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異世界料理道  作者: EDA
第五章 宿場町のギバ肉料理店
107/1675

⑧五日目~営業終了後~

2014.10/12 更新分 1/1 2015.10/7 時間の表記を修正

2014.10/24 収支計算表の誤記を修正

2016.3/22 設定の矛盾を解消するために、肉の値段に関する記述を修正いたしました。

 屋台の火を落としたら、あとはすみやかに撤収作業だ。


 まな板や木皿や余った野菜などを袋に片付けつつ、ヴィナ=ルウが楽しそうに笑いかけてくる。


「……やっぱり、売り切れちゃったわねぇ……?」


「本当ですね。はっきり言って、実感がありませんよ」


 実感はないが、現に銅貨は山積みになってしまっている。

 白い銅貨を使うお客様などはほとんどいらっしゃらないので、銅貨用の布袋がえらいことになってしまっているのだ。


 120食分の料理を、完売。

 赤い銅貨に換算すれば、240枚分の売り上げである。

 本当に――恐ろしいばかりの金額だ。


「とりあえず、屋台を返しに行きましょう。……あ、でもこの金額だと、先に両替所に寄ったほうが良さそうですね」


 ふたりで1台ずつ屋台を押しながら、石の街道を突き進む。

 5日目ともなれば、好奇の目線ももう慣れっこだ。


「よお、店じまいか? 今日は一番ゆっくりだったな」


「おい、明日からもよろしく頼むぜ?」


 などと温かい声をかけてくれるのは、いずれもジャガルの民たちである。

 ただ、シムの民たちも時おりひっそりと会釈をしてくれる。


「あ、ドーラの親父さん。体調は大丈夫ですか? これを返したら、またそちらに顔を出しますので」


「やあ、お疲れ様。……大丈夫だよ。別に身体がおかしいわけじゃないんだ」


 いつも通り布の上に野菜を並べたドーラの親父さんは、やっぱり顔色がすぐれず、笑顔もちょっと弱々しかった。


 心配だが、今はとにかく屋台を返却せねばならない。

 そしてその前に銅貨を両替しなくてはならない。

 200枚以上の銅貨ともなると、1・5キロぐらいの重量になってしまうのである。


 露店区域と宿屋のエリアのちょうど真ん中に、その両替所は存在した。

 周りの宿屋と同じ作りをした、木造2階建ての建物だ。

 ただし、その隣は衛兵の詰め所であり、両替所の前にも2名の衛兵が立ち並んでいる。

 この建物にはおびただしいほどの銅貨が眠っているのだから、まあ当然の処置であろう。


 俺は両替所と呼んでいるが、本業は銅貨の貸付屋なのである。

 両替だけなら手数料も生じないが、もちろん善意や道楽で貸付屋がそのような仕事を請け負っているわけではない。宿場町における銅貨の流通がなめらかに執り行われるように、ジェノスの領主がその仕事を託しているのだそうだ。


 その貸付屋で、俺は本日の売り上げの赤銅貨200枚分を白銅貨20枚分に交換していただいた。

 日に日に増えていく我が店の売り上げにどのような感慨を抱いているのか。貸付屋の親父さんは本日も無表情に白銅貨を差し出してくれた。


《キミュスの尻尾亭》で屋台を返却し、荷物も一時的に預かってもらい、ミラノ=マスにひとにらみされてから、露店区域にUターン。

 ちなみに、カミュアとレイト少年は、不在だった。


「そういえば……あのカミュアって男、今日は姿を現さなかったわねぇ……?」


「あ、そういえばそうですね。忙しさのあまり、忘れてました」


 カミュアも、スン家も現れなかった。

 おかしな騒ぎが勃発することもなかった。

 そうして、120食もの料理を完売させることができたのだ。

 本当に、理想的と言っていいぐらい平和な1日であっただろう。


 賑やかな宿場町を闊歩しながら、ヴィナ=ルウは色っぽく肩をすくめる。


「まあ、見なくて済むなら、見ないほうがいいけどねぇ……でも、見えないところで悪巧みをしているのかも、とか考えると、どっちもどっちよねぇ……」


「へえ。ヴィナ=ルウはカミュアがお嫌いなんですか?」


「……何を考えてるかわからない人間は、嫌いだわぁ……だから、アスタのことは大好きよぉ……?」


 そんなにわかりやすいですか、俺は。


 何はともあれ、まずはドーラの親父さんの店へと向かうことにした。


「やあ。今日は賑やかだねぇ」


 やっぱりちょっと弱々しい感じで、ドーラの親父さんが俺と3人の女衆を迎えてくれる。


 ターラの姿は、見当たらない。


「ずいぶんお加減が悪いみたいですね。何かご病気……ってわけではないんですか?」


「ああ、俺が病気になんかなるもんか」


 言いながら、親父さんは力なく首を振った。


「実はね……落とし穴に、ギバが掛かってたんだよ」


「え?」


「ギバに野菜を襲われないように、畑の周りにはいくつも罠が仕掛けてあるんだ。それでも今朝はけっこうやられちまったけど……1頭だけ、間抜けなギバが落とし穴にはまっていたのさ」


「……そうなんですか」


「ああ。掛かったからには、始末しなきゃならない。穴の上から、みんなでグリギの槍で突き殺したんだけど……そんな日は、どうにも肉を食う気になれなくってね。あのものすごい声が耳にもこびりついちまって……思い出しただけで、身体が震えそうになる」


 そして親父さんは、その肉付きのいい身体を本当に震わせた。


「森辺の狩人ってのは、すごいよなあ。森の中でギバと遭遇するなんて、そんなの悪夢そのものじゃないか。どんなに馬鹿でかい刀を持っていたって、俺はきっと見ただけで腰を抜かしちまうよ。……あんな化け物と、俺は戦えない」


「俺も無理ですね。狩人っていうのは、本当にすごいと思います」


 アイ=ファは――今日も無事であろうか。

 早く家に帰って、アイ=ファの元気な姿が見たい。


「それにしても、先月から今月にかけては、やたらとギバが多くないかい? 俺のとこはまだましだが、もっと森辺に近いあたりでは、首をくくりたくなるぐらいの被害が出ているらしいよ? ひどいところじゃあ、収穫前のアリアを根こそぎ食い尽くされちまったらしい」


 そう言って、親父さんは悄然と首を振る。


「一昨年よりは去年のほうが、去年よりは今年のほうが、被害も大きくなってるみたいだ。まさか……俺の爺さんの代みたいに、また昼も夜もかまわずに森からギバがあふれかえっちまう、なんてことにはならないよなあ……?」


「大丈夫だとは、思います。だけどやっぱり、ギバは増えているみたいですね……」


 あるいは、狩人としての仕事を果たしていない森辺の民が、増えているのか。


 その真相は、謎のままだ。


「まだ森辺の民がいなかった時代には、俺たちみたいな農園の人間が集められて、ギバ狩りの真似事をやらされてたらしいんだよ。それで大勢の人間が、ギバに突き殺されたらしい……俺の爺さんも片足をやられて、死ぬまで杖をついていた。俺は嫌だよ……ギバ狩りなんて、絶対に無理だ」


「親父さん……」


「ああ、ごめんな。身体を張ってギバを狩ってくれている森辺の民に聞かせるような話じゃなかった。明日からは、また美味い料理を食わせておくれよ」


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


 このような内容だったから、ターラには心情を打ち明けることができなかったのか。


 親父さんは明るく振る舞おうとしてくれていたが、それは森辺の民たちにとってこそ看過できない話だった。


(スン家の連中は、いったいどれだけのギバを狩ってるんだろう。まさか1頭も狩ってないってことはないと思うけど……でも、本家の連中は昼間から酒をかっくらったり、おやつを食べるためだけに町まで下りてきてるんだもんなあ)


 そして、その中には、おそらく分家であろうと思われるテイ=スンも含まれている。


 ルウ家の人数は、本家と分家を合わせて40名足らずぐらいであったはずだ。

 スン家の人数もそれぐらいだとすると……本来であれば、1日に4頭弱ぐらいは狩らねば生活が成り立たないはずである。


 1日に4頭であれば、10日で40頭。100日で400頭。

 やはり、スン家がどれほど熱心にギバを狩るかで、結果はまったく異なってくる。


「……そんなに難しい顔をしないでくれよ、アスタ。さ、今日は何をどれだけ買ってくれるんだい?」


 と、ドーラの親父さんにいらぬ気を使わせてしまったので、俺も気持ちを切り替えることにした。


 今の俺にできるのは、この商売を成功させるために尽力することだけなのだ。


「すみません。それじゃあ、タラパを2個と、アリアを30個。……それに、ポイタンを150個ください」


「ついにポイタンは150個かい! ……それじゃあ明日からは150人分の料理を準備するってことなんだね?」


「はい。たぶんこれが4人でできる限界の数でしょうね」


『ギバ・バーガー』を60食。『ミャームー焼き』を90食。

 肉の仕込みと、『ギバ・バーガー』のためのポイタンの焼きあげを俺が担当し、『ミャームー焼き』のためのポイタンは、シーラ=ルウに担当してもらう。


 営業時間と睡眠時間を削らないならば、これがめいっぱいの数であろう。

 そのめいっぱいの数を毎日無理なく作成することができるか。残りの5日間で、それを確認してみようと思う。


「あと、ファの家はそろそろ肉の備蓄が限界に近づいてきてしまったんですよね」


 ポイタンの数を数えながら、俺はヴィナ=ルウへと語りかけた。


「明後日あたりから、ルウ家の肉を譲っていただきたいと思っていますので、ドンダ=ルウとミーア・レイ=ルウにそのように伝えておいていただけますか?」


「うん、わかったわぁ……」


 そのあたりのことは、すでに話はつけてある。

 が、その肉の値段を定めるのには、少々頭を悩ませることになった。


 ルウの集落では肉が有り余っていたので、ミーア・レイ母さんなどは、「代価などいらないから、好きなだけ持っていってよい」などと言ってくれたのであるが。まだ終わりの時期も定めていない商売で使う肉を、半永久的に無料で提供していただくわけにもいくまい。

 最低限、血抜きに解体という作業に見合った代価を支払うべきだと俺が主張し、それを承諾していただいた。


 それでもなお、金額についてはもめるにもめたのだが――買う側が値段を引き上げて売る側が値段を引き下げるというちょっと愉快な交渉の末に、「そのギバの牙と角と同等の代価」というところに落ち着いた。


 大きめのギバなら赤銅貨12枚、小さめのギバなら8枚ていどという値段である。

 これでもまだまだ安すぎたので、いずれはもっと適正な値段を定めねばなと俺は思う。


「それじゃあ、明後日からお願いしますね。けっこうな大荷物なんで申し訳ないですが」


 その肉は、朝方にヴィナ=ルウがファの家まで運ぶという手はずになっているのだ。

 数え終わったポイタンを袋にしまいつつ、ヴィナ=ルウがにっこりと微笑み返してくる。


「家から家に運ぶだけなら、引き板を使えるからへっちゃらよぉ……わたしがてくてく歩いてる間、ララ=ルウやシーラ=ルウはもっと大変な仕事をしてるんだしねぇ……」


「そうそう。ヴィナ姉だって、少しは苦労しなくちゃ」


 仕事中は会話も少ないが、やっぱり仲は良さそうなヴィナ=ルウとララ=ルウである。

 シーラ=ルウも、そのかたわらでひっそりと微笑んでいる。


 みんな、満ち足りた表情だ。

 1日しっかり働いたなあという充足感を得ることができたのだろう。

 少なくとも、俺はそういう気持ちを得ることができていた。


「それじゃあ、買い出しを済ませて、帰りましょう」


 ドーラの親父さんに別れを告げ、ミシル婆さんの店でギーゴを、乾物屋で岩塩とミャームーを、酒屋で果実酒を、そして革細工屋で新しい皮袋を1枚購入して、その日の買い出しは終了である。


 そうして、《キミュスの尻尾亭》に預けていた荷物を取りに行くと――そこには、カミュア=ヨシュが待ち受けていた。


「やあ、今日もけっきょく早仕舞いになってしまったんだねえ。アスタの料理が食べられなくて残念だったよ」


「ああ、どうも。……今日はさすがに定刻まで居座れると思ったんですけどね」


「100食以上の料理を準備したんだよね? 普通の店の倍から3倍ぐらいの量を、こんな短時間で売りさばいてしまったわけだ。いやはや、まったく恐るべしだよ! そろそろ他の店からの嫌がらせなんかを警戒したほうがいいかもしれないね」


 本日のカミュアも、相変わらずすっとぼけていた。

 だけど、同業者の皆様方が面白く思っていないというのは事実であろう。いったいどのような警戒をすればいいのかなあと考えつつ、「今日は仕事だったんですか?」と問うてみる。


「うん。いよいよ大仕事の日が近づいてきたんで、その打ち合わせにね。今日が青の月の1日だから、あと半月ほどでジェノスともしばしのお別れだよ」


「出立したら、ふた月ぐらいは戻ってこれないんでしたっけ?」


「うん。シムの国は大好きだから、とても楽しみな仕事ではあるんだけど、アスタの店の行く末を見届けられないのは、とても残念だなあ。……もしかしたら、俺が帰ってくる頃には、宿場町に家をかまえて立派な料理屋を開店しているかもねえ?」


「そんなまさか。俺は森辺の住人なんですよ?」


「魂が森辺にあるならば、別にどこで寝起きをしようとかまわないじゃないか? 森辺からアスタが町に通うより、町からアイ=ファが森辺に通うほうが効率的、という生活もありうると思うよ?」


 こいつはまた――なんて突拍子もないことを言い出すのだろう。

 憮然と黙りこむ俺に向かって、カミュアはにんまりと笑いかけてくる。


「まあ、何はともあれアスタの成功を祈ってるよ! 明日こそ絶対新しい料理とやらを食べさせていただくからね!」


「はい。……それじゃあ、失礼します」


 昨日の帰りはカミュアと顔を合わせることもなかったので、けっきょくミダ=スンたちについて語る機会もなかったのだが――カミュアの側から触れてこないなら、それはそのままにしておこうと思った。


「カミュア=ヨシュが余計な手出しをしたら、首を刎ねる」とドンダ=ルウは述べていたのだから、可能な限り、スン家とカミュアは接触させないほうが無難であろう。


 得体は知れないし、うさんくさいし、いまだに内心の読めないカミュアであるが――本当にこの男が森辺の行く末を案じているだけならば、このまま平穏な関係性を維持したい。


 そんなこんなで、俺たちは《キミュスの尻尾亭》を後にした。

 ようやく、帰宅のお時間である。


「それじゃあ、明日もよろしくお願いします。帰り道も、お気をつけて」


「はい。どうもお疲れ様でした」


「また明日ねー」


 町の外れで、シーラ=ルウとララ=ルウに別れを告げる。

 彼女たちは1時間前倒しでそれぞれの仕事をしてくれているので、ルウの集落に到着した時点で、勤務終了である。


 重い鉄鍋と100食分のポイタンおよびギーゴを掲げつつ、ふたりの足取りによどみはなかった。


「では、俺たちも帰りましょう。何事もなく終わって良かったですね」


「うん、本当にねぇ……」


 と、森辺への道を辿りながら、ヴィナ=ルウは少し元気がない。

 どうしたのかなと思っていると、やがてヴィナ=ルウは独り言のようにぽつりとつぶやいた。


「アスタはいつか……町で暮らすようになるのかしらぁ……?」


 俺は、「ええ?」とヴィナ=ルウを振り返る。


「どうしたんですか? カミュアの軽口を真に受けないでくださいよ! そんな馬鹿なこと、ありえないでしょう」


「そうかしらぁ……こんな調子で銅貨を稼いでいたら、いつか町で家を買うこともできるんじゃなぁい……?」


「そんなの想像もつかないですね。そもそも町に住む理由がないでしょう?」


「……本当にそう思ってるぅ……?」と、ヴィナ=ルウの表情はアンニュイである。


「毎日こんな苦労をして森辺から鉄鍋を持ち込むんだったら、いっそのこと、町に住んだほうが手っ取り早いんじゃないかしらぁ……? ああ……なんだかすごぉく切ない気持ちになってきちゃったなぁ……」


「そんなの、アイ=ファだって絶対了承しませんよ。俺にとっては便利でも、アイ=ファにとっては不便なだけの生活じゃないですか?」


「……別に、不便ではないんじゃなぁい……? 町のすぐそばまで森は広がってるんだから、狩人の仕事はそこで果たせばいいだけだしぃ……ピコの葉だって、薪だって、そこで集められるでしょぉ……? それでアイ=ファは、森辺で誰とも縁を結んでいないんだから、何も不都合はないんじゃないかしらぁ……?」


「でも……アイ=ファだって リミ=ルウやジバ=ルウとは縁を結んでますよ? 今だってそうそう顔は合わせられないぐらいなのに、宿場町なんかに住んでしまったら、よけいに縁が薄くなっちゃうじゃないですか?」


 だんだんと険しくなってきた道を歩きながら、ヴィナ=ルウはゆっくりと首を振る。


「アスタ、本気で言ってるのぉ……? 今のファの家より、宿場町からのほうが、ルウの集落は近いのよぉ……?」


 そうだった。

 ファの家からルウの集落までは1時間ばかりもかかってしまうが、宿場町からルウの集落なら、もう10分ばかりも早く到着することができるのである。


「だ、だからといって、町で家を買うなんて、いったいどれだけの銅貨がかかるんですか? そんなのはきっと、不可能なことですよ」


「そうかなぁ……不可能だったら、あの男もそんなことは言わないんじゃないかしらぁ……」


 俺は思考のループに陥りかけたが、途中で馬鹿馬鹿しくなり、考え込むことをやめた。

 よく考えたら、思い悩むようなことではなかったのである。


 俺にとって大事なのは、アイ=ファだ。

 そして、ルウ家の人々であり、ルティム家の人々だ。


 そんな彼らとこれまで通りの関係性が保てるならば、確かに住む場所なんて、どこでもかまわない。


 彼らとの関係性を犠牲にしてまで宿場町に住もうとは思わないし、彼らとの関係性が維持できるなら宿場町に住んだってかまわない。


 だったら、何も思い悩む必要などないではないか。

 別に積極的に宿場町に住みたいなどと思っているわけではないのだから、カミュアの妄言などに思い悩む必要はないだろう。


 なるようにしかならないし、そして、決めるのは自分たちなのだから、現状より悪い未来が訪れることはありえない。


 そんな思いをヴィナ=ルウに伝えたが、彼女の表情が晴れることはなかった。


「だけど、アスタたちが宿場町に住むようになっちゃったら、わたしが誘惑する機会も減っちゃいそうじゃなぁい……?」


 そんな理由で暗い表情をしているのだったら、もはや言うべきことはございません!


 その後は、いつも通りにとりとめのない話をしながら、俺たちは森辺へと帰還した。



         ◇



「それじゃあ、また明日もよろしくお願いします」


 ファの家の前で鉄鍋を降ろし、ヴィナ=ルウとも別れを告げる。

 後片付けと食材の買い出しに少し時間がかかってしまったが、それでも日没までにはまだ四時間ばかりも残されているはずだ。これならば余裕をもって下ごしらえに取りかかることができる。


(でも、さすがに150食分も準備したら、明日からは定刻まで宿場町に居座ることになるだろうからな。それでもきっちり下準備ができるように作業効率を考えないと)


 60食分のパテ作りに、90食分の肉の切り出し、タラパソースの作成に、50食分のポイタンの焼き作業。あとは、漬け汁の作製と、タラパソースの追加用で使う香味野菜の下ごしらえ、か。

 なかなかハードな作業量だが、晩餐の作製とうまく並行して作業を進められれば、睡眠時間は削らずに済むだろう。


 そんなことを考えながら、俺は戸板に手をかけた。

 が、戸板にはかんぬきがかかっていた。


「あれ? アイ=ファ、もう帰ってるのか?」


 呼びかけながら、戸板をノックする。

 ちょっと長めの沈黙の後、「しばし待て」というアイ=ファの声が返ってきた。


 しかし、なかなか戸板は開かない。

 アイ=ファの言う「しばし」とは、たっぷり30秒ほどの分量を有していた。


 かんぬきの擦れる音がして、戸板ががらりと開けられる。

 その瞬間、俺は息を呑むことになった。


「どうしたんだ、アイ=ファ!?」


 何が起きたのかは、わからない。

 ただ、アイ=ファはこれ以上ないぐらい、きつく眉根を寄せており。

 その細面にびっしりと苦悶の脂汗を浮かびあがらせ。

 そして、傷ついた獣のように青い瞳を燃やしていた。


「大きな声をだすな……とっとと家の中に入れ」


 すうっとアイ=ファの姿が戸板の陰に消える。

 俺はとにかく荷物の詰まった鉄鍋をひっつかみ、家の中に踏み込んだ。


 アイ=ファは、戸板の陰でうずくまっていた。

 毛皮のマントを着込んだまま。

 右腕で、左腕を抱えこむようにして。


「かんぬきを、掛けろ」


 俺は大急ぎで言われた通りにしてから、アイ=ファのもとに屈みこんだ。


「どうしたんだよ? 腕が痛いのか? まさか……スン家の連中に襲われたのか?」


 見たところ、外傷は見当たらない。

 しかし、アイ=ファがこれほどまでに苦しそうな顔をしているのは、あの昔日の、マダラマの大蛇に襲われて以来のことだった。


「スン家などに遅れを取る私ではない……狩りの途中で、腕の骨が外れただけだ」


 絞りだすような声で、アイ=ファはそう言った。


 骨が――外れた?

 それは、脱臼をしたということか?


「う、腕のどこだよ? 左腕だな? 肩か? 肘か?」


「騒ぐなと言うのに……左の、肘だ。骨はもう入れなおしたから、案ずることはない」


「あ、案ずるなって言っても、脱臼したんなら固定とかしたほうがいいんだろ? えーと、添え木の代わりになるようなものは……」


 どん、とアイ=ファが俺の胸に頭をぶつけてきた。

 両腕がふさがっているから、そうやって抗議するしかなかったのだ。


「お前が騒いでも、何にもならん……処置の仕方は私がわきまえているから、お前は力を貸してくれればよい」


「わ、わかった。俺は何をすればいい?」


「……履物を、脱がせろ」


 俺は、すみやかに従った。

 肘の脱臼とは、いったいどれほどの痛みをともなうものなのだろう。しかも、自分で骨をはめなおすなんて――手順をわきまえていても、俺なんかには、とうてい出来そうもない。


「ぬ、脱がせたぞ」


「よし……移動する……」


 アイ=ファは唇を噛みながら、ゆらりと立ちあがった。

 とたんにその身体がぐらりと揺れたので、俺は可能な限り、そっと両肩に手を添えてやる。

 分厚いマントごしにも、アイ=ファの身体は高い熱を発しているように感じられた。


 何てこった。

 手傷を負うことなど、狩人にとっては珍しくもない――などという会話をしたその翌日に、まさかアイ=ファがこんな目に合ってしまうなんて。


「……狩人の衣を外せ」


「ああ」


 マントをつなぎ留めている革紐をほどく。

 マントはそのまま床に落ち、アイ=ファは足を進めて、壁ぎわにうずくまった。


「……まだ使っていない一枚布があったろう。あれを持ってこい」


 俺はひたすらに、忠実に動く。


 その後は、前腕に添え木をあてて、細く引き裂いた布でぐるぐる巻きにして、首から吊るす形で左腕を固定した。

 俺のいた世界と大差のない固定法だ。


「それでいい……あとは、衣の裏にロムの葉を仕込んできたから、それを取れ」


 マントの裏には、隠しポケットがたくさん縫いつけられている。その内のひとつに、ほぼ真っ黒に近い色合いをしたモミジのような葉っぱが数枚ねじこまれていた。


「熱冷ましの薬草だ……それを、ほんの少しの水とともに、木匙ですり潰せ……1枚でいい……」


 ぐったりと壁にもたれかかったまま、どんどんアイ=ファの声が弱々しくなっていく。

 激痛に耐えかねて、というよりは、熱が上がってきているのかもしれない。


「すり潰したぞ。これを飲むのか?」


 アイ=ファは無言で、右腕をのばしてくる。

 俺は小さく首を振ってから、アイ=ファのかたわらに寄り添って、木匙を口まで運んでやった。

 ペースト状になった黒い葉を、アイ=ファが不味そうに飲み下す。


「よし。……しばらく眠る。晩餐の刻限に、起こせ」


「どういうものが食べやすい? ギーゴはあるから、ポイタンもスープにしてみるか?」


「……ポイタンは、焼いたほうがよい……」


 と、アイ=ファはかすかに唇をとがらせた。

 胸をしめつけられるような思いで、俺はそのつらそうな顔を見つめる。


「それじゃあ、ジバ婆さんと同じ献立にしてみるか? 食べにくかったら、ハンバーグもポイタンもスープにふやかして食べればいい」


「……昨日もはんばーぐだったのに、よいのか?」


「こんなときだけ遠慮するなよ、馬鹿」


 言いながら、俺は余った布切れを手頃な大きさに引き裂いて、水瓶の水で濡らし、固くしぼって、アイ=ファの顔の汗をぬぐってやった。


「ああ、気持ちがよいな」と、アイ=ファは静かにまぶたを閉ざす。


「お前がいて助かったぞ、アスタ。……1年ほど前にも同じ手傷を負ったことがあるが、あのときは布を巻くにも難儀したものだ……」


「……これぐらいの怪我で済んで良かった、と思うべきなんだろうな、俺は」


「ああ、そうだ。このていどの手傷ならば、数日で治る。……その間、少しだけ世話をかけるぞ」


「いくらでもかけてくれ」


 俺は柄杓ですくった水で布を洗い、今度はそれを額の上に載せてやった。

 常温の水だが、やらないよりはましだろう。


「では、眠る。……お前は自分の仕事を果たせ」


「わかった。何かあったらすぐに声をかけてくれよ?」と、応じながらも、どうせ俺だって視界からアイ=ファを外すことはできないだろう。


 脱臼だって、決して小さな怪我ではないが。

 それでも、取り返しのつかないような手傷を負わなくて、本当に良かったと思う。


 今、アイ=ファを失ったら、俺はどうなってしまうのだろう。

 生活のすべがどうこうではなく、そんな現実に自分が耐えられるとは、とうてい思えない。


 森辺の女衆たちは、毎日どれほどの覚悟をもって、男衆を森に送っているのだろうか。


「案ずるな……明日になれば、それほど不自由なく動けるようにはなる……スン家などは、恐るるに足りん……」


 と、うわごとのようにアイ=ファがつぶやいた。

 荷物をかたそうと玄関口に向かいかけてきた俺は、Uターンしてもう1度アイ=ファのもとに屈みこむ。


「わかったよ。お前のほうこそ、ゆっくり休んでくれ。少しでも早く元気になれるように、美味い食事を作ってやるから」


 すると、まぶたを閉ざしたまま、アイ=ファはかすかに微笑んだ。


「……早くはんばーぐが食べたいぞ、アスタ……」


 俺はうなずき、アイ=ファの火のように熱い頬を両手で包みこんでから、晩餐と仕込みの作業に取り掛かるために、立ちあがった。

アスタの収支計算表


*試食分は除外。


・第5日目



①食材費


『ギバ・バーガー』60人前


○パテ

・ギバ肉(10.8kg)……0a

・香味用アリア(15個)……3a


○焼きポイタン

・ポイタン(60個)……15a

・ギーゴ(60cm)……0.6a


○付け合せの野菜

・ティノ(3個)……1.5a

・アリア(3個)……0.6a


○タラパソース

・タラパ(5個)……5a

・香味用アリア(10個)……2.4a

・果実酒(1.75本)……1.75a

・ミャームー(1/5本)……0.2a


合計……30.05a



『ミャームー焼き』60人前


○具

・ギバ肉(10.8kg)……0a

・アリア(30個)……6a

・ティノ(3個)……1.5a


○焼きポイタン

・ポイタン(60個)……15a

・ギーゴ(60cm)……0.6a


○漬け汁

・果実酒(2本)……2a

・ミャームー(2本)……2a

・香味用アリア(3個)……0.6a


合計27.7a


2品の合計=30.05+27.7=57.75a



②その他の諸経費


○人件費・鉄鍋の貸出料……21a


○場所代・屋台の貸出料(日割り)……4a



諸経費=①+②=82.75a


120食分の売り上げ=240a


純利益=240-82.75=157.25a



純利益の合計額=131.02+157.25=288.27a

(ギバの角と牙およそ24頭分)

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