最後の試食会・菓子編③~誇りと喜び~
2021.8/5 更新分 1/1
次のブースでは、調理着姿のララ=ルウがさまざまな人々と歓談していた。
「あー、やっと来たね! ほらほら、アスタたちだよ!」
卓の前に集っていた人々が、それぞれの流儀に従って礼をしてくる。そこにはあらゆる身分にある人々が入り乱れていたのだ。俺がよく知る相手としては、マルフィラ=ナハムとナハムの末妹、デルスとワッズ、ティマロとその弟子などが居揃っていた。
「これはみなさん、おそろいで。リミ=ルウの菓子は、いかがでしたか」
「ああ、文句のねえ美味さだったよお。できればもっと腹いっぱい食いたいところだなあ」
まずはワッズがそのように応じると、相棒のデルスが「なに?」と目を剥いた。
「確かに上出来な菓子だったが、こいつは途方もない甘さだったろう。こんなものを腹いっぱい食ったら、胸が焼けてしかたがないんじゃないか?」
「そんなことねえよお。でも、こんなに甘いのにいくらでも食べられそうなのは、ちょいと不思議かもなあ」
「そ、そ、それはこの菓子に砂糖が使われていないからかもしれませんね」
マルフィラ=ナハムの言葉に、デルスは再び目を剥いた。
「砂糖を使っていないだと? 砂糖を使わずにこれほど甘い菓子を作れるわけが――ああ、砂糖ではなく、パナムの蜜でも使っているということか?」
「い、い、いえ。パ、パナムの蜜は皮のほうに使っているはずですが、そちらはごく少量であるはずですので……そ、それよりも、こちらは砂糖の代わりにマトラを使っているという話であったのです」
「マトラ」と、ティマロが反応した。
「なるほど。この途方もない甘さは、マトラからもたらされるものでありましたか。マトラには独特の風味があるものですが……それはブレの実と入り混じることで、判別が難しくなっているということですな」
「は、は、はい。そ、それでマトラは、砂糖よりも甘いのに、胸が焼けたりはしないように思います」
そのように語る姉の姿を嬉しそうに見上げていたナハムの末妹が、俺のほうにくりんと向きなおってくる。
「わたしには砂糖とマトラの区別なんてまったくつきませんが、でも、とっても美味しいです! 確かにこれは、もっとたくさん食べたくなってしまいますね!」
「そうだよなあ。もったいねえけど、もう1個分もここで食っちまおうかなあ」
ワッズが笑顔で口をはさむと、ナハムの末妹は「わたしも迷ってしまいます!」と元気に応じた。おそらく試食会まで接点のなかった両名であるが、持ち前の朗らかさが相乗効果を生んでいるようだ。
いっぽうで、こちらのシリィ=ロウは食べる前から高い評価を聞かされて、じりじりとしてしまっている。それに気づいたユーミが、「あは」と笑い声をこぼした。
「それじゃあ、あたしたちもいただこうか! 悪いけど、ちょっと道を空けてもらえる?」
「あっ! も、も、申し訳ありません! つ、つい会話に夢中になってしまいました!」
マルフィラ=ナハムたちが道を空けてくれたので、俺たちもようやくその菓子を手に取ることができた。
皿を持ち上げたユーミは、その上の菓子をしげしげと眺めながら「ふうん」と小首を傾げる。
「ちょっとテカテカしてるけど、見た目は普通の焼き菓子みたいだね。……なーんて、あたしなんかが知った風な口を叩くと、笑われちゃいそうだけどさ」
「いえ。きっと重要なのは、中身のほうなのでしょう」
そう言って、皿から菓子を持ち上げたシリィ=ロウは鋭く目をすがめた。
「重いですね……どうやら生地はごく薄く仕上げられて、目方のある具材が詰め込まれているようです。リミ=ルウは以前にもだいふくもちでマトラを使っていたはずですが、砂糖の代わりに使ったとなると――」
「まあ、まずは食べてみなくちゃでしょ」
その菓子はピンポン球をつぶしたていどのサイズであったので、ユーミはひと口で頬張った。
「うん、甘いね! 《ランドルの長耳亭》に負けないぐらいかも!」
「確かに、甘いです。ですが……確かに、あちらの菓子ほど尾を引かないように思います。これが、マトラの効果というわけですか」
シリィ=ロウの鋭い目がこちらに向けられてきたので、俺は「そうです」と答えてみせた。
「以前の吟味の会で、マトラを砂糖の代わりに使ってみてはどうかとお話ししたでしょう? 俺もあれこれ試行錯誤しているのですが、リミ=ルウに先を越されてしまいました」
そしてこれは俺の覚束ない知識をヒントにリミ=ルウが開発した、月餅であった。
菓子作りの不得手な俺が、月餅の正しい作り方などわきまえている道理はない。そんな俺にわずかなりとも知識を授けてくれたのは、例によって幼馴染の玲奈であった。
「月餅って和菓子かと思ったら、中国のお菓子なんだね! なにか和菓子と違う特徴とかあるのかなあ?」
そんな風に言いながら、玲奈は手もとの携帯端末で月餅のレシピを調べ始めた。日曜日の朝方など、俺と親父がランチの下ごしらえに励んでいると、玲奈は用事もないのにやってきて、そういう罪のない話題をふっかけてくることが多かったのだ。
そうして玲奈は、携帯端末に表示された月餅のレシピを得々と説明してくれた。その中で記憶に残されていたものを、俺が又聞きの知識としてリミ=ルウに授けることになったのである。
生地には、シロップもしくは蜂蜜、サラダオイルもしくはピーナッツオイルを添加する。
小豆餡には、クルミやゴマ、およびゴマ油を添加する。
オーブンで焼きあげる際は、途中で取り出して卵黄を水で溶いたものを艶出しとして塗る。
俺の頭に残されていたのは、そのていどの知識であったのだが――それをリミ=ルウが四苦八苦して、この見事な菓子に仕上げてくれたのだった。
「この菓子自体は、けっこう前に完成してたんだけどね。マトラとラマンパの油を使って、いっそう美味しく仕上げられたってわけさ」
可愛い妹の手柄を誇るように、ララ=ルウはそう言った。
ピーナッツオイルのごときラマンパの油を手に入れるまでは、レテンの油を使っていたのだそうだ。ただ、レテンの油はそれほど風味も強くないので、生地がいくぶんなめらかになるという効能しか感じることはできなかった。
このたび使用したラマンパの油も、きっとごく少量であるのだろう。あのピーナッツオイルめいた風味をダイレクトに感じることはなく、ただ香ばしさが上乗せされたような心地であった。
しかしとにかく、美味である。
俺は月餅そのものもそれほど食したことがなかったので、どれだけ本物に近い味わいであるかは判然としない。ただ、美味しいことに間違いはなかった。
あんこにホボイとホボイ油が添加されているために、普段のブレの実の菓子よりも香ばしさが際立っている。そして、砂糖の代わりにマトラを使った恩恵で、強烈に甘いのにくどいことはまったくなかった。
「ブレの実の扱いに関しては、すでに我々も習い覚えています。それを思えば、目新しさというものはさほどでもないでしょう」
何やら断固たる口調で、ティマロはそう言った。
「ですがそのブレの実も、ホボイとホボイの油を加えることでまた新たな味わいを生み出しておりますし――何よりマトラを使ったこの甘さは、強烈です。強烈でありながら、純朴であり……そして、甘すぎる菓子につきもののしつこさがありません。これは、勲章に相応しい出来栄えでありましょう」
「べつに、勲章はどうでもいいけどさ。でも、あんたにそうまで言ってもらえるのは、きっと大したことなんだろうね」
そう言って、ララ=ルウはにっと白い歯を見せた。
「よかったら、リミ本人に直接言ってやってよ。きっと喜ぶだろうからさ」
「それはまあ、時間がありましたら。……それにわたしは、まだダイア殿とヤン殿の菓子を口にしておりませんため、前言を撤回する可能性もなくはありませんぞ」
「だから、勲章の部分はいいんだってば! ……あ、ユーミとシリィ=ロウはどうだった?」
「うん! 文句のない美味しさだね! 《ランドルの長耳亭》と同じぐらい甘いけど、あたしはこっちのほうが好きだよ!」
「……わたしも、素晴らしい出来栄えだと感じました。強烈にして純朴というティマロのお言葉にも、全面的に同意いたします」
シリィ=ロウとティマロも菓子作りを得意にしているためか、ふたりそろってなかなかの気迫をみなぎらせてしまっていた。
そしてティマロはのっぺりとした顔を引き締めつつ、俺にこっそりと呼びかけてくる。
「ところでアスタ殿、トゥール=ディン殿の菓子についておうかがいしたいのですが……あれもやはり、アスタ殿の手ほどきによって生まれた菓子なのでしょうかな?」
「いや、自分は漠然としたイメージ――あ、いや、印象や想念といったものを伝えただけですね。俺の故郷にああいう菓子があったのですけれど、俺には作り方がわからなかったもので」
「では、あちらの菓子はトゥール=ディン殿が独自に考案されたといっても過言ではないのですな。……それゆえに、先日の吟味の会では作り方も開示されなかったということなのでしょうか?」
「あ、いえ。トゥール=ディンは吟味の会の後、あの菓子を完成させたのですよ。いずれ機会があれば、作り方を開示するのだと思います」
「ふむ。今日という日のために、あえて作り方を隠匿したわけではない、ということですな」
不明瞭な面持ちをしたティマロに、俺は逆に問い質してみせた。
「トゥール=ディンが勲章のために、わざわざそのような真似をするとお思いでしょうか?」
「あ、いえ、そういう意味ではないのですが……吟味の会からは、いまだ10日も経ってはおりません。そのように短い期間であれほど目新しい菓子を考案できるのかと、いささかならず驚嘆させられてしまったもので……」
「トゥール=ディンはオディフィアのために、一刻も早くあの菓子を完成させたいと願っていたのでしょうね。そんな思いが、実を結んだというわけです」
ティマロは大きく息をついてから、ゆるゆると首を振った。
「トゥール=ディン殿の才能と努力を惜しまぬ気質には、心より敬服いたします。あの御方は、もしかすると……ジェノスでもっとも菓子作りに長けた料理人になりえるかもしれません」
「え、ダイアを差し置いてですか?」
「あくまで、可能性の話です」と言い捨てて、ティマロはぷいっとそっぽを向いてしまった。しかし、ダイアに心酔するティマロが、ついにそこまでの評価を下してくれたのだ。
そのとき、玲瓏なる鈴の音が鳴らされて、貴き方々が広間を巡る旨が伝えられてきた。
「わ、のんびりしてたら時間切れになっちゃうよ! アスタ、トゥール=ディンの菓子をいただきに行こー!」
ユーミにせっつかれて、俺とシリィ=ロウは最後のブースへと足を向けた。
そこで待ちかまえていたのは、ヴァルカスとタートゥマイ、ネイルとジーゼの4名である。本日も、ヴァルカスはネイルたちにへばりついていたようだった。
「アスタ殿。こちらの菓子も、アスタ殿がトゥール=ディン殿に手ほどきをされたのでしょうか?」
開口一番、ヴァルカスがそのような質問を投げかけてきた。
俺は苦笑をこらえつつ、さきほどと同じ答えを返してみせる。
「そうですか……」と思案するヴァルカスを横目に、ユーミは卓の上へと手をのばした。
「とにかく、あたしらも食べさせてもらうよ! ……うわ、何これ! すっごくいい匂い!」
「これは、ラマンパの油ですね。ラマンパの油がさまざまな食材と合わさることによって、このような香りに変じたのでしょう」
シリィ=ロウは冷静に努めた声で、そのように言いたてた。
「ですが、これは……トゥール=ディンが得意にしている、ろーるけーきという菓子ですね。ティマロは、ろーるけーきを食したことがないのでしょうか?」
「ああ、そうかもしれません。何かの機会で、1回ぐらいは口にしたことがあるかもしれませんが……何にせよ、重要なのは具材のほうですしね」
トゥール=ディンがこのたび考案したのは、ピーナッツクリームならぬラマンパクリームであったのだ。
もちろん俺は、ピーナッツクリームの作り方などわきまえていない。ただラマンパの油が登場したことによって、そんなものもあったなあと記憶巣を刺激されたまでである。
だから俺は、「ラマンパをすりつぶしてクリームに加えたら、チョコクリームと同じぐらい立派な具材になるかもよ」と伝えたのみであった。そこから試行錯誤を繰り返してラマンパクリームを完成させたのは、すべてトゥール=ディンの手柄である。
「……とにかく、味見をさせていただきます」
そうしてその菓子を口にしたシリィ=ロウは、愕然と目を見開いた。
その隣で、ユーミは「おいしー!」と雄叫びをあげる。
「これ、すっごく美味しいね! すっごく甘くて、すっごく不思議な味!」
「これは……ラマンパの油のみならず、ラマンパそのものを主体にしているのですね? ですがいったい、ラマンパにどのような細工を――」
「わたしも、激しく驚かされました。トゥール=ディン殿が考案されたというのなら、ご本人におうかがいする他ないでしょう」
ヴァルカスがそんな風に答えたとき、当のトゥール=ディンがこちらにやってきてしまった。
ヴァルカスが無言で足を踏み出そうとすると、タートゥマイが横からその腕をひっつかむ。
「トゥール=ディン殿は、貴き方々をお連れです。礼節をおわきまえください、ヴァルカス」
可愛らしいエプロンドレスのトゥール=ディンは、エウリフィアとオディフィアとゼイ=ディンに囲まれていたのだ。幸福そうに微笑みながら語らっていたトゥール=ディンは、いくぶん気恥ずかしそうに俺たちのほうを見やってきた。
「あ、みなさん、お疲れ様です。……何かわたしにご用事でしょうか?」
「みんな、トゥール=ディンの菓子に興味津々みたいだよ」
俺が一同を代表してそのように答えると、かたわらのエウリフィアが「そう」と微笑んだ。
「確かにこの菓子は、素晴らしい出来栄えだったものね。オディフィアも浮かれてしまって、もう大変よ」
そのような注釈を聞くまでもなく、オディフィアは灰色の瞳をきらきらと輝かせていた。足もとはドレスのすそに隠されてしまっているが、きちんと地についているか心配になるほどだ。
「とりあえず、ラマンパクリームの作り方をざっくり教えてあげたら、ヴァルカスたちの好奇心も満たされるんじゃないかな」
「そ、そうですか。それほど込み入った細工はしていないのですが……」
リッドの女衆は席を外していたので、卓の上に新たな菓子を補充しながら、トゥール=ディンは考え考え説明を始めた。
まずトゥール=ディンは炒ったラマンパを入念にすりつぶし、それをラマンパの油でのばしたのち、別個でこしらえた生クリームに添加したそうだが、それでは味も食感もいまひとつ馴染まなかったらしい。
次にトゥール=ディンは、カロン乳や乳脂や卵黄など、クリームと相性のいい食材でラマンパをのばそうとした。そこから選ばれたのが、乳脂であったのだそうだ。
そういえば、俺の故郷にもピーナッツバターというものが存在した。俺が早くからその存在を思い出していれば、トゥール=ディンの苦労も減じられたのかもしれないが――ともあれ、トゥール=ディンは自力で正解に行きついた。もはやラマンパの油は使わずともよかったが、使えばいっそう風味も豊かになるということで、加えている。あとは砂糖と少量の塩を加えるだけで、トゥール=ディンは満足のいく味を見出すことがかなったのだった。
「すりつぶしたラマンパに、ラマンパの油と乳脂、砂糖と塩を加えて、カロン乳のくりーむとまぜあわせる……ただそれだけの細工であったのですね」
シリィ=ロウが感情を殺した声で問いかけると、トゥール=ディンは恐縮しきった様子で「は、はい」とうなずいた。
「で、ですが、そもそもくりーむもアスタに作り方を教えていただいたものですので……何も、わたしの手柄というわけではありません」
「いやいや。俺はラマンパをすりつぶす苦労すら負わずに、あやふやな情報を伝えただけだからね。それをこんな立派な菓子に仕上げたのは、すべてトゥール=ディンの功績だよ」
「それでトゥール=ディン殿は、苦労をして開発されたこの菓子の作り方をも公表しようという心づもりなのでしょうか?」
ヴァルカスのぼんやりとした言葉に、トゥール=ディンはまた「はい」とうなずく。
「この菓子というよりも、ラマンパくりーむの作り方ですね。ラマンパくりーむというのは具材に過ぎませんので、これを使ってどんな菓子を作りあげるかというのが重要なのではないでしょうか?」
「……そのラマンパくりーむを使って粗末な菓子を作られたら、わたしは希少な食材を無駄に使われるのと同じような心地を抱いてしまいそうです」
茫洋とした面持ちのまま、ヴァルカスは小さく息をつく。
すると、しばらく無言を保っていたネイルがそんなヴァルカスに呼びかけた。
「ヴァルカスは菓子に関心が薄いので、こちらの菓子も料理の参考にしようというお考えであったようですね。ですが、このように甘いものを料理に使えるのでしょうか?」
「こちらの菓子が甘いのは、砂糖が使われているゆえです。ラマンパの油と乳脂の相性に関しては研究を進めていましたが、そこにラマンパそのものを使うというのは……カロンの足もと知らずというものでしょう。己の不明に恥じ入るばかりです」
そう言って、ヴァルカスはやおらきびすを返した。
「ともあれ、疑念は解消されました。ネイル殿、ジーゼ殿、次はリミ=ルウ殿にお話をうかがうとしましょう」
なんだかまるで、ネイルたちまでヴァルカス一派に加わったかのようである。
それを見送るシリィ=ロウは、なんだかちょっぴり物寂しそうだ。それに目ざとく気づいたユーミが、「ねえねえ」とシリィ=ロウの肩に手を置いた。
「あんたもお師匠と一緒にいたいの? だったら、あたしらに遠慮はいらないよ」
「あ、いえ……ヴァルカスとともにあるだけでは、わたしが学ぶばかりになってしまいますし……どのみちわたしは厨でヴァルカスに学んでいるのですから、それでは時間の無駄になってしまいます。それならわたしも自分の力で見聞を広げれば、ヴァルカスの研究の一助になれるかと……そんな風に思ったのですが……」
「あー、あんたはお師匠と一緒にいると、言いたいことも言えなくなっちゃうみたいだもんね! なんだー、甘ったれかと思ったら、色々考えてるじゃん!」
「だ、誰が甘ったれですか!」
「まあまあ」と、俺は仲良しコンビの言い争いを取りなすことになった。
「俺たちはようやく一巡できたところなんだから、とりあえず試食を済ませちゃおうよ。……エウリフィア、オディフィア、それにゼイ=ディンも、またのちほど」
「ええ。ダカルマス殿下も、アスタとお会いできるのを楽しみにしているようよ」
それはまあ、風の吹くままということにさせていただこう。「貴き方々に特別な挨拶はいらない」というのは、ダカルマス殿下がじきじきに取り決めた試食会の習わしであるのだ。
(それにしても、誰が勲章を授かることになるんだろうな)
俺自身、誰に星を投じるべきか、いまだ心は定まっていない。もっとも舌に馴染むのはやはりロールケーキや月餅であるのだが、目新しい美味しさという面ではダイアとヤンが際立っていた。
だけどまあ、勲章の行方そのものを重んじているわけではない。
幸福そうに微笑むトゥール=ディンとそれを輝く瞳で見上げるオディフィアの姿を目にすると、そういった思いはいっそう深まっていくのだった。
◇
そうして、投票の刻限である。
品目が6種と少ないために、本日は普段よりも短く時間が切られている。そのせいか、俺はあっという間にその刻限を迎えたような心地であった。
おかげさまで、貴き方々ともあまり言葉を交わす時間が取れなかった。集計中にリフレイアのもとまでおもむいてみると、鳶色の瞳でじろりとにらまれてしまった。
「お元気そうね、アスタにアイ=ファ。今日の試食会も満喫できたかしら?」
「ええ、それはもう。……えーと、ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません」
「あら、わたしは決してそのようなことで気分を害していたわけじゃないのよ。わたしの本音を知りたかったら、もうちょっとそばに寄っていただけるかしら?」
俺とアイ=ファがおそばに近づくと、リフレイアは可愛らしく口をとがらせながら囁いた。
「王家の方々がやってきてから、間もなくひと月になるでしょう? まさか、これほど長い滞在になるとは思っていなかったのよ。……わたしとシフォン=チェルを森辺にお招きしたいという言葉は、まだ覚えてくれているかしら?」
「もちろんです。王家の方々がお帰りになられたらすぐにでも、と考えていましたよ」
「そう。だったら、いいのだけど」
リフレイアが顔をあげると、すぐかたわらに控えていたシフォン=チェルがにこりと微笑んだ。リフレイアはちょっと母親に甘える子供のような眼差しで、それを見返す。
そうして俺たちがフェルメスやデルシェア姫にも挨拶をしたところで、ダカルマス殿下が広間に舞い戻ってきた。
「お待たせいたしました。星の集計が終わりましたので、結果を発表いたします」
いつも通り、ジャガルの小姓が張りのある声音でそのように宣言する。
「本日は、112名の方々が味比べに参加なさいました。これまでと同じように、第1位から第3位までの方々に勲章が授けられますので、そのように思し召しください」
本日の献立は、6種である。ならば、勲章をもらえる確率は5割ということだ。
薄皮1枚の下に興奮を押し隠した広間に、小姓の声が朗々と響きわたった。
「それでは、発表いたします。第1位は……31の星を獲得した、トゥール=ディン様となります」
薄皮は呆気なく破られて、怒涛の歓声が広間を包み込む。
それを心地好さげに聞きながら、デルシェア姫が俺に耳打ちをしてきた。
「当然の結果だね。トゥール=ディン様の菓子は、完成度も目新しさも申し分なかったよ」
「そうですか。実は自分は、リミ=ルウに星を投じていたのですよね」
「えー、なんで!?」とデルシェア姫が大声を張り上げたので、鼓膜を痛めそうになった俺は思わず身を引いてしまった。
アイ=ファの瞳に憤然とした光が瞬き、デルシェア姫は申し訳なさそうに微笑を送る。そして懲りずに、俺の袖を引いてきた。
「そりゃあリミ=ルウ様の菓子も素晴らしい出来栄えだったけど、目新しさならトゥール=ディン様のほうが上じゃない?」
「俺はどちらの菓子も故郷で似たようなものを口にしていたので、目新しさは皆無なのですよね。そうすると、完成度はリミ=ルウのほうが上なのかなと判じました。……というか、トゥール=ディンはようやくラマンパクリームの開発を終えたところなので、それを使った本格的な菓子の考案はこれから始められるのだろうと思うのです」
「うーん、そっかぁ。まあ、立場が違えば感想も違ってくるってことで、納得しておくよ」
ともあれ、第1位の勲章を授かったのはトゥール=ディンであったのだ。
当人は恐縮することしきりであったが、かたわらのリッドの女衆は誇らしそうに微笑んでいる。それを見守るオディフィアなどはこらえようもなく身を揺すってしまっているし、どこかに控えているゼイ=ディンの気持ちも容易に想像することができた。
(星を入れなかった俺が言うのも何だけど……きっと君はジェノスで一番の菓子職人なんだよ、トゥール=ディン)
俺の胸にも、思わぬ勢いで情動がわきかえっていた。
味比べの結果などどうでもいいと、ほんのついさっきまでそんな風に考えていた俺のもとに、何かとてつもない質量を有した感慨が覆いかぶさってきたのだ。
あの、スン家で死んだ魚のような目をしていた少女が――そののちも、いつもおずおずとしていてなかなか笑うこともできなかった少女が今、選りすぐりの料理人たちの中で優勝を収めたのだ。他の人々の菓子が掛け値なしに素晴らしかった分、俺にはトゥール=ディンの優勝が嬉しくてならなかった。
(やっぱりアルダスやメイトンの言っていた通り、勲章を授かるっていうのはこんなに誇らしいことなんだな)
俺は自分が出場していない試食会で大事な同胞が優勝を果たしたことにより、ようやくそんな思いを実感することができた。
自分にとってかけがえのない相手が、これだけの人々から賞賛を浴びている。それは決して森辺の力比べや闘技会やトトスの早駆け大会にも負けない誇らしさであった。
俺がこれまでの試食会で第1位の座を授かったときも、アイ=ファたちはこれほどの喜びを授かることがかなったのだろうか。
もしもそうであるならば、それもまた俺にとっては誇らしさの限りであった。
「第2位は、23の星を獲得した、ダイア様です」
まだざわめきの消えさらない広間に、小姓の言葉が駆け抜けていく。それでまた、新たな歓声が吹き荒れることになった。
「第3位は、21の星を獲得した、ヤン様とリミ=ルウ様です」
ダイアもヤンもリミ=ルウも、それぞれの気質に見合った態度で勲章を授かっていた。
リミ=ルウは惜しくも3位であったが、俺はこれまでと異なる心持ちで拍手を送り届けることになった。
「第4位は、9の星を獲得した《アロウのつぼみ亭》、第5位は、7の星を獲得した《ランドルの長耳亭》となります」
そうして小姓が引き下がると、ダカルマス殿下の総評が語られ始めた。
やはりトゥール=ディンの菓子は、完成度と目新しさで群を抜いていたと見なされたらしい。俺にとっては懐かしさを覚えるばかりであったラマンパクリームも、この地の人々にとっては仰天に価する存在であったのだ。
ダイアの菓子は、単純な美味しさよりも「本物の花を食しているような不可思議な心地」が重んじられたらしい。もしもあの菓子が花の形を模していなければ、別の菓子に票を投じていただろうという層が一定数存在したようだ。
ヤンの菓子はその繊細な味わいによって城下町の民から、リミ=ルウの菓子はその純朴で力強い味わいによって宿場町やジャガルの民から、それぞれ支持を得られたそうである。また、南の王都の食材であるノ・ギーゴやマトラの扱い方が素晴らしいという評もいただけたようだ。
《アロウのつぼみ亭》は、やはりリッケとマトラの相性が取り沙汰されていた。南の王都の果実をふたつ同時に使おうという意欲は買うが、少々勇み足だったのではないかという厳しい意見も寄せられた。それに前回も饅頭であったので、違う菓子を食べてみたかったという声も多数あったようである。
《ランドルの長耳亭》の菓子も決して不出来ではなかったものの、その強烈な甘さが加点ではなく減点の作用を生んでしまった。同じぐらいの甘さを持ちながら、どこかすっきりとした食べ心地であったリミ=ルウの月餅が、強力なライバルになってしまったのだ。
それらの総評は、いずれも俺にとって腑に落ちる内容であった。
誰もが真剣に、悩みに悩んだ末に星を投じたのだろうということが、痛いほどに実感できる。俺自身、同じ思いでリミ=ルウに星を投じていたのである。
これだけ大勢の人々が、それだけ真剣な思いで試食会に臨んでいるのだ。
そして2日後には、俺が批評の場に立たされることになる。
俺はこれまでの試食会では感じえなかった緊迫感と、そしてそれを上回るほどの意欲を授かることができたのだった。