小姓たちが、貴き方々と料理人の卓に同じ料理の皿を並べていく。
その内容を見て立ち上がったのは、レビであった。
「こいつはうちの料理なんで、俺が――あ、いや、自分が説明させていただきます」
「ほうほう! 《キミュスの尻尾亭》の方々は、またらーめんという料理を準備してくださったのですな!」
「はい。ジャガルの方々は森辺でギバの骨ガラを使ったらーめんを口にされたそうなんで、ちっとばっかり物足りないと思っちまうかもしれませんが……これはこれで独自の美味さがあるはずだと信じて、お出しすることに決めました」
貧民窟の生まれであるレビは、やはり誰よりも緊張しているように見えた。
が、決して物怖じするものかという気概が、その眼差しや声音にあふれかえっている。
「ううむ、ケルの根の香りが芳しいですな! 以前はマロマロのチット漬けを使った素晴らしい味わいでありましたが、このたびはケルの根を主体にしているわけですか!」
「はい。うちの屋台では、もともとミャームーとケルの根を別料金で加える売り方をしてたんですが、ケルの根はいまひとつ売れ行きが悪かったんです。特にジャガルのお人らなんかは、ミャームーもケルの根も同じぐらい好むって聞いたんですが、いざ注文してみると何か物足りないって声が多かったんですね」
「ふむ! 確かにケルの根というのは少量でも劇的に味が変わる反面、それを主体にするのは難しいと言われておりますな! 風味が強烈であるゆえに、食材の味を壊しかねないということなのでしょう! そんなケルの根をどのように扱っておられるのか、心して食させていただきますぞ!」
ダカルマス殿下が食器を取り上げたので、俺たちもそれにならうことにした。
俺個人は、ずいぶん前にこちらの味見をさせてもらっている。これは普段のラーメンといささかレシピが異なっているため、屋台で扱うことはできず、けっきょく食堂の特別メニューというポジションに定めたのだという話であった。
レシピの最大の違いは、出汁である。《キミュスの尻尾亭》のラーメンはキミュスの骨ガラだけで出汁を取っているが、こちらはそれに燻製魚と海草の出汁も加えているのだ。
既存のラーメンに多量のケルの根を投入しても、どこか収まりが悪いように感じられる。そのように判じたレビとラーズは、まず味の根本である出汁から見直すことになったのだった。
何がどのように作用したのか、確かにこちらのラーメンのほうがケルの根は調和しているように感じられる。ショウガに似たケルの根の強い風味と辛みが、味を壊すことなく存分に存在を主張しているように思えた。
トッピングは屋台で定番の、ナナールとオンダとチャーシューになる。味付けも、シンプルなタウ油ダレだ。ハーフサイズのさらに半分というささやかな量であったものの、ケルの根の強烈な味わいを楽しむのに不足はないようだった。
「ふむ! これは確かに、強烈な味わいでありますな! ケルの根が、容赦なく口と鼻を蹂躙いたします!」
あっという間にラーメンをたいらげたダカルマス殿下は、そのように言いたてた。
「ですがまた、さまざまな調味料がケルの根の尖った部分を覆い尽くし、見事な調和を見せておりますぞ! タウ油や砂糖などの強い味付けでケルの根を調和させることは、それほど難しくないように思えますが……ある種の繊細ささえ感じさせるこの味付けでケルの根を調和させるのは、決して簡単な話ではなかったでしょう! まことにもって、美味であります!」
「ありがとうございます」と一礼しながら、レビは深々と安堵の息をついた。ダカルマス殿下は本当に気に入った料理にだけ「美味」という言葉を使うようだと、俺はレビにも伝えていたのである。
「これは確かに、以前のらーめんにも負けない味わいですわね。……このらーめんという料理も、アスタが手ほどきしたのでしょう?」
今日も王家の方々のおそばに席を設えられたエウリフィアが、笑顔でそのように問うてきた。
「はい。自分の故郷にも、らーめんという料理はさまざまな種類が存在しました。というよりも、ラーメンだけを扱う店が軒をつらねて、それぞれまったく味が違っているぐらいであったのですね。《キミュスの尻尾亭》の方々が作りあげたこのラーメンも、それに負けない出来栄えであると思います」
「ふむふむ! しかし宿場町においては、《キミュスの尻尾亭》の方々しからーめんをお売りしていないという話でありましたな! らーめんはこれほどに美味なる料理であるのに、他に手ほどきを願う御方はおられなかったのでしょうか?」
と、ダカルマス殿下もすかさず割って入ってくる。デルシェア姫は厨の見学でだいぶん好奇心が満たされるのか、こういう場ではダカルマス殿下のほうが圧倒的にアクティブであるのだ。
「自分は何人かのご主人にざっくり説明しましたが、実際に手掛けた御方はおられないようですね。どうもこの、中華麺を作りあげる手間が支障になってしまうようです」
「ええ。それにアスタの屋台でも、ぱすたってやつが売られてますからね。そいつとわたりあう自信がなけりゃあ、なかなか手が出せないんだと思います」
レビもそのように言葉を添えると、ダカルマス殿下は「なるほど!」と大きくうなずいた。
「確かにアスタ殿や《キミュスの尻尾亭》の方々に対抗するには、相応の自信が必要となるのでしょうな! ……失礼ながら、《南の大樹亭》や《玄翁亭》の方々も、らーめんを手掛けようというお気持ちにはなれなかったのでしょうかな?」
「はいはい。宿場町においても扱える食材がどんどん増えている時期でありましたので、なかなかそちらにまでは手をのばすゆとりがございませんでしたな」
「わたしも、同様です。……そして現在は、ちゅうかめんよりもシャスカの扱いを覚えて、お客様に喜んでいただきたく思っています」
「なるほどなるほど!」とダカルマス殿下が何度もうなずいているさなか、次なる料理が届けられた。それを見て立ち上がったのは、ネイルである。
「次は、わたしの準備した料理となります。いささかならず辛みの強い料理であるかと思いますが、どうかご容赦を願います」
「織布の準備にぬかりはありませんので、心配はご無用ですぞ! ……おお、確かにこれは、外見や香りからして辛そうですな!」
皿に盛られていたのは、真っ赤な煮込み料理であった。《玄翁亭》の売りはあくまでシム風の料理であるという、ネイルの心意気だ。
「こちらはギバの背中の肉と、アリアにプラにネェノン、ティンファにレミロムを使った煮込み料理となります」
「ほうほう! ティンファにレミロムというのは、バルドという地の食材であるというお話でありましたな!」
ティンファは白菜、レミロムはブロッコリーに似た食材だ。俺はそれほどネイルの料理を口にしたことがなかったので、これも初めて見る料理であるようだった。
ダカルマス殿下は食べる前から汗をふきつつ、匙ですくった真っ赤な具材を恐れげもなく口に投じる。
「うむ、存分に辛いですな! ……しかし、ただ辛いだけではありませんぞ! 辛さにもいくつかの層があり、それがさまざまな味わいに支えられて、またとない深みをもたらしているようです!」
「そちらはチットとイラの葉に、マロマロのチット漬けを加えることで、似て異なる辛みを重ねようと試みました。そして、ミソとギギの葉も使っております」
「ほうほう! マロマロのチット漬けを使っておられるということは、比較的新しい献立なのでしょうかな?」
「以前は、チットとミャームーとペペのみで仕上げておりました。扱える食材が増えるにつれ、ミャームーとペペは不要となり、このような味に仕上がった次第です。……それにギバ肉を扱えるようになるまでは、キミュスの肉を使っておりましたので」
「ならばもはや、完全に別なる料理として生まれ変わったわけですな! なおかつ、イラの葉とギギの葉、ティンファとレミロム、ミソ、そしてマロマロのチット漬けというのは、それぞれ異なる時期から扱えるようになった食材でありましょう? そうして食材が増えるごとに、進化を果たしたということでしょうかな?」
ネイルは無表情のまま、「はい」と首肯した。
そんなネイルの姿を、ヴァルカスがぼんやりと見上げている。それに気づいたダカルマス殿下は、大きな口で微笑んだ。
「ヴァルカス殿は、この試食会において《玄翁亭》の方々とご縁を深められたようですな! こちらの料理には、どういった思いを喚起されたのでしょう?」
「はい。こちらはシムにおいてもジギ料理に分類される仕上がりであるかと思いますが、ゲルドの食材であるマロマロのチット漬けとジャガルの食材であるミソこそが土台を支えているように見受けられます。そしてさきほど名前をあげられませんでしたが、アネイラの出汁も使っておられますね?」
「ああ、うっかり失念しておりました。アネイラはそれほど重要ではないかという思いもありましたので」
「それは、不見識の極みでありましょう。出汁は、料理の基盤です。それをないがしろにする御方がどうしてこれほどの調和を為せるのか、いささかならず疑問に思います。……ともあれ、こちらはジギ料理を土台にして、その根本の部分をしっかり守りながら、ジギには存在しない食材を見事に調和させております。ジギの草原から出たことのない方々でも、こちらの料理に不満を持つことはなく、そしてれっきとしたジギ料理であるとお認めになるでしょう。あなたはその身でジギにおもむき、その地で味わった料理をしっかり心に残しているからこそ、これほどの料理を作りあげることがかなうのです。……こちらの料理にもマロマロのチット漬けが使われているのに、どうして前回の試食会でお出しになられなかったのでしょうか?」
「それは……あちらの料理のほうが、より自慢の料理であったためです」
「それもまた、不見識であると言わざるをえません。こちらの料理も真の意味で完全とは言い難いですが、先日の料理よりはよほど不備も少ないでしょう。あえて申し上げるなら――」
「ヴァルカス」と、ボズルが苦笑しながらヴァルカスの袖を引いた。
「それ以上の議論は、ひと通りの料理を口にしてからなさるべきでしょう。……ダカルマス殿下、どうか試食をおすすめください」
「いやいや、実に興味深いお話でありましたぞ! ひと通りの料理を口にしたのちには、わたくしにも詳しく聞かせていただきたいものですな!」
確かに、このペースではひと通りの料理を口にする間に一刻が過ぎてしまいそうだ。そして卓の周囲には、すでに新たな皿を掲げた小姓たちが待機していたのだった。
「宿場町の料理から出されるということは、次はわたしの順番でありますな」
白い調理着のよく似合うナウディスが、にこやかな笑顔で緊張感を覆い尽くしつつ立ち上がった。
「こちらはわたしの宿で一番の人気料理となる、ギバのかくにと申します。かつてはアスタから完成した品を買いつけつつ、作り方を学んだ料理であるのですが……自ら手掛けるようになってから、ところどころで自分なりの工夫を盛り込むことになりました」
「ふむふむ! タウ油を主体にした煮込み料理であるようですな! これは期待が高まりますぞ!」
皿にはほとんど真四角の形をしたバラ肉と、分厚いいちょう切りにされたシィマがのせられていた。どちらもひと口サイズであったが、食感を活かすためにこういった形状にされたのだろう。
バラ肉などは一辺が4センチほどもあり、普通であれば嚙み切ることも難しそうな分厚さだ。しかし断面には半透明の脂の層が見えており、いかにもやわらかそうに照り輝いていた。
そうして、それを口にしてみると――想像をさらに上回るほどのやわらかさである。
ダカルマス殿下は、「おお!」と驚きの声をあげていた。
「わたくしは森辺の祝宴においても素晴らしい煮込みの料理をいただきましたが、それをも凌駕するやわらかさでありますな! これほどの厚みであるのに、歯を使わずとも噛みきれるようです!」
「はい。こちらのギバ肉は、蜜漬けにしたものを使っております」
「ほう、蜜漬け! 吟味の会にて、城下町の方々が披露していた下ごしらえの手法でありますな!」
俺のかたわらでは、レイナ=ルウが囁くように「なるほど」とつぶやいていた。確かにこれは、俺たちが作る煮物の料理と食感そのものが異なっていたのである。
パナムの蜜には俺に馴染みのない特性がいくつか存在し、これもそのひとつとなる。パナムの蜜に肉を漬け込むと、酢漬けや砂糖漬けよりもさらに肉質がやわらかくなり、「肉がふくらむ」という形容詞が生まれたほどであったのだった。
その形容詞が示す通り、これはただ肉質がやわらかくなっただけではなく、何か独特の食感が生まれていた。噛むとすんなり繊維がほどけるのではなく、ちょっとした弾力のあとにぷちぷちと弾けるような食感であるのだ。もちろん俺たちも、それは森辺の勉強会で実践済みであったのだが――実のところ、これはギバ肉の食感が損なわれるということで、あまり好評ではなかったのだった。
「確かにこの角煮も、ずいぶん食感が違っているみたいだけど……でも、美味しいよね?」
俺がこっそりそのように呼びかけると、レイナ=ルウとマルフィラ=ナハムはそれぞれ同意を示してきた。
「はい。もとのギバ肉とはずいぶん異なる噛み心地ですが、これに文句を言う人間はいないように思います」
「わ、わ、わたしもそのように思います。あ、味付けのほうも申し分ないですし」
「どうかなさりましたかな!?」と、ダカルマス殿下が目ざとく声を投げかけてきた。
「何か気になる点があられましたら、ご遠慮なく発言をお願いいたしますぞ! そのために、お集まりいただいておるのですからな!」
「は、はい。自分たちも蜜漬けの下ごしらえは試してみたのですが、あまり料理に活かせるような手応えはつかんでいませんでした。ですがこちらの料理は素晴らしい出来栄えであったため、感服した次第です」
「わたしも、頭を悩ませましたぞ。実のところ、宿屋の寄り合いを終えてからは何日もこちらの取り扱いにかかりきりでありましたな」
にこにこと笑いながら、ナウディスがそのように応じてくれた。
「蜜漬けにした肉をこれまで通りの手順でかくにに仕上げても、納得のいく味には仕上げられなかったのです。そもそも蜜漬けにした肉は、普通よりも味がしみこみやすいようなのですな」
「味がしみこみやすいのですか? それは、試していませんでした」
「はいはい。他の料理ではあまり差異を感じませんでしたので、角煮のように味が強く、なおかつ長い時間煮込む料理でなければ、それほどの差異は生まれないのでしょうな。……ともあれ、蜜漬けの肉に相応しい味付けと火を入れる時間を割り出すのに、ずいぶんな時間がかかってしまいました」
そう言って、ナウディスはいっそう朗らかに微笑んだ。
「それにこちらのかくににおいては、砂糖の代わりにマトラを使っております。ふたつの作法を同時に取り入れようというのは、あまりに無謀な振る舞いでありましたな。一時期などは、自分がどのような味を追い求めているのかも見失ってしまいそうでしたぞ」
「えっ! こちらの角煮には、マトラを使っているのですか? 俺がお伝えした話と城下町の作法を同時に取り入れて、10日足らずで完成させることができたなんて……それは、すごい話ですね」
「いえいえ。アスタたちは途方もない種類の献立をお持ちですので、なかなか手をつけるのも難儀なところでありましょう。わたしはアスタから教わったギバのかくにをどの料理よりも得難く思っていたために、なんとしてでも納得のいく形に仕上げたかったのです」
「その一徹な思いが、これほどの料理を生み出したのですな! ジャガル生まれのわたくしには、文句のつけようもない味わいでありますぞ! 純朴にして力強い、これぞジャガル料理という味わいです! このていどの量しか口にできないのが口惜しいほど、美味ですぞ!」
そういえば、ダカルマス殿下はネイルの料理を褒めちぎりつつ、「美味」という言葉を使っていなかったように記憶している。
なおかつ、角煮の試食を終えたヴァルカスは、ぽけっとした面持ちで口を開く気もなさそうだ。
これこそ、個人の好みの表出であろう。俺にはどちらも甲乙つけがたいぐらい美味しく感じられていた。
「失礼いたします。次の料理をお持ちいたしました」
と、また新たな皿が並べられていく。
こちらの席から立ち上がったのは、ティマロであった。
「こちらは、わたしの考案した汁物料理でございます。《セルヴァの矛槍亭》においても人気の献立となりますが、このたびは南の王都の食材たるノ・ギーゴも使わせていただきました」
皿には、黄褐色のとろりとしたスープがよそわれていた。漂う香りは、乳製品の甘さとわずかな香ばしさと鼻を刺すスパイシーな芳香が入り混じり、なかなかに複雑だ。
「ふむふむ! ティマロ殿は、先日の試食会においてもカロンの乳を主体にした汁物料理を供されておりましたな!」
「はい。わたしはもとより、カロンの乳を使った料理を得意にしておりますので。……ですが、先日の料理とはまったく趣の異なる料理であると自負しております」
ティマロが以前の試食会で出したのは、シソのごときミャンを使ったクリームシチューのような料理であった。かなり独特な味わいであったものの、森辺の民や宿場町の民にも忌避されることなく、それで勲章を授かることになったのだ。
然して、本日の汁物料理は――確かに、以前の料理とは一線を画した味わいであった。
まず、前回の料理ほど辛くはない。それよりも、甘さと香ばしさのほうが際立っていた。甘いのは、乳製品やサツマイモのごときノ・ギーゴであるとして、この香ばしさは――ゴマのごときホボイやホボイ油が主体であるように感じられた。
(それに、ほんのり酸っぱいな。これはきっと、レモングラスみたいな香草か。それに、シナモンみたいな香りもまじってるみたいだぞ)
具材は、キミュスの皮つき肉や、細切りにされたネェノン、マ・プラ、ナナール、マッシュルームモドキなどで、時おりカリッとした小気味のいい食感が跳ね上がる。これはきっと、ピーナッツに似たラマンパであろう。それもまた、香ばしさを上乗せしているようであった。
「うむうむ! きわめてジェノスの城下町らしい、複雑な味わいでありますな! 南の王都において、カロンの乳を主体にした料理に辛みや酸味を加える料理人はおりますまい!」
ダカルマス殿下は、元気いっぱいの声でそのように言いたてた。
「ですがそれよりも、甘さや香ばしさが際立っております! 辛みや酸味は、その引き立て役に過ぎないのでありましょう! とても複雑で、とても繊細で、わたくしにはまったく食べなれぬ味わいでありますが……素晴らしく美味ですな!」
ネイルの料理には「美味」という言葉を使わなかったダカルマス殿下が、そのように言い切った。
しかし確かに、これは美味である。俺にとっても食べなれない味であり、何に似ているとも言い難い料理であるのだが、酸味はいい意味でアクセントになっているし、ノ・ギーゴの甘さも十全に活かしているように感じられる。それに、主張の少ないキミュス肉も正しい選択であるのだろう。ここであまりに肉の風味が豊かであると、この繊細な味わいが木っ端微塵になってしまいそうであった。
「……こちらの料理を、あなたが作りあげたのですか」
と――しばらく無言でいたヴァルカスが、ふいにそのような言葉を発した。
ティマロは挑むような眼差しで、そちらを振り返る。
「ええ。何かご意見でもありましたら、何なりと」
「いえ、べつだん。……ただ、以前からこのような料理を供していただけていたら、わたしが食材の浪費だと胸を痛めることにもならなかったでしょう」
「……わたしが如何なる食材を使おうとも、あなたに文句をつけられるいわれはないはずでありますぞ」
ティマロは貴き方々の目を気にして笑顔を保っていたが、目もとがぴくぴくと引きつっていた。いっぽうヴァルカスは、ぼんやりとした顔で杯の水をすすっている。
(素晴らしい出来栄えだと思ったんなら、そう伝えてあげればいいのにな)
しかし、そのような気配りを持ち得ないのがヴァルカスであるのだろう。それにヴァルカスは、ジェノスの城下町の作法で作られた料理はどれほどの出来栄えであろうとも、ほとんど頓着しない様子であった。
(もしかしたら、こういう料理はヴァルカスの作法で包括できちゃうってことなのかな。それであんまり複雑じゃないシム風の料理にエキサイトするってのは、いまひとつよくわからないけど)
ともあれ、このたびもティマロの料理はさまざまな身分にある方々に受け入れられたようだった。レビなどは、感心しきった面持ちで息をついていたものである。
次の料理で、9種の料理もようやく折り返しだ。
ボズルやヴァルカスはどのような料理を準備したのか、俺も心して待ち受けることにした。