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異世界料理道  作者: EDA
第五十九章 慶祝の季節
1010/1679

ルウの末妹の生誕の日

2021.2/17 更新分 1/1

 ジバ婆さんの生誕の日から、7日後――黄の月の6日である。

 その日の朝、俺は帳の隙間から差し込む朝日の眩しさによって目覚めることになった。


「ああ……ついに夜明けから太陽を拝めるようになったみたいだぞ、アイ=ファ」


 俺がそのように呼びかけると、アイ=ファは毛布の中で「ううん」とうるさそうに身じろいだ。

 恥ずかしながら、俺たちはいまだに寝床をともにしていたのだ。俺の右腕を両腕で、俺の右足を両足でがっちりとホールドしたまま、アイ=ファは俺の右肩に温かい額をこすりつけてきた。


「ほら、見てみろよ。これでついに、雨季が明けたってことだよな。リミ=ルウの生誕の日に雨季が明けるなんて、なかなか気のきいた話じゃないか」


「うむ……朝の寒さも、ずいぶんやわらいだようだな……お前の身も、いくぶん汗ばんでしまっているようだぞ……」


「いや、それはアイ=ファがそんな風にひっついてるからじゃないだろうか?」


「ほう……ついにそれを不快に思うようになってしまったか……」


「いやいや、不快なことはまったくないけどさ」


 俺もたまには逆襲してあげようかと、目の前にある金褐色の髪に頬ずりをしてみせた。

 アイ=ファは俺の右半身をいっそう強く抱きすくめつつ、すんと可愛らしく鼻を鳴らす。


「うむ……汗を帯びているせいか、この朝は普段よりもお前の香りが強く感じられるようだ……」


「まいりました。ごめんなさい」


「何を謝っておるのだ……? お前とて、出会った頃はやたらと香りがどうしたこうしたと抜かしていたではないか……」


 どこか甘い響きを帯びた声で言いながら、アイ=ファは形のいい鼻の先で俺の右肩をなぞってきた。


「お前の香りは、とても心地好い……何やら、耳のひとつでもかじりたくなるような心地だぞ……」


「本当にごめんなさい! 心よりのお詫びを申し上げます!」


 そんな一幕を経て、俺たちは毛布をはねのけて身を起こすことになった。

 身を起こすなり、アイ=ファは爽快そうに「ううん!」と大きくのびをする。すでに朝方のゆったりとした多幸感から脱していた俺は、そのしなやかな肢体と褐色の肌のきらめきに、やたらとドギマギしてしまった。


「確かに、空気が乾いている。きっと夜には雨もおさまっていたのであろうな。私の身が、雨季の終わりを喜んでいるかのようだ」


「そ、そうか。それは何よりだったな」


「雨季用の装束も寝具も、もはや必要あるまい。ぞんぶんに洗って、ぞんぶんに干してやることとしよう。この朝は、忙しくなるぞ」


 アイ=ファが俺を振り返り、おひさまのような笑みを振りまいた。

 俺には感情を隠さないアイ=ファであるが、こうまであけっぴろげな笑顔を見せるのは稀なことだ。俺は朝から心臓を射抜かれて、そのまま昇天してしまいそうな心地であった。


 その後、晩餐の洗い物を片付けた俺たちは、雨季用の装束と寝具を抱えて、森の端のラントの川に向かう。水場のちょろちょろとした岩清水で寝具を洗うのは大変なので、雨季の終わりにはこうして川で寝具を洗うのが定例となっていたのだ。


 どうせこの後には着ているものも洗うので、服を着たまま川につかって、ふたりがかりで寝具を洗う。アイ=ファがご機嫌であることも相まって、なんだか水遊びでもしているような心地だ。


 洗った寝具は入念に絞った上で、持参した一枚布で包み込む。その作業を終えたアイ=ファは両足を水にひたらせたまま川べりに腰をかけて、「ふう」と息をついた。


「装束を洗う前に、ひと休みするか。……日がのぼり、ますます温かくなったようだな」


「ああ。今日の行水は気持ちよさそうだ」


「ふふん。すでに半分がた、行水をしたようなものだがな」


 と、アイ=ファはまた朗らかに白い歯をこぼした。

 胸あてと腰あてもぐっしょりと濡れそぼり、普段以上にその美麗なラインをあらわにしてしまっている。褐色の肌には水滴が光り、アイ=ファ自身も輝くような笑みを浮かべて――森の木漏れ日に照らしだされるその姿は、なんだか一幅の絵画のように完成された美しさであった。


「なんか……今日のアイ=ファは、すごく楽しそうだな」


 俺が思わずそのように声をあげると、アイ=ファは濡れた前髪をかきあげつつ、「うむ?」と小首を傾げた。


「言われてみれば、とても心が弾んでいるように感じられる。しかしべつだん、不思議なことはあるまい」


「やっぱり、雨季が明けたからかな? アイ=ファは、行水が好きだしな」


「それもある。なおかつ今日はリミ=ルウの生誕の日であるし、ジバ婆の生誕の日を祝った記憶もまだ新しい。サティ・レイ=ルウには新たな子が産まれ、ルウの収穫祭にも招かれることになったし……そしてその前には、モルン=ルティムとディック=ドムの婚儀も控えているはずだな」


「ああ。お祝い事の連発だ」


「うむ。そして私には、お前がいる」


 アイ=ファの青い瞳が、それこそ星のように輝きながら俺を見つめた。


「どのような祝い事も、お前の存在なくしてこうまで心が弾むことはあるまい。私にとってのすべての幸福は、お前の存在があってこそなのだ」


「……うん。俺だって、同じ気持ちだよ」


 やっぱりアイ=ファには、太陽が似合うのだ。

 陽光の下で笑うアイ=ファは、こんなにも魅力的であったのかと、俺は2年近くもアイ=ファと一緒に暮らしておきながら、今さらそんな感慨と驚きにとらわれてしまっていた。


「さて。それでは装束を洗いつつ、身を清めるか」


「うん。それじゃあ俺は、岩の裏で待ってるよ」


「たまには、ともに身を清めるか?」


 俺が仰天して川にすべり落ちそうになると、アイ=ファは目を細めてくすくすと笑った。


「冗談だ、うつけ者め。いかに幸福な心地でも、そうまで羽目を外すものか」


「うわあ、もう。今日のアイ=ファにはかないそうもないな」


 そうして俺は心からの幸福を噛みしめながら、敗北宣言をあげることになったのだった。


                   ◇


 ラントの川から戻ったならば、屋台の商売の下ごしらえである。

 その手伝いに集まった女衆らも、のきなみ平時の装束に身をあらためていた。昨年はこうまで極端でなかったように思うが、本年は雨季が明けるなりぐんと気温が上がったようなのである。


「ついに雨季が明けましたね! なんだか、清々しい心地です!」


 近在の女衆の中でも指折りで朗らかなレイ=マトゥアは、アイ=ファにも負けない無邪気な笑顔となっていた。

 余人がやってきたならば、凛然とした面持ちを取り戻してしまうアイ=ファであるが。枝の間に蔓草を張って、洗った寝具を干しているその姿からは、依然とご機嫌なオーラがたちのぼっているように感じられた。


 アイ=ファがこれほどに幸福そうにしていると、俺だってますます幸福な心地になってきてしまう。

 俺は平時よりも五割増しの活力で、その朝の仕事に取り組むことができた。


「それじゃあ、行ってくるよ。ギルルと荷車はまたユン=スドラたちに届けてもらうから、ルウの家で落ち合おう。無事な帰りを祈っているよ」


「うむ。そちらも油断なきようにな」


 凛々しい顔の中で慈愛に瞳を輝かせるアイ=ファに見送られて、俺はファの家を後にした。

 森辺の道もからからに乾いており、清涼な風がむきだしの顔をなぶっていく。森も、空気も、地面の砂も、何もかもが輝いているかのようだ。


 ルウの集落も、昨日まで以上の活気にあふれていた。

 幼子たちははしゃいだ声をあげながら追いかけっこに興じており、女衆らは薪を割ったりピコの葉を干したりという朝の仕事に取り組んでいる。雨季の間には、めったにお目にかかれなかった光景だ。


「おはようございます、アスタ。それでは、出発いたしましょう」


 ルウ家の本日の取り仕切役は、レイナ=ルウであった。

 もちろんレイナ=ルウも平時の装束で、朗らかに微笑んでいる。ただし、こちら陣営の女衆に比べると、わずかにかしこまった雰囲気であった。


「おはよう、レイナ=ルウ。サティ・レイ=ルウの具合はどうかな?」


「サティ・レイは、相変わらずです。雨季の寒さが去ったので、少しは楽になるのではないかという話でした」


 すでにルディ=ルウが産まれてから10日以上が過ぎていたが、サティ・レイ=ルウはまだ予後の不良から立ち直っていなかったのだった。

 ミーア・レイ母さんいわく、何も危ういことはないのだが、雨季の寒さで回復が遅れてしまったのだろうという話であった。いっぽう赤ん坊のルディ=ルウは元気そのもので、病魔の陰りも見られないそうである。


 サティ・レイ=ルウの回復を心から祈りつつ、俺たちは宿場町を目指す。

 やはり雨が降っていないというだけで、宿場町は格段に賑わって見えた。

 そしてきっと明日からは、日増しにジェノスを訪れる人が増えていくことだろう。10日も過ぎる頃には屋台の売り上げも平時に戻るものと、俺たちは期待をかけていた。


 朝一番の賑わいに関しては、ほとんど平時に戻ってしまっている。雨季の間は屋台が開いてからやってきていたお客たちが、事前に集まってしまうためである。

 雨季が去ったということで、誰もが明るい表情になっている。この地域の雨季には大きな水害も見られないし、例年よりも雨が少なければ何らかの弊害が出るぐらいなのだろうと思うのだが――それでもやっぱり、雨天を喜ぶ人間というのは稀であろう。もしかしたら、復活祭の時期よりもこの時期のほうが、太陽神に対する感謝の気持ちというものは跳ねあがるのかもしれなかった。


 そうして中天を過ぎた頃に、ドーラ父娘がやってきた。

 が、笑顔で会釈をした両名は、そのまま真っ直ぐルウの屋台へと足を向ける。しばらくして、「ありがとー!」というリミ=ルウの元気いっぱいの声が聞こえてきた。


 本来であれば、本日はターラもルウ家に参ずる予定であった。

 しかし、サティ・レイ=ルウの容態を耳にしたドーラ家から、辞退の申し出があったのだ。そのように大変な時期に宿泊までお願いするのは申し訳ない、という理由からである。

 実際のところ、俺とアイ=ファも辞退するべきなのではないかとミーア・レイ母さんに相談したのだが、そちらは笑顔でたしなめられることになった。


「アスタたちはいざとなったら、いつでも自分たちの家に戻ることもできるだろう? サティ・レイの調子があんまり悪くなるようだったら、こっちのほうからそうお願いするからさ。それまでは、どうか最初の取り決め通りに、リミを喜ばせてやっておくれよ」


 ミーア・レイ母さんは、そのように語らっていたのだ。

 そうすると、ターラに対する申し訳なさがつのってしまうのだが――彼女は存外にしっかりした調子で、「しかたないよー」と笑ってくれていた。


「収穫祭にはお招きしてもらえるっていうお話だったから、ターラはそれでいいの! アスタおにいちゃんはターラのぶんまで、リミ=ルウをお祝いしてあげてね?」


 数日前、ターラはそんな風に言いながら、決して作り物ではない笑みを浮かべていた。

 まだまだちっちゃなターラであるが、彼女もすでに10歳となっているのだ。8歳から10歳となったターラは、17歳から19歳になろうとしている俺よりも、遥かに大きな成長を遂げているのだろうと思われた。


 そしてそれは、リミ=ルウも同様である。リミ=ルウはターラに対する申し訳なさでいっぱいになってしまっていたが、ターラを誕生日にお招きできない悲しみにとらわれることはなかった。サティ・レイ=ルウはあんな大変な目にあっているのだから、自分がわがままに振る舞うなどとんでもない、といった様子に見えるぐらいであったのだ。


 そんなリミ=ルウに、ターラは今日、お祝いの花を届けていたのだった。

 どうにも我慢しがたくなって、俺がそちらの様子を覗き見にいくと、リミ=ルウは赤茶けた髪に白い花を飾って、心から幸福そうに笑っていた。それを屋台ごしに見つめるターラも、同じぐらい幸福そうに笑っていた。ひとつの楽しいイベントが台無しになってしまっても、小さき少女たちの純真な心に影が落ちることはありえなかったのだった。


(本当に、みんな成長してるんだなあ)


 そんな当たり前のことが、最近はやたらと胸に響いてしまう。親しい人たちの成長が、過ぎた歳月の長さを実感させてくれるのだろう。リミ=ルウと同じ月に誕生日に定めた俺は、あと半月と少しで19歳になってしまうのだった。


                   ◇


 そして、その日の夜である。

 リミ=ルウは本日の主役であったため、晩餐は俺とレイナ=ルウとララ=ルウの3名で作りあげることになった。サティ・レイ=ルウのお産の前後から、ミーア・レイ母さんとティト・ミン婆さんは有事に備えて、なるべく母屋で過ごすようになっていたのだ。


 後からやってきたアイ=ファの手も借りて、作りあげた晩餐を広間に運んでいくと、そこにはずいぶん人影が少なかった。男性陣は集結していたが、女性陣がジバ婆さんとティト・ミン婆さんのふたりきりであったのだ。


「サティ・レイはちょっと調子が悪いみたいなんで、寝所で寝かせているよ。ミーア・レイとリミは、すぐにやってくるからね」


「うん、そっか。こんなに温かくなったのに、調子が戻らないんだね」


 ララ=ルウが心配そうに応じると、ティト・ミン婆さんは「心配いらないよ」と微笑んだ。


「いきなり温かくなったもんだから、身体がついてこないんだろうさ。どこにも病魔の兆しはないから、あと10日ていどの辛抱だよ。いまは、分家の女衆がみてくれているからね」


「ん? それじゃあリミとミーア・レイ母さんは何やってんの?」


「そりゃあ、祝いの準備ってやつさ」


 ともあれ俺たちは、運んできた料理を広間に並べさせていただいた。

 そうしてすべての準備が整ったところで、左手側の通路からミーア・レイ母さんがやってくる。その背後に、ちらちらと赤茶けた髪が覗いていた。


「晩餐の準備はできたよ。さっさと座ったら?」


 ララ=ルウがそのようにうながすと、リミ=ルウが「じゃじゃーん!」と姿を現した。そのいでたちに、俺とララ=ルウは目を丸くする。


「ああ、そっか! あんた、10歳になったんだもんね!」


「うん!」と大きくうなずいてから、リミ=ルウは笑顔でターンした。

 その身に纏っているのはワンショルダーのワンピースではなく、上下で分かれた女衆の装束である。

 森辺において10歳となった娘は、幼子の装束から女衆の装束に衣替えをする習わしであったのだった。


「いいでしょー? これでリミも、おとなだね!」


 リミ=ルウはほっそりとした腰に両手をあてて、えっへんとばかりに身体をのけぞらせた。胸あてと腰あての狭間から覗くおへそが、とても可愛らしい。そしてその髪には、ターラからプレゼントされた白い花が燦然と輝いていた。


「それじゃあリミも、今日から髪をのばすんだね。うわー、そのもしゃもしゃの髪がのびたら、どんな感じになるんだろ」


「うっさいよーだ。あっ! サティ・レイにも、見せてこなくっちゃ!」


「サティ・レイが目覚めたなら、付き添っている女衆が知らせる段取りになっている。いいから、とっとと座りやがれ」


 ドンダ=ルウの重々しい声音によって、ようやくリミ=ルウも着席した。家長と最長老にはさまれた、お誕生日席だ。

 7日前と同じように、お祝いの言葉とともに花が捧げられていく。サティ・レイ=ルウが離席しているために、その数は客人を含めて11本だ。おろしたての装束にたくさんの花を飾られて、リミ=ルウはますます幸福そうだった。


 だけどやっぱりサティ・レイ=ルウがいないだけで、広間は少し物寂しく感じられてしまう。もともと俺は、ヴィナ・ルウ=リリンとダルム=ルウのいない晩餐の場というものにもまだそれほど慣れてはいなかったので、余計にそう感じてしまうのだろうか。


(いや。そうじゃなくったって、寂しいものは寂しいよな。サティ・レイ=ルウは大人数の場でそれほど賑やかにする人じゃないけど……会話の輪からあぶれちゃった人にさりげなくフォローしてくれたり、会話が詰まりそうになるといい感じに言葉を添えてくれたり……すごく気配りの人だからなあ)


 もしかしたらミーア・レイ母さんは、場を賑やかすために俺とアイ=ファを招待してくれたのだろうか。

 俺やアイ=ファにサティ・レイ=ルウの代わりがつとまるとはとうてい思えなかったが、それでも俺は精一杯の気持ちでリミ=ルウのお誕生日を盛り上げてあげたかった。


「では、晩餐を開始する」


 ドンダ=ルウの宣告によって食前の儀が執行され、すみやかに祝いの晩餐が開始された。

 ジバ婆さんの日とは打って変わって、本日は洋食風の献立でまとめられている。腸詰肉とケチャップシャスカを使ったオムライスに、ギバ・タンの小さな角切りをミンチに練り込んだギバ・バーグ、ホワイトソース仕立ての肉野菜ソテー、汁物料理はそろそろ食べ納めになるかもしれない、トライプのクリームシチューだ。


「おむらいす、おいしーねー! サティ・レイもおむらいすは大好きだったから、早く食べられるようになるといいなあ」


 と、リミ=ルウはこの日の幸福をめいっぱい噛みしめつつ、サティ・レイ=ルウの身を思いやっている。

 それに「案ずるな」と答えたのは、ジザ=ルウに他ならなかった。


「サティ・レイの目には、以前と変わらぬままの明るさが宿されている。じきに身体にも力が戻って、好きなものを食べられるようになるだろう」


「でもでも、香草だけじゃなくってカロンの乳とか乳脂とか乾酪とか、ミャームーとかケルの根とかもあんまり食べちゃいけないんでしょ? 赤ちゃんにお乳をあげるのって大変なんだねー」


「……リミたちであれば、そういった食材を使わずともサティ・レイを喜ばすことができるものと、俺はそのように信じているぞ」


 とても穏やかな声で、ジザ=ルウはそんな風に答えていた。

 それから糸のように細い目で、俺のほうをちらりと見やったようである。


「それにそもそも、2年も前にはそのようなものを口にする機会もなかったのだしな。もともとルウ家で口にしていたのは、せいぜいミャームーぐらいのものか。……そう考えれば、見知らぬ幸福を見知ってしまったために、それを享受できない不幸をも知ってしまったとも言えるな」


「え? あの、えーと、その……」


 俺が思わず慌てふためいてしまうと、ミーア・レイ母さんが声をあげて笑った。


「今のはジザの冗談だから、そんなにあたふたすることはないさ。見知らぬ幸福を教えてくれたアスタには、誰もが感謝しているはずだよ」


「ど、どうも、恐縮です」


 ジザ=ルウが気安く冗談口を叩いてくれたなら、それは喜ばしい話である。が、何せ内心の読みにくいジザ=ルウであるので、俺はなかなか心から安心することができなかった。


「でも、もうすぐ収穫祭でしょ? こんなに連続で祝いの料理を食べられないのって、やっぱり何だか気の毒に思えちゃうなあ」


 と、今度はララ=ルウがそのように言いたてる。姉妹の中では、彼女がひときわサティ・レイ=ルウと仲良しなようなのである。

 それに答えたのは、ジバ婆さんの食事を手伝っていたティト・ミン婆さんであった。


「サティ・レイがどうだかはわからないけど、あたしがお産で苦しんだときなんかは、食事のことなんて考えられなかったよ。身体が苦しくて何も食べる気になれなかったけど、大事な赤ん坊に乳をやるために、無理やり口にしていたぐらいさ」


「ふーん! その赤ん坊って、ドンダ父さんとかのことだよね? ドンダ父さんが赤ん坊だったなんて、なんだか想像がつかないなあ」


 リミ=ルウは無邪気きわまりない顔で笑いながら、隣の父親の顔を覗き込んだ。

 ドンダ父さんはそちらを見ようともせず、ただ大きな手の平で愛娘の頭をかき回す。その際に、髪に飾られた花をきちんと回避していたのはさすがの手腕であった。


「何にせよ、サティ・レイはこれからも長きの時間を生きるんだよ。子に乳をやる期間なんてその中のほんのひとときなんだから、ちょっとぐらいの不自由はなんてことないさ」


「そうそう。赤子が無事に産まれた喜びに比べたら、そんなもんはちっぽけなもんさね」


 ミーア・レイ母さんも、そのように声をあげていた。

 これはもう、実際に子を生した母親だからこそ口にできる言葉であるのだろう。ミーア・レイ母さんは7人、ティト・ミン婆さんは俺が知る限りでも3人の子を生しているのだ。俺の頭には、母は強しという古くからの格言がくっきりと浮かびあがってしまっていた。


「でも、さっきのジザ兄の言葉じゃないけど、ティト・ミン婆やミーア・レイ母さんの頃には、美味なる食事もなかったからね。サティ・レイのほうが、思うように食事を口にできない苦しみが大きくなっちゃうんじゃないかなあ」


 と、レイナ=ルウがきりりとしたお顔で、そのように発言した。

 そして同じ面持ちのまま、ジザ=ルウを振り返る。


「だから、サティ・レイが元気になったら、美味しいものをたくさん食べてもらいたいと願っています。香草やカロン乳などを使わずとも、サティ・レイに喜んでもらえるように頑張りますので、どうぞわたしたちにおまかせください」


「うむ……」と応じつつ、ジザ=ルウはわずかに首を傾げた。


「それはありがたい限りだが……どうしてそのように言葉づかいをあらためているのだ?」


「え? だって……余所の氏族の人間の前では礼節を守るようにって言いつけたのは、ジザ兄でしょう?」


 ジザ=ルウはしばし黙りこくってから、小さく息をついた。


「ああ……今日はアイ=ファたちがいたのだな。これは、俺がうっかりしていた」


「あはは。ジザ兄がそんなにぼけーっとするのは珍しいねー!」


「そもそもそんな言いつけを守ってんのは、レイナ姉だけじゃん。今さらアスタやアイ=ファの前でかしこまる必要はないんじゃねーの?」


 やんちゃな末妹と末弟のコンビが、楽しそうにはやしたてる。どうやらレイナ=ルウがジザ=ルウやドンダ=ルウに礼儀正しいのは、家族ならぬ相手がまぎれこんでいるときのみであるようだった。


 それはともかくとして、俺が気張る必要などまったくなく、その場には温かくて和やかな空気が形成されていた。

 ルウ家の晩餐にしては穏やかなぐらいであるのだが、誰もがサティ・レイ=ルウの身を案じながら、リミ=ルウの特別な日を精一杯お祝いしようと、心を砕いているのだろう。


 アイ=ファはさきほどからまったく口をきいていないが、とても満ち足りた眼差しでルウ家の団欒を見守っている。

 きっと、俺と同じ幸福を噛みしめているに違いない。

 俺たちはさまざまな氏族と絆を深めてきたが、やはりもっとも長きの時間を過ごしているのはルウの人々であるのだ。最近は間遠になっていたものの、ルティムの婚儀や俺の誘拐騒ぎのときなどは泊まりがけでお邪魔していたのだから、こうして晩餐をともにするのも10回や20回ではきかないはずであった。


 そして、お邪魔をするのが間遠になったために、あの頃との違いが浮き彫りにされている。それらの違いも、まったく変わっていない根っこの部分も、俺には等しく心地好く感じられたのだった。


(次の機会にはサティ・レイ=ルウとも、この幸せな気持ちを分かち合わせてもらいたいな)


 そんな風に考えながら、俺はその夜の温かい空気をしみじみと噛みしめることになった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ついにジザ=ルウの祝福が貰えるのでしょうか? 目が離せません
[良い点] ジザ=ルウがうっかりとは。 立場的にも落ち着いて構えてますが、それだけサティ・レイ=ルウのことが心配なんでしょうね。
[良い点] >「ああ……今日はアイ=ファたちがいたのだな。これは、俺がうっかりしていた」 慶事続きとはいえ、あのジザ=ルウが無意識に身内認定とは…… 素晴らしい!
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