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異世界料理道  作者: EDA
第六十章 大地の国の使者
1025/1683

南の使節団の再来②~再会~

2021.3/30 更新分 1/1

「王家の人間か。それは、豪気な話だな」


 その夜の晩餐の場において、ダリ=サウティは闊達に笑っていた。

 他の人々は、一様にきょとんとしている。「王家」という言葉の重みが、いまひとつ実感できていないのだろう。それは、俺にしても同じことであった。

 そんな中、ひとり緊迫の表情を浮かべたのは、アイ=ファである。


「どうしてそのような人間が、わざわざジェノスを訪れてきたのだ? 何か悪いたくらみでもあるのではなかろうな?」


「それは、ポルアースたちにもわからないらしいよ。むしろ、俺たち以上にてんやわんやの騒ぎなんじゃないのかな」


「呑気なことを……それでお前は、明日にでも城下町に招かれるやもしれんという話なのであろうが?」


 青い瞳を炯々と光らせながら、アイ=ファが俺にぐぐっと顔を近づけてくる。その鼻先をちょんとつついたらどれだけ恐ろしい目にあうだろう、と阿呆な想念にひたりながら、俺は「うん」とうなずいてみせる。


「本当にそれが明日になるかは、朝一番で使者を送ってくれるってさ。それなら俺も、屋台の取り仕切り役をユン=スドラにお願いできるから……」


「そういう問題ではない。王家などという身分の者と、その場で顔をあわせることになるやもしれんのだぞ?」


「そうだなあ。でも、食材の吟味に関しては、前々から頼まれてた案件だからな。いまさら断ることもできないだろう?」


 アイ=ファは深々と溜息をついてから、ダリ=サウティに向きなおった。


「……申し訳ないが、明日は狩りの仕事を休ませてもらうことになるやもしれん」


「大事ない。アイ=ファもなかなか、他の人間に護衛役を任せる心情にはなれぬだろうしな。もとより使節団はこの時期に到着すると聞かされていたので、1日ぐらいの休みが入るのは想定の内だ」


 そのように言ってから、ダリ=サウティは逞しい首をわずかに傾げた。


「ところで、どうしてその話が内密であるのだ? 何も隠すような話ではないように思えるのだが」


「はい。なんでもジェノスに王家の客人を迎えるのは初めてのことなので、ポルアースたちもどのように取り扱うべきか、方針が定まらないようです。領民たちにこの事実を布告するかどうかも、まずは王家の方々のご意向を確かめてからにするべきだろう、という話であるようですね」


「ふむ。しかし、森辺の民には内密に伝えておこうと考えたわけか」


「はい。どうせ俺は城下町に招かれる予定でしたから、心の準備が必要だろうということで、こっそり伝えてくれたみたいです。あくまで非公式の内緒話ですので、森辺の族長に使者を出すこともできなかったということですね」


「ポルアースの親切には、何度でも感謝せねばならぬだろう」


 と、アイ=ファはまだ厳しいお顔を保持している。

 そちらを見やりながら、ダリ=サウティは「そうだな」と微笑んだ。


「もしも明日、アスタが城下町に呼びつけられるようであれば、俺も護衛役として同行させてもらおう。たまたまファの家に逗留していたのだと説明すれば、他の貴族にあやしまれることもあるまい」


「族長たるダリ=サウティに同行してもらえるなら、心よりありがたく思う。……お前も油断せず、心して仕事に取り組むのだぞ、アスタよ」


「うん、了解。使節団のロブロスも、初対面のときは剣呑な雰囲気だったもんな」


 しかしそのロブロスとも、晩餐会の終わり際にはかろうじてご縁を深めることがかなったのだ。このたびの客人たちとも、なんとか良好な関係を構築したいところであった。


「族長ダリ=サウティは、城下町まで出向いてしまうのか。俺たちは、やはり留守番なのだろうか?」


 ドーンの長兄がそのように声をあげると、ダリ=サウティは「そうだな」とうなずいた。


「最近では、招かれた人間がよほど大人数でない限り、護衛役は2名までに収めていたからな。同行するのは、俺とアイ=ファのみとするべきであろう」


「え? ダリ=サウティは、供も連れずに城下町へと向かうつもりなのですか?」


 と、今度はヴェラの若き家長が声をあげる。ダリ=サウティが城下町におもむく際は、おおよそ彼がお供として同行していたのだ。


「うむ。俺は族長としてではなく、護衛役としてアスタに同行するわけだからな。護衛役に、供など不要であろう」


「ですが、それではあまりに危険なのではないでしょうか?」


「危険があるようであれば、そもそもアスタやアイ=ファを城下町に向かわせるべきではないだろう」


 穏やかな微笑をたたえたまま、ダリ=サウティはそう言った。


「俺たちはこれまでにも、数々の貴族と相対してきた。中には悪辣な人間もまじっていたが、そういった者たちはのきなみ罪人として処断された。どれだけ身分が高かろうと、悪しき人間は罰せられるのだ。そのように信じて、まずは相手がどのような人間であるかを見定めるべきであろうよ」


「うむ。何も知らない内から喧嘩腰では、相手を警戒させるだけであろうからな」


 そのように言葉をはさんだのは、大らかな気性をしたドーンの長兄であった。

 その顔に朗らかな笑みをたたえつつ、ドーンの長兄はアイ=ファに向きなおる。


「だからアイ=ファも、少しは心を静めるがいいぞ。相手が悪人だと決まったわけでもあるまい?」


「……遠来から訪れる貴族というのは、厄介な人間が多かった。敵か味方かを見定めるまで、警戒せぬわけにはいかぬはずだ」


「ゲルドの貴人などは、最初から評判も悪くなかったではないか。まあ、それでもファの家はさまざまな苦労をかけられていたのだろうがな」


 そう言って、ドーンの長兄はいっそう愉快そうに笑った。


「アスタが苦労をかけられるのは、それに見合った力を有しているためだ。それは迷惑と思わずに、誇りに思うべきであろうと思うぞ」


「うむ……それはわかっているのだが……」


 アイ=ファは唇がとがるのをこらえるように、きゅっと口もとを引き結んだ。

 すると、ダダの長姉が笑顔で発言する。


「アイ=ファは家長なんだから、家人のアスタを心配するのも当然でしょう? 誰もがあなたみたいに呑気じゃないんだから、黙って見守っていればいいと思うよ」


「呑気とは、またずいぶんな言い草だな。俺だって、アスタを心配するなと言っているわけではないのだぞ」


「あなたが呑気じゃなかったら、この世に呑気な人間なんていなくなってしまうでしょうね」


 その物言いに、他の女衆らがくすくすと笑った。また、ドーンの長兄自身も笑っているものだから、空気が悪くなることもない。

 俺はおよそひと月半ぶりに、彼らのもたらす穏やかな空気を噛みしめることになった。顔ぶれは1名変わっていたが、彼らはあの頃もこういう和やかな空気でファの家を満たしてくれていたのだった。


「……俺は大丈夫だよ、アイ=ファ。つつがなく仕事を果たしてみせるから、安心して見守っててくれ」


 俺がそのように囁きかけると、アイ=ファは不承不承といった様子で「うむ」とうなずいた。


                   ◇


 そして、翌日――

 果たして、ジェノス城からは招集のお言葉が届けられることになった。


 集合時間は、上りの四の刻。場所は、城下町の貴賓館。ファの家のアスタに、南の王都から届けられた食材の吟味を願いたい。同行者は、なるべく少ない人数で――とのことであった。

 最後の一文は、これまでにあまり聞かれなかった文言だ。言外に、少人数のほうが無難であると示唆してくれているのであろう。普段であれば、こういう際には複数のかまど番をともなって、城下町の人々とご縁を深めさせてもらっていたのだ。


 俺はユン=スドラに屋台の商売の取り仕切りをお願いして、アイ=ファとダリ=サウティだけをともなって、城下町へと出立することになった。

 このような小人数で城下町に向かうのは、おそらく初めてのことだ。王家の人々と対面することになるのか否か、現時点では不明であったが、やっぱり俺もそれなりの緊張感を抱かされていた。


 遅刻は許されないので、ゆとりをもって上りの三の刻になる前にファの家を出立する。アイ=ファの運転で城門に到着すると、そこにはひさびさのガーデルが待ち受けていた。


「お、おひさしぶりです、アスタ殿。すっかり元気になられたようで、よかったです」


 いくぶん目を泳がせながら、ガーデルはそのように言っていた。相変わらず、身体は大きいのに繊細な気性をしたガーデルである。


「俺の傷なんて、もともと大したことはありませんでした。ガーデルこそ、お仕事に復帰できて何よりです」


「お、俺なんて、手傷を負ったのはもう何ヶ月も前のことなのですから……いまだに護民兵としての仕事も果たせず、不甲斐ないばかりです」


 そんな風に言ってから、ガーデルは大きな図体を屈めて俺の耳もとに口を寄せてきた。


「そ、それよりも、このたびの使節団には南の王家の方々が入り混じっているようですよ。アスタ殿は、もうご存じでありましたか?」


「あ、はい。懇意にしている御方が、こっそりと。……ガーデルは、どこでそれを聞き及んだのです?」


「城下町では、朝から布告されていました。宿場町などでは、これから布告されるようです」


 では、これでこのたびの一件も内密ではなくなったということだ。

 ならば後は思う存分、課せられた仕事を果たすばかりである。


「ど、どうかお気をつけください、アスタ殿。どうも南の王家の方々というのは……いささか変わり者であるようですので」


「変わり者ですか。悪人でなければいいのですけれど」


「悪人かどうかはわかりませんが、美味なる食事というものに、ずいぶん執心しているようです」


 そうしてガーデルは、色の淡い瞳でじっと俺のことを見つめてきた。


「まさかとは思いますけれど……アスタ殿は、ジャガルに移り住んでしまったりはしませんよね?」


「ええ? どうしてそんなお話になってしまうのですか?」


「び、美味なる料理に執心していれば、腕のいい料理人にも執心するものでしょう? アスタ殿は、それで以前にもリフレイア姫にかどわかされたというお話でしたし……王家という身分の人間であれば、その立場を利用して無茶な申し出をしてくる恐れも……」


「城下町にはあれだけの料理人が居揃っているのですから、俺にばかり執心することにはならないでしょう。どの道、俺の故郷は森辺だけですからね。何があろうとも、余所の地に移り住んだりはしません」


「そ、そうですか……それなら、よかったです」


 と、ガーデルは大仰に安堵の息をついていた。

 それでようやくトトス車に乗り換えて、ガーデルの運転で貴賓館へと向かう。その道中で、アイ=ファはぴんと眉を吊り上げてしまっていた。


「あのガーデルという男は……ずいぶん不吉な言葉を口にしてくれたものだな」


「え? あんな内緒話でも、アイ=ファには聞こえちゃうのか。……大丈夫だよ。王家なんていう立場の人たちが、俺なんかに執心するわけがないさ」


「……ゲルドの貴人たるアルヴァッハは、ずいぶんとお前に執心していたようだが?」


 アイ=ファの目つきが、ぐんぐんと鋭くなっていく。

 しかし、それらもすべて俺を心配する心情の表れであるのだった。


「大丈夫だよ。四大神っていうのは、みんな兄弟なんだ。ジャガルの王家なんていう立派な立場の人たちがそんな無茶な申し出をするわけはないって、信じよう」


「……まずは、相手がどのような人間であるかを見定めてからな」


 アイ=ファはほんの一瞬だけ、俺の手を強い力で握りしめた。

 窓の外を眺めていたダリ=サウティは、穏やかな笑顔でこちらを振り返る。


「案ずるな、アイ=ファよ。俺もジェノスの貴族たちも、決してそのような無法は見逃さん。もしもこのたびの者たちが、サイクレウスやシルエルのように悪辣な存在であったのなら――以前のように、力をあわせて退けるだけのことだ」


 ダリ=サウティは昨晩からずっと温和な態度を保っているが、その内にはそれほどの覚悟が宿されていたのだ。

 俺が思わず姿勢を正すと、ダリ=サウティは「案ずるな」と繰り返した。


「実のところ、俺はそうまで案じていないのだ。貴族というのは身分が高ければ高いほど、王国の法というものに縛られているようだからな。それをすりぬけて悪事を働くような人間は、必ずや王国の法にて裁かれることになろう」


 アイ=ファが厳しい表情で「うむ」とうなずいたとき、トトス車は貴賓館に到着した。

 この場所を訪れるのも、けっこうひさびさのことだ。俺たちはガーデルに見送られつつ、武官と小姓の案内で浴堂に導かれることになった。


「お待ちしておりました、森辺の皆様方」


 と、そこで待ち受けていたのは、昨日も顔をあわせたシェイラである。

 その目が何かを訴えかけるように、俺たちをひとりずつ見回してくる。その末に、シェイラは口を開いた。


「ポルアース様よりの、ご伝言です。実はこのたびの使節団には、ジャガル王家の方々も同行されており……本日の食材を吟味する会にも、それらの方々が立ちあわれることと相成りました」


「ほう。ジャガル王家の方々が」と、ダリ=サウティは言葉短く応じる。案内役の武官や小姓らの目があるため、それをあらかじめ伝えられていたことを悟られてはならないのだ。


「はい。何せ相手は王家の方々ですので、森辺の方々もかなう限りは失礼のないように振る舞っていただきたい、と……ポルアース様は、そのように仰っておりました」


「承知した。もとより俺やアイ=ファは見届け人に過ぎないので、それらの方々と言葉を交わす機会もなかろう。……アスタよ、お前も失礼のないようにな」


「はい。承知しました」


 ダリ=サウティがうまく話を合わせたので、シェイラはこっそり安堵の息をつく。そうして彼女は元来の朗らかさを取り戻して、アイ=ファに笑いかけた。


「つきましては、見届け人の方々にもジェノスの装束をお身につけていただきたく思います。お手数をかけますが、どうぞご了承ください」


「ジェノスの装束? あの、茶会で準備される武官の装束というやつであろうか?」


「はい。アイ=ファ様のお召し替えは、わたくしがお手伝いさせていただきます」


 ということで、俺たちは早急に身を清めることになった。

 護衛役の顔ぶれは朝方の使者に伝えておいたので、控えの間にはダリ=サウティのサイズに合わせた装束が準備されている。小姓の手伝いでそれを纏ったダリ=サウティは、実に雄々しい武者姿であった。


「ふむ。仮面舞踏会の珍妙な装束に比べれば、どうということもないな」


 甲冑ではなく、軍人の礼服を思わせる白装束である。何せ体格に恵まれたダリ=サウティであるし、そこには重厚なる貫禄まで備わっているものだから、一軍の将と呼びたくなるほどの勇壮さであった。


 ただし、武官の長剣は準備されておらず、持参した刀もその場で預けることになってしまった。王家の方々と席を同じくするのに、帯刀などはとんでもないという話である。

 しかしまあ、祝宴の場などではいつも刀を預けているので、どうということもない。もしも身の危険を感じたならば、敵から武器を奪ってしまえばいいというのが、森辺の狩人たちの心がまえであるのだった。


 そうして今度はアイ=ファの順番となり、俺とダリ=サウティは回廊でそれを待ち受ける。

 そこに、彼女がやってきたのだった。


「失礼いたします……ちょっとお話をよろしいでしょうか……?」


 俺は思わず、「あっ!」と大きな声をあげてしまう。

 誰あろう、それはシフォン=チェルその人であったのである。


「お、おひさしぶりです、シフォン=チェル! お帰りをお待ちしていました!」


「ありがとうございます……アスタ様もご壮健なようで、何よりです……」


 シフォン=チェルは、俺が知っている通りのやわらかい表情で微笑んだ。

 蜂蜜色のウェーブがかったロングヘアーに、霞がかった紫色の瞳、抜けるように白い肌に、すらりとした長身――その起伏にとんだ肢体は、白い長衣に包まれている。何もかもが、以前に見たままのシフォン=チェルであった。


「本当に、ご無事で何よりです。お元気そうで、安心しました。もうシフォン=チェルは、ジャガルの民なのですよね? 遠慮なく、こうして口をきいても許されるのですよね?」


「まあ……どうか落ち着かれてください、アスタ様……他の方々がびっくりされています……」


 他の方々とは、武官や小姓のことであろう。

 しかし俺は、心が跳ね回るのを止めることができなかった。シフォン=チェルがジェノスを離れていたのはほんのふた月半ていどのことであったが、俺はこの日を一日千秋の思いで心待ちにしていたのだ。


「吟味の会までには、まだいくばくかの時間がございます……よろしければ、それまでリフレイア様がお茶をご一緒したいと申されているのですが……いかがでしょうか?」


「もちろんです! ……あ、ダリ=サウティにも、お許しをいただけますか?」


「何も忌避する理由はない。ゆとりをもって出向いてきた甲斐があったようだな」


 ダリ=サウティは鷹揚に、そう言ってくれた。もちろん森辺の族長たるダリ=サウティは、シフォン=チェルにまつわるあれこれをすべてわきまえているのだ。俺がリフレイアにさらわれた際、彼女がどれだけ俺を力づけてくれたかも、俺は余さず語っていた。語っていないのは――さらわれた初日に浴堂をともにしたことぐらいであろう。


「……皆様のおかげをもちまして、わたしは南方神の子となることがかないました。心より、感謝の言葉をお伝えさせていただきたく思います」


 そう言って、シフォン=チェルはふわりと微笑んだ。

 彼女はジェノスに戻りたいと願ったために、兄たるエレオ=チェルとは離ればなれになってしまったわけであるが――その笑顔には、これっぽっちの後悔もないように思われた。


「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。人の目をはばからずに、シフォン=チェルと交流を深めることができるなんて……俺は本当に、心から嬉しく思います」


 俺もまた、心からの笑顔を届けてみせた。

 嬉しそうに微笑んでいたシフォン=チェルは、何かに気づいた様子でふっと目を細める。


「……こうしてアスタ様と正面から向かい合って言葉を交わさせていただくのは、ずいぶんひさびさであるように思いますが……アスタ様は、ずいぶんお背が高くなられたのですね。失礼ながら、初めてお会いしたときにはわたしのほうが大きかったように思うのですが……」


 言われて、俺も気がついた。以前はシフォン=チェルのほうが5センチぐらいも大きかったのに、現在は俺のほうがわずかばかり上回っているようなのだ。

 それでも、シフォン=チェルの印象は変わらない。優しそうで、大人びていて、とてもしっかりしていそうなのに、どこかはかなげで――長きの歳月を奴隷として過ごしながら、負の感情にとらわれることなく、目の前の相手をいたわろうとしてくれる、そんな魅力的な女性であった。


「シフォン=チェルと初めて出会ったのも、この場所なんですよね。ここはもうトゥラン伯爵家のお屋敷ではなくなってしまいましたけれど……でも、この場所でシフォン=チェルと再会できたことが、なんだかとても感慨深いです」


 俺がそのように答えると、シフォン=チェルはやわらかく微笑んだまま、ほろりとひと筋だけ涙をこぼした。


「あ……申し訳ありません……アスタ様の笑顔を拝見していたら、急に胸が詰まってしまって……」


「俺もよく涙をこぼして、家長に叱られてしまっていますよ。俺なんかのことでシフォン=チェルが涙を流してくださるなんて、光栄です」


 俺が冗談めかして言うと、シフォン=チェルは涙をぬぐいながら恥ずかしそうに口をほころばせた。

 アイ=ファが浴堂を出てきたのは、ちょうどそんなタイミングである。武官の装束を纏ったアイ=ファは鋭く視線を巡らせると、シフォン=チェルの姿を見出してかすかに目を見開いた。


「お前か。……このような場で、何をしておるのだ?」


「リフレイアが、お茶に誘ってくれたんだよ。もちろんアイ=ファも、断ったりしないよな?」


 浮かれる俺を横目でねめつけてから、アイ=ファは「うむ」と厳粛にうなずいた。

 ともに浴堂から出てきたシェイラは、笑顔でシフォン=チェルに語りかける。


「リフレイア姫は、二階で休まれているそうですね。吟味の会まであと四半刻ほどですので、お時間に遅れないようお気をつけください」


「承知しました……ポルアース様にも、よろしくお伝えください……」


 シフォン=チェルとシェイラが、同じ侍女として対等に口をきいている。それだけで、俺はまたひそやかな喜びを噛みしめることができた。


 そうして俺たちは、シフォン=チェルの案内で二階の部屋を目指す。後についてきたのは、武官1名のみであった。この武官は、俺たちの案内と警護と監視の役目を担っているのだろう。

 やがて到着したのは、二階の奥まった一室であった。

 シフォン=チェルが声をかけると、扉がゆっくりと開かれる。そこから現れたのは、サンジュラだ。


「ようこそ、いらっしゃいました。リフレイア様、お待ちです」


 サンジュラもまた、ゆったりと微笑んでいる。シフォン=チェルともども、長旅の疲れもないようだ。あるいは、リフレイアとのふた月半ぶりの再会が、そんな疲れなど吹き飛ばしてしまったのかもしれなかった。


 武官だけが回廊に居残り、俺たちは室内に招かれる。

 そこで待ち受けていたのは、リフレイアとトルストとムスルだ。俺の知るトゥラン伯爵家の主要メンバーが、これにて勢ぞろいであった。


「いらっしやい、アスタにアイ=ファ。それにそちらは、森辺の族長の――」


「ダリ=サウティだ。たまさかファの家に逗留していたため、今日は俺も見届け人として同行することになった」


 ダリ=サウティがファの家に逗留していたのは偶然の巡りあわせであったのだから、虚言はついていない。リフレイアは「そう」と応じながら、ドレスをつまんで貴婦人の礼をした。


「どなたも、歓迎させていただくわ。もう四半刻ていどの時間しか残されていないけれど、どうかくつろいでね」


 リフレイアは取りすました顔をしていたが、その瞳には隠しようもなく明るい光が躍っていた。20日ほど前、ディアルの送別の晩餐会で同席したときとは、もはや別人のようである。そのほっそりとした身体にも、これまでにはなりをひそめていた瑞々しい生命力が蘇っていた。


 俺たちは横並びで、席につかせていただく。向かいに座るのはリフレイアとトルストで、その長椅子の後ろにサンジュラとムスルが立ち並んだ。シフォン=チェルはお茶の準備のため、部屋の隅に向かっている。


「サンジュラとシフォン=チェルも、無事にジャガルから戻ることがかないました。森辺の方々にも色々とご苦労をおかけしましたが、どうぞ今後もよろしくお願いいたします」


 くたびれたパグ犬のような面相をしたトルストも、明るい笑顔となっている。善良にして誠実なるトルストは、きっと気落ちしていたリフレイアが元気になったことを喜んでいるのだろう。

 リフレイアの忠実な騎士たるムスルなどは、言わずもがなである。立派な髭に覆われたその骨ばった顔は、なんとか笑み崩れるのをこらえるように、ことさら生真面目な表情をこしらえているようであった。


「おふたりが無事に戻られて、本当に何よりでした。なんの問題もなく神を移すことができたと聞いているのですが、それで間違いはなかったですか?」


「ええ。シフォン=チェルをジェノスに戻すという件に関しても、使節団長のロブロス殿が首尾よく取り計らってくれたようです。まったく、感謝してもしきれないところでありますな」


 トルストがそのように答えると、ダリ=サウティが「ふむ」と下顎をさすった。


「無事に神を移すことがかなって、何よりだ。それで、氏を奪われることにはならなかったのであろうか?」


「ああ、ジャガルにも氏をつける法や習わしはないのですが、それは本人たちの裁量に任されたとのことです。ただし、子を生した場合は氏を継承させることを禁ずる、と……そのような取り決めであったようですな」


「そうか。シュミラル=リリンは氏を捨てたという話であったが、そういえばカミュア=ヨシュなどは氏をつけたままであるし……子に継承させなければ、さして重要な問題ではないということか」


「ええ。森辺の方々や自由開拓民とて、氏を持っておりますしな」


 そんな風に言ってから、トルストは皮膚のたるんだ顔にくしゃっと皺を寄せた。


「しかしまた、自身に氏を残すことが許されたならば、それはともに神を移した家族との絆になりましょう。南の方々の取り計らいには、わたくしも深く感謝しております」


「うむ。それはその通りであろう」


 ダリ=サウティも笑顔でそんな風に応じたとき、大きな盆を手にしたシフォン=チェルが戻ってきた。人数分の杯を卓に置き、アロウの香りがする茶を気品ある所作で注いでいく。その姿を見やるリフレイアは、やはりこれ以上もなく満ち足りた眼差しとなっていた。


(きっと昨日なんかは、またシフォン=チェルに取りすがってわんわん泣いてたんだろうなあ。……本当に、丸く収まってよかったなあ)


 俺はもう、その場に満ちた温かい空気だけで陶然としてしまいそうだった。

 すると、そんな感傷とは無縁な様子で、アイ=ファが鋭く声をあげる。


「そちらの両名が無事に戻ったこと、私も心より喜ばしく思っている。……ところで、王家の人間というものについて何か存じていたら、話を聞かせてもらえるだろうか?」


「ああ、あの方々も吟味の会に同席するそうね。おふたりそろって、ずいぶんな変わり種であるようよ」


 リフレイアが気安く応じたので、アイ=ファはすかさずそちらに向きなおった。


「王家の人間とは、2名であるのか。リフレイアは、すでにその者たちと顔をあわせているのであろうか?」


「それはまあ、シフォン=チェルの一件があったからね。使節団の方々ともども、ご挨拶をさせていただいたわ。そんなに多くの言葉を交わしたわけではないけれど、変わり種のにおいがぷんぷん漂っていたわよ」


 やはりリフレイアも心を弾ませているので、饒舌だ。


「それほど尊大な人間ではなかったようだし、きわめて朗らかな気性であるようだったけれど……ううん、なんていうのかしらね。まあ、南の民らしいお人たちよ」


「南の民らしいとは? 南の民には大らかな人間と厳格な人間が同じだけいるように思うのだが」


「大らかか厳格かといえば、それはこれ以上もなく大らかよ。とにかくあけっぴろげな人間で、思ったことをすぐに口に出してしまうようだし……南の民って、そういうものでしょう? ロブロス殿なんかはああいう気性だったから、南の民でも身分が高ければ色々と取りつくろうようになるのかしらと考えていたけれど。そういうわけでもなかったようね」


 そんな風に言ってから、リフレイアはくすくすと笑い声をあげた。ひさびさに見る、リフレイアの笑顔だ。


「アイ=ファはずいぶんと心配しているようね。また悪い貴族が――ああ、今回は貴族じゃなくって王族だけど、またそういう連中がアスタにちょっかいを出すんじゃないかって危ぶんでいるのかしら?」


「……その可能性があるならば、十分に用心するべきだと考えている」


「用心は必要だろうけれど、そんなに肩肘を張ることはないのじゃないかしらね。ああいうのらくらした人間を相手にしていると、こちらは疲れるばかりだもの」


「のらくら……それはあまり、南の民らしからぬ気性であるように思えるのだが」


「南の民の特性は、正直なところでしょう? きっとあの方々は、心底からのらくらとした気性をしているのよ。それを隠そうともせずに、あけっぴろげにしているわけね」


 すると、見かねた様子でトルストも声をあげた。


「確かにあの方々は奔放な一面があるようで、ロブロス殿もなかなか苦労をされているようですな。しかし決して、悪辣な方々ではありますまい。また、王族ではあっても王位を継承するようなことはありませんでしょうから、そうまで気を張ることはないように思いますぞ」


「うむ? それでは、分家か何かなのであろうか?」


「いえ。現在の王の直系であられるものの、第六王子という身分であられるそうです」


 第六王子――ならば、よほどのことがない限り、王位を継ぐことにはならないのだろう。しかしまた、現王の子息に他ならないというのなら、決して侮れる身分ではないように思えた。


「では、もう片方の人間は――」と、アイ=ファが言いかけたとき、扉の外から声が聞こえてきた。さきほど別れたばかりの、シェイラの声である。


「ご歓談の最中に、失礼いたします。少し早いですけれど、吟味の会を開始するとのことです」


「あら、もう始めてしまうのね。わたしはまだ、アスタとひと言も喋っていないのに」


 と、リフレイアは幼い子供のように頬をふくらませつつ、俺に向きなおってきた。


「しかたないわね。仕事が済んだら、またゆっくり語らいましょう? アスタには、聞いてほしい話がたくさんあるもの」


「うん。そうだね」と俺が素直に応じると、リフレイアはたちまち嬉しそうに口をほころばせた。

 リフレイアがこうまで感情をあらわにするのは、本当に珍しいことだ。それだけで、俺はまた温かい心地を得ることができた。


 ともあれ、いまは仕事を果たさなければならない。せっかくのお茶もほとんど手つかずのまま、俺たちは厨を目指すことになった。

 当然のことながら、厨の前にはジャガルの兵士たちがずらりと立ち並んでいる。入室の邪魔にならないように、壁にそって整列している格好であるが、やはりなかなかの威圧感だ。


 そうして厨の内部においては、大勢の料理人たちが待ちかまえている。今回も、30人は下らないようだ。そしてその中には、俺のよく見知ったメンバーも勢ぞろいしているようだった。


 さらに最後のとどめとばかりに、厨の奥まった場所に貴き方々が集結している。侯爵家の当主マルスタインに、第一子息のメルフリード、ポルアースとその上役である外務官、王都の外交官フェルメス――そして何故だか、エウリフィアまでしとやかな顔で微笑んでいた。

 その横に立ち並ぶのが、使節団の面々だ。団長のロブロスに、兵士長のフォルタ、書記官の某氏――あともうひとり、立派な装束を纏った小柄な人物が控えているので、こちらが王族の片割れであろう。他の3名と同じようにもしゃもしゃと髭をたくわえた、壮年の男性だ。


(他には、南の民も見当たらないな。同席するのは、ひとりだけなのかな?)


 そんな疑念を抱えながら、俺も料理人の群れに加わった。アイ=ファとダリ=サウティは、何食わぬ顔で横合いの壁際に立ち並ぶ。厨の内にもジャガルとジェノスの兵士が数名ずつ控えていたので、アイ=ファたちが悪目立ちをすることもないようだった。

 最後に入室したリフレイアとトルストが貴族の列に加わると、シェイラがしずしずとした足取りでポルアースのかたわらに進み出る。


「ポルアース様。これで本日の参席者は、全員そろわれたようです」


「それでは、吟味の会を始めるとしよう。……その前に、すでに周知されているだろうけれど、本日は南の王都から貴き身分にある方々も参列されている。まずは、そのご紹介をさせていただくよ」


 ポルアースはいつも通りのにこやかな表情であり、とりたてて気を張っている様子もなかった。俺にとっては、安心できる材料だ。

 そうしてポルアースから、使節団のメンバーが紹介される。俺が見込んでいた通り、見知らぬ人物こそがジャガルの第六王子ダカルマスなる御仁であった。


「そして、ダカルマス殿下の第一息女、デルシェア姫。……ええと、姫はどちらにおいでかな?」


「わたくしなら、こちらですわ」


 と、白装束の娘さんが進み出る。

 彼女は、料理人の群れにまぎれてしまっていたのだ。

 その姿に、多くの人々が驚きの声をあげていた。もちろん俺も、そのひとりであった。

 彼女が纏っている白装束は、どこからどう見ても調理着であったのである。


「こちらが、デルシェア姫。……南の王都から届けられた食材の基本的な扱いに関しては、デルシェア姫が手ずから解説してくださるそうだからね。料理人たる君たちも、心して取り組んでもらいたい」

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― 新着の感想 ―
[一言] わあ、新キャラ登場! 続きがとても楽しみです。
[一言] 料理姫が異世界転生者である可能性も微レ存
[一言] 俺の心配をぶっ飛んでいた. いい人たちそうで安心した. だが、まだ留学料理人が増える気もする...
感想一覧
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