②四日目~森辺の民と、西の民~
2014.10/6 更新分 1/1 2015.9/5 10/3 誤字を修正
「アスタ。おひさしぶりです」と、まずはレイナ=ルウが呼びかけてきた。
何だか――ひどく穏やかな表情で。
「うん、ひさしぶり。……かれこれ10日ぶりぐらいになるのかな」
ルティムの祝宴で気まずい別れ方をしてしまってから、10日ぶり。
ファの家を出て、ルウの家人になってほしい――というレイナ=ルウからの願いを聞き届けることのできなかった俺である。
それでもなおレイナ=ルウは「あきらめない」という意思表示をして去っていったので、俺としてもどのような態度で接すればよいのかも悩ましいところではあったが。まずは毅然と振る舞うしかないであろう。
そんな俺の目の前で、レイナ=ルウはひたすらに穏やかな顔をしていた。
以前までの子どもっぽい無邪気さが影をひそめるほど、穏やかに。
「ヴィナ姉、これ、頼まれていたものだけど」
「ああ、ありがとうねぇ……重かったでしょぉ……?」
「ううん。全然」と、レイナ=ルウはその背に負っていたものを屋台の脇に下ろす。
野菜を入れるための大きな袋である。
何か固いものでも入れられているらしく、ごつごつとした形状で張り詰めてしまっている。
「何ですか、これ? 薪みたいに見えますけど」
「薪よぉ。わたしがこの3日間で集めておいたのぉ……」
いまひとつ意味がわからない。
「この3日間は、ずっと中天ぐらいで仕事が終わっちゃってたでしょぉ……? だから、ミーア・レイ母さんに、余った時間はアスタのために働きなさいって言われてたのぉ。じゃないと、代価に釣り合わないからってねぇ……それなら、わたしにできるのは薪を集めることぐらいじゃなぁい……?」
「そうだったんですか! いや、ありがたいですよ。明日からは無茶苦茶に薪を使うことになるでしょうから」
「でも、わたしとアスタは他の荷物で手一杯だから、買い出しのときに持ってきてってミーア・レイ母さんに頼んだのぉ……毎日タラパの余りをもらってるんだから、それぐらいはお安い御用さって、母さんも笑ってたわぁ……」
そして、恨めしげな流し目で俺を見つめる。
「アスタを驚かそうと思って、ずっと黙っていたのよぉ……なのに、アスタはあんな意地悪なことを言うんだもん……」
「す、すみません。あれは本当に冗談だったんですよ。とても嬉しいです! ありがとうございます!」
慌ててわびる俺の声が、荒っぽく袋を置く音色に半ばかき消される。
ダルム=ルウが、やはり背中に抱えていた袋を下ろしたのだ。
レイナ=ルウの3倍、3袋分の薪である。
ルウの集落からは1時間足らずでこの宿場町までやってくることが可能だが、俺や女衆ではこの量を運ぶことは難しいだろう。
「ダルムも、ありがとう……でもあなた、休んでいなくて大丈夫なのぉ……?」
ダルム=ルウは、答えなかった。
ダルム=ルウであることに、間違いはないと思う。
しかし、彼はその頭と顔に灰色の包帯みたいな布をぐるぐると巻きつけられており、ほとんど目もとと口もとぐらいしか外気にさらされていないような状態であったのだ。
そのすらりと引き締まった長身で、ルド=ルウやジザ=ルウでないことは遠目にもわかったが。レイナ=ルウと一緒に現れなければ、これだけ間近に見ても誰だかを判別するかは難しかったかもしれない。
ただ――父親ゆずりのその青い瞳は、野生の狼みたいにギラギラと燃えており、彼がダルム=ルウであるという事実を何よりも顕著に現していた。
「ダルムはねぇ、分家の男衆を守るために、顔と頭を怪我しちゃったのよぉ……? 3日前にようやく歩けるようになったぐらい、ひどい怪我だったんだからぁ……」
「余計なことを言うな」と、ダルム=ルウが低い声で言い捨てた。
ダルム=ルウは祝宴の日にすら姿を見ていないので、レイナ=ルウよりもひさびさの再会である。
それに、そもそもこの御仁は俺の前ではいっさい口をきいてくれようとしていなかったので、その声を聞くのは――下手をしたら、あの、アイ=ファをめぐって不穏なやりとりをした、ひと月も前の夜以来なのかもしれなかった。
(怪我をしたって話は聞いてたけど、それってもう7日ぐらいは前の話だよな。そこまで重い怪我だったのか……)
ひと月前のあの夜は、感情にまかせて言いたいことを言ってしまったが。それ以降はアイ=ファにちょっかいを出す素振りも見せないので、俺の側に含むところはない。
なので、俺は「どうもありがとうございます」と、素直に頭を下げておくことにした。
まあもちろん、それに対する返礼は、不穏に燃える眼光と、非好意的な言葉である。
「この仕事は、貴様がルウ家によこしたタラパに対する代価だ。貴様に礼を言われる筋合いはない」
「もう、意固地なんだからぁ……そんなところはドンダ父さんに似なくてもいいんじゃなぁい……?」
ヴィナ=ルウがくすくすと笑い声をあげる。
ダルム=ルウは同じ眼光でそちらをにらみすえたが、姉を黙らせることはできなかった。
「だけど、こんな荷物を運べるぐらい元気になってくれて、良かったわぁ……もうすぐ森にも出られるだろうから、無理だけはしないでねぇ……?」
「……お前なんかに心配されるほど落ちぶれてはいない」
「あらぁ、姉に対してひどい言い様ねぇ……ね、可愛いでしょぉ……?」
と、ヴィナ=ルウがこっそり囁きかけてくる。
しかし、これを可愛いと思えるのは、肉親の特権であろう。
もしもスン家にこれほどの迫力を有する御仁がいたならば、俺の危機感も五割増しになっていたと思う。
「……アスタ。ドンダ父さんとミーア・レイ母さんから言伝てがあります。聞いていただけますか?」と、レイナ=ルウが静かに言葉をはさんできた。
「もしも明日から、さらなる人手が必要であるならば、本家からララ=ルウ、分家からシーラ=ルウをお貸しするそうです。代価は、ヴィナ姉と同額で、ということで」
「あ……ララ=ルウとシーラ=ルウなんだね」
「はい。是非わたしがお手伝いをしたいと申し入れたのですが、それは聞き届けてもらうことができませんでした」
そう言って、レイナ=ルウはにっこり微笑んだ。
レイナ=ルウは――こういう場面で、こういう表情をする娘であったろうか?
何だろう。
レイナ=ルウの気持ちが、全然読めない。
「……これがアスタの新しい料理なのですね」と、レイナ=ルウが試食用の木皿に目を落とした。
「う、うん。良かったらこの試食用の肉を食べてみるかい? もう冷めてしまっているだろうから、温めなおしてあげるよ」
「いえ。これは宿場町の人間に食べさせるものなのでしょう? わたしが食べてしまったら、町の人間に食べさせる分が減ってしまいます。アスタの仕事の邪魔をするような真似はしたくありません」
レイナ=ルウが、目を伏せて微笑する。
その姿を見て、ヴィナ=ルウはけだるげに息をついた。
「ねえ、アスタ……わたしは完成品を試食してもいいのよねぇ……? 良かったら、それを今、食べさせてくれない……?」
「え? ああ、はい。それはもちろん、かまいませんけど」
何となくヴィナ=ルウの意図は読めたので、俺は半分消えかかっていた鉢の中に新たな薪を突っ込んで、屋台の内側に装填した。
そうして鍋を温めている間に、ダルム=ルウがヴィナ=ルウに「おい」と呼びかける。
「今日もスン家の人間は現れていないのか?」
「そうねぇ……スン家どころか、この4日間で森辺の民を見かけたことすら、ないわねぇ……?」
「そうですね。買い出しに来てもこんな町の端っこまでは足をのばさないでしょうし、町でこの店のことが噂になっても森辺の民の耳にはなかなか入らないでしょうから、今のところは誰にも気づかれてすらいないのかもしれませんね」
「そうか」と、あくまでもヴィナ=ルウのほうをにらみつけたまま、ダルム=ルウが小さくうなずく。
「それでは……あのカミュア=ヨシュという男は、いないのか?」
「さっきアスタの料理を買って帰っていったわよぉ……もっとも、あの男の場合は、どこか木の陰に隠れている可能性もあるけどねぇ……」
「……そうか」と、いっそう烈しく両目を燃やしつつ、ダルム=ルウが周囲の林をひとにらみする。
今この瞬間、本当にあの男がどこかに隠れ潜んでいて、俺たちの会話を盗み聞きしているかもしれない――などと考えるのは、本当に不愉快なことである。
森辺の民に対する愛着ばかりを表明していながら、まったく相互理解の姿勢を示そうとしないあの男は、いったいいつになったら敵か味方かの判別がつくようになるのだろう。
「よし。それじゃあ、作りますね」
温めた鍋にアリアを落とし、肉を落とし、俺は『ミャームー焼き』を1食分だけこしらえた。
それを受け取ったヴィナ=ルウは、「本当に美味しそうねぇ……」と楽しそうに微笑みながら、一口かじる。
「うん、美味しいわぁ……でも、すごく甘い味……きっとドンダ父さんは嫌がるわねぇ……」
「そうですね。これでもかというぐらい果実酒を使ってますから」
「でも、すごく美味しい……わたしは、ぎばばーがーと同じぐらい大好きだわぁ……」
そしてもう一口かじってから、ヴィナ=ルウはそれをレイナ=ルウに差し出した。
「レイナ。これはわたしの分だから、遠慮することないわよぉ……一口だけでも、食べてみたらぁ……?」
「え、でも……」
「食べないなら、わたしが全部食べちゃうけどねぇ……」
言いながら、ヴィナ=ルウはもう一口食べた。
レイナ=ルウの顔に、ちょっと子どもっぽい焦りの表情が浮かびあがる。
俺の知っている、レイナ=ルウの表情だ。
「それじゃあ、一口だけ……」と、レイナ=ルウはおずおず手をのばす。
そして、その小さな口が『ミャームー焼き』をついばむと――その顔には、抑えようもない幸福そうな笑顔がひろがった。
「美味しい……です。本当に、すごく強い味ですね……?」
「うん。町の人たちにはこれぐらい強い味付けのほうが合うのかも、と思ってね」
「やっぱりアスタはすごいです。……ああ、わたしも手伝いたかったなあ……」
そう言って目を伏せるレイナ=ルウは、やっぱりいつもの彼女らしい素直さを取り戻しているような感じがした。
「……アスタの商売は、この10日間で終わるわけじゃないんだから、ずっと同じ女衆が手伝うことにはならないんじゃなぁい……? 機会があれば、レイナにも順番が回ってくるわよぉ……」
「うん、そうだね」と、レイナ=ルウははにかむように微笑した。
それから、少しこわごわと俺のほうに目を向けてくる。
「そのときは……どうぞよろしくお願いします、アスタ」
「あ、うん、こちらこそよろしく」
俺が応じると、レイナ=ルウはとても幸福そうな顔で笑った。
何だか――胸の痛くなるような笑顔である。
「おい。用事が済んだのなら行くぞ」と、苛立たしげな声でダルム=ルウが呼びかける。
「あらぁ、ダルムは食べなくていいのぉ……?」
「いるか、そんなもの」と言い捨ててから、ダルム=ルウは狼のような目で再び俺をにらみすえてきた。
「おい……さっきから貴様の目つきは何なんだ? ぶざまに手傷を負って森に入れなくなった俺を、憐れんでいるつもりか?」
「ええ? そんなつもりはありませんよ! 俺だって、ギバには2回ほど殺されかけたことがあるんですから。ギバ狩りで手傷を負うことがぶざまだなんて、そんな風には思えません」
やっぱりこの御仁とは相性が悪いのかなあと思いつつ、俺は頭をかいてみせる。
ダルム=ルウは、無言で両目を燃やしている。
すると、ヴィナ=ルウがそちらに回り込んで、弟の逞しい右腕にゆるりとからみついた。
「駄目よぉ。そんなに頭に血を昇らせたら、また傷口が開いちゃうんじゃなぁい……? 早く元気になりたいなら、きちんとつつしまないとぉ……?」
「うるさい。べたべたとひっつくな」と、ダルム=ルウは姉の身体を乱暴に振りほどく。
そうしてそのまま南のほうへ歩きだしてしまったので、レイナ=ルウが慌てて俺に頭を下げてきた。
「仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。どうぞヴィナ姉たちをよろしくお願いします。……そしてアスタも、くれぐれもお気をつけて……」
「うん、ありがとう。ドンダ=ルウやミーア・レイ=ルウにもよろしく」
最後にまた幸福そうな微笑をこぼしてから、レイナ=ルウは兄の後を追いかけていった。
かじりかけの『ミャームー焼き』を手に、ヴィナ=ルウは小さく息をつく。
「余計なことをしちゃったかなぁ……でも、レイナがあんな風に自分の気持ちを押し殺しているのは、あまりに痛々しいもんねぇ……」
「え? な、何がですか?」
「あのルティムの婚儀の宴以来、レイナはずうっと思いつめた顔をしていたのよぉ……あなたたち、あの夜に何かあったんでしょぉ……?」
「は……それはまあ、何もなかったとは言えませんけど……」
「何があったかは言わなくてもいいわぁ。……あぁ、わたしはどう振る舞うべきだったのかしらぁ……レイナの苦しむ姿を見ていたくはないし、かといって、レイナとアスタが結ばれる姿なんて、それ以上に見たくもないし……」
「…………」
「ねぇ……アスタはもう、アイ=ファと結ばれるべきなんじゃないかしらぁ……?」
俺は、どんな顔になっていただろう。
ヴィナ=ルウは、いつになく真剣な面持ちをしている。
「……そうしたら、すべてが丸く収まるとでも?」
「うん……アスタとアイ=ファが結ばれたら、たぶんわたしの心は木っ端微塵に砕け散っちゃうだろうから、何もかもを無茶苦茶にする覚悟も決まると思うのよねぇ……」
「はい?」
「そうしたら、わたしがアスタを誘惑してぇ、ふたりで森辺を出ていっちゃえばいいのよぉ。どうせアイ=ファはわたしたちのことを殺そうとするだろうから、もう森辺にはいられなくなるだろうし……それに、レイナもそんな背徳にまみれたわたしたちのことは、どうでもよくなっちゃうと思うのよねぇ……」
「あのですね! それは何ひとつ丸く収まっていないように感じられるのですが!」
「……わたしにとっては、もうそれぐらいしかアスタと結ばれる未来が思い描けないんだもぉん……」
と、いじらしそうにうつむくヴィナ=ルウであるが、言っていることは支離滅裂だ。
渾身の力を込めて、俺は溜息をついてみせる。
「前にもお話しした通り、俺は誰とも夫婦になるつもりはないんです。そんな不穏な未来予想図は絶対に実現しませんよ」
「それじゃあ、アイ=ファから求婚されたら、どうするのぉ……? アスタには、それを断ることができるのかしらぁ……?」
もちろんです――と、即答することはできなかった。
アイ=ファの側から求婚されるなんて、そんな未来は現実味がなさすぎる。
だけど、もしもそんな未来が訪れたら?
いつ消え去るかもわからない身で、誰かを伴侶にする気持ちにはなれない、などと考えながら、それでもこの生命が尽きるまで、アイ=ファのかたわらにいたいと願っている俺なのだ。
そんな俺が、アイ=ファに求婚されてしまったら――
俺は、どうするのだ?
言葉を失う俺を横目で見ながら、ヴィナ=ルウは栗色の毛先をいじり始める。
「もしくは、アイ=ファが別の男衆に嫁入りする気持ちを固めちゃう、とかねぇ……言っておくけどぉ、ダルムはたぶん、まだアイ=ファを嫁にしたいっていう気持ちを強く持ってると思うわよぉ……? あの子だって、この2年で嫁取りの話を何回も断ってるんだからぁ……」
「ア、アイ=ファのほうこそ、嫁にいくつもりも婿を取るつもりも皆無なんですから、そんな未来もやってこないはずです」
「今はそうだとしても、人の気持ちは変わるものでしょぉ……? 現に、すべての民と縁を切ろうとしていたアイ=ファが、今ではアスタを家人として迎えているじゃなぁい……? アイ=ファはまだ17歳なのよぉ……? 1年後や2年後に、アイ=ファがどんな気持ちでいるかなんて、そんなことはアイ=ファ自身にもわからないんじゃないかしらぁ……?」
「それは……そうかもしれませんけど……」
「それでアイ=ファに求婚されても、アスタは断るのぉ……? アスタに断られたアイ=ファがダルムに嫁入りするって決めても、アスタはそれを祝福できるのぉ……?」
今度こそ、俺は押し黙ることになってしまった。
アイ=ファが狩人としての生き方を捨てるなんて、そんなことは、少なくとも今の姿を見ている限りではまったく想像できない。
だけど――人の気持ちは、ふとしたきっかけで大きく変わることもある。
それに。
アイ=ファの気持ちが変わらなくても、たとえばシン=ルウの父親であるリャダ=ルウのように深手を負って、狩人としての仕事が永遠に果たせなくなることだって起こりうるのだ。
そのとき、俺は――
いったい、どのように振る舞うのだろう?
「おい――今日は店をたたまないのかよ?」
と、いきなり聞き覚えのない声で呼びかけられて、俺はハッと我に返った。
「シム人もジャガル人も、みんな帰っちまったぜえ? これ以上は宿場町に居残ったって、誰もギバの肉なんざ買わねえだろうよ?」
聞き覚えのない声だったし、見覚えのない顔だった。
男――というか、若者か。
もしかしたら、俺と同じぐらいの年齢かもしれない。
何だか、柄の悪そうな若者である。
肌の色は、象牙色。淡い褐色の髪を無造作に伸ばしており、三白眼の瞳は茶色。胸もとのざっくり空いた胴衣を纏っており、腰には小刀を吊るしている。
そして、その若者の背後には、同じような年頃で同じような身なりの仲間たちがたむろしていた。
そちらの人数は5人ほどで、ひとりだけが、女性だ。
「……いらっしゃいませ」と、俺は笑顔で応対した。
どう見ても冷やかしの輩だが、これこそ俺が初日から待ち望んでいた西の民のお客様である。
まだまだ心にはアイ=ファの姿がくっきり残っていたが、思い悩むべき時は、今ではない。
「ギバの肉は、美味しいですよ? 良かったらこちらで味見をしてみてください」と、試食用の木皿を指し示すと、若者は心底馬鹿にしきっているような顔で笑いだした。
「西の民がそんなもん食うはずねえだろうが? お前は西の民じゃねえのかよ? どうしてお前みたいなやつが《ギバ喰い》の女とつるんでギバの肉なんざ売ってやがるんだ? ……もう十分に今日の分の銅貨は稼いだんだろ? だったらとっとと、森辺に帰れよ」
ふむ。
2日前のジャガルのおやっさんと同じような文言であるが。やっぱりあのおやっさんには明確な敵意や悪意などなかったのだなということが実感できた。
この若者からは、敵意や悪意しか感じられない。
その根源にあるのは――やはり、蔑みと恐れの感情なのだろう。
威勢のいい言葉を吐きながら、少し視線が泳いでしまっている。
笑ってはいるが、べつだん楽しそうではない。
何となく……町の不良少年どもが、度胸試しで森辺の民に因縁をふっかけている、というような雰囲気だ。
もしかしたら、男衆のダルム=ルウが立ち去るのを見届けてから、満を持して近づいてきたのかもしれない。
まったくもって――俺が待ち望んでいた通りの、お客様であった。
こういう人々に心を開かせて、ギバの肉を食べていただけるか、それこそが俺たちの命題であったのだから。
美味いか不味いかの寸評はまた置いていくとして、まずは試食をしていただけるかどうかだ。
「確かに俺は森辺の生まれではありません。ですが、そんな俺にもギバの肉はとても美味しく感じられたのです。だからこそ、この宿場町の皆さんにもギバ肉の味を知ってもらいたいと考えて、俺はこの店を開いたのですよ」
ようやく待望の、見ず知らずの西の民をお客様として迎えることができて、俺はいっそうにこやかに笑うことができた。
若者は、少し頬のあたりを引きつらせながら、「はん!」と鼻を鳴らす。
「そんなもんを美味いと感じるのは、南や東から出稼ぎにきている貧乏人だけなんだよ! 目障りだから、とっとと消えちまえ!」
「そうなのですかねえ? 確かにまだ西の民のお客さんには数えるほどしか食べていただけてはおりませんが。幸いなことに、そちらのお客さんたちにはお褒めのお言葉をいただくことができました。口に合うかは人それぞれでありましょうが……良かったら、おひとついかがですか? そちらの皆様がたも」
言いながら、俺はヴィナ=ルウに目配せをした。
察しのいいことに、ヴィナ=ルウはいそいそと屋台の内部に火鉢をセットしてくれる。
食べてもらえるかは別として、木皿にある分だけでは6名分の試食には少し足りないな、と思ったのだ。
「……面白そうじゃん。あんた、食べてみなよ?」
と、唯一の女の子が愉快そうに言いながら、若者の背中を乱暴に小突いた。
ヴィナ=ルウほどではないがむやみに色っぽい女の子で、たぶんこちらも年齢は俺ぐらいだろう。上半身は森辺の女衆のごとく胸あてしかつけておらず、腰から下は、足首まである一枚布。宿場町仕様のヴィナ=ルウよりも、露出度は高い。
その色っぽい少女もふくめて、彼らはみんな象牙色の肌をしていた。
しかし、よく陽にやけている者などは、黄褐色に見えないこともない。やっぱり西の民というやつは、大元をたどればみんな同じ種族なのかなと頭の片隅で俺は考えた。
「ふざけんなよ。何で俺がギバの肉なんざ食わなきゃいけねえんだよ?」
「いいじゃん。それで美味しかったら、あたしたちも食べてあげるよ」
「だったらお前が先に食べろよ! それで美味かったら、俺も食べてやる」
「はん、情けないの。何だかんだ言って、けっきょくギバが怖いんでしょ?」
挑発するように笑いながら、少女は褐色の長い髪をかきあげる。
やっぱりこれは、度胸試しの冷やかしであるらしい。
こちらとしては、望むところである。
若者と少女が子犬のように言い合っている間に鉄鍋が温まったので、俺は皮袋からひとつまみのギバ肉をつかみ取った。
そいつを鍋に投じると、じゅうっと小気味のいい音をたてて、芳しい香りが拡散する。
とたんに、ふたりは黙り込んだ。
後ろでにやついていた若者たちも、見えない糸で引っ張られたかのように、屋台の前に寄ってくる。
肉の表面が焼けたところで、漬け汁を木匙で一杯だけ投入すると、さらなる芳香が白煙とともに広がった。
「……ミャームーかよ。そりゃあミャームーを使えば美味そうな匂いにはなるよなあ」
最初の若者が嘲るようにそう言ったが、相槌を打つ者はいなかった。
そろそろ焼けたかな、という頃合いで、木皿に載っていた分も鉄鍋に落とし、攪拌してから、すべてを木皿に移動させる。
漬け汁はほとんど蒸発してしまったので、すくえる分だけを肉にふりかけた。
ヴィナ=ルウはすみやかに火鉢を外に出し、俺は木皿にグリギの爪楊枝を添えていく。
「さあ、良かったらどうぞ? 味見だけでもけっこうです。たとえお口に合わなくても、話の種にはなるんじゃないでしょうか」
5人の若者と、1人の少女。その顔には、いずれも困惑の表情が浮かんでいた。
ものすごく迷っている。ものすごく葛藤しているのが、よくわかる。
ギバの肉なんか食べたくもない、という嫌悪感と。
ギバを怖れているとは思われたくない、という自尊心と。
森辺の民に対する反感と。
そして、目の前でいい匂いをさせている料理への好奇心と。
色んなものに、心をひっかき回されているのだろう。
「なんか……見た目は、すごく美味しそうだよね……」
「ば、馬鹿、だけどギバの肉なんだぞ?」
「そうだよ! ギバの肉なんて、まともな人間の食うものじゃねえんだ!」
「こんなもん食ったらギバみてえな角とか牙とかが生えてくるってうちの婆ちゃんが言ってたぞ?」
「ミャームーを使えば匂いがよくなるのは当たり前だしな」
「ああ……だけど、本当に美味そうに見えちまうな……」
「ほんとだっ! すっごく美味しそう!」
ん?
気づくと、若者たちの間から、焦げ茶色の頭がちょこんとのぞいていた。
ターラである。
「アスタおにいちゃん! これが新しい料理なんだね! ミャームーがすっごくいい匂い!」
「ああ、良かったらターラも食べてみておくれよ」
俺が爪楊枝を追加してやると、ターラは大喜びで「わーい」とそれをつかみ取った。
そして、困惑の極にある若者たちの目線を一身に集めながら、「おいしーっ!」と快哉の声をあげる。
「これはぎばばーがーみたいに柔らかくないんだね! でも、すっごく美味しいよ! アスタおにいちゃん、4つください!」
「ありがとう! でも、親父さんたちは試食をしなくてもいいのかな?」
「うん! ターラが食べて美味しかったら、売り切れないうちに買ってきてくれって言われてるの!」
そいつは、本当にありがたい話だった。
鍋屋や布屋の親父さんたちがそこまでギバ肉の料理に興味を持ってくれたのは、ひとえにドーラの親父さんの人徳なのだろう。
そして、ドーラの親父さんが心を開いてくれたのは、きっとヴィナ=ルウやルド=ルウのおかげなのだろうと思う。
町の人間のような風貌をしながら森辺に身を置き、ギバ肉の料理で商売を始めた俺の存在は、やっぱり森辺と町をつなぐ架け橋のような存在であり、衝撃を和らげる緩衝材のような存在なのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺はターラに笑い返してみせた。
「よし! ちょっとだけ待っててね? すぐに作るから」
「うん!」
出したばかりの火鉢を戻し、4名分の見当でアリアと肉を炒めていく。
若者の誰かが、ごくりと生唾を飲む音が聞こえたような気がした。
思えば、最初のシムのお客様も、ターラが『ギバ・バーガー』を購入する姿を見て、この店に興味を抱いてくれたようなのだ。
この子は俺の店に福を招き寄せる巡り合わせにあるのかなあと、俺はしみじみ思ってしまった。
「お待ちどうさま! 銅貨は赤が8枚ね」
「うん! ありがとう!」
ターラは4つの『ミャームー焼き』を大事そうに押し抱きながら、駆け足で去っていった。
鉄鍋に残った不純物を木べらでこそぎ落としながら、俺は迷える若者たちににこりと笑いかける。
「さあ、良かったらどうぞ? 試食だけなら、無料ですので」
「よし。……食べる」と、木皿に手をのばそうとしたのは、紅一点の女の子だった。
「ば、馬鹿、やめろって! 角が生えてきたらどうすんだ?」
「そんなわけないじゃん。そんな迷信、信じてんの?」
そう言いながらも、その少女も何だかえらく思いつめた顔をしていた。
「あ、あんな小さな子が普通に食べてんのに、あたしらが怖がってたら馬鹿みたいじゃん。あんたたちも、腰抜け呼ばわりされたくなかったら食べてみな」
「べ、別に怖がってるわけじゃねえよ!」と、わめく若者を横目に、少女は爪楊枝をつかみ取った。
そして、きつい目つきで俺とヴィナ=ルウの顔をにらみつけながら、決死の表情で――肉片を、口に放り込む。
その口を、咀嚼のために2、3度動かすと。
少女は、「うわ……」と目を見開いた。
「お、おい、大丈夫かよ?」と、若者のひとりがその肩に手を置いたが、少女は邪険にその指先を払いのける。
そうして、「すごい……美味しい……」と、つぶやいてくれた。
俺はこっそり安堵の息をつき、若者たちは、騒ぎ始める。
「なに言ってんだよ? ギバの肉だぞ? お前、頭は大丈夫か?」
「うるさいなあ! 嘘だと思うなら食べてみなよ! もし不味かったら、あたしがここで素っ裸になってやるから!」
いやいや衛兵を呼ばれてしまうので、それは勘弁してください。
だけどこいつは、確かな手応えだ。
ついに見ず知らずの西の民が、ギバの肉を食べて、美味しいと言ってくれた。
営業4日目にして、ついにここまで辿りつけた、という心境である。
「くそっ! わかったよ! ……その代わり、さっきの約束も忘れんなよ?」
不穏なことを言いながら、ついに若者のひとりが爪楊枝をつかみ取る。
一番最初に難癖をつけてきた若者だ。
若者は、半分泣きそうな顔をしながら、1番小さそうな肉を選んで、それをのろのろと口に運んだ。
「うわ……」と、その目がさきほどの少女と同じように見開かれる。
「どうよ? 美味しいでしょお?」と、少女は勝ち誇った様子で胸をそらした。
そうして、残りの4名が次々と手をのばし始める。
不味い!……と言い出す者はいなかった。
全員が驚愕に目を見開くことになったのだ。
俺はまたこっそりと胸をなでおろす。
南の民より西の民のほうがギバ肉との相性がいいのか、それとも『ギバ・バーガー』より『ミャームー焼き』のほうが汎用性が高いのか――答えはまだまだ闇の中だが、5割の人間に不評であった2日目よりは、1歩前進だ。
「……ねえ。赤の銅貨が2枚だっけ?」
と、少女がまた険のある目を向けてきたので、俺は「はい」と愛想よく応じてみせた。
「お、おい、ユーミ、お前まさか、買うつもりかよ?」
「どうしてさ? こんなに美味しいのに買わない理由がないでしょ? これで他の店のものを買う気になれるの?」
威勢よくまくしたてながら、ユーミと呼ばれた少女はぴしゃんと銅貨を台に叩きつけてきた。
「あんたたちは? 買わないの? 言っておくけど、一口だって分けてあげないからね?」
若者たちは、惑乱しきった面持ちで目を見交わしていた。
少女は尊大な感じで肩をすくめつつ、また俺の顔をにらみつけてくる。
「さ、早く作ってよ。あんたのせいで、お腹が空いてきちゃったじゃん」
「はい! 少々お待ちくださいませ」
火鉢を入れたり引っ込めたり、実に慌ただしい限りである。
しかし、こんな慌ただしさなら、大歓迎だ。
まだまだ中天には時間があったし、たとえこの場では1食しか売れなくても、こいつはかなり希望の持てる展開であろう。
「ヴィナ=ルウ。火鉢をお願いしますね」
にこにこ顔で、俺はヴィナ=ルウを振り返る。
しかし。
ヴィナ=ルウは、動かなかった。
その、ちょっと目尻の下がった色っぽい目が、眠たそうに細められている。
「あの、ヴィナ=ルウ……?」
こんなタイミングで、睡魔に襲われるものだろうか?
……いや。
その眠たそうに細められたまぶたの狭間で、ヴィナ=ルウの淡い色合いをした瞳は、かつてないほど鋭利な光を浮かべていた。
ヴィナ=ルウでも、こんな目つきをすることがあるのか。
しかし。
どうしてヴィナ=ルウがこんな目つきをしなくてはならないのだろう。
しかもヴィナ=ルウは、あらぬ方向に目線を飛ばしていた。
かたわらの俺を見るでもなく。
目の前のお客さんを見るでもなく。
賑やかな南の通りを見るでもなく。
ヴィナ=ルウは、北の果てへと目線を飛ばしていたのだった。
俺も、ゆっくりと目線を動かしてみる。
それにつられて、目の前の少女も目線を動かしたようだった。
その口から、「きゃ……」と、か細い悲鳴がもれる。
その声で、若者たちも目線を動かした。
それで俺たちは、驚愕と戦慄を共有することができた。
驚愕と戦慄に値する存在が、今や数メートルの至近距離にまで肉迫していたのだ。
2メートルはあろうかという上背に、肉風船のように膨れた巨体。
これが本当に人間なのか、という肉塊のような大男が、どすどすと石畳を踏みながら、真っ直ぐ俺たちのほうに突進してきていたのだった。
スン本家の末弟――ミダ=スンである。