南の使節団の再来③~南の王都の恵み~
2021.3/31 更新分 1/1
貴賓館の厨には、しばらく驚きのざわめきが蔓延することになった。
こともあろうに、王家の人間がみずから食材の紹介をしようというのだ。これでは、驚くなというほうが無理な話であった。
(しかもこのお姫様は、調理着なんて着ているし……そんな身分の高い娘さんが、自分で食材を煮たり焼いたりしてたのか?)
俺も大きな驚きを胸に、そのデルシェア姫なる娘さんの姿を検分することになった。
南の民らしく小柄であるが、骨格はずいぶん華奢なようで、ディアルを10センチばかりも小さくしたような印象である。褐色の長い髪は頭のてっぺんでお団子にまとめあげており、ちまちまとした身体に白い調理着を纏っている。色が白くて、幼げで、エメラルドグリーンの瞳を明るくきらめかせているのも、ディアルを連想させてやまなかった。
いっぽう父親のダカルマスなる人物は、小柄でがっしりとした体躯にもしゃもしゃの髭という、いかにも南の民らしい風貌をしている。瞳は娘と同じ色合いで、いかにも闊達そうな面立ちだ。かたわらのロブロスと同じく、前掛けのような袈裟のようなものを着込んでおり、そこにジャガルの紋章が金色の糸で刺繍されている。額のあたりにはめた環は、ロブロスが赤銅色であるのに対して、こちらは銀色だ。それでどちらも、真ん中に黄金色の宝石が輝いている。
確かにどちらも、悪人には見えなかった。
というか、とにかくもう陽気で朗らかな気性が満身からあふれかえっているのだ。どれだけ疑り深い人間でも、それが内心を隠すための芝居であるなどとは決して思えないところであろう。
「初めまして、ジェノスの料理人の皆様方。わたくしはジャガルの第六王子ダカルマスの第一息女で、デルシェアと申します」
そう言って、デルシェア姫は貴婦人のような礼をした。
しかし調理着などを纏っているため、市井の娘さんがお姫様ごっこをしているようにしか見えない。
「王家の人間から食材の扱いを手ほどきされるなどというのは気が張ってしかたないでしょうけれど、どうかこの時間だけはわたくしの身分など忘れて、ご自分がたの職務を全うしていただきたく思いますわ」
彼女はそのように語らっていたが、まだ料理人たちの何割かは困惑の表情で顔を見合わせている。
すると、デルシェア姫の背後からポルアースが声をあげた。
「僕からも、説明をさせていただこうかな。こちらのデルシェア姫は美食家であられる父君のために、普段から厨に立たれているそうだよ。食材や調理の知識に関しても一介の料理人などは太刀打ちできないほどであるそうだから、存分に学ばせていただくといい」
「うふふ。料理人を生業にしている方々の前でそのように褒めそやされるのは、面映ゆい限りですわ」
口調はお姫様めいているが、挙動は元気いっぱいのデルシェア姫である。ディアルと同様に、彼女はどこか雰囲気が少年めいていた。
「それではさっそく、吟味の会を始めさせていただこうかと思いますけれど……その前に、名前を呼ばれた方々は前に出ていただけるかしら?」
エメラルドグリーンをした姫君の瞳が、好奇心をきらめかせながら並み居る料理人たちを見回した。
「ジェノス城の料理長ダイア様、《銀星堂》の店主ヴァルカス様、そのお弟子たるボズル様――そして、森辺の料理人アスタ様。どうぞこちらにおいでください」
料理人の一団から、名を呼ばれた3名が進み出る。一拍遅れて、俺もそれに続くことになった。
デルシェア姫はいっそうのきらめきをたたえた目で、俺たちを順番に見回していく。
「ダイア様は、昨晩もご挨拶をさせていただきましたわね。あなたがジャガルから修業におもむいているボズル様で……それじゃあ、あなたがヴァルカス様かしら?」
ヴァルカスは茫洋とした面持ちで、「はい」と一礼した。
「ジャガルの王家たる御方にわたしなどの名をお見知り置きいただけたこと、心より光栄に存じます」
態度はぼんやりしているが、貴き方々への礼節はわきまえているヴァルカスである。
デルシェア姫は大きくうなずいてから、俺に向きなおってきた。
「それじゃあ、あなたがアスタ様ですのね。お会いできる日を、楽しみにしておりましたわ」
「は、はい。光栄の限りです。……自分の名を、どこかでお耳にされたのでしょうか?」
「ええ。ロブロス様やフォルタ様が、それは熱心に語らっていましたもの。あなたは自由開拓民さながらの生活を営みながら、城下町の方々にも負けない技量を備えておられるそうですね、アスタ」
恐縮しながら一礼しつつ、姫君の頭ごしに背後の人々を見やってみると――ロブロスは苦虫を噛み潰しており、フォルタは懸命に感情を押し殺しているようだった。
「これから皆様には食材の吟味をしていただきますけれど、ジェノスで高名な料理人であるあなたがたには真っ先に感想を聞かせていただきたいの。会の終わりまで、こちらに控えていただけるかしら?」
「お言葉のままに。……ですが、これらの方々と並べられてしまうと、わたしのような未熟者は恐縮してしまいますな」
ボズルは自分の腹を抱え込むような形で一礼しつつ、そのように言いたてた。いかにも恭しげな仕草であるが、その厳つい顔に浮かぶのは普段通りの大らかな笑みだ。そして、それを見返すデルシェア姫はボズル以上に屈託のない笑顔であった。
「あなたには、南の民として率直な意見を聞かせていただきたいの。それにきっといくつかは見知った食材もあるでしょうから、わたくしの言葉が足りなかったときは補足をお願いしたいわ」
「かしこまりました。非才の身ですが、力を惜しまぬことをお約束いたします」
「それでは、始めましょう。うかうかしていると、中天になってしまいますものね」
デルシェア姫は、作業台の前まで歩を進めた。
そちらには、すでに食材の準備がされている。ただし、上から織布やクロッシュなどがかぶせられているため、いずれも人の目にはさらされていなかった。
「本日は、南の王都でも選りすぐりの食材を準備しております。まずは……やはり、野菜からでしょうね」
デルシェア姫の小さな手が、織布の1枚を取り去った。
その下に隠されていたのは、2種の野菜が詰め込まれた木箱だ。
「こちらがマ・ティノで、こちらがノ・ギーゴ。ジェノスでも、ティノやギーゴやマ・ギーゴは流通しているそうですね。これらはその亜種となる野菜です」
マ・ティノというのは、確かにティノそっくりの形をしていた。バラのように葉の折り重なった、葉物野菜だ。ティノはもっと白みがかっているが、こちらはくっきりとした緑色をしている。
いっぽうノ・ギーゴは、ギーゴよりもマ・ギーゴに似ていた。赤みがかった表皮に包まれた細長い根菜が、蚊取り線香のように丸まった形をしているのだ。
「ジェノスにどういった食材が流通しているかは、事前にロブロス様からうかがっておりました。マ・ギーゴやマ・プラ、タウの豆やホボイの実、チャンやシーマやミンミやケルの根や……現時点でも、ジェノスには数多くのジャガルの食材が流通しているそうですね。そうすると、わずかなりとも目新しいと思っていただけそうな野菜は、この2種しか存在しなかったのです」
そんな風に解説しながら、デルシェア姫はクロッシュの蓋も取り去った。
そこには、熱を通されたマ・ティノとノ・ギーゴが準備されている。
「これらはどちらも、最低限の熱を通すために茹であげたものとなります。マ・ティノとノ・ギーゴの持つ素の味をお確かめください」
すかさず進み出た小姓たちが、味見用の食材を分配してくれた。
マ・ティノはしんなりとしており、キャベツのごときティノよりも噛みごたえがやわらかい。熱を通されたレタスのような噛み心地であった。
ノ・ギーゴは皮つきのまま輪切りにされており、内側の色合いはギーゴやマ・ギーゴよりも黄色みがかっている。そのお味は――ほんのりと甘かった。
「なるほど。このノ・ギーゴという野菜は、少しトライプに似通っているようでございますねえ」
にこやかに微笑みながら、ダイアがそのように発言した。
デルシェア姫はまた好奇心をたたえた面持ちで、そちらを振り返る。
「トライプという名は、初めて聞いたように思います。それは如何なる野菜なのでしょうか?」
「トライプは、雨季の間だけ収獲できる野菜でございます。こちらのノ・ギーゴよりも甘みが強くて、風味も少し異なるようですが……ただこのやわらかい食感が似ているように思いますねえ」
「雨季の間しか収穫できないのですか。それは残念に思います。ボズル様、あなたはこちらのノ・ギーゴをご存じでしたか?」
「ええ。以前にジャガルで働いていた頃に、何度か口にした覚えがございます。ただ、その際に食したノ・ギーゴの料理は、もっと甘みが強かったように思うのですが……」
「そうですね。ノ・ギーゴはじっくり熱を通すことで、いっそうの甘みが生まれます。また、茹でるよりも焼いたほうが甘くなるというのも、大きな特徴になるでしょう」
そのように語りながら、デルシェア姫は新たなクロッシュを取り去った。
そちらには、焼いたノ・ギーゴのほぐされたものが積まれている。
「こちらはノ・ギーゴを焦がさないように、窯でじっくりと焼きあげたものになります。味の違いをお確かめください」
味見用の食材は、貴族たちの分まで準備されている。それを口にしたエウリフィアが、「あら」と弾んだ声をあげた。
「こちらはむしろ、トライプよりも甘く感じるわ。これだったら、菓子に使えるぐらいじゃないかしら」
「そうですね。王都の料理人の中には、ノ・ギーゴを菓子に転用する料理人も少なくはないようです。……そういえば、本日トゥール=ディン様やリミ=ルウ様といった方々は参じておられないのですね?」
その質問は、俺に向けられたものであった。
考え考え、俺は「はい」と応じてみせる。
「彼女たちは宿場町で屋台を開く仕事があったため、本日は参じることができませんでした。……彼女たちの名前もご存じであられたのですね」
「ええ。昼の軽食や晩餐会で供された菓子は実に見事な出来栄えであったと、ロブロス様がそのように語らっていましたもの」
あの厳格なるロブロスが、そのように森辺の料理人の技量を吹聴していたのだろうか。
いくぶんけげんに思いながらロブロスのほうをうかがってみると、彼はまた苦い面持ちで溜息を噛み殺している様子であった。
「では、マ・ティノのほうは如何でしょう? 率直な感想をお願いいたします」
デルシェア姫の目が近くにいる4名を一巡して、ヴァルカスのもとで固定された。
とっくに味見を終えていたヴァルカスは、感情の読めない眼差しでデルシェア姫の笑顔を見返す。
「こちらはティノよりも風味が薄く、食感もやわらかであるようです。そういった主張の弱さを活かすことがかなえば、さまざまな料理に活用できるかと思いますが……それには、長きの研究が必要となることでしょう」
「なるほど。……アスタ様は如何ですか?」
「そうですね。こんなにやわらかいのでしたら、生鮮の状態での食べ心地が気になるところです」
俺が何気なく答えると、デルシェア姫はぱあっと表情を輝かせた。
「ティノやタラパと同じように、こちらは生鮮で食することが可能です。よろしければ、そちらの味もお確かめください」
と、クロッシュの下から生鮮のマ・ティノが現れる。調理刀でざっくりと切り分けられただけのものであるが、こちらも最初から味見用に準備されていたのだ。
葉物のマ・ティノは白菜のごときティンファと同様に、干し固められたものが運び入れられている。それを水で戻したものが、こちらのマ・ティノであるのだろうが――その葉は実に瑞々しく、ティノよりも薄っぺらいのにしゃくりとした軽妙な食感が心地好かった。やはりこれは、キャベツよりもレタスに近い野菜であるようだ。
「なるほど。ジェノスにおいて、野菜を生鮮のまま扱うというのは、あまり見られない手法となりますが……アスタ殿であれば、何かしらの料理に活用できそうなところですね」
ヴァルカスがぼんやりつぶやくと、デルシェア姫はまた勢い込んでそちらに向きなおった。
「それは、どういう意味でしょう? アスタ様は、生鮮の野菜を使った料理を得意にされているのでしょうか?」
「はい。アスタ殿は細かく刻んだティノを揚げ物料理の添え物にしたり、細長く切り分けたシィマやマ・ギーゴで前菜をこしらえたりと、ジェノスには見られない野菜の扱い方を体得しています」
「シィマやマ・ギーゴを、生鮮のまま食するのですか? そのような作法は、とても物珍しく思います!」
きらきらと輝くエメラルドグリーンの瞳が、また俺のほうに突きつけられてくる。俺は曖昧に笑顔を返しつつ、横目でアイ=ファのほうをうかがってみた。
武官の姿をしたアイ=ファは、きわめて鋭い眼差しでこちらの様子を見据えている。デルシェア姫が善良な気質をしていることに疑いはなかったが、俺に対する関心度というのは――まあ、それなりの水準に達してしまっているものと思われた。
「マ・ティノに関しては、わたくしも肉料理の強い味付けを緩和させるために、生鮮のままで使うことがありました。ジェノスでは生鮮の野菜を食する習わしがあまりないようですが、可能性のひとつとして留意していただけたら幸いです」
そんな言葉で、デルシェア姫は野菜の説明を切り上げた。
料理人たる人々は、ひっそりと静まりかえってその言葉を聞いている。2種の野菜はよくも悪くも無難な味わいであったので、とりたてて心を動かしている様子もない。ただ、王家の方々に失礼がないようにと、お行儀のいい表情を保持している様子であった。
「それでは、次は……果実にいたしましょう。こちらはいささか、風変わりであるかもしれません」
デルシェア姫が、新たなクロッシュを取り去った。
その下から現れたのは、完全にしなびた2種の果実だ。
すると、料理人の一団の中から、「ふむ?」と首をのばす者があった。
「発言をお許しください、デルシェア姫。こちらの果実はマ・ティノと同様に、干し固められているのですな。ジャガルから買いつけられるミンミなどとは、ずいぶん様相が異なるようです」
それは《セルヴァの矛槍亭》の料理長、ティマロであった。
デルシェア姫はにこにこと笑いながら、「ええ」とうなずく。
「ミンミはまだ青い内に枝からもぐと、ひと月ていどで熟します。ですから、畑のある場所からひと月以内で届けられる場所でしたら、干し固める必要もないのですね。ですがこちらのリッケとマトラは生鮮のままですと10日ももたないので、こうして干された状態で出荷されるわけです」
「リッケとマトラ……どちらも初めてお目にかかる果実でございますな」
「ええ。こちらはジャガルにおいてもとりわけ南方でしか収穫できない果実ですので、王都にも干されたものしか流通していないのです」
そんな風に言ってから、デルシェア姫はいっそう楽しそうに口もとをほころばせた。
「ただしこちらは干されていますが、固められてはおりません。リッケとマトラは水で戻したりせずに、このまま食するのです」
「このまま? 干した果実を、そのまま食するのでございますか? それはまた……まったく覚えのない作法でございます」
貴き方々に対しては最大限に恭しく振る舞うティマロであるが、そののっぺりとした顔には大きな驚きがたたえられていた。ただそれ以上に、強く関心をかきたてられている様子である。
「まずは、味をお確かめください。生鮮の果実とはまったく異なる味わいや食感であるかと思われます」
小姓たちの手によって、2種の果実が配られた。
リッケというのは、青紫色をした豆粒のような果実だ。もとはまん丸であったのであろうが、今はしなびてしおしおになってしまっている。干された状態で、人差し指の爪ぐらいの大きさだ。
そのひと粒を口に放り入れてみると、予想以上の甘みが広がった。
甘みが、ぎゅっと濃縮されているのだろう。わずかな酸味も感じなくはなかったが、それ以上に甘さが際立っている。それにまろやかな風味も印象的で、食感はジャムのようにねっちょりとしていた。
「これは……わずかながら、ママリアに似た風味を有しているようですね。ママリアよりも、遥かに甘いようですが」
そのように発言したのは、ヴァルカスだ。
デルシェア姫は笑顔で「ええ」と応じた。
「実はリッケの果実酒も、あちらに準備しています。そちらもママリア酒よりは、遥かに甘い味わいであることでしょう。……ヴァルカス様は、干したリッケがお気に召されたようですわね」
「はい。こちらの果実は風味も豊かで、さまざまな料理に活用できるかと思われます。……ただし甘みが強いため、確かな調和を得るには長きの時間がかかりそうなところでありますが……」
「それよりも、まずは菓子に活用するべきでありましょう。これは、素晴らしき味わいでありますぞ」
ヴァルカスに対する対抗心――というよりは、率直な熱情に突き動かされた様子で、ティマロがそのように言いたてた。
デルシェア姫は、得たりと微笑む。
「リッケはこのままでも十分に美味でありますが、王都においても数多くの菓子に使われています。……アスタ様は、如何でしょうか?」
「そうですね。このまま生地にまぶすだけでも美味しいでしょうし、潰して練り上げれば色々な菓子に活用できそうです」
俺の印象として、それはレーズンに似ていた。だからこそ、ワインに似たママリア酒とも共通する風味があるのだろう。そういえば、俺はまだこの地でブドウに似た果実とは出会っていなかったのだった。
(これはまた、トゥール=ディンが腕を振るってくれそうだ)
そうしてもう片方のマトラであるが――こちらは黄色みがかったリンゴをしなびさせたような大きさと形状で、強烈に甘かった。
ただし、酸味はまったく感じられない。砂糖を超越しているのではないかというぐらい甘みが強く、それ以外に感じられるのは、ほんのりとした土臭さだ。食感はリッケと同様に、ねっちょりしている。含有する糖分の高さが、これらの食感を生み出しているのだろう。
俺にはあまり馴染みのない風味であるが、あえて見知った存在と重ね合わせるならば――干し柿に似ているかもしれなかった。
「こちらは、途方もなく甘いですな。砂糖や蜜を加えることなく、菓子に活用できそうなところでございます」
真剣きわまりない眼差しで、ティマロはそのように語らっていた。
他の料理人の人々も、野菜のときより熱情をあらわにしている。これは見知った果実と似たところのない、目新しい食材であると見なしたのだろう。
それらの熱意を感じ取ったのか、デルシェア姫の表情もいよいよ朗らかになっていた。
「リッケ酒の話が出ましたので、次は酒と油にいたしましょう。酒はリッケ酒とニャッタの蒸留酒、および発泡酒。油はホボイの油と、ラマンパの油、……リッケ酒とラマンパ油を除けばジェノスでもすでに出回っている品々かと思いますが、これらはいずれも王都において一級の品と認められております。その違いも、あわせてご確認ください」
ジェノスにおいて、酒類はほとんど料理に使われていない。よってそちらは純粋な飲料として、味が確認されていた。酒をたしなまない俺は、リッケ酒の風味を確かめるために数滴ばかりいただいたのみである。
そして2種の油であるが、これはどちらも素晴らしい質であった。
基本的に、ジェノスにおいては自前でホボイの油を絞っている。完成品のホボイ油を入荷するのは、これが初めてのことであったのだ。
自前で作りあげたホボイ油も十分な出来栄えであり、俺もしょっちゅう使わせていただいていたが、王都自慢のホボイ油というのは風味が豊かである上にさらさらとなめらかで、とても上品な感じがした。力強い味付けなら元来のホボイ油、繊細な味わいなら王都のホボイ油と、使い分けができそうなぐらいである。
そして未知なるラマンパ油というのも、面白い味わいであった。
ゴマに似たホボイに対して、ラマンパというのは落花生に似ている。よってこれは、ピーナッツオイルに似た味わいであるのだ。こちらも風味はとても豊かであり、炒め物ばかりでなく菓子にも使えそうなところであった。
「ラマンパは、ジェノスにおいても料理や菓子の風味づけで好まれておりますからねえ。こちらのラマンパの油も、さまざまな使い道があるように思います」
ダイアのそんなコメントに、料理人たちの思いは集約されているようだった。
貴族たちは油の味見まではしないので、酒類の味見に舌鼓を打っている様子である。酒類をどれだけ仕入れるかは、おそらく料理人ではなく貴族や料理店の客たちの要望次第となるのだろう。
「では次は、魚介の食材となります。こちらはジョラという魚の油煮漬けですね」
油煮漬けというのは、耳に馴染みのない言葉だ。
ただしジェノスにおいては、ゲルドからペルスラの油漬けという食材を買いつけている。その強烈な香りを想起したのか、料理人の何名かは警戒の表情を浮かべていた。
が、デルシェア姫が織布の下に隠されていた容器の蓋を取り去っても、強烈なる香りが爆発することにはならなかった。
そちらの中身を覗き込んでみると、確かに魚の切り身と思しきものが油の中に沈められている。油は黄色く変色しており、切り身の他にも何かの小さな欠片が添加されているようだった。
「こちらは塩をふったジョラの身を、ミャームーやピコの葉とともにレテンの油で煮込み、そのまま油漬けにしたものとなります。ジェノスにおいては魚介の食材もあまり馴染みはないというお話ですが、それほど食べにくいことはないかと思われます」
デルシェア姫はレードルと木べらを巧みに使って、油を切ったジョラの身を皿に移すと、それを細かくほぐし始めた。普段から厨に立っているというのは、まぎれもない事実であるのだろう。そういった所作が、実にさまになっている。
そうしてひとつまみずつの食材が、俺たちのもとに届けられたわけであるが――やはり、香りはささやかなものであった。ごく尋常な魚介らしい香りが感じられるばかりである。
それを口にした俺は、なかなかの驚きにとらわれることになった。
30名からの料理人たちも、あちこちでどよめきをあげている。こちらのジョラの油煮漬けという食材は、そのまま食しても十分に美味であったのだ。
ミャームーやピコの葉は、臭み取りで使われているのだろう。そちらの風味は、とりたてて感じられない。塩気はほどよくきいており、レテンの油が魚の身にしっとりと浸透し――まるで、ツナのフレークでも食しているような心地であった。
「これは美味でございますねえ。このままでも料理として成立してしまいそうです」
穏やかに微笑みながら、ダイアはそう言った。
デルシェア姫も、嬉しそうに微笑んでいる。
「本当ですか? 魚介に食べなれていないジェノスの御方にそう言っていただけると、とても喜ばしい心地です」
「ええ。わたくしどももマロールやヌニョンパなどは口にしておりますし……干した魚や貝などは出汁として使うようになりましたので、魚介の味わいというものにも多少は慣れ親しむことができたのでございましょう」
そんな風に答えながら、ダイアは俺とヴァルカスを見比べてきた。
「ただし、生きた魚を料理に使っているのは、おふたりだけでございますね。生鮮の魚と比べますと、こちらは如何なものでございましょう?」
「きわめて、美味ですね。このような形で魚の身を保存できようとは、想像の外でありました。ただし、最初から煮込まれて、肉の内まで油が浸透している状態でありますため、生鮮の魚よりはいくぶん活用の手段は限定されることでしょう。しかしそれを差し引いても、十分に魅力的な食材であるかと思われます」
茫洋とした表情と口調のまま、ヴァルカスはそのように言いたてた。明確に、こちらの食材がお気に召したようだ。
ダイアとデルシェア姫がそろって俺に視線を向けてきたので、こちらも「はい」と応じてみせる。
「こちらはペルスラの油漬けほど風味も強くありませんので、それほど苦労せずに色々と活用できるように思います。ダイアの仰る通り、このまま食しても十分に美味でありますしね」
ただ悩ましいのは、ギバ肉との併用が難しそうなところであろうか。
だけどそれなら、副菜で使用すればいいだけのことだ。また、森辺ではそれほど需要がなかろうとも、城下町では人気を博しそうなところであった。
「ジョラの油煮漬けが気に入っていただけたのでしたら、きっとこちらの油も料理に使っていただけることでしょう。こちらの油にはジョラの風味がしっかり移っているため、これで野菜を炒めるだけでも素晴らしい味わいとなるのです」
「それは、興味深い。ある意味では、魚の身そのものよりも多くの活用法が存在するやもしれません」
ヴァルカスはしげしげと容器の中身を覗き込み、ボズルはこっそりとその袖を引いている。あまり夢中になると貴き方々への礼節も忘れてしまいがちなヴァルカスであるので、いまにも勝手に味見をしてしまいそうな雰囲気であったのだ。
ともあれ、生鮮魚を扱うすべを有していない人々にとっても、これはきわめて目新しい食材であろう。料理人たちの間に生まれた熱気は、新たな食材が登場するたびに高まっていくようであった。
「では最後に、乾酪と香草になりますね」
デルシェア姫の言葉に、ティマロが「ほう」と反応する。
「いえ、失礼いたしました。ジャガルの香草とは物珍しいため、うっかり声をもらしてしまった次第でございます」
「はい。もともとジャガルにおいては、それほど香草も取り扱われておりませんでした。燻製肉に使われるピコやリーマに、あとはミャームーとケルの根さえあれば十分であろうと見なされていたのです。しかし、ここ近年ではこのボナという香草が大きな流行を生んでいます」
そのボナなる香草も、部位としては根茎であるようだった。朝鮮人参に似たケルの根よりはころんとした形状をしており、色は珍しい水色である。ケルの根はショウガに似た味わいであったが、こちらはどのような味わいであるのだろう。
しかしそちらよりも先に、乾酪のほうに大きな注目が寄せられることになった。
料理人たちの何名かが、こらえかねたように「うっ」と声をもらしている。デルシェア姫が容器の蓋を開くと同時に、強烈な異臭が厨にたちこめたのだ。
洗っていない雑巾のような、かなり刺激的な香りである。人並み以上の嗅覚を誇る俺にしても、鼻の内部を小さな拳で乱打されたような心地であった。
「これは……保存状態に問題があったのでございましょうかな?」
手持ちの織布で鼻のあたりを覆いつつ、ティマロがそのように言いたてた。
容器の中の乾酪は、はっきりと青黴に浸食されてしまっていたのだ。
しかしデルシェア姫は、笑顔で「いいえ」と応じていた。
「こちらはあえて、乾酪に黴を混入しているのです。ジャガルの王都や南部では昔から好まれている、青乾酪という食材となります」
「あ、あえて黴を混入していると? ですが黴などを食しましたら、病魔に見舞われてしまうのでは……?」
「いえ。これは病魔に見舞われない黴であるのです」
料理人の過半数は、その乾酪に負けないぐらい青い顔になってしまっていた。
そこに、ボズルが笑い声を響かせる。
「わたしもジャガルで暮らしていた時分には、何度かそちらの乾酪を食しておりますな。ママリア酒やリッケ酒と、こちらの乾酪は実に調和するのです」
「なるほど……」と俺がつぶやくと、ボズルは笑顔でこちらに向きなおってきた。
「もしや、アスタ殿もこちらに似た乾酪を食された経験がおありなのですかな?」
「はい。自分の故郷にも、意図的に青黴を添加した乾酪というものは存在しました。ボズルのお言葉で、父親がそれを好物にしていたことを思い出しましたよ」
酒飲みの父親は、ゴルゴンゾーラチーズをアテにして赤ワインを楽しんでいた。俺も何度かは興味本位で、それをつまみ食いさせてもらったのだ。原材料が異なっているためにいささか趣は異なっていたが、これは確かにブルーチーズの香りであるようだった。
「ボズル様やアスタ様も、食された経験をお持ちであられたのですね。それは心強く思います」
デルシェア姫は無邪気に微笑んでおり、それを見守る父君も満面の笑みだ。侯爵家の方々は三者三様で内心を覆い隠していたが、ポルアースと外務官の男性は引きつった笑顔で口呼吸をしている。ここまでは至極順調であった吟味の会も、最後の最後でささやかな試練を迎えたようだった。