生誕の日②~至福の夜~
2021.5/11 更新分 1/1
そうして、夜である。
宿屋の寄り合いを終えた後、俺はルウ家のかまど小屋で晩餐までの時間を過ごすことになった。
ルウ家のかまど小屋では新たな食材の吟味に励み、日時計が下りの五の刻の半を示したところで、帰路につく。ルウからファまでは荷車で20分ほどの道のりであるため、帰りつく頃にはもう日没寸前であった。
とっぷりと暗くなった世界の中で、母屋の窓からは光がこぼれて、ついでに白い煙と蒸気ももれている。料理の最後の仕上げにかかっているか、あるいは汁物料理を温めなおしているのだろう。
荷車を木陰にとめて、ギルルを解放してやりながら、俺の胸には得も言われぬ幸福感が宿されていた。
1日の仕事を終えて家に戻ってみると、家人の手で晩餐の準備が進められている。森辺の狩人たちは――そしてもちろんアイ=ファもまた、毎日このような心地で家からこぼれる光を眺めているのかもしれなかった。
(アイ=ファのために晩餐の準備をするのは、俺の生き甲斐みたいなもんだけど……1年にいっぺんでもこういう日があるっていうのは、やっぱりいいもんだよなあ)
そんな思いを噛みしめながら、俺はギルルとともに戸板の前に立った。
「家人アスタ、ただいま戻りました。戸板を開けてもよろしくありましょうか?」
五体を満たす多幸感に従って、俺はいくぶんおどけた調子でそのように言いたててみせる。
戸板の向こうからは、「しばし待て」という凛々しい声が返ってきた。
まだ料理の仕上げの途中であったのか。あるいは慌ただしく、木皿を並べている最中であったのか。アイ=ファのそんな姿を想像すると、俺はいっそう幸福な心地になってしまった。
(調理する姿を誰にも見せたくないなんて、アイ=ファも可愛いところがあるよなあ)
そうして15秒ほどが経過すると、ようやく「入れ」というお言葉をいただくことができた。
俺は戸板をスライドさせて、ブレイブたちがくつろぐ土間に踏み込み、広間の上座に座したアイ=ファに笑いかけようとして――愕然と立ちすくむことになった。
「早く戸を閉めて、ギルルを休ませてやるがいい」
アイ=ファの凛然たる声に従って、俺は背後の戸板を閉めた。
しかし視線は、アイ=ファのもとから離せない。
アイ=ファは――目もくらむような宴衣装の姿で、その場に座していたのだった。
「ア、アイ=ファ、その格好は……?」
「いいから、さっさと家に上がれ。祝いの晩餐が冷めてしまおうが」
アイ=ファはあくまで、普段通りの凛々しさを崩そうとしない。
しかし、宴衣装の姿であるのだ。
その金褐色の髪には俺の贈った透明の石の花飾りが――そして、普段よりも豪奢な色合いでやや露出の度合いも大きい胸あての上には、俺の贈った青い石が、俺の贈った銀の装飾品で飾られている。
「いや、ちょっとびっくりしちゃったよ。まさかアイ=ファが宴衣装を纏ってるとは思わなかったから……」
「……この飾り物を身につけた姿を見たいと言ったのは、お前であろうが?」
アイ=ファは引き締まった面持ちのまま、青い石を彩る銀の飾り物に手をふれた。
白銀に輝く華奢なチェーンで、青い石の左右には木の葉をモチーフにした飾りが揺れている。俺が《銀の壺》から買いつけた、アイ=ファの生誕の日の贈り物だ。
「しばらくは婚儀の祝宴に招かれる気配もないため、この日に宴衣装を纏うことにした。何か文句でもあるのか?」
「文句なんて、あるわけないじゃないか」
俺は慌ただしく革のサンダルを脱ぎ捨てて、アイ=ファの眼前に腰を下ろした。
宴衣装を纏ったときだけ、アイ=ファはなよやかな横座りの姿勢を取る。そうしてほどいた髪や肩には七色に輝くヴェールをかけて、上腕や手首には普段と異なる銀の飾り物をつけて――アイ=ファは、夢のように美しかった。
「……あまりじろじろと見るな」
「え? 俺に見せてくれるために、宴衣装を着たんじゃないのか?」
アイ=ファは凛々しいお顔のまま頬を染めると、腕をのばして俺の頭を引っぱたいてきた。
そんな仕草までもが、狂おしいほどに愛おしい。
「とにかく、余計な話は後にするがいい。生誕の祝いを始めるぞ」
「はい。仰せのままに」
アイ=ファは横座りのまま、ぴんと背筋だけをのばした。
「家人アスタの19度目の生誕の日を、ここに祝福する。これからも、ファの氏に恥じない人間として、健やかなる生を送ることを願う」
「はい。ファの家人として、母なる森に恥じない生を送ります」
アイ=ファはひとつうなずくと、1年前と同じように、敷物の料理を迂回して俺のもとに近づいてきた。
そのしなやかな指先が、俺の胸もとに黄色いミゾラの花を捧げてくれる。
やはり黄の月の生まれということで、この色が選ばれているのだろうか。昨年も、アイ=ファは黄色いミゾラを祝福の花として捧げてくれたのだった。
「では、祝いの晩餐を始める」
アイ=ファは口の中で、俺は小さな声で食前の文言を詠唱する。
「……森の恵みに感謝して、火の番をつとめた家長アイ=ファに礼をほどこし、今宵の生命を得る」
この言葉を口にできるのも、年に1度のお楽しみであった。
「では、汁物料理を取り分ける。お前はその場で待つがいい」
アイ=ファは再び立ち上がり、横手のかまどへと近づいていった。
黒猫のサチは、広間の片隅で丸くなっている。微笑ましい気持ちでその姿を見やってから、アイ=ファの座っていた席に目を戻した俺は、そこにちかりと輝くものを発見した。
あれは――かつてアルヴァッハたちから贈られた、ゲルドの手鏡である。
鏡は床に伏せられていたが、裏面も鈍い銀色をしていたため、それが燭台の火を反射させたのだ。
どうして普段は棚に飾られている手鏡が、敷物の上に転がされているのか。
それはアイ=ファが、俺が帰ってくる前に髪や飾り物の確認をしていたためである、としか思えなかった。
もしかして――俺が戸板の前で待たされていた15秒ほどの間にも、そんな光景が展開されていたのだろうか。
俺は何だか幸福のあまり、座ったまま立ち眩みを起こしてしまいそうなほどであった。
「……やっぱり宴衣装の着つけには、誰かの手を借りたんだよな?」
「うむ。サリス・ラン=フォウに手伝いを願うことになった。自分ひとりでは、宴衣装を正しく纏うこともままならんからな」
ふたつの木皿を掲げたアイ=ファが、こちらに舞い戻ってくる。
立っていても座っていても、同じぐらい秀麗な姿である。俺がついつい見とれてしまうと、アイ=ファはまたわずかに顔を赤くしてしまった。
「お前は、いつまで呆けておるのだ? 私の宴衣装など、そうまで珍しくはなかろう」
「いやあ、だけど雨季をはさんで、数ヶ月ぶりだからなあ。しかもようやく、その飾り物をつけた姿を拝めたし……ああ、幸せすぎて、卒倒しちゃいそうだなあ」
「お前が倒れたならば、私はひとりで祝いの晩餐を食することになるな」
アイ=ファが、唇をとがらせる。
その愛くるしさにまた心臓を射抜かれつつ、俺も何とか理性を呼び起こしてみせた。
「そう! アイ=ファが準備してくれた祝いの晩餐を味わわせてもらわないとな! アイ=ファの宴衣装に見とれるのは、その後だ!」
「うつけもの」と、アイ=ファはいくぶん気恥ずかしそうに身をよじった。
そんな仕草にも胸をかき乱されてやまないが、まずは祝いの晩餐である。アイ=ファの準備してくれた祝いの晩餐を二の次にすることなど、天地がひっくり返っても許されないのだった。
敷物には、4種の料理と焼きポイタンが並べられている。
タラパのソースがかけられたギバ・バーグに、ミソ仕立ての汁物料理、シィマとギーゴのせん切りサラダ、そしてギバ肉と野菜の炒め物というラインナップである。
いくぶん趣の異なるポイントもあるが、基本的には昨年と似たような品ぞろえであるようだ。
しかしもちろん、俺の胸には温かい気持ちだけが満ちていた。アイ=ファの手料理を食べられるというだけで、俺にとっては幸福の極致であるのだ。
(いただきます)と心の中で念じながら、俺はギバ・バーグからいただくことにした。
赤く輝くタラパのソースがまぶされたパテにかじりつくと、思わぬ噛みごたえと香り豊かなギャマの乾酪が口の中に広がっていく。
乾酪が仕込んであるのは昨年の通りであったが、さらにこちらは角切りのタンも練り込まれていたのだ。
「ああ、美味しいなあ。タラパのソースもパテの焼き加減も申し分ないよ」
俺が心からの言葉を届けてみせると、アイ=ファは「そうか」とはにかむように微笑んだ。
「しかしやっぱり、まともなはんばーぐを作りあげるのに3度は失敗することとなった。かまどに立つのが年に1度では、腕が上がる道理もないというわけだな」
「いやいや、今回はタンの角切りまで加えられてるし、タラパのソースだって見事なものじゃないか。見様見真似でこれだけのものを作れるなんて、すごいことだよ」
「このたびは、サリス・ラン=フォウに作り方を学んだのだ」
そんな風に言ってから、アイ=ファはいくぶん慌てたように身を乗り出した。
「とはいえ、サリス・ラン=フォウは指一本、食材に触れておらんからな。ただ昨年とまったく同じ料理では、あまりに不甲斐ないように思ったので……わずかなりとも、余人の力を借りる他なかったのだ」
「そんな、申し訳なさそうな顔をしないでくれよ。もちろん昨年と同じ料理を出されたって、俺には何の不満もないけど……そうやってアイ=ファが力を尽くしてくれたなら、なおさら嬉しいさ」
俺が笑顔で応じると、アイ=ファは何か眩しそうに目を細めた。
そしてアイ=ファの口もとにも、こらえかねたように微笑みがたたえられる。
「……昨年にも思ったことだが、お前がそのような顔で、私の料理を食べてくれるのは……心から、幸福に思える」
「ああ。俺は毎日、その幸福を噛みしめているんだよ」
俺は続いて、ミソ仕立ての汁物料理を味わわさせていただいた。
こちらも、まったく不備は見られない。アリア、ネェノン、チャッチ、ブナシメジモドキが使われた、いわゆる『ギバ汁』だ。去年はタウ油仕立てであったが、この1年の間に俺たちはミソという素晴らしい食材を獲得していたのだった。
シィマとギーゴの生鮮サラダには、干しキキとミャンを使った梅しそのようなドレッシングが掛けられている。これもきっと、サリス・ラン=フォウに作り方を手ほどきされたのだろう。シィマとギーゴは相変わらず形が不ぞろいであったが、そういった拙さがまた愛おしくてならなかった。
そして最後の肉野菜炒めであるが――こちらはタウ油と魚醤を基調にして、綺麗に味がまとめられていた。それでも味が平坦でないのは、ジャガルの蒸留酒や燻製魚の出汁をも使っている証である。これもまた、見様見真似ではかなわぬ所業であるはずであった。
「うん、この炒め物もすごく美味しいよ。去年なんかは、その……すごく個性的な味だったけど、まったく比べ物にならないな」
「言葉を飾る必要はない。あれは弁明のしようもなく、不出来な料理であったからな」
「いやいや、ああいう料理はああいう料理でアイ=ファの一生懸命さが伝わってきて、俺はすごく幸福な心地だったぞ」
粛々と食事を進めていたアイ=ファは、またくすぐったそうに身をよじりながら、木匙の先端を俺のほうに突きつけてきた。
「アスタよ、心情を包み隠さないというのは、ファの家の取り決めであるが……少しは手心を加えるがいい」
「いやあ、今日の俺には難しい話だな」
俺が笑顔のまま応じると、アイ=ファは喜びと羞恥の入り混じった顔で前髪をいじった。
ヴェールをかぶっているために、いつものように格好よく前髪をかきあげることも難しいのだろう。それがまた普段にはない可愛らしさで、俺をいっそう浮かれさせてしまうのだった。
「でも、本当にすごいと思うよ。サリス・ラン=フォウに作り方を習ったって言っても、それは今日1日のことなんだろう? それとも別の日にも、俺のいない時間にこっそり手ほどきをお願いしていたのかな?」
「いや。そうまでしっかりと手ほどきを願うのは、私の本意ではなかった。今日の昼下がり、狩り場の罠を見回った後に、手ほどきを願ったのだ」
「だったら、やっぱりすごいよ。年に1度のかまど仕事でこれだけの料理を作れるなんて、アイ=ファはかまど番の才覚も持ち合わせてるんだな」
俺の言葉に、アイ=ファは少しだけ切なげな顔をした。
「であれば……私も最初から真っ当な女衆として生きていれば、立派なかまど番になれたのであろうかな」
「え、それは困るよ!」と、俺は反射的に大きな声をあげてしまった。
アイ=ファはきょとんとした顔で、目をぱちくりとさせる。
「何が困るのだ? お前が慌てるような話ではないように思うのだが……」
「いや、だって……アイ=ファが真っ当な女衆として生きていたら、どこかに嫁入りしてたはずだろう? アイ=ファは狩人だからこそ、たったひとりでファの家を守れたわけだし……」
そんな風に語りながら、俺は深く恥じ入ることになった。
「そうしたら、俺は森でアイ=ファに出会うこともなかったから、困るって思ったんだけど……俺、すごく勝手なことを言っちゃってるな」
「勝手ではない」と、アイ=ファは目を細めて微笑んだ。
「お前は私の言葉から、そのような想念に行き当たるのだな。確かに以前にも、同じような言葉を聞かされた覚えはあるが……しかし、いくぶん驚かされてしまった」
「ああ、うん。やっぱり生誕の日だからさ。アイ=ファと出会った日のことを、ずっとつらつら考えてたんだよ。だからすぐさま、そんな思いが浮かんじゃったんだろうな」
アイ=ファは少しだけうつむきながら、くすくすと笑い声をたてた。
「しかし確かに、お前の言う通りだ。もしも私が狩人として生きることをあきらめていたならば、父ギルを失った時点で余所の家を頼る他なかっただろう。フォウかランに嫁入りを願うか……あるいは、ダルム=ルウへの嫁入りを了承するしかなかったろうな」
「うわあ、そんな恐ろしい想像をさせないでくれよ!」
「うむ。ダルム=ルウには申し訳ないが、身の毛のよだつような想像だな。まあ、あちらにしても、それは同じことであろうが」
アイ=ファはゆっくり面を上げると、青く輝く瞳で真正面から俺を見つめてきた。
「私は狩人を志したからこそ、お前に出会えた。その運命を、何より得難く思う。……さあ、喋ってばかりおらんで、晩餐を進めるがいい。せっかくの、祝いの晩餐なのだからな」
「うん」とうなずき、俺は食事を再開させた。
だけどやっぱり、ずっと黙っていることは難しい。俺の目はアイ=ファの姿を、俺の耳はアイ=ファの声を欲してしまっているのだ。
俺はいつも通りのペースで食事を進めつつ、その合間にはひっきりなしに声をあげることになってしまった。
「この1年も、色んなことがあったよな。たしか去年の生誕の日のすぐ後に、スドラの家で双子の赤ちゃんが産まれて……それでもって、バランのおやっさんたちと同じ日に、王都の監査官がやってきたんだよな」
「ドレッグとタルオンか。あれからもう、1年もの日が経つのだな」
「うん。それで俺たちは西方神の洗礼を受けて、ジルベをファの家人に迎え入れて……そのすぐ後に、ティアと巡りあうことになったんだよ」
横合いの棚を見やりながら、俺はそのように言ってみせた。
傀儡使いのリコがこしらえてくれた木彫りの小さな人形は、いつでもその赤い瞳で俺たちを見守ってくれている。
「そうしたら、次は青の月だから――ティアを交えた収穫祭と、親睦の祝宴や宿場町の交流会なんかがあって、そのすぐ後に家長会議だな」
「うむ。その日にお前の行いの正しさが認められたのだ」
「俺じゃなくって、ファの家のな。俺たちは、ふたりの意思で同じ道を進んでいたんだろう?」
「そうだったな」と、アイ=ファはやわらかく微笑した。
「そうして家長会議を終えたならば、《アムスホルンの寝返り》か」
「ああ、あれは肝が冷えたなあ。それでこうしておやっさんたちに新しい家を建ててもらって、森辺で送別会を開くことになったんだ」
「その前に、ドゥルムアが家人になっているぞ。あれもたしか、青の月であったはずだ」
「ああ、そうか。それで白の月は……ゼディアス=ルティムが産まれた他に、何があったっけな」
「ムスルがお前の屋台に現れて、謝罪をしたいと願っていた。我々はそれを受け入れて、ヴァルカスの店でトゥラン伯爵家と親睦の晩餐会を開くことになった。その後にはレビの父親たるラーズと出会い、らーめんの作り方を手ほどきしていたな」
やはり記憶力では、アイ=ファにかないそうもなかった。
「そうして灰の月にはデルスと出会い、このミソを手中することになり――」
「ああ、シルエルと《颶風党》の襲来だな。あれからまだ、1年も経ってなかったのか」
いい思い出もあれば、悪い思い出もある。
しかし、シルエルのもたらした災厄さえもが、俺たちにとってはゲルドとの交流に繋がったのだ。
「となると、それからすぐにフェルメスとの出会いだな。灰の月も、とんでもない慌ただしさだ」
「それに比べれば、黒の月はまだしも平穏であったのだろう。モラ=ナハムが騒ぎを起こしたり、ラウ=レイが家に押しかけてきたりと、慌ただしいことに変わりはないがな」
「ああ、それも懐かしい思い出だな。それで藍の月には、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンの婚儀か」
「その前に、アルヴァッハたちがジェノスにやってきている。そして婚儀のすぐ後に、リコたちが姿を現したのだ」
「藍の月は、いいこと尽くしだな。それで紫の月は、太陽神の復活祭だけど……それまでにも、何かしらあったんだろうなあ」
「ジーダたちが、ルウの血族に迎え入れられた。同じ時期に、お前はダイアと出会ったのではなかったか? そして我々は、復活祭の前に収穫祭を行っていたな」
「ああ、それでアイ=ファたちも毎日宿場町に下りられたんだもんな。収穫祭では《銀の壺》や建築屋のお人らもやってきて……トトスの早駆け大会なんてのも開催されて……」
「その祝賀会で、お前はフェルメスの行いに心を乱すことになった。それで《ギャムレイの一座》のナチャラに力を借り、『滅落の日』にフェルメスとわずかなりとも心を通じ合わせることがかなったのだ」
それでようやく、本年となった。
しかし本年も、間もなく5ヶ月が過ぎようとしているのだ。
「銀の月は早々に、聖域まで出向くことになって――ついにティアとのお別れか」
「月の末にはダレイム伯爵家の晩餐会と、闘技会であったな」
「アルヴァッハたちが再来したのも、ぎりぎり銀の月だったっけ。プラティカとは、そこで初めて顔をあわせたわけだ」
「それからすぐに、ラヴィッツの集落で行われた合同の収穫祭だな。同じ茶の月に南の王都の使節団が来訪し、ザザの収穫祭も行われたことになる」
「ザザの収穫祭が終わったら、もう赤の月で雨季か。赤の月にはアイ=ファの生誕の日があって、しばらくしたら邪神教団の騒動に巻き込まれることになって――」
「朱の月にはルディ=ルウが産まれ、それから間もなくジバ婆の生誕の日だ」
俺たちは祝いの晩餐を楽しみながら、この1年間の道のりを噛みしめるように言葉を交わし続けた。
まるで、自分たちがどれだけ幸福であったかを噛みしめるように。
「それでこの黄の月にはリミ=ルウの生誕の日と、ディック=ドムとモルン=ルティムの婚儀と、ルウの血族の収穫祭か。それでシフォン=チェルたちもようやくジェノスに戻ってきて――南の王家の方々との出会いに至るってわけだな」
ついに話がそこまで行きつくと、アイ=ファがふっと眉を曇らせた。
「南の王家の者たちか。……私はまた、自らの狭量さを思い知ることになったな」
「え? そんなことはないよ。確かにみんな、王家の方々は悪い人じゃないって保証してくれたけどさ。それだけで、完全に警戒を解くわけにもいかないだろう?」
俺がそのようになだめると、アイ=ファはちょっとすねたような目つきで俺をにらんできた。
「ならば言わせてもらうが、明日には王家の人間をファの家に招き入れることになる。私がそれを不服に思うのは、狭量な心持ちの表れなのではないのか?」
そう、もともとデルシェア姫は今日この日にファの家を訪れたいと言いたてていたのだ。それを何とか説得して、明日に延期していただいたのだった。
「それはまあ、アイ=ファはもともと客人を好む気質じゃないからな。しかも相手が王家の人間となったら、そりゃあ楽しいわけがないと思うよ」
「……しかし他の者たちは、ごく平坦な心持ちで王家の者たちを迎えようとしている。フェルメスのときもそうであったが、私はどうしても……お前に執着する人間に対して、余人以上の警戒心をかきたてられてしまうようなのだ」
「それは、しかたのないことだよ。俺だって、逆の立場だったら同じ気持ちだったろうしさ」
俺がそのように言いつのっても、アイ=ファの眼差しに変化はなかった。
ただ、すねたような眼差しの中に、どこか甘えているような光も見て取れる。
「逆の立場など、ありえまい。貴族や王族などというものが、私に執着するいわれはなかろうからな」
「何を言ってるのさ。デヴィアスだって、アイ=ファに執着してるじゃないか。あのお人も、騎士階級の貴族だろ」
「……お前はデヴィアスに、警戒心を抱いておるのか?」
「え? いや、そういうわけじゃないんだけど……それはデヴィアスが、俺たちのことを尊重してくれてるからさ。アイ=ファがジェムドに舞踏のお誘いを受けたときなんか、俺はけっこうハラハラしちゃったんだぞ」
アイ=ファは表情の選択に迷っているかのように口もとをごにょごにょさせてから、空になった木皿を置いた。
同じように、俺も空の木皿を敷物に戻す。幸せな晩餐も、ついに終了してしまったのだ。
「ああ、美味しかった。今日は本当にありがとう。また来年まで、この幸せを噛みしめておくよ」
アイ=ファは言葉少なく「うむ」とうなずき、空になった木皿を重ね始めた。
ほんのついさっきまで温かかった空気が、いくぶん張り詰めてしまっている。
俺は何かアイ=ファの機嫌を損なてしまっただろうかと、少なからず心配していると――アイ=ファはすべての食器を片付けたのち、無言のまま物置き部屋に引っ込んでしまった。
広間に取り残された俺は迷子になったような心地で、ただ座して待つ。
やがて舞い戻ってきたアイ=ファは、その手に小さな包みを手にしていた。
「祝いの品だ。受け取るがいい」
アイ=ファはまだ少し曖昧な表情をしながら、その包みを俺に差し出してきた。
ごく小さな、手の平に乗るていどの包みである。俺もまた、ちょっと複雑な心地でそれを受け取ることになった。
「どうもありがとう。……でも、森辺ではこういう習わしもないのに、なんだか申し訳ないな」
「私は私の意思で、お前の習わしに従おうと考えたのだ。昨年も、そのように申し伝えたはずであろう」
「うん。だけど何だか、アイ=ファが不本意そうな顔をしているから……」
「何も不本意なことなどはない」と、アイ=ファはそっぽを向いてしまった。
そのなめらかな頬がうっすらと赤みがかったことにより、俺はようやく安堵する。アイ=ファは不本意に思っていたわけではなく、ただ羞恥をこらえていただけであったのだ。
(でも、何がそんなに恥ずかしいんだろう?)
俺はもういっぺん「ありがとう」と伝えてから、包みの口をほどいてみた。
そこから現れたのは――小さな黒い石が嵌め込まれた、首飾りである。
「え、アイ=ファが飾り物をくれるのか?」
あまりに意想外なプレゼントに、俺が思わず声をあげると、アイ=ファはますます顔を赤くしてしまった。
「私とて、かなうことならば仕事の役に立つものを贈りたかった。しかしお前はすでに望むものをすべて手にしているであろうから、他に思いつかなかったのだ」
「いや、嬉しいよ。まさかアイ=ファが、飾り物をくれるなんてなあ」
「……狩人は家人に牙と角の首飾りを贈るものであるが、お前の首にはそうしてルウ家から贈られた牙と角が飾られている。そこに私が同じものを贈っても、ありがたみはあるまい」
そうしてアイ=ファはそっぽを向いたまま、ちょっともじもじとした。
「それに、私は……身につけるものを、お前に贈ったことがなかったので……何かひとつぐらいは、そういったものを贈るべきであろうと思ったのだ」
「うん。肌身離さず、つけさせてもらうよ」
その首飾りは、瀟洒な銀のチェーンで繋げられていた。留め具もそれほど複雑な作りではなかったので、俺は自力で装着してみせる。
「ああ、長さもちょうどいいや。これなら、もとの首飾りともぶつからなそうだな」
俺が笑いかけてみせると、ようやくアイ=ファもこちらを向いてくれた。
アイ=ファは俺の胸もとをじっと見つめ――そして、ふっと口もとをほころばせる。
「……存外に、珍妙でないことに安心した。森辺の男衆で飾り物をつけている人間など、他にはそうそうおらぬだろうからな」
「本当に嬉しいよ。俺がアイ=ファに青い石の首飾りを贈ったから、この色を選んでくれたのかな?」
「うむ。お前の瞳ほど美しい輝きを持つ石は、存在しなかったがな」
そんな風に言いながら、アイ=ファはやおら玉虫色のヴェールを取り去った。
「では、寝支度を始めるとするか。……アスタよ、飾り物を外すのを手伝ってもらいたい」
「うん、了解」
アイ=ファが背中を向けて、金褐色の長い髪をかきあげた。
そこから現れた美しいうなじにどぎまぎしつつ、俺は首飾りの留め具を外す。
それを受け取ったアイ=ファは、他の飾り物を外すよりも早く青い石を普段の革紐につけかえて、それを装着した。
俺が初めてアイ=ファに贈った、青い石の首飾りだ。
アイ=ファがそれを身につけてくれているだけで、俺は幸福な心地になれる。
今のアイ=ファも、同じぐらい幸福な心地でいるのだろうか。
そうしてアイ=ファは、他の飾り物も外し始めた。
それでもアイ=ファはすでに髪をほどいているし、着ているものも普段とは異なる宴衣装であったので、雰囲気が違っていた。
俺とアイ=ファは燭台を携えて、寝所に移動する。それに気づいたサチもひょこひょこと後をついてきて、真っ先に寝具の上で丸くなった。
「……アスタには、もうひとつ伝えておかねばならんな」
寝具を敷物の代わりにして壁にもたれたアイ=ファは、とても静かな声でそのように伝えてきた。
その隣に腰を下ろしながら、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「なんだろう? なんでも遠慮なく聞かせてくれ」
「昨年の生誕の日、私たちは……将来、婚儀をあげるものと誓い合った」
アイ=ファの突然の言葉に、俺は心臓を騒がせてしまう。
「1年後か、5年後か、10年後か……いずれ私が狩人としての仕事を果たし終えたと思えた日が来たならば、伴侶として迎えてほしいと私は願い……お前は、それを了承してくれた」
「うん。もちろん覚えてるよ」
「そうして、ついに1年の日が経ってしまったが……私はいまだ、狩人として生きたいと願ってしまっている。それを……申し訳なく思うのだ」
「申し訳ないなんて思わないでくれ。さっきも言ったろう? アイ=ファが狩人を志していなかったら、俺たちは出会うことすらできなかったんだってさ」
「うむ。お前のその言葉が、私の心をどれほど救ってくれたか……きっとお前には、想像もつかなかろうな」
「それを言ったら、俺はアイ=ファの存在そのものに救われているよ」
俺がそのように答えると、アイ=ファがゆっくりとこちらを振り返った。
金褐色にきらめく髪の向こうで、その顔は幸福そうに微笑んでいる。
「それは私も、同じことだ。……この2年間で、何度か同じやりとりをしているはずだな」
「うん。その気持ちに変わりはないけど、時にはこうして言葉にするべきなんだろうな」
俺は心の奥底からわきあがってくる感情に従って微笑みながら、アイ=ファに自分の小指を差し出してみせた。
「1年前の誓いは忘れてないよ。俺は5年でも10年でも、アイ=ファだけを待ち続ける」
「……私もアスタだけを愛すると、もうひとたび誓おう」
アイ=ファの小指が、俺の小指にそっとからめられてきた。
そうして誓約を果たしてから、1年もの日が過ぎたのだ。
しかし、俺の中のアイ=ファへの想いは、色あせるどころかいっそう鮮烈に輝いている。
それはアイ=ファも同じことなのだと、それを心から信じられる。俺にとっては、それが何よりの幸福であったのだった。