宿屋の寄り合い
2021.7/12 更新分 1/1
・今回は全7話です。
城下町にて行われた吟味の会の、翌々日――緑の月の7日である。
試食会の影響で延期を余儀なくされていた宿屋の寄り合いは、その日に開かれることになった。
今回のテーマは新たな食材の吟味であったのだが、それはもう一昨日に完了している。
その代わりに、この日は吟味の会で得た新たな知識のおさらいをしようということで話はまとまっていた。
吟味の会で得た新たな知識というのは、城下町における下ごしらえの作法についてである。城下町の料理人たちはこちらの想定以上に積極的で、実にさまざまな下ごしらえの作法を披露してくれたのだが――あまりに積極的すぎて、こちらがキャパオーバーとなってしまったのだ。
よって本日は城下町から料理人を招いて、こちらが理解しきれなかった部分をおさらいしてもらうことになる。
この顛末に、レビなどはたいそう嬉しそうな顔をしていたものであった。
「次から次へと色々な話を聞かされて、俺は頭が破裂しそうだったんだよ! それでもわざわざ宿場町まで出向いて説明を繰り返してくれるなんて、城下町のお人らも親切なこったよな!」
「うん。あんなに色々な話を披露してくれるなんて、なかなか予想外だったよね。もちろん自分であみだしたとっておきの調理法なんかは、いっさい口にしてないんだろうけど……基本的な下ごしらえだけで、あんなに色々な手順があるなんてねえ」
俺自身、城下町で開示された下ごしらえの作法に関しては、まったく未知なものばかりであった。この世界には俺の故郷とよく似た食材があふれかえっているものの、あくまで異なる食材であるために、俺には想像もつかないような特性が存在するようだった。
ともあれ、俺たちはうきうきと浮き立った気持ちでその日の仕事を終えることになった。
青空食堂からもお客が引けたら、後片付けをして《タントの恵み亭》に出陣だ。
今回はなるべく人数を抑えるようにと言われていたので、その場には俺とレイナ=ルウとトゥール=ディンの3名だけがおもむく手はずになっていた。護衛役として居残ってくれたのは、リャダ=ルウである。
「アイ=ファはやっぱり、日が暮れるまでいらっしゃらないのですか?」
《タントの恵み亭》に向かう道中で、レイナ=ルウがそのように語りかけてきた。
「うん。どうせ帰りは、日が暮れてからだしね。宿屋の寄り合いの日は、いつもそうだったろう?」
「ええ。それに今日は、デルシェアもいらっしゃいませんしね」
と、レイナ=ルウがそこで声をひそめた。往来を行き交う南の民の中にダカルマス殿下の配下がまぎれこんではいないかと配慮しているのだろう。
「でも、こういう日にデルシェアがいらっしゃらないということは……やっぱり城下町の作法に関しては、興味が薄いということなのでしょうか?」
「うーん、どうだろう。まあ、これが森辺の作法のお披露目だったら、すっとんできそうなところだもんね」
「はい。あの御方がどれだけ森辺の料理に強い関心を抱いているかは、この半月ほどで存分に思い知らされました」
レイナ=ルウとて試食会では、俺の見ていない場所で王家の方々と語らう機会があったのだ。その結果、レイナ=ルウは王家の方々の執着心を前向きにとらえることに決断したようだった。
(まあ、レイナ=ルウぐらい貪欲だったら、ダカルマス殿下の行いをありがたく思うことも多いんだろうしな)
ちなみに王家の方々を迎える森辺の祝宴は、2日後に予定されている。これはもう純粋に王家の方々をもてなすためのイベントであるのだから、思うぞんぶん森辺の料理を堪能していただきたいところであった。
そんなこんなで、《タントの恵み亭》に到着する。
レビは《キミュスの尻尾亭》の代表者となったので、俺たちと居残りだ。が、父親のラーズは屋台を運ぶすべがないために、それを肩代わりしてくれたユン=スドラへと、レビは申し訳なさそうに呼びかけた。
「それじゃあ悪いけど、屋台をよろしくな。まだ時間には余裕があるから、一緒に戻ってもよかったんだけど――」
「いえ。大した手間ではありませんので、お気になさらないでください。……アスタたちも、帰り道などはどうぞお気をつけて」
「ありがとう。そっちも気をつけてね」
居残り組の5名を残して、ユン=スドラたちはそのまま街道を南に下っていく。その姿を見送りながら、レビはしみじみと「ユン=スドラってのは、よくできた娘さんだよな」とつぶやいた。
「あんなに若いのにきっちりしてるし、料理の腕も申し分ないしよ。自分の至らなさを痛感させられちまうぜ」
「あはは。若いたって、ふたりは同い年じゃなかったっけ? レビだって、年齢のわりにはしっかりしてると思うよ」
「いやいや、俺なんてまだまだだよ。らーめんに関してだって、親父に頼ってる部分が大きいからよ。こんな俺たちを拾ってくれたミラノ=マスのために、もっともっと励まないとな」
レビはそういう意識でもって、調理の仕事に意欲を燃やしているのである。お世辞でも何でもなく、俺はレビのことも立派な人間であると見なしていた。
「それじゃあ、行こうか。……ミラノ=マスは、後から合流するんだよね?」
「ああ。城下町のお人らから手ほどきされるのは、宿屋から1名ずつって決められたからな。それ以外の人間は、下りの五の刻に集合だってよ」
「それじゃあそれまでの二刻と半分は、みっちり手ほどきしてもらえるわけだね。実のある時間を過ごせるように、頑張ろう」
そうして俺たちが玄関の内側に声をかけると、見覚えのある若い従業員が笑顔で出てきてくれた。
「いらっしゃいませ。本日の寄り合いに参加される、森辺の方々ですね? トトスと荷車をおあずかりいたします」
相変わらず、こちらの従業員はよその宿屋よりも対応が丁寧だ。
そんな若者にギルルと荷車を託して、俺たちがあらためて玄関をくぐろうとすると――トゥール=ディンが「あ」と声をあげた。
「アスタ、あれは城下町の車ではないでしょうか?」
確かに、箱形の立派なトトス車が北の方角からこちらに近づいてくる。それに、前後にはトトスにまたがった騎兵の姿も見て取れた。
「ずいぶん物々しいですね。貴族でも同行しているのでしょうか?」
「あ、そういえばサトゥラス伯爵家から見届け人をよこすとか言ってた気がするよ」
普段であればポルアースなどが参じるところであるが、本日は森辺の民が主体となる会ではないし、もともと宿場町を統括するのはサトゥラス伯爵家の役割であるのだ。ポルアースは外務官の補佐役として大忙しの時期であるから、サトゥラス伯爵家が本分を全うすることになったのだろう。
なんとなくその場から動くタイミングを逸した俺たちが立ち尽くしていると、裏から戻ってきた若者が大慌てで宿の中に引っ込んだ。そうして中から呼び出されたのは、主人のタパスである。
「ああ、森辺の皆様もいらっしゃっていたのですね。よろしければ、ご一緒に貴き方々をお迎えしていただけませんか?」
「ええ、それはかまいませんけれど……王家の方々は来られない予定ですよね?」
「はい。サトゥラス伯爵家から、2名の見届け人様がいらっしゃる予定です」
そんな言葉を交わしている間に、トトス車が到着した。
そうして白装束の武官にはさまれて降車してきた人物がこちらを見て、「おお」と笑み崩れる。
「なんだ、レイナ=ルウたちも出迎えに参じてくれたのか? ずいぶん気が利いているな!」
なんとそれは、サトゥラス伯爵家の第一子息たるリーハイムで、それを護衛する武官の片割れはレイリスであった。
リーハイムは喜色満面でレイナ=ルウのもとに歩み寄り、レイリスは俺に微笑みかけてくる。
「おひさしぶりです……というほど日は空いていないやもしれませんが、お元気そうで何よりです、アスタ殿」
「ええ、そちらも」
試食会には毎回リーハイムやルイドロスが招かれており、レイリスは護衛役として同行している。よって、顔をあわせるのは森辺のかまど番の試食会以来で、まだ4日しか経過していなかった。
「まさか、リーハイムがいらっしゃるとは思っていませんでした。宿屋の寄り合いの見届け人として参じられたのですよね?」
レイナ=ルウの問いかけに、リーハイムは笑顔のまま「ああ」とうなずいた。
「せっかくお前たちと挨拶できるのに、他の連中に役目を譲ることもないかと思ってな。……まあ、そっちにしてみりゃあ見慣れた顔でつまらんだろうけどよ」
「そのようなことはありません。見知ったお相手のほうが、心も安らぎます」
そう言って、レイナ=ルウはにこりと微笑んだ。
リーハイムは不意を突かれた様子でのけぞりかけたが、すぐにぶんぶんと首を振り、かしこまった面持ちで「そうか」と言った。
「まあ、今日の主役は城下町の連中だからな。存分に学んで、またいずれ立派な料理を頼むぜ?」
「もちろんです」と気合を入れるレイナ=ルウは、俺から見ても愛くるしかった。
そんなレイナ=ルウを見下ろすリーハイムは、どことなく頑張って取りすました表情を保持しているように見受けられる。
もしかすると――リーハイムはレイナ=ルウに恋心を抱いてしまわぬように、懸命に自制しているのだろうか? 彼はレイナ=ルウのことを純粋に優れた料理人として評価しているだけだと公言しており、レイナ=ルウはその言葉を心から嬉しく、誇らしく思っているのだ。それで自分がレイナ=ルウへの恋心を再燃させてしまうと、今の関係が壊れてしまうかもしれない――と、彼はそんな風に危惧しているのかもしれなかった。
(まあ、実際のところはわからないけど……そうだとしたら、ありがたい話だよな)
そうして俺たちが宿の前で挨拶を交わしていると、最後に奇妙な風体をした人物が車から降りてきた。
東の民のごときフードつきマントを纏い、しかも顔の下半面は襟巻きで隠している。まるで、お忍びでやってくるフェルメスやジェムドのような格好である。
「リーハイム様、同乗ありがとうございました。……森辺の方々も、すでにお集まりでありましたか」
「え? あれ? もしかして、ティマロですか?」
「ええ。このような格好で、失礼いたします。……ご主人、調理着に着替えるための部屋をお借りできますでしょうかな?」
「はい。ご案内いたします」
タパスの指示で、従業員の若者がティマロを宿の中へと案内していった。
俺たちがぽかんとしていると、リーハイムが苦笑まじりに説明してくれた。
「あいつは宿場町に出向くのも初めてらしくてな。どれだけ埃っぽい場所であるかと用心をして、あんな格好をしてきたのだそうだ」
「ああ、なるほど。そういえば、ヴァルカスのお弟子でもああいう格好をする御方がおられましたよ」
「ふふん。城下町であるていどの身分にあると、石塀の外を知らぬまま魂を返すもんだからな。そう言う俺だって、自分の足で領地を踏むことは滅多にないけどよ」
しかしサトゥラス伯爵家の後継者ともなれば、自らの領地たる宿場町まで出向く機会も多々あるのだろう。だからこそ、彼も一時期はほいほいと俺たちの屋台まで出向くことができたのだろうと思われた。
ともあれ、いつまでも宿の外で歓談はしていられない。リーハイムとレイリスともう1名の武官だけが宿の内へと案内され、残りの騎兵は宿の出入り口を警護するようだった。
食堂には、すでに宿屋の関係者が集結している。そしてその場の中心でご主人がたに取り囲まれていたのは、ヤンとニコラであった。
「ああ、ダレイム伯爵家の料理長か。そういえば、今日はお前も指南役を務めるんだったな」
リーハイムが気安く声をかけると、ヤンは恭しげに一礼した。
「はい。ですがわたしひとりでは力が及ばないため、ティマロ殿にも参じていただいた次第です」
「ダレイム伯爵家は長いこと、食材の流通を止められてたもんな。それで勲章を授かるんだから、大したもんだ。……ああ、別に特別な挨拶はいらねえよ。試食会と同じで、適当にやってくれ」
後半の言葉は、宿屋のご主人がたに向けられたものだ。リーハイムも、貴族としては粗雑な部類なのだろう。レイリスなどは苦笑をこらえている様子で、従兄弟の挙動を見守っていた。
そうして俺たちのもとには、プラティカがひたひたと近づいてくる。彼女は当然のようにこの日の会の見学を申し出て、無事にそれが了承されたのだ。昨晩はダレイム伯爵家のお世話になり、ヤンたちと一緒にここまで参じたようだった。
「お疲れ様です、プラティカ。今日は見学が許可されてよかったですね」
「はい。ジェノスの貴き方々、寛大な取り計らい、感謝しています」
彼女はしょっちゅうダレイム伯爵家のお世話になっているし、森辺に来ない日は城下町で修練を重ねている。よって、城下町における下ごしらえの作法についても、ずいぶん習得は進んでいるはずだが――それでもこういう集まりは、無視できないのだろう。調理技術の習得に関する貪欲さでは、誰にも負けていないプラティカであった。
しばらくすると、着替えを済ませたティマロがやってくる。城下町で見る通りの白い調理着姿で、口もとを布で覆ったりもしていなかった。
「お待たせいたしました。約束の刻限までまだ四半刻ほどあるようですが、いかが取り計らいましょう?」
「人間がそろってるなら、始めちまえよ。お前らだって、大事な仕事を放りだして集まったんだろ? 早く始めりゃ、早く帰れるぞ」
自分より高い身分の人間もいない場であるので、リーハイムはいっそう粗雑になっているようだ。が、貴族らしいお行儀のよさなど求めていない俺たちには、なんの不都合もなかった。
宿屋の人間は全員そろっているのか、簡単に点呼が取られる。その間に、ユーミが「やあ」と身を寄せてきた。
「誰が来るかと思ったら、あのティマロってお人だったんだね! あのお人の料理は上出来だったから、ちょっと安心しちゃったよ」
「うん。ティマロはトゥラン伯爵家の副料理長だったから、色々な下ごしらえの作法をわきまえてるんだろうと思うよ」
しかしそれにしても、数ある料理人の中からティマロが選ばれるというのは意外であった。かつてはヴァルカスとともに吟味の会の取り仕切り役を担っていたティマロであるが、気位の高い彼がわざわざ宿場町に出向いてくれようとは思っていなかったのだ。
「リーハイム殿、宿屋の人間はすべて居揃っているように存じます」
「だから、いちいち俺に報告しなくていいよ。黙って見てるから、好きに始めてくれ」
というわけで、俺たちは宿の厨に向かうことになった。
こういった日にはいつもお世話になっている、宿場町の宿屋としてはけた違いの広さを持つ厨だ。30名からの人間が見学をするには、どうしたってこちらの厨が必要であるのだった。
「では、下ごしらえの作法の手ほどきを始めたく思います。本日の指南役はティマロ殿で、わたしは補佐役となりますので、そのように思し召しください」
ヤンの挨拶で、下ごしらえのおさらいが始められた。
ティマロはぽこんと出たおなかをそらしつつ、「えー」と声をあげる。
「先日の吟味の会においては城下町における調理の基本技術が開示されることに相成りましたが、あのように短い時間ではご理解が及ばない部分も多々あったことでしょう。まずはわたしのほうから、特に補足が必要と思われる点に関してご説明を申し上げますので、そののちに皆様からの疑念にお答えするという形式でよろしくありましょうかな?」
「それでいいけど、途中でわかんないことがあったら口をはさんでもいい?」
貴族の見学ぐらいでは威勢を失わないユーミが、率先して声をあげた。
「もちろんです」と応じたティマロは、ぎょっとしたように目を見開いた。
「おや……あなたはもしや、《西風亭》の娘さんでしょうかな?」
「あはは。それ以外の、誰に見えるっての? まあ、今日は立派な装束も着てないけどさ!」
「……女人がみだりに肌をさらすのは、あまり感心いたしませんな」
ユーミは森辺の女衆と変わらぬていどの露出度であるが、こちらは町用のヴェールでいくぶん柔肌を隠しているのだ。
「まあ横事はさておき、ご説明を始めましょう。……ヤン殿、説明用の食材はどちらでしょうかな?」
「こちらの台に並べております」
ヤンの指し示した作業台には、壺や木箱がずらりと並べられていた。ティマロはその中から、3つの壺を引き寄せる。
「まずは、肉の下ごしらえに関してです。こちらはカロンの肉を、それぞれ酢と砂糖と蜜に漬けたものとなります」
「わー、現物を準備してくれたんだ? 話を聞いただけじゃピンと来なかったから、助かるよ」
やはり相槌を打ったのは、ユーミだ。ティマロは曖昧な表情でそちらを見返してから、壺の蓋を取り去った。
「これらは塩漬けと同じく保存の手段であると同時に、下味をつける効能も存在いたします。さらに香草を加えることで、劇的な変化が期待できるわけですが……それは、料理人がそれぞれ研鑽するべき領分でありましょうな」
「うーん。でも、砂糖や蜜はともかく、酢ってのがちょっとなー。肉を酸っぱくして、美味しくなるの?」
「それは、ご自分の舌で確かめられるとよろしいでしょう」
ティマロの指示で、ヤンとニコラが3種の肉を焼き始めた。
その間も、ティマロは滔々と語り続ける。
「もう一点、肉をこれらの食材に漬け込みますと、肉質がきわめてやわらかくなります。宿場町においてはカロンの足肉が広く食されているというお話ですので、そちらの面でも有用なのではないでしょうかな?」
「なるほど。ニャッタの発泡酒と同じ効能があるのですな」
そのように声をあげたのは、ナウディスであった。
ティマロはきらりと目を光らせながら、そちらを振り返る。
「《南の大樹亭》のご主人。あなたの宿では、ニャッタの発泡酒を下ごしらえに使っておられるのでしょうかな?」
「はいはい。わたしは南の血を引いておりますため、そういった使い道を聞き及んでおりました。カロンの乳も、肉をやわらかくする効能があるそうですな」
「ええ。ですがカロン乳では保存がききませんし、乳の風味が強く肉に移るため、それに適した料理でしか使われることもありません。もっとも一般的であるのがママリアの酢で、次が砂糖、近年になって開発されたのがパナムの蜜、といったところでありましょうな」
ママリアの酢がもっとも一般的であるのは、きっと産地の関係であろう。ただし、宿場町にはトゥランのママリア酢さえロクに流通していなかったので、サイクレウスが失脚するまでは誰も使い方をわきまえていなかったのだった。
調理を終えたヤンとニコラが、次々と皿を回してくる。皿には3種の肉がひとかけらずつ乗せられていた。
「外見では、いずれの食材に漬けられていた肉が判ずることも難しいでしょう。ただ、味と食感の違いは明白であるかと思われます」
俺たちは大きな好奇心を胸に、それらの肉を味見することになった。
カロンの肉というのはあまり食べなれていないので、下味の違いを見分けられるかどうか不安なところであったが――とりあえず、違いそのものははっきりしているように思えた。
3種の肉は、どれもやわらかい。ただ、やわらかさの質が異なっていた。
ひとつの肉は、キミュスのような噛みごたえで、まだそれなりに繊維が残されている。もうひとつはそれよりもふっくらとした食感で、やたらと肉汁が豊かであり――そして最後の肉は、ぷちぷちと肉が弾けるような食感であった。
「酢漬けの肉は味が引き締まっており、やわらかさもそれなりだと思われます。砂糖漬けはそれよりもやわらかく、肉汁が多いのが特性となります。そして、パナムの蜜漬けは――ただやわらかくなるばかりでなく、歯ごたえそのものが変化しているはずです。我々は、この変化を『肉がふくらむ』と称しております」
そのような言葉は聞いたことがないし、たぶん俺の故郷で肉を蜜漬けにしてもそのような効果は得られない。そもそもパナムというのは謎の樹木であるようだし、俺にとっては未知の――もしかしたら、故郷に存在しない成分が含有されているのかもしれなかった。
「うん、噛みごたえはどれも全然違うね! ていうか、そんなに酸っぱくも甘くもないみたい!」
「ええ。酢漬けは味が引き締まり、砂糖と蜜にはほのかな甘さが移ります。食べ慣れていない方々には気づきにくいていどの下味であるやもしれませんが――素の肉と食べ比べれば違いは明白でありますし、料理に仕上げるとその差もいっそう大きくなるはずです」
酢に漬けると味が引き締まるという説も、俺は寡聞にして知らない。俺が知らないだけであるのか、この世界のママリア酢にだけ存在する効能なのかは、判別することもできなかった。
ともあれ、なかなか面白い話である。同じ考えに至ったらしいレイナ=ルウも、瞳を輝かせながら俺に囁きかけてきた。
「ギバ肉をそれらの食材に漬けたら、いったいどのような変化が生じるのでしょうね! 試してみるのが、楽しみです!」
すると、ティマロが俺たちのほうに視線を飛ばしてきた。
「あと、森辺の方々にお伝えしておかなければならない話があります。もしもギバ肉を砂糖に漬ける際は、少量の塩もお加えください」
「塩を? それは、何故でしょう?」
「砂糖だけではこのような効能も生まれないという話が、すでに立証されているのです。古きの時代、自らの手でキミュスの肉をさばいた料理人がそれを砂糖に漬けたところ、肉質に変化が見られなかったとのことでありますね」
「そうなのですか。塩は、どれぐらい必要なのでしょう?」
「我々は、塩漬けの肉を洗わないまま砂糖に漬けます。肉にまんべんなく塩をまぶしてから砂糖に漬ければ、それで十分であるかと思われます」
「承知しました。ありがとうございます」
森辺において、ギバ肉は塩ではなくピコの葉に漬けられているということを知った上で、そのように注釈を加えてくれたのだろう。俺は心を込めて、ティマロに御礼を伝えることになった。
そしてその後も、ティマロによって数々の作法が説明されていく。
そのいくつかは、あまり俺たちの参考にはならないような――つまりは、カロン肉やキミュス肉と香草の相性だとか、それを利用した料理の下ごしらえの話などであったものの、それ以外は有意義そのものであった。
たとえば城下町においては、フワノの生地にチャッチとゾゾのすりおろしを入れるのが流行であるらしい。ゾゾというのは苦いお茶の原料で、俺たちなどはまったく活用していないのだが。それをチャッチと一緒に加えることによって、普通とは異なる好ましい弾力が生まれるのだそうだ。
あとは、キミュスの卵を砂糖水に漬けると甘さが殻の内側にまで浸透するので、それを菓子の材料にするのだとか――フワノは天日干しにしてから使うと独特の香ばしさが生まれるのだとか――タウ油とレテンの油を一緒に煮込むと融合して、それが調味液の土台として使われることが多いのだとか――タケノコに似たチャムチャムを3日ばかりもチットの実に漬けておくと、身が引き締まって独特の食感が生まれるのだとか――俺には聞いたことのない話ばかりである。
それで俺は、いよいよ確信を深めた。
やはりこの地の食材には、俺の知らない数々の特性が存在するのだ。
タウ油は醤油に、レテンの油はオリーブオイルに似た食材であるが、醤油とオリーブオイルを一緒に煮込んだって融合することはないだろう。たぶん鶏卵を殻ごと砂糖水に漬けても甘さが浸透することはないし、タケノコをトウガラシに漬けても食感が変わることはないように思う。
反面、俺はジャガイモに似たチャッチからデンプンを抽出することができたし、米に似たシャスカはさまざまな観点から米に似た性質を持っている。乳脂はバターと同じ方法で作ることができたし、ホイップクリームなどもまた然りだ。
つまりこの地の食材は、俺の知る特性と知らない特性を両方備え持っている、ということなのだろう。
もしかしたら、俺はこの地の食材のことを、まだ半分ぐらいしか理解できていないのかもしれなかった。
「そしてこれは、城下町においてもごく一部の料理人しかわきまえていなかった手法なのですが――先日にはダイア殿がその手法をつまびらかにしておりましたので、わたしからご説明を加えさせていただきます」
と、ティマロは平皿に薄くパナムの蜜を注いだ。
視線で合図を受けたヤンが、別の小皿をティマロに手渡す。そこには、無色透明の液体が備えられていた。
「こちらは、シィマの絞り汁となります。シィマをすりおろして、布で絞って汁だけを抽出したものでありますね。これを、パナムの蜜に加えます」
そのように説明しながら、ティマロはシィマの絞り汁を余さずパナムの蜜の皿に注いだ。
それを小さな匙でゆっくりかき回したのち、5秒ほど放置する。
そうしてティマロはおもむろに、皿の内側を俺たちのほうに向けてきたのだが――パナムの蜜は皿に張りついたまま、したたり落ちることもなかった。
「パナムの蜜にシィマの絞り汁を加えると、このように凝固いたします。この作法を知る人間は、この特性を菓子作りに活かしておりますね」
すると、トゥール=ディンが俺のTシャツの袖をくいくいと引っ張ってきた。
「たしか、シリィ=ロウやダイアの菓子で、あの作法は使われていましたよね。まさか、シィマが使われているとは思いませんでした」
「うん。俺はてっきり、砂糖を加えて固めていたのかと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだね」
きっと俺の故郷のあらゆる蜜にダイコンの絞り汁を加えたところで、凝固することはないだろう。これもこの地の食材だけが持つ、不可思議な性質であるのだ。
「わたしが補足説明の準備をしていた話は、以上となります。少々しゃべり疲れましたため、皆様の質問を受け付ける前に小休止をいただけますでしょうかな?」
「お疲れ様でした、ティマロ殿。それではいったん、食堂のほうに戻りましょう。見届け人と料理人の方々は、別室にご案内いたします」
宿屋のご主人がたは熱っぽく語らいながら、食堂へと向かっていった。
俺はティマロたちにひと言挨拶をさせていただこうかなと、その人の流れをやりすごす。すると、同じ考えに至ったらしいレビとユーミも、同じ場所に居残った。
「みなさん、お疲れ様でした。おかげ様で、とても有意義な時間を過ごすことができました」
俺がそのように言葉を送ると、ティマロはすました顔で視線を返してきた。
「我々は、城下町では広く流布されている下ごしらえの作法をお伝えしたに過ぎません。少しでも物珍しいのは、最後のパナムの取り扱いについてぐらいでありましょうな」
「でも、自分たちにはすべてが物珍しい話でしたからね。これでまた、料理の幅を広げられるかもしれません」
「……アスタ殿などはこの倍ほどもご自分の作法をさらされておるのですから、御礼には及ばないのではないでしょうかな?」
「まったくだよ」と、レビが言いたてた。
「アスタたちと城下町のお人らにばっかり世話を焼かせて、一番得をしてるのは俺たちだよな。俺たちは、お返しに披露するものも持ち合わせてないしよ」
「宿場町の方々は長きにわたって、食材の流通を差し止められていたのですからね。これまでご苦労をされてきた分、力添えが必要なのでしょう」
穏やかに微笑みながら、ヤンはそのように言ってくれた。
ユーミは元気いっぱいに、「そーそー!」と同意する。
「あ、でも、シム料理やジャガル料理に詳しいお人らだったら、お返しができるのかな? ヴァルカスってお人も、シム料理についてあれこれ質問責めにしてたもんねー!」
「《玄翁亭》と《ラムリアのとぐろ亭》の方々ですな? わたしもお話をうかがおうとしていたのに、ヴァルカス殿がべったりと張りついていたため、それもままならなかったのです」
ティマロが勢い込んで身を乗り出すと、ユーミは笑いながらそれを見返した。
「だったら、今日のうちに聞いておけば? ちょうどヴァルカスもいないことだしさ!」
「しかし今日の本分は、城下町の作法をお伝えすることでありますからな。そちらのお話をうかがうには時間が足りませんでしょう」
「ふーん? それなら、そういうお人らを城下町に招いて、今日のあんたみたいな役をやってもらえば? 手間賃をもらえるなら、ネイルもジーゼ婆さんも嫌な顔はしないでしょ!」
ユーミの気安い提案に、ティマロは「うーむ」と難しい顔をする。
「しかし、宿場町の方々に通行証を発行するには、貴き方々の口添えが必要となりますからな。我々の一存だけで決めることはできません」
「だったら、貴族に頼めばいいじゃん。あのサトゥラスの領主の息子なら、それぐらいの権力は持ってるんじゃないの?」
「た、貴き方々にそのような口を叩くものではありませんぞ」
と、ティマロがいくぶん慌てたとき、当のリーハイムがタパスを引き連れて近づいてきた。
「そんなところで、何をくっちゃべってやがるんだよ。話すんだったら、腰を落ち着けて話しゃあいいだろうが」
「あ、い、いえ、これは大変失礼を――」
「別に失礼なことはねえさ。お前らも、あっちの食堂に出向いたらどうだ? 俺はそうさせてもらうつもりだぜ」
タパスは別室を準備すると言っていたが、それを断ったということなのだろう。タパスはお行儀のいい微笑みでもって、内心を押し隠していた。
「俺にはよくわからねえけど、城下町と宿場町の料理人が語らうのは有意義って話なんだろ? だったら時間の許す限り、語らっときゃいいじゃねえか。……それに今日は、森辺の連中もいそろってるんだしよ」
「はい。ティマロやヤンと語らえたら、わたしも嬉しく思います」
レイナ=ルウは、笑顔でそのように応じていた。
これもまた、ダカルマス殿下のもたらした恩恵のひとつであろう。もともと《タントの恵み亭》に力を添えていたヤンは別として、ティマロとこのようなシチュエーションで料理談義できるなどとは、ひと昔前には想像もつかなかったことであるのだ。
(しかもそれを見届けるのが、リーハイムとレイリスなんだもんな。ティマロも含めて、みんな最初は森辺の民を快く思ってなかったはずなのに……変われば変わるもんだなあ)
そうして俺たちは、その日も有意義で充足したひとときを過ごすことがかなったのだった。