ドムとルティムの婚儀の日①~ドムの集落~
2021.2/18 更新分 1/1
リミ=ルウの生誕の日から、4日後――黄の月の10日である。
その日には、ついにディック=ドムとモルン=ルティムの婚儀が執り行われることになった。
ふた月以上も前に約定が交わされながら、雨季が目の前であったために延期を余儀なくされていた、心待ちの大イベントだ。族長のグラフ=ザザからじきじきに参席を許されていた俺とアイ=ファは、たいそう満ち足りた心地でその日を迎えることができた。
が、さすがは厳格なる北の一族というべきか、「宴料理の手伝いなどは無用」と事前に申し渡されている。これはあくまで血族の祝いであるのだから、客人として節度ある行いを心がけてもらいたい、ということである。
もっとも俺は、北の集落の収穫祭などでも宴料理の準備には加わっていなかったので、べつだん驚きもしなかったのだが――それより驚かされたのは、トゥール=ディンにも手伝いの依頼が為されていなかったという事実であった。
このたびの婚儀は、森辺において初めて施行される「他の血族には血の縁が及ばない婚儀」となる。血の縁が交わされるのはあくまでドムとルティムのみであり、その血族たるザザやルウやディンなどは一切無関係という取り決めであったのだ。その一点を重んじるために、あえてトゥール=ディンにも宴料理の準備には関わらせないという決断を下したようだった。
よって、見届け人として招待されたのは、族長筋とファの人間、およびドムととりわけ絆の深いジーンの人間のみとなる。あとはドムとルティムの家人だけで、厳粛に儀式が執り行われるのだ。
北の集落のお祝いにトゥール=ディンがお招きされないというのは、いささか物悲しい気がしてしまうのだが――しかしそれでも、ここはディック=ドムとモルン=ルティムの婚儀が許されたことを、何よりの幸いと思うべきであるのだろう。いにしえよりの習わしを重んじていたならば、それは決して許されることのない婚儀であったのだ。
そして、そのように厳粛な取り決めの中で行われる婚儀に俺とアイ=ファを招いてくれたグラフ=ザザのはからいに、俺たちはひたすら感謝するばかりであった。
◇
そうして、その当日であるが――俺は昼下がりまで、平常通りに屋台の商売に取り組むことになった。ドムの集落には夕暮れ頃に来てもらえれば十分というお達しであったので、屋台の仕事を休む理由が見当たらなかったのである。
いつも通りに仕事を終えて、いつも通りに森辺へと帰還する。そうしてまずはルウの集落に立ち寄ってみると、そこではすでに出立の準備が整えられていた。
「よー、待ってたぜ。こっちはいつでも出発できるからなー」
ジドゥラのいくぶん赤い羽毛を撫でながら、ルド=ルウが笑いかけてくる。
「やっぱり今日は、ルド=ルウが出向くことになったんだね。……サティ・レイ=ルウは、まだ調子が戻らないのかな?」
「ああ。少なくとも、本調子ではねーな。でもまあ心配はいらねーって話だよ。ジザ兄を集落に残すのは、あくまで気持ちの問題だってさ」
こういう際、族長の名代として出向くのは、いつもジザ=ルウの役割であったのだ。しかし、当日までにサティ・レイ=ルウの調子が戻らないようであれば、その役目はルド=ルウが受け持つということが、俺にも事前に通達されていた。
「そもそもルウの本家でモルン=ルティムと一番縁が深かったのは、歳の近い俺やララだったんだからよ。親父やジザ兄が出向くより、モルン=ルティムだって喜んでくれるだろ」
そんな風に語らうルド=ルウのほうこそ、嬉しそうな笑顔である。実際問題、彼はモルン=ルティムの恋心を影でひっそり後押ししていたという話であったので、やはり喜びもひとしおであったのだろう。
宿場町から戻ってきたルウルウの荷車を他の女衆に託してから、ララ=ルウも軽い足取りでこちらに近づいてきた。
「お待たせー! ジバ婆はもう乗ってるの? それじゃ、出発しようか!」
ルド=ルウの相棒はララ=ルウで、そして本日は、なんとジバ婆さんも同行する手はずになっていたのだった。
北の集落は遠いので、本日は泊まりがけのイベントとなる。それでもジバ婆さんが強く同行を願ったのは、モルン=ルティムもまた大事な曾孫の関係であるからに他ならなかった。
モルン=ルティムの父親たるダン=ルティムの母親は、ルティムに嫁いだジバ婆さんの娘であるのだ。それはつまり、ドンダ=ルウの父親の妹ということになる。ならば、ダン=ルティムとドンダ=ルウは従兄弟の関係となり、その子たちには同じだけジバ婆さんの血が受け継がれているのだ、と――俺は遥かなる昔日に、ガズラン=ルティムからそのように聞かされていたのだった。
(あれはたしか、ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムが婚儀をあげる直前のことだったよな。それで今度は妹さんのモルン=ルティムが婚儀をあげるっていうんだから……やっぱり、感慨深いよ)
俺がしみじみとそんな思いにふけっていると、せっかちさんのララ=ルウが地団駄を踏み始めた。
「アスタは何をぼけっとしてんの? まずはそっちの女衆を家まで送り届けないといけないんでしょ? さっさと済ませて、ドムの家に向かおうよ!」
「うん、了解。それじゃあ、行こうか」
こちらはギルルとファファの荷車を発進させる。俺の乗る荷車には南寄りの女衆に集まってもらったので、ファの家に到着するまでに送り届けの仕事を完了させることができた。
そうしてファの家に到着すると、そこにはすでにアイ=ファとサウティ家の荷車が待ちかまえていた。
「おお、戻ってきたか。こちらも準備は整っているぞ」
ダリ=サウティが、大らかな笑顔で俺たちを出迎えてくれる。
そのかたわらに控えているのは――ヴェラの次姉と、フォウの分家の次兄である。例の、懸想し合ってしまった両名だ。そのおふたりはダリ=サウティを真ん中にはさんで、必要以上に取りすました顔をこしらえていた。
彼らもまた、ディック=ドムとモルン=ルティムと同じように、特別な婚儀を願っている身となる。
それでダリ=サウティは、自分の供としてこの両名を同行させてはもらえないものかと、関係者一同に打診していたのだった。
「あの者たちにとってドムとルティムの婚儀を見届けることは、何より得難い経験となるだろう。血族ならぬフォウの人間を供とするのは習わしにそぐわぬ行いであろうが、どうにか許してもらえないだろうか?」
他の血族に血の縁の及ばない婚儀というのは、如何なるものであるのか。ディック=ドムとモルン=ルティムがどれほどの覚悟をもってその儀に臨もうとしているのか、それをこの両名に知らしめたいと思いたっての申し出である。他の族長たちやドムやルティムの人々もダリ=サウティの思いや考えを汲み取って、その願い出を了承してくれたのであろうと思われた。
「では、出発しましょうか。えーと、ギルルと荷車はおまかせしちゃっていいんだよな?」
俺の呼びかけに、アイ=ファが「うむ」と首肯する。
「かまど小屋で仕事を果たしているフォウの女衆に頼んでおいた。仕事を終えたならばギルルの荷車で家に戻り、そのまま預かってもらう手はずになっている」
そうしてブレイブやサチたちも、ともにフォウ家で預かってもらう約束になっていたのだ。北の集落に向かう人数はごく少数であるので、むやみに荷車を増やす必要はなかろうという判断であった。
ということで、俺とアイ=ファもジドゥラの荷車にお邪魔させていただくべく、そちらに足を向けたのだが――とたんに、ヴェラの次姉が「あの」と声をあげてきた。
「アスタとアイ=ファは、その……やはり、ルウの方々とご一緒するのですよね?」
先月にはダリ=サウティとともに、5日間ほど寝食をともにしたお相手である。穏やかな表情の下にひそかな茶目っ気を隠している彼女が、本日はいくぶん焦った内心をあらわにしていた。
それに気づいたダリ=サウティが、苦笑まじりに声をあげる。
「こちらの手綱はフォウの男衆に握ってもらえば、荷台に居座るのは俺とお前になるのだから、そう気詰まりなこともあるまい。というか、婚儀を願っているのに気詰まりを感じるというのは、いささかならず不相応なように思えるのだがな」
「あ、いえ……決してそのような意味で言ったわけでは……」
と、ヴェラの次姉は気恥ずかしそうに身をよじり、フォウの次兄も粛然とした面持ちのまま頬を染めていた。
「かまわぬから、アイ=ファたちはそちらに乗ってくれ。さっさと出発することにしよう」
「承知した。では、北の集落で」
アイ=ファにうながされて、俺はジドゥラの荷車に乗り込んだ。
手綱を握っているのはルド=ルウであるので、待ちかまえているのはララ=ルウとジバ婆さんだ。ジバ婆さんはどっさりと詰め込まれた寝具にうもれてにこにこと微笑んでおり、ララ=ルウはいくぶん生真面目そうに眉をひそめていた。
「話は聞こえてたよ。ヴェラとフォウの連中は、話に聞いてた通りみたいだね」
「うん。どうしても、羞恥心が先に立ってしまうみたいだね」
「そんな覚悟で、婚儀をあげられるのかなあ。モルン=ルティムがどれだけの覚悟を固めてたか、きっちり聞かせてやるべきだろうね」
ララ=ルウもシン=ルウとのことを冷やかされると顔を真っ赤にして暴発してしまうものであるのだが、まあそれとは次元の異なる話であるのだろう。ヴェラとフォウのおふたりも、本日の婚儀で自分の気持ちをしっかり見定めてもらいたいところであった。
そんなさまざまな思いを内包しつつ、2台の荷車は道を駆けていく。
アイ=ファはララ=ルウと反対の側からジバ婆さんの隣に寄り添って、その柔和な笑顔を覗き込んだ。
「まさか、ジバ婆とともに北の集落まで出向く日がやってこようなどとは、想像もしていなかったぞ。身体はつらくないだろうか?」
「まだルウからファに着いたばかりだってのに、そんな情けないことを言っていられるもんかね……荷車の揺れ具合が心地好くって、眠たくなっちまうぐらいさ……」
そうは言っても、北の集落は宿場町やダレイムよりも遥かに遠方に位置するのだ。ジバ婆さんがそれだけの長時間を荷車で過ごすというのは、これが初めてであるはずであった。
「つらくなったら、すぐに言ってね? 夕暮れまでにはまだまだゆとりがあるんだから、途中でいくらでも休憩できるよ」
ララ=ルウもそのように言いたてると、ジバ婆さんはますます顔をくしゃくしゃにして「大丈夫さ……」と答えた。
「もうすぐモルン=ルティムの婚儀かと思うと、気持ちが浮きたっちまってねえ……それに、北の集落の婚儀なんてのも初めてのことだから、ますます楽しみでならないのさ……」
「うん。収穫祭なんかも、けっこうあれこれ習わしが違ってたって話だもんね」
「ああ……ドムやザザってのは、昔っから古い習わしを重んじてたから……あたしらが忘れちまったような習わしを、大事に守り抜いているんだろうねえ……」
その時代に思いを馳せるように、ジバ婆さんは透き通った眼差しになっていた。
「そんなドムの人間が、古いを習わしを捨ててまで、モルン=ルティムを嫁にもらってくれるっていうのは……なんとも嬉しい話じゃないか……こんな長々と生き永らえていなければ、そんな姿を見届けることもできなかったってわけだねえ……」
「うむ。ジバ婆にはこれからも長きの時を生きて、森辺のさまざまな姿を見届けてもらいたく思うぞ」
アイ=ファが優しい眼差しでそのように語らうと、ララ=ルウが「あは」と笑い声をあげた。
「ジバ婆と話すときのアイ=ファって、すっごく優しい顔になるよね。初めてルウ家に来た、あの夜からずっとさ」
「うむ? そのように言われるのは……いささか気恥ずかしいところだな」
「いいじゃん。そうじゃなかったら、あたしはたぶんジザ兄たちと一緒になって、アイ=ファたちがルウの家に出入りするのを反対してたと思うよ」
そんな風に言いながら、ララ=ルウはにっと白い歯をこぼした。
そういえば出会った当初、ララ=ルウは誰よりも早くアイ=ファの存在を気にかけてくれていたのだった。
(その反面、俺にはずっとケンケンうるさかったけど……まああれは、俺がうっかり水浴びの場に踏み込んじゃったせいもあるんだろうしな)
どうもルウ家にまつわるお祝い事が続いているためか、俺は懐かしい思い出を想起される機会が増えていた。
俺に森辺にやってきてから、もうすぐ2年。その間に、俺はさまざまな相手と交流を深めてきた。その中で、アイ=ファの次にもっとも長き時間を過ごしてきたのは、やはりルウ家の人々であるのだ。
(今日は3人しかいないけど、収穫祭にだってお招きしてもらうことができたし……今後も末永く仲良くさせてもらおう)
そうして俺はとても安らいだ心地で、北の集落までの行き道を過ごすことがかなったのだった。
◇
しばらくして、森辺の道は終わりを告げる。
およそふた月ぶりとなる、北の集落に到着だ。
こちらが集落の手前に荷車を停止させると、あの日と同じように小さな人影がちょこちょこと出迎えてくれた。
「ザ、ザザの集落にようこそ! 今日はこちらで、荷車をおあずかりいたします!」
10歳ぐらいの、可愛らしい顔をした幼子である。収穫祭の日も、彼がこうして俺たちの案内役をつとめてくれたのだ。
「おー、案内ありがとうな。自分らの寝具も積んできたんだけど、とりあえずはザザの集落でいいのか?」
「はい! ドムの集落はルティムの人たちでいっぱいですので、他の客人はザザやジーンで夜を明かしていただくことになるかと思います!」
緊張と昂揚に頬を火照らせる少年の先導で、まずはザザの集落に足を踏み入れる。すると何歩もいかぬうちに、スフィラ=ザザが出迎えてくれた。
「ザザの家にようこそ。族長らはいまだ森で仕事を果たしておりますため、わたしがご挨拶をさせていただきます」
「うむ。ひさしいな、スフィラ=ザザよ。今日はよろしくお願いする」
サウティの荷車から降りたダリ=サウティが、鷹揚に応対した。
俺たちもそれに続くと、スフィラ=ザザが鋭い検分の視線を飛ばしてくる。
「……族長ダリ=サウティとその供が2名。ルウ家の最長老と本家の方々が2名。ファの方々が2名。人数に間違いはないようです。そちらは事前におうかがいした、ヴェラの次姉とフォウ分家の次兄で間違いないでしょうか?」
「うむ、相違ない。まだ儀式の始まりまで猶予はあろうが、俺たちはどのように振る舞うべきであろうかな?」
「まずは、ドムの家に挨拶をなさるべきでしょう。よろしければ、わたしがご案内いたします」
そんなやりとりを経て、俺たちはドムの集落に向かうことになった。
ジバ婆さんはリコたちから贈られた車椅子も持参していたので、それに乗って道を進む。手押しハンドルを握るのは、ルド=ルウだ。
そうしてドムの集落へと通ずる小道に足を踏み入れると、たちまち時ならぬ喧噪が伝わってきた。
うろんげに眉をひそめたスフィラ=ザザは、広場に足を踏み入れるなり深々と溜息をつく。その場では、魁偉なる男衆たちによって力比べの余興が繰り広げられていたのである。
「そうか。ルティムの家人らは、すでに参じていたのだな」
ダリ=サウティは愉快そうに微笑んでいたが、スフィラ=ザザはまなじりを上げていた。
「レム=ドム! レム=ドムはどちらにいらっしゃいますか!?」
スフィラ=ザザが大きな声を張り上げると、広場に響きわたっていた歓声が鳴りやんだ。あちこちで力比べに興じていた男衆らも動きを止めて、きょとんとした面持ちでこちらに向きなおってくる。
「ああ、他の客人らも到着したのね。ドムの家にようこそ、客人がた」
と、レム=ドムが颯爽とした足取りでこちらに近づいてくる。そちらに向きなおったスフィラ=ザザは、ぎょっとした様子で目を丸くした。
「……どうしたのです、その格好は? まさか、寒いわけでもないのでしょう?」
レム=ドムは、何故だか雨季用の装束を纏っていたのだ。ただし女衆の纏うポンチョなような装束ではなく、狩人用の長袖の装束だ。
「こんなに晴れわたってるのに、寒いわけないじゃない。むしろ暑くて、汗まみれよ。祝宴の前に、また水浴びをしないといけないわね」
「ならば、どうしてそのような格好をしているのです?」
「これは、闘技の力比べに取り組むためよ。この格好なら、男衆に素肌を触れられることもないでしょう?」
勇壮なる顔で笑いながら、レム=ドムは自分の胸もとをばしんと叩いた。
「この胸なんて、普段の装束を二重に巻いて、ぎゅうぎゅうに締めつけているのよ。おかげで苦しくってかなわないけど、これだったら男衆らも遠慮なく組み合ってくれるでしょうしね」
「……そもそもどうして、力比べなどに興じているのです? 婚儀の前に力比べを行う習わしなど、森辺には存在しないはずです」
「ルティムの人らを、もてなしているのよ。女衆はみんな宴料理の準備にかかりきりなんだから、わたしたちがルティムの男衆をもてなすしかないでしょう? どちらの男衆もあんなに楽しそうにしているのだから、何も問題はないのじゃないかしら?」
レム=ドムはまったく悪びれていなかったが、スフィラ=ザザはまだまだ矛先を収めようとしなかった。
「そもそも女衆であるレム=ドムは、闘技の力比べを行うことも許されていないはずです。たとえそのような格好をしていても、北の集落の習わしを破ったことになるのではないでしょうか?」
「でも、今日のお相手はルティムの人らだもの。ルティムでは、女衆と闘技の力比べを行うことも許されているそうよ。ドムとルティムは血族となるのだから、こちらの習わしばかりを押しつけるわけにはいかないでしょう?」
「でも、だからといって――!」
「新しき習わしの善し悪しを見定めるには、まず自らの身で味わうべきっていうのが、ここ最近の取り決めでしょう? わたしたちは今、その善し悪しを見定めようとしているところであるわけね」
本日のレム=ドムは弁舌なめらかで、さしものスフィラ=ザザも言い負かされてしまっていた。
そうしてスフィラ=ザザが再び嘆息をこぼしている間に、珍しくもアイ=ファが「レム=ドムよ」と声をあげる。
「それにしても、雨季用の装束を纏うなどというのは、ずいぶん念入りなことだな。やはりドムの男衆らは習わしを重んじるために、女衆の身に触れることをとりわけ忌避しているのであろうか?」
「ええ、そうね。それに、ダナだかハヴィラだかの男衆も、なんだか色々と言っていたらしいわね。それは、アスタも聞いていたのじゃなかったかしら?」
「え?」と俺は驚いたが、すぐに思い出すことができた。
「ああ、女衆と闘技の力比べをしたら、素肌に触れてしまうではないかって騒いでる人がいたね。あれはたしか……勇士になった、ダナの家長だったかな」
「そうそう。そんなことを理由に十全の力を出せなかったなんて言われたら、癪じゃない? だからこうして、めいっぱいに素肌を覆ってやったのよ。腰だって、二重に装束を巻いているのだからね」
するとアイ=ファが、「おい」と俺の頭を小突いてきた。
「そのような話は、聞いておらんぞ。お前はいつどこでそのような話をダナの家長と語らったのだ?」
「えーと、あれは……うん、アルヴァッハたちから頼まれた返礼の祝宴の日だな。たしか、アイ=ファたちが浴堂から出てくるのを待つ間に、そういう話になったんだよ」
「……それをどうして、私に伝えなかったのだ?」
「え? どうしてって言われると困るけど……」
アイ=ファはただでさえあのように美しい姿をしているのだから、うっかり胸やら腰やら素肌やらに触れてしまったら、こちらのほうが心を乱してしまうわ! ――と、ダナの家長は熱弁していたのである。そのような話を聞かされてもアイ=ファは俺の足を蹴るだけであろうから、俺は口をつぐんでいたのだった。
「……まあよい。もしも私もルウの収穫祭の余興で力比べを挑まれるようであれば、同じ準備が必要となろうな」
「うん? そうなのか?」
「当たり前だ。相手が十全の力を出せないようであれば、力比べなど取り組む意味もあるまい」
そう言って、アイ=ファはぷいっとそっぽを向いてしまった。
するとレム=ドムが、女豹のごとき勇猛さと色っぽさの入り混じった空気を撒き散らしつつ、アイ=ファにすり寄ろうとする。
「雨季用の装束なら、まだわたしの余分があるわよ。今からでもそれに着替えて、アイ=ファも力比べに加わってもらえない?」
「いや。婚儀である今日は、心安らかに過ごさせてもらいたく思う。……私はドムともルティムとも血の縁を持つ身ではないし、なおさら身をつつしむべきであろう」
「なんだ、つまらない」とレム=ドムがすねたように言うと、スフィラ=ザザがまた眉を吊り上げた。
「ファの家長アイ=ファが節度をわきまえておられることを得難く思います。レム=ドムも、それを見習うべきではないでしょうか?」
「嫌よ。ようやく闘技の力比べを楽しめるようになったのに、その好機を逃してたまるもんですか」
こまっしゃくれた顔で言ってから、レム=ドムはふっと表情をやわらげた。
「……そうしてわたしがこれまで以上に力をつけることがかなったら、森に朽ちる危険もいっそう遠ざかるはずよ。そう思って、スフィラ=ザザも納得してもらえないかしら? わたしはアイ=ファと同じように、かなう限りは長きを生きて、狩人の仕事を果たしたいと願っているの」
もとよりスフィラ=ザザは、幼馴染であるレム=ドムにこよなく心を寄せているのだ。厳しい言動も、その裏返しであるのだろう。よって、レム=ドムにこのような表情でこのような言葉を語られたら、それ以上は厳しい態度を保持することも難しかった。
「おお! お前さんがたも、到着したのか! ずいぶんのんびりとしていたな!」
と、スフィラ=ザザがようやく矛先を収めたところで、我らがルティムの先代家長がどすどすと近づいてくる。その禿頭は汗で照り輝き、ぞんぶんにドム家のもてなしを満喫していたことを表していた。
「そちらは、ずいぶんと早かったな。中天の前には家を出ていたようだと、ルウ家の者たちから聞いているぞ」
ダリ=サウティがそのように応じると、ダン=ルティムは「うむ!」と元気いっぱいに応じた。
「ルティムもこの日にあわせて、ギバ狩りの仕事を休む段取りをつけていたからな! ならば早々にドムの集落まで出向いて、絆を深めるべきであろうという話に落ち着いたのだ!」
その結果、力比べに興じることになったのであろう。さすがは猛きルティムとドムの狩人たちである。
ドムの広場に群がっているのは、およそ20名ていどの狩人たちであった。おそらくは、ルティムとドムのほとんどの狩人たちがそこに居揃っているのであろう。この日のために、ルティムの人々は家人総出でドムの集落におもむいていたのだった。
(確かにこれは、森辺で初めての快挙なんだろうな)
ルティムの家人は、いまや三十名ぐらいにも及ぶ。それが、徒歩では数時間がかりである北の集落まで、幼子から老人まで余すところなく総出で出向いてきているのだ。それはトトスと荷車のなかった時代にはとうてい思いつかなかった話であろうし――そもそも、そのような真似をする理由もなかった。そのように遠方の氏族と血の縁を紡ぐこと自体が、以前の森辺ではありえなかったのだ。
今頃は、ドムとルティムの女衆が入り混じって、宴料理の準備をしているのだろう。ガズラン=ルティムの姿が見えないのは、花嫁や花婿と静かに語らい合っているのだろうか。狩人の仕事を休んだところで、血族の家を巡るパレードというものも必要ないのだから、この時間をどのように過ごすかということも、彼らは自分たちで構築していかなければならないわけである。
まぎれもなく、これも森辺の変革のひとつであるのだ。
それを見届けることを許された喜びが、今さらのように胸の中を満たしていく。ドムとルティムの男衆らがあげる蛮声を聞きながら、俺はとても幸福な心地であった。