最後の試食会・料理編①~下準備~
2021.8/6 更新分 1/1
トゥール=ディンの優勝で幕を閉じた菓子の試食会から1日はさんで、緑の月の16日――その日がついに、正真正銘最後の試食会であった。
料理を準備するのは、これまでの試食会で勲章を授かってきた9名。
森辺からは、俺とレイナ=ルウとマルフィラ=ナハム。
宿場町からは、《キミュスの尻尾亭》と《南の大樹亭》と《玄翁亭》。
城下町からは、ヴァルカスとボズルとティマロという顔ぶれだ。
屋台の休業日はその前日であったので、俺はそれを1日ずらすことにした。ユン=スドラにお願いすれば営業を敢行することもできたのだが、昼には屋台の責任者で夜には試食会の審査員では負担も大きかろうと、そんな風に判じた次第である。
そうして俺は中天ぐらいを目処に、ファの家を出立したわけであるが――この期に及んでも、フェイ=ベイムが不平がましい声をあげていた。
「ユン=スドラやレイ=マトゥアの手が空いているならば、そちらに手伝いを願うべきではないでしょうか? べつだん、手伝う人間の顔ぶれを変えてはならないというわけではないのでしょう?」
「ええ。ですが、彼女たちには審査員としてのお役目がありますからね。その顔ぶれを動かしたら、味比べの結果に影響が出ちゃうかもしれませんし――」
と、俺はそこでフェイ=ベイムに笑いかけてみせた。
「それにそもそも、俺は助手を変更する必然性を感じていません。前回の試食会だってフェイ=ベイムとともに乗り越えたのですから、また苦労と喜びを分かち合いたく思っています」
「ですが、もしも味比べで敗れてしまったら……後悔することになってしまいませんか?」
「後悔なんてしませんよ。フェイ=ベイムは、もっとご自身の技量に自信を持つべきだと思います」
「わたしがユン=スドラたちと同等のかまど番であるなどと考えていたら、それは自信ではなく思い上がりでしょう」
すると、同じ荷車に同乗していたナハムの末妹が「あはは」と笑い声をあげた。
「フェイ=ベイムは、ずいぶんつつしみ深いのですね! わたしなどは姉の手伝いをできることが嬉しくてたまらないのですが、フェイ=ベイムはそうではないのですか?」
「……嬉しさや誇らしさよりも、責任の重みを強く感じているというだけのことです」
「そ、そ、そうですよね。わ、わたしもフェイ=ベイムと同じ立場であれば、きっと同じ心情だったと思います」
マルフィラ=ナハムがおずおずと微笑みながら、そのように発言する。そしてそんなかまど番たちのやりとりを、ラヴィッツの長兄がにやにやと笑いながら見守っていた。個性的な人間の多い森辺の民であるが、それにしても本日はなかなかバラエティにとんだ顔が居揃ったようである。
そうしてアイ=ファの運転でルウの集落に到着すると、そこにはレイナ=ルウとジザ=ルウとレイの女衆、それにダリ=サウティが待ちかまえていた。サウティの血族はこの朝に自分たちの集落へと戻っていったのだが、ダリ=サウティのみ本日の試食会を見届けることになったのだ。
「俺が王家の者たちと相まみえるのも、これが最後になるやもしれんからな。……とはいえ、いまだ故郷に戻る日取りも定められていないようだが」
「そうみたいですね。でもまあ試食会はこれが最後と明言されているのですから、もうそれほどジェノスに居座る理由はないように思います」
前日の夜、俺とダリ=サウティがそんな言葉を交わしていると、アイ=ファが「そうだろうか?」と疑念を呈してきた。
「確かにあやつらは、これでひと月もジェノスに居座ったことになる。しかし……それだけの期間がありながら、デルシェアは2度しか森辺を訪れていないのだぞ」
「うん。それはまあ、試食会やら吟味の会やらで俺たちも多忙だったから、それを気づかってくれたんじゃないのかな?」
「となると、最後の試食会を終えたのちは、気づかう理由もなくなるということだな」
そんな風に語るアイ=ファは、唇がとがるのを懸命にこらえているように見えたものであった。王家の方々に対する疑念はおおよそ解消されたものの、こればかりは致し方のないことなのだろう。
ともあれ、試食会はこれで最後なのだ。
その後のことはその後に考えるということで、俺は全力でこの日の仕事に取り組む所存であった。
レイナ=ルウたちと合流して宿場町に下りてみると、今日も往来は大いに賑わっている。俺たちが休業日としたために、宿屋の屋台村は普段以上の繁盛っぷりであった。
レビとラーズはナウディスたちと連れ立って城下町に向かうという話であったので、俺たちも歩を止めずに城門を目指す。なおかつ本日はトトスや荷車を預けずに、自力で紅鳥宮まで向かう段取りになっていた。
「ふふん。最近は、族長たちもこうして自力で会合の場に向かっているという話だったな?」
ラヴィッツの長兄の問いかけに、俺は「はい」と応じてみせる。
「本来は、それがあるべき姿であるはずですからね。城下町の人々にも森辺の民の存在に慣れていただこうという、そんな活動の一環です」
しかしまた、俺たちが自前の荷車で城下町を闊歩するのは、昨年以来のこととなる。
それでもアイ=ファやジザ=ルウは臆した様子もなく、それぞれの手綱を握って城下町の街路を駆けた。
ジェノス城を筆頭とする宮殿のエリアまではひたすら直進であるので、迷う恐れもない。
数分ばかりも荷車を駆けさせると、やがて第二の城門および城壁が目前に迫ってきた。
ぴたりと閉ざされた城門の前には、複数の守衛が槍を構えている。ジザ=ルウが用向きを伝えると、詰め所から案内役の武官が姿を現した。
「試食会で料理を準備なさる方々と、見届け人のご一行ですな? それでは、通行証を拝見」
トトス車の送迎をお願いすれば、不要となる手続きだ。しかし時には正規の手続きを踏むことも、おたがいの理解や共感につながるはずであった。
名前と素性を確認された俺たちは、そのまま徒歩で城門の内へと招かれる。そこでようやく、トトス車の登場であった。この宮殿エリアを自前の荷車で駆けることは許されないというのも、正規の取り決めのひとつであるのだ。
トトス車は、3分とかからずに紅鳥宮に到着する。
そこで案内役は宮殿の侍女や小姓にバトンタッチされ、俺たちはお馴染みの浴堂へと導かれた。
「族長と族長の長兄にはさまれて身を清めるというのも、なかなか気が張るものだな」
まったく気など張っていない様子で、ラヴィッツの長兄はこっそりそんな言葉を俺に告げてきた。しかしまあ、男性陣に限ってもなかなか愉快な顔ぶれであろう。
「俺がこのような役割を担うことになったのも、すべてはナハムの三姉が優れたかまど番であったがゆえか。……ラヴィッツやナハムの集落では、なかなかの騒ぎになっているのだぞ」
「え? どういった騒ぎでしょう?」
「それはもちろん他の女衆を差し置いて、ナハムの三姉がかまど番の力比べで第2位の座を授かったことについてだ。ラヴィッツの血族がお前に手ほどきを願ったのは、そうまで早い時期ではなかったはずなのだからな」
「なるほど。それじゃあ、いい意味で騒がれているわけですね?」
「ふふん。優れたかまど番だと認められたのに、文句をつける人間はおるまいよ」
それなら、幸いな話である。言われてみれば、レイナ=ルウと並んで第2位の座を授かるというのは、森辺において大層な話であるはずであった。試食会では菓子が不利になるという話であったが、トゥール=ディンやリミ=ルウを抑えてその成績なのである。
「それだったら、何よりです。……ラヴィッツの血族の方々は奥ゆかしい人が多いので、あまりそちらのお話は耳に入ってこないのですよね」
「だから、俺が伝えてやったのだ」
そう言って、ラヴィッツの長兄はにんまりと微笑んだ。確かに、奥ゆかしさとは無縁に思える御仁である。
そんな会話を経て、俺たちはそれぞれの装束を身につける。ラヴィッツの長兄は、本日も油で髪を整えてもらっていた。
回廊で待っていると、やがてアイ=ファたちも着替えを済ませて戻ってきた。
胸もとの窮屈そうな調理着を纏ったレイナ=ルウは、きりりと引き締まった面持ちをしている。昨日になってようやく献立を決したレイナ=ルウも、すっかり覚悟を固められたようだった。
「それじゃあ、おのおの頑張ろうね。焦らず、平常心で」
「はい。またのちほど」
「ア、ア、アスタもお気をつけて」
レイナ=ルウはレイの女衆とジザ=ルウを、マルフィラ=ナハムはナハムの末妹とラヴィッツの長兄を引き連れて、ふた組一緒に案内されていく。
そうして俺たちが案内された厨には、レビとラーズとデルシェア姫が待ちかまえていた。今日は9組も料理を準備することになるので、あらかじめ《キミュスの尻尾亭》と同じ厨を使うように申し渡されていたのだ。
「やあ、お疲れ様! 待ってたよー、アスタ様!」
若き武官のロデを従えたデルシェア姫は、いつもの調子で元気に笑いかけてくる。下準備に励んでいたレビは、ほっとした様子で息をついていた。きっと俺たちが来るまでは、怒涛の勢いでデルシェア姫に語りかけられていたのだろう。
「デルシェア姫も、お疲れ様です。ついに最後の試食会ですね」
「うん! アスタ様が勲章を授かれるかどうか、じっくり拝見させてもらうよー!」
「ええ。結果はどうあれ、力を尽くします」
俺がそのように答えると、デルシェア姫はきょとんと目を丸くした。
「なんか今日は、雰囲気が違うみたいだね! 町の人たちとの競い合いだから、気合が入ってるのかな?」
「いえ。決してそういうわけではないのですが……自分の自慢の料理がどのような評価を受けるのか、以前よりは期待や不安が高まっているかもしれません」
それは2日前の試食会を経て、俺の中に新しく芽生えた心情であった。
味比べの結果が、絶対なわけではない。しかしそこで勝利を収められれば、俺が大事に思う人たちに喜びや誇らしさを感じてもらえるのではないか、と――バランのおやっさんたちと過ごした夜に授かったそんな思いが、トゥール=ディンの優勝を見届けることで確固たる実感を得たのだった。
「ふうん。聖人みたいなアスタ様に、ついに功名心が芽生えたってことなのかな?」
「あはは。俺なんて、俗物そのものの人間ですよ。心持ちが多少変わったところで、料理の出来に違いは生まれないでしょうしね」
「いやー、どうだろう! なんか、指揮官として振る舞ってたアスタ様が、一番槍を掲げてるみたいな雰囲気なんだよね! わたし、勝手に期待しちゃおうかな!」
「はい。期待外れにならないよう、頑張ります」
そうして俺はフェイ=ベイムとともに、下準備を始めることにした。
作業台で麺打ちをしていたレビが、小声で「なあなあ」と呼びかけてくる。
「俺には雰囲気の違いなんてわからねえけど、アスタはそんなに気合が入ってんのか?」
「うん、まあね。でも俺はこれまでだって手を抜いたことなんてないから、気合のあるなしは関係ないと思うよ」
「そんなことねえだろ。ま、気合が空回りすることだってあるだろうけど、アスタにはそんな心配も必要ないだろうしな」
そう言って、レビは力強く笑った。レビのほうこそ、気合に満ちあふれているようである。
しかし俺もまた、デルシェア姫に指摘されるぐらいには、いつもと様子が違っているのだろう。これまでの試食会でだって、俺は料理を口にする人々に喜んでもらいたい一心で励んでいたのだが――そういった思いがいっそう増幅されたことを、俺ははっきり自覚していた。
(だけどまあ、それが味比べの結果につながるかどうかは、神のみぞ知るだしな)
そんな風に考えながら、俺は粛々と下準備を進めた。
いざ仕事が始まると、フェイ=ベイムも不平をこぼすことなくきびきびと動いてくれる。彼女は自己評価が低かったが、きっとそれは責任感の強さの表れであるのだ。彼女の堅実な働きっぷりは痛いほどにわきまえているので、俺は安心して仕事を任せることができた。
「ところで、この前の試食会だけど! トゥール=ディン様とリミ=ルウ様の菓子は、本当に素晴らしかったよね! わたしはもう、感激して涙をこぼしそうなほどだったよ!」
と、なかなか10秒とは黙っていられないデルシェア姫が、また誰にともなくそのような言葉をほとばしらせた。
「リミ=ルウ様が第3位ってのが信じられないぐらいだけど、ダイア様の菓子はちょっと普通じゃなかったもんね! 美味しいとか美味しくないとかいう話の前に、すっごく心を揺さぶられちゃった! だから、リミ=ルウ様の結果が不思議なんじゃなく、トゥール=ディン様の結果がものすごいってことなのかな!」
他のみんなの心情を思いやり、俺は率先して「そうですね」と相槌を打ってみせた。デルシェア姫は視界の外で、「だよねー!」と嬉しそうに声を張り上げる。
「父様も総評で語らってたけど、あのろーるけーきって菓子そのものはもう城下町でなんべんも供してたんでしょ? それに、森辺とご縁の深いお人らも、たいていは口にしたことがあったみたいだね! えーと……レビ様? あんたなんかも、ろーるけーきを食べたことがあったのかな?」
「は、はい。森辺の祝宴で、口にする機会がありました」
「やだなー、そんなかしこまらなくてもいいってば! 厨にいるわたしは王族じゃなく、料理人として扱っていいって言ったでしょー?」
とはいえ、普通の料理人は護衛役の兵士を引き連れたりはしないので、それも難しい話である。ジャガルの若き兵士たるロデは、本日も大切な姫君に対する忠誠心をみなぎらせながら俺たちを睥睨していたのだった。
「で、そういうお人らだって、あの美味しさには驚かされちゃったわけだよねー! ラマンパってのは風味がいいから菓子に使うお人は多いし、あの日にも《ランドルの長耳亭》のお人が使ってたよね! だけど普通はあの香ばしい風味とか心地好い食感をちょっとした彩りとして加えるぐらいで、味の主体にしようとは考えないもん! アスタ様の故郷では、あれもごくありふれた使い方だったの?」
「そうですね。特に珍しい使い方ではなかったように思います」
「でも、アスタ様は作り方を知らなかったの?」
「はい。俺の故郷では加工された状態で売りに出されていたので、自作する機会はありませんでした。自分は菓子作りに力を入れていませんでしたしね」
「うーん、それでトゥール=ディン様は、ほとんど自力であれを作りあげることになったわけだよね! それはやっぱり、すごいことだよ! 完成品の味を知らないまま味を組み上げられるってことは、作ってる仮定で完成品の想像ができたってことだもん! ……あの試食会が森辺の祝宴の後じゃなかったら、トゥール=ディン様もアスタ様と一緒に王都行きを口説かれてたかもなあ」
俺は思わず、手にしていた食材を落としそうになってしまった。
「あ、あの、そのお話は町で吹聴しないように言い含められていたのですが……」
「あ、そーなの? 別に隠すような話じゃないと思うけど……でも、そっか! 形としては、王族である父様の懇願を庶民のアスタ様が蹴っ飛ばしたってことになるんだもんね! 父様の面目が潰れちゃうって、ジェノスのお人らが気づかってくれたのかな?」
デルシェア姫は俺の視界を横切って、隣の作業台で働くレビたちに呼びかけた。
「そういうわけだから、あんたたちも聞かなかったことにしてくれる? わたしや父様はかまわないんだけど、ジェノスの貴族のお人らの気づかいを無下にすることはできないからさ!」
「は、はあ。いまひとつ、話が見えないんですが……」
「だからさ、父様がアスタ様に自分の屋敷の料理人になってくれってお願いしたことだよ!」
気の毒なレビは、「ええっ!?」とのけぞってしまっていた。
「ア、アスタを王子様のお屋敷の料理人に? アスタを南の王都に連れていっちまうってことですか?」
「だから、それはお断りされたんだってば! もちろん父様もそんな願いがかなうなんてこれっぽっちも考えてなかったんだけど、口に出さないまま済ませることができないぐらい、思いが強まっちゃったわけだねー!」
レビは目を白黒とさせており、ラーズはいくぶん心配げにデルシェア姫の笑顔を見やっていた。
すると、壁際にたたずんでいたアイ=ファがゆらりと進み出る。
「それは潔くあきらめると、王子ダカルマスはそのように約束してくれた。我々は、南の王族たるあなたがたが虚言を吐くことはないと信じているぞ、王女デルシェアよ」
「もちろんさ! 父様はアスタ様だけじゃなく、森辺の料理人の力量に心から感服してるんだからね! あんたたちみたいに素敵なお人らを裏切るような真似は絶対にしないから、思うぞんぶん信用してよ!」
と、デルシェア姫はにこにこ笑いながら、アイ=ファを振り返った。
「というか、あんたこそ物凄く思い詰めた目つきだね! 絶対の絶対に父様は前言をひるがえしたりしないから、最後まで仲良くさせてほしいなー!」
「……我々も、そのように願っている」
アイ=ファは感情を殺した面持ちのまま、すっと引き下がった。
ぴりぴりと張り詰めていたロデも、小さく息をつく。そんな従者の心持ちも知らぬげに、デルシェア姫はまた朗らかに言いたてた。
「それで、なんの話だったっけ? ……ああ、そうそう、トゥール=ディン様ね! うん、あのお人はすごいお人だよ! あれでまだ12歳だっていうんだから、行く末が恐ろしいよねー! それこそ、ジェノス城の料理長に任命されちゃいそうじゃない?」
「いえ、まあ、森辺の民はモルガの森を母としていますので……ジェノス侯も、森辺の民に城下町で暮らせとは申しつけないかと思われます」
「あー、そっかそっか! 同じジェノスの領内でも、そう簡単な話じゃないんだね! ……だけどまあ、そんな話が許されたら、あちこちの貴族が森辺の料理人を召し抱えようとしちゃいそうだもんね!」
「はい。時おり祝宴や晩餐会の厨をお預かりできたら、自分たちには十分な栄誉です」
まだレビたちが少し心配げな面持ちであったので、俺はことさら明るい口調でそのように言ってみせた。
すると、デルシェア姫がこちらに移動してきて、作業台ごしに俺のことをじっと見つめてくる。
「んー……アスタ様が父様のお願いを断ってくれて、わたしも感謝するべきなのかなあ」
「え? どうしてです?」
「だって、アスタ様が同じ屋敷で暮らしてたら、心を奪われちゃいそうだもん! 王族と料理人がそんな関係になっちゃったら、騒動のもとでしょ!」
俺は今度こそ食材を取り落とし、アイ=ファはひそかにぎらりと双眸を燃やすことになった。
ロデはアイ=ファの気迫を鋭敏に察知して、顔色をなくしながらデルシェア姫に呼びかける。
「ひ、姫様。そのようなおたわむれは慎んでいただきたく思います」
「えー? おたわむれじゃないってば! アスタ様はこんなに優れた料理人で、頭は回るし心は清廉だし、ついでにけっこう男前じゃん! 狩人のお人らほどきりっとはしてないけど、こんなに優しい顔立ちなのに時々凛々しい顔まで見せてくれるから、わたしみたいに初心な小娘は気をつけてないと今にも心を奪われちゃいそうなんだよねー!」
「ひ、姫様!」
「そんな慌てなくっても、大丈夫だってば! わたしも、父様と一緒だよ! アスタ様や森辺のお人らに感服してるから、絶対に嫌われるような真似はしないの! ……森辺のお人らって、一夜の恋とかも禁じてるんでしょ?」
「は、はい。森辺の掟で、固く禁じられています」
「それなら、なおさら安心だね! わたしもおかしな妄念にとらわれずに済むよ!」
そう言って、デルシェア姫は虫も殺さないおひさまのような顔でにぱっと笑ったのだった。
「それでも同じ屋敷で暮らしてたら、どうしたって情が移っちゃいそうだからさ! アスタ様が父様の願いを断ってくれて、ほっとしたんだよ! わたしも料理人としてのアスタ様と懇意にさせてもらいたいから、今後も艶っぽい話は抜きでお願いねー!」
「ひ、姫様! そろそろ他の厨を巡っては如何でしょうか? まずはひと通りのお相手とご挨拶をさせてもらおうと仰っていたでしょう?」
ロデが懸命に言いつくろうと、デルシェア姫は同じ笑顔のままそちらを振り返った。
「そういえば、そうだったね! アスタ様たちも、まだまだ下準備に時間がかかりそうだし! 今のうちに、ご挨拶をさせてもらおっかー」
「そ、そういたしましょう。……では、失礼する」
小柄なロデはさらに小柄なデルシェア姫の背中を半ば押すように急き立てて、慌ただしく厨を出ていった。
厨の扉がぴったりと閉められたのち、レビは深々と息をつく。
「なんていうか……お前も大変だな、アスタ」
「う、うん。これまでは、そんなに実感もなかったけどね」
俺はおそるおそる、アイ=ファのほうを振り返ってみた。
武官の姿をしたアイ=ファは凛然と腕を組んだ姿勢で、閉ざされた扉を凝視している。その引き締められた横顔には、いまだありありと気迫が漂っていた。
「えーと……アイ=ファも、気にしないでくれよな? デルシェア姫も、節度をわきまえてくれてるみたいだからさ」
「……節度をわきまえた人間が、あのような言葉を口にするものであろうか?」
「それは、あれだよ。父君と一緒で、胸の内を隠しておけないお人なのさ」
「胸の内に留めてはおけぬほど、強い思いを抱いているということか」
アイ=ファの声音に満ちた迫力に、俺は頭を抱えたくなってしまった。
すると、黙々と作業に励んでいたフェイ=ベイムが顔を上げる。
「家人にあのような言葉をかけられて、家長のアイ=ファはさぞかしご心配でしょう。その心中は、お察しします。……しかしあの方々は節度を欠いている代わりに、虚言を吐くことはないでしょう。自らアスタによからぬ思いを抱くことはないと明言したのですから、ご心配には及ばないかと思います」
「あっしもそう思いやすよ。あのお姫さんは、むしろ森辺のお人らに安心してもらいたかったんじゃないですかねえ」
ラーズもそのように言いたてると、アイ=ファはようやくこちらを振り返った。まるでギバ狩りの仕事に励んでいるかのような鋭い眼差しで、フェイ=ベイムとラーズの姿を見比べる。
「……安心とは、どういう意味であろうか?」
「大してお目見えしてないあっしにも、あのお姫さんのアスタに対する執心はなかなかのものであるように見えやした。だけどそこに下心はないんだと、森辺のお人らに……それに誰より、アスタ自身に知ってほしかったんじゃないですかねえ」
「…………」
「言ってみりゃあ、アスタに想いは寄せないと口にすることで、自分の気持ちにケリをつけたんだと思いやすよ。そう考えたら、いじらしいもんじゃねえですか」
アイ=ファは組んでいた腕をほどき、さきほどのレビよりも深く息をついてから、金褐色の髪をがりがりとかきむしった。
「……私はラーズほど長くも生きていないし、きわめて未熟な人間であるので、なかなかそのように考えることは難しいようだ。だが……なんとかあの娘の言葉を信じられるように努めたく思う」
「アイ=ファはあっしなんかより、よっぽど立派な人間でやすよ。お偉い王族のお人にあんな言葉を投げかけられたら、誰だって心を乱しちまうもんです」
「まったくだな。俺らみたいな凡人には味わいようもない苦労だぜ」
レビのそんな言葉によって、ひとまずその場の問答は締めくくられることになった。
フェイ=ベイムも再び仕事に集中し、レビとラーズは調理手順の確認を始める。それらを横目に、俺はそっとアイ=ファに近づいた。
「……どうした? 私にはかまわず、自分の仕事を果たすがいい」
「うん。でもやっぱり、アイ=ファのことが心配でさ」
アイ=ファは素早く視線を巡らし、誰の目もこちらに向いていないことを確認してから、俺の頭をわしわしとかき回してきた。
そして、俺の耳に吐息と囁き声を吹き込んでくる。
「案ずるな。たとえ心を乱そうとも……お前の心情を疑ったりはしない」
俺が「うん」と笑顔を送ると、アイ=ファはもういっぺん厨の内部に視線を走らせてから、俺のこめかみに頭をぐりぐりと押しつけてきた。
そんな一幕を経て、俺はこの日の大仕事に没入することになったのだった。