吉報
2021.2/15 更新分 1/1
・今回の更新は全7話です。
朱の月の25日――雨季の終わりも目前に迫ってきた、その日。俺たちは城下町の貴賓館にて、ジャガルの鉄具屋の人々に晩餐を振る舞っていた。
もともとディアルは朱の月の間に、故郷に里帰りをする予定になっていた。月の終わりも差し迫ったその時期になって、ようやく迎えの一団がジェノスに到着したわけである。
「ディアルがいなくなっちゃうと、さびしくなるなあ。道中は、どうか気をつけてね」
ディアルからの要請で、森辺の民の代表者も何名かが同じテーブルについている。自らが作りあげた晩餐を食しながら、俺がそのように呼びかけると、ディアルは元気いっぱいの様子で「はい!」とうなずいた。
「わたしもジェノスを離れるのは心残りですけれど、2ヶ月なんてあっという間ですよ! アスタこそ、またおかしな話に巻き込まれて怪我したりしないでくださいね?」
ディアルが俺にまで丁寧な言葉を使っているのは、もちろん礼儀作法に厳しい父親がかたわらに控えているためである。しかし、どのような言葉づかいであっても、本日のディアルには普段以上の活力と可愛らしさがみなぎっている。それを微笑ましく思いながら、俺は「うん」と笑顔を返してみせた。
長らくぶりに里帰りをするということで、ディアルはずっとご機嫌の様子である。何せ彼女はもう1年と9ヶ月ばかりもジェノスで過ごしていたのだ。その期間、父親を除く家族とはいっさい顔をあわせていないのだから、それは望郷の思いもつのろうというものであった。
「さきほどもご説明しました通り、ディアルの留守はこちらのハリアスがおあずかりいたします。森辺の方々も、どうぞごひいきによろしくお願いいたします」
ディアルの父親たるグランナルが厳格な表情でそのように言いたてると、『ギバのミソ角煮』に舌鼓を打っていたハリアスが慌てた様子で一礼した。グランナルの右腕たる、ジャガルの壮年の男性である。彼は半年ほど前の会食を最後に、ジャガルに戻っていたのだが、ディアルがいない間はジェノス支店の責任者代行をつとめることとなったのだ。
この場には鉄具屋の3名の他に、ジェノス側からの立会人であるポルアースとメリムとリフレイアも席を同じくしていた。ならば森辺の側も人数をあわせるべきかと考え、俺とアイ=ファとリミ=ルウの3名が同じテーブルにつかせていただいている。残りのメンバーは、控えの間でプラティカやニコラとともに晩餐を楽しんでいるはずであった。
「……そういえば、ディアルは森辺の方々から菓子の作り方を学ばせていただいたという話でありましたな」
グランナルが水を向けると、リミ=ルウは「うん!」と元気に応じた。
「とりあえず、おまんじゅうとすぽんじけーきとほいっぷくりーむの作り方だけだけどね! ジャガルで売ってる食材だけでも、美味しいお菓子が作れるはずだよー!」
「しばらくすれば、ゼランドにもゲルドのシャスカが流通するやもしれないね。そうしたら、今度はだいふくもちかな?」
と、ポルアースも陽気に相槌を打つ。前回の会食にて豆カレーの味わいを堪能したグランナルたちは、敵対国たるシムの食材にも寛容になっていたのだ。ジェノスを通してゲルドとジャガルの通商が開始される予定だと聞かされたときも、グランナルはたいそう感心した様子を見せていたものであった。
会食そのものも、とても和やかな空気の中で進行されている。グランナルたちはシムの食材ばかりでなく、森辺の民にも寛容になってくれたのだろう。半年に1度の会食であっても、こうして少しずつ交流を深めていければ何よりであった。
「しかしディアルはその作り方を書面に書きつけただけで、自ら厨に立ったわけではないようですな。年頃の娘であるというのに、お恥ずかしい限りです」
グランナルがそのように言いたてると、ディアルはこの日で初めてとなる不平がましい表情を浮かべた。
「わたしはこのジェノスで存分に働いているのですから、厨に立つ時間などあろうはずもありません。わたしにジェノスの責任者を任せてくださったのに、父さんはまだそのようなことを仰っているのですか?」
「……お前がわたしの商売を引き継ぐとしても、いずれは婿を取らなければならんのだ。厨の仕事を覚えて損になることはあるまい」
「それならわたしは腕の立つ料理人を雇えるように、いっそう商売に励みたく思います。なんならアスタのようにかまど仕事の得意な男性を伴侶に迎えてもいいですしね」
言葉づかいは丁寧でも、今日のディアルは元気が有り余ってしまっている。これでは貴き方々の前で恥をさらすばかりと思ってか、グランナルは反論の言葉と溜息を同時に呑みくだしたようだった。
「それよりも、まずは屋敷の料理番たちが森辺の方々の教えをきちんと活かせることを祈りましょう。母さんや妹たちに喜んでもらうことができたら、わたしは心より嬉しく思います」
と、最後は天使のような笑顔で、ディアルもそのように締めくくっていた。
すべての料理を食べ終えた後も、半刻ばかりは歓談の時間が作られる。そうしてリミ=ルウがあくびを噛み殺したところで、その日の晩餐会も終了と相成った。
「それでは僕たちは、お先に失礼させていただくよ。ディアル嬢、再会の日を楽しみにしているからね」
「はい。ポルアース様も、どうぞお元気で。……あ、リフレイア、ちょっとお待ちを」
と、ディアルはリフレイアを引き留めて、その耳もとに小声で呼びかけた。
「シフォン=チェルたちは、きっと元気に戻ってくるからね。次に会うときは、リフレイアも元気な顔を見せてよ?」
「……わたしはもともと、あなたみたいに朗らかな気性をしていないというだけのことよ」
リフレイアは取りすました顔のまま、部屋を出ていってしまう。
ディアルが心配そうな顔をしていたので、今度は俺がその耳もとに囁きかけることになった。
「大丈夫だよ。俺も陰ながら、リフレイアを見守っているからさ。ディアルは何も心配せずに、里帰りを楽しんでおいで」
「……うん、ありがとう。アスタにまかせておけば、安心だね」
女の子らしい身なりをしたディアルは、また天使のような顔で微笑んでくれた。
そうして俺たちも、帰宅の準備を整える。控えの間でくつろいでいたメンバーと合流し、貴賓館の出口に向かうと、ディアルはラービスとともに見送ってくれた。
「それじゃあみんなも、元気でね! 2ヶ月後には、戻ってくるから!」
「はい。無事なお帰りをお待ちしています」
「どうぞご家族たちにも、よろしくお伝えください」
「ど、ど、道中はどうぞお気をつけて」
「ラービスも、お元気で! ジェノスに戻ってきたら、また森辺にも来てくださいね!」
トゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥアの4名が、笑顔で手を振りながらトトス車に乗り込んだ。彼女たちを護衛してくれていたルド=ルウも、「それじゃーな」とその後に続く。
プラティカはまたダレイム伯爵家のお世話になるということで、ニコラともどもポルアースらと一緒に辞去していた。残るは、俺とアイ=ファとリミ=ルウの3名だ。
「2ヶ月後っていうと、帰りは青の月ぐらいだね。その頃には建築屋のお人らもジェノスを訪れてるだろうから、また一緒に晩餐にでもお誘いするよ」
「ありがとう! アスタもアイ=ファもリミ=ルウも、みんな元気でね!」
「ラービスも、どうぞお元気で。またお会いできる日を楽しみにしています」
「はい。……みなさまも、息災に」
ディアルとラービスの姿をしっかり目に焼きつけてから、俺もトトス車に乗り込むことにした。
ディアルが終始笑顔であったため、俺も感傷的な気持ちにはならずに済んだようだ。それに、半年ばかりもジェノスを離れるシュミラル=リリンと比べれば、2ヶ月という期間は何ほどのものでもないと思うことができた。
「あーあ、すっかり遅くなっちまったなー。さっさと帰って、さっさと眠りてーや」
と、帰りの道中ではルド=ルウもあくびを連発していた。つられたように、リミ=ルウも「ふわーあ」と可愛く大あくびを披露する。
「ふたりは何だか、特に眠そうだね。疲れが溜まってるのかな?」
「いやー、最近は家がバタバタしてるからな。なんてったって、サティ・レイのお産が近いからよ」
「うん! サティ・レイは大変そうだし、ジザ兄やドンダ父さんは心配そうだしねー! あんたたちが慌てたってどうにもならないよって、ミーア・レイ母さんは笑ってるけど!」
そう、ついにサティ・レイ=ルウの第二子の出産が近づいているのだ。ジザ=ルウやドンダ=ルウが慌てる姿というのはなかなか想像がつかないが、やはりこういう際には女性陣のほうがどっしり構えられるものであるのだろう。
「家にはまだちっちゃいコタ=ルウもいるから、なおさら大変なんだろうね。サティ・レイ=ルウは、そんなに大変そうなのかな?」
「うん! コタのときよりも、おなかが張ってるみたい! これはおっきな子が産まれるよーって、ジバ婆とかティト・ミン婆が言ってたよー!」
そんな風に言ってから、リミ=ルウは隣に座していたアイ=ファの左腕をぎゅーっと抱きすくめた。
「それにもうすぐ、ジバ婆の生誕のお祝いだもんね! おめでたいことばっかりで、リミは嬉しいなあ」
「そしてその後は、リミ=ルウの生誕の祝いに収穫祭か。本当に、ルウ家はめでたいこと続きだな。まずはサティ・レイ=ルウが無事に子を産めるように、母なる森に祈ることとしよう」
アイ=ファも優しげな表情で、リミ=ルウの髪を撫でていた。
やがてトトス車が城門に到着すると、衛兵の指示で跳ね橋が下ろされる。夜間に通行できるように、ポルアースが手を回してくれたのだ。
衛兵たちにお礼を言って、預けていた自前の荷車に乗り換える。ギルルとルウルウはすでに就寝中であったのだろう。最初はルド=ルウよりも眠そうな眼差しをしていたが、荷車を設置されるといつも通りの軽やかさで街道を駆けてくれた。
静まりかえった宿場町の領内も踏破して、森辺に通ずる緑の深い山道は慎重に荷車を進めていく。雨がほとんどやんでいたのは、幸いだ。その頃には、こちらの荷台でもトゥール=ディンとレイ=マトゥアが身を寄せ合って眠ってしまっていた。
やがて森辺に到着したならば、ルウの集落の手前でルド=ルウたちに挨拶をして、俺たちはそれぞれの家に帰還――という段取りであったのだが、そこで計画に狂いが生じた。ルウの集落が、時ならぬ騒擾に包まれていたのである。
「お、こいつはもしかして……悪いけど、さっさと帰らせてもらうぜ」
集落の手前でいったん荷車をとめたルド=ルウは、挨拶もそこそこに広場へと乗り込んでいく。集落の手前のこの位置からでも、ルウの集落に人のざわめきがあふれかえり、屋外にまで火が灯されているのが察知できたのである。
これでは俺たちも、素通りすることはできない。アイ=ファはひと言その旨を荷台のメンバーに告げてから、自らもギルルの手綱を広場のほうへと差し向けた。
ルウの本家の周囲にだけ、祝宴のようにかがり火が焚かれている。
そして多くの人々が、本家の周りを取り囲んでいた。
「わたしが手綱をおあずかりしますので、アスタたちはどうぞ様子を見てきてください」
ユン=スドラの厚意に甘えて、俺とアイ=ファは徒歩で本家に向かうことにした。
本家の玄関の手前には、ひときわ大きなかがり火が焚かれて、そこに香草を投げ入れつつ、祈りを捧げている女衆らの姿が見えた。他の人々は、そのかがり火や女衆ごと本家の母屋を取り囲んでいる様子である。
きっとルウの集落の家人たちは、総出でその場に押し寄せているのだろう。今も多少は小雨がぱらついていたので、誰もが外套や狩人の衣を纏っている。かがり火はその雨粒に負けないようにと、儀式の火にも負けない勢いで燃やされていたのだった。
その場にはきわめて厳粛な空気がたちこめており、おいそれと近づける雰囲気ではない。
これはいったいどうしたものか――と、俺たちが人垣の外側で立ちすくんでいると、ほっそりとした人影がふたつほど近づいてきた。シーラ=ルウと、ヴィナ・ルウ=リリンである。
「あれ? ヴィナ・ルウ=リリン、こんな時間にどうしたのですか?」
「うん……ちょっと用事があったから、今日はルウの家で晩餐をいただいてたんだけど……そうしたら、晩餐の途中でサティ・レイが産気づいちゃったのよぉ……」
ヴィナ・ルウ=リリンはひどく静謐な微笑をたたえながら、そのように答えた。
森辺の晩餐は日没と同時に行われるので、きっともう2時間ぐらいは経過しているのだろう。予想していた事態とはいえ、俺はきゅっと胃の縮むような思いであった。
「それは大変でしたね。サティ・レイ=ルウは、大丈夫なのでしょうか?」
「うん……たくさんの女衆が手伝ってくれてるから、きっと大丈夫だろうとは思うけど……」
ヴィナ・ルウ=リリンのかたわらでは、シーラ=ルウが祈るように両手を組み合わせている。ヴィナ・ルウ=リリンも数日に1度はルウ家の屋台を手伝っていたが、このふたりがことさら行動をともにしている姿は心持ち新鮮に感じられた。
「サティ・レイ=ルウは、強い女衆です。決して魂を返すことなく、元気な赤子を産んでくれることでしょう。どうぞアスタたちも、ご心配せずにお帰りください」
「ええ。俺たちがこの場に居残ったって、なんの力にもなれはしないのでしょうけれど……」
しかし俺は、なかなか立ち去る気持ちにはなれなかった。アイ=ファもそれは同様であるようで、きわめて難しい顔をしている。かつてはリィ=スドラがお産で危険な状態に陥ってしまっていたために、どうしてもその頃の不安や焦燥が蘇ってしまうのだった。
「どうしよう? とりあえず、トゥール=ディンたちを家に送ってこようか?」
「うむ。ならば私がその役を果たすので、お前はこの場に留まって――」
アイ=ファがそんな風に言いかけたとき、人垣のほうから大きなざわめきがあげられた。本家の玄関の戸板が、大きく開け放たれたのだ。
「みんな、サティ・レイのためにありがとうねえ。赤子は、無事に産まれたよ」
ざわめきは、一瞬で歓声と化して爆発した。
ヴィナ・ルウ=リリンとシーラ=ルウは、「ああ……」と感極まったように手を取り合う。
「赤子は大きな女の子で、サティ・レイも元気だよ。今日はもう遅いから、明日にでも赤ん坊の顔を見てあげておくれ」
そのように告げているのは、サティ・レイ=ルウの義理の祖母であるティト・ミン婆さんであった。
俺は詰めていた息を吐いてから、かたわらのアイ=ファと笑顔を見交わす。
「女の子だってさ。コタ=ルウに、妹ができたんだな」
「うむ。ゆくゆくは兄妹でしっかりと手を取り合い、ルウの本家を盛り立ててもらいたいものだな」
人垣では、誰もが喜びの声をあげて身を寄せ合っている。血族の、しかも本家の長兄にふたり目の子が産まれたのだ。いずれの家でも新しい生命の誕生というのはおめでたいものであろうが、やはりその喜びもひとしおであるのだろうと思われた。
「では、我々は家に戻るとするか。この場では、血族同士で喜びを分かち合うべきであろう」
「うん、そうだな。それじゃあ、ヴィナ・ルウ=リリンにシーラ=ルウも、おやすみなさい。明日は屋台の商売もお休みですので、明後日の行きがけにでもご挨拶をさせてもらおうかと思います」
「あ、うん……ちょっと待ってもらえるぅ……? アスタとアイ=ファにも聞いてほしい話があるんだけど……」
と、ヴィナ・ルウ=リリンがいくぶんうつむきながら、上目遣いで俺たちを見やってきた。結婚以来、格段に落ち着きを身につけたヴィナ・ルウ=リリンには、ちょっとひさびさの仕草であった。なおかつ何故だか、シーラ=ルウも恥じらうように目を伏せてしまっている。
「はい、どうしましたか? そういえば、今日は用事があってルウの集落を訪れていたのですよね」
「うん……同じ話を、アスタたちにも聞いてほしくて……こういう話は初めてだから、どんな顔をすればいいのかもわからないんだけど……」
と、ヴィナ・ルウ=リリンは可憐に頬を染めながら、そのように言葉を重ねた。
あちこちに焚かれたかがり火に、シュミラル=リリンから贈られた耳飾りがちかりと輝く。
「実は……わたしも…………みたいなのぉ……」
「え? なんです? すいません、ちょっと聞き取れませんでした」
「もう……だからぁ……わたしも子を孕んだみたいって言ったのよぉ……」
俺は、愕然と立ちすくむことになった。
そうしてその驚きが去る前に、シーラ=ルウからさらなる爆弾が投下される。
「実は、わたしもなのです。夕刻に本家を訪れてその話をしていたら、ヴィナ・ルウ=リリンがやってきて……このような偶然もあるのですね」
俺はもう、金魚のように口をぱくぱくとさせることしかできなかった。
その間に、アイ=ファが「そうか」と穏やかに声をあげる。
「それは、めでたきことが続くものだな。我々はヴィナ・ルウ=リリンとシーラ=ルウのみならず、シュミラル=リリンともダルム=ルウとも小さからぬ縁を持つ身であるので、いっそう喜ばしく思うぞ」
「ありがとう……アイ=ファにそんな風に言ってもらえるのは、とても嬉しいわぁ……」
「わたしもです。ありがとうございます、アイ=ファ」
そうしてふたりの目が、おずおずと俺のほうに向けられてきた。
俺はぴしゃぴしゃと自分の頬を叩いて我を取り戻してから、なんとか言葉を振り絞ってみせる。
「お、おめでとうございます。本当に、おめでたいですね。なんだかもう、感極まってしまって……なかなか頭が回らないみたいです」
「うふふ……アスタらしいわねぇ……」
そう言って、ヴィナ・ルウ=リリンは本家のほうに視線を飛ばした。
その横顔からは羞恥の色も消え去って、どこか決然としたような――それでいて、ドキリとするほどやわらかい微笑がたたえられている。
「お産というのは、誰にとっても生命がけなのだろうけれど……わたしも絶対、乗り越えてみせるわぁ……愛する伴侶との間に子を生せるなんて、そんな幸福は他にないもの……」
「ええ。我が身と腹の子をいたわり、必ずや成し遂げてみせましょう」
シーラ=ルウもヴィナ・ルウ=リリンと似た微笑みをたたえながら、そんな風に言っていた。