エピローグ 誇りと喜びを胸に
2021.2/1 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
すべての料理と食後の菓子を食べ終えたのち、和やかな空気の中で歓談を楽しんでいると、半刻ていどで玄関の戸板が叩かれることになった。トゥール=ディンとユン=スドラとマルフィラ=ナハムを家まで送り届けるために、ゼイ=ディンが迎えに来てくれたのだ。
「本日は遅くまでありがとうございました。ロイ、シリィ=ロウ、またお会いできる日を楽しみにしています」
雨よけの外套を纏って、ユン=スドラたちが玄関を出ていく。
それを追いかけるようにして、ルド=ルウも立ち上がった。
「それじゃあ、俺たちも帰るとするか。美味い晩餐をありがとうなー」
リミ=ルウはたいそう名残惜しそうにしていたが、朱の月の終わりにはジバ婆さんの生誕の日が控えている。その日にはルウ家にお泊まりすることが決定されていたので、それを心の慰めとして、リミ=ルウは笑顔でファの家を後にした。
残された客人は、4名。ロイとシリィ=ロウ、プラティカとニコラという、町からの客人たちだ。
玄関先でリミ=ルウたちを見送って、広間に舞い戻ったプラティカは、あらたまった様子でアイ=ファへと声をかけた。
「アイ=ファ。私たち、宿泊、迷惑でないのでしょうか?」
「うむ? それを申し出たのは、こちらのほうだ。迷惑であれば、そのような申し出をするわけがあるまい」
と、アイ=ファはいくぶん気まずそうな面持ちで前髪をかきあげる。
「正直に言って、私は客人をもてなすことを苦手にしている。そんな私とふたりきりで寝床をともにしては、シリィ=ロウも気詰まりであろう。プラティカとニコラに力を添えてもらえれば、ありがたく思う」
「はい。アイ=ファ、力になれるのなら、嬉しく思います」
プラティカとニコラは普段、荷車で夜を明かしているのだ。すでにそちらの寝具は、ファの家の寝所に移動されていた。
また、ロイとシリィ=ロウに関しては、ルウ家から客用の寝具を借り受けている。ファの家には普段用と雨季用の寝具が2組ずつしか存在しないため、それでは用が足りないのだ。かつてはダリ=サウティたちも、自前の寝具を持ち込んでいたのだった。
「たださ、言っちゃ悪いけどこの場に居残った娘さんがたは、みんな口が重いよな。案外、一番言葉が達者なのは、東の生まれのプラティカ嬢なんじゃねえか?」
ロイが皮肉っぽく言いたてると、シリィ=ロウは横目でそちらをにらみつけた。が、口では何も言い返せずにいる。シリィ=ロウは決して口が重いわけではないのだが、俺から見ても人見知りの部類であるのだ。言ってみれば、アイ=ファと遠からぬタイプであるのだろうと思われた。
(それは確かに、アイ=ファとシリィ=ロウのふたりきりだったら、会話が続かないだろうからなあ。プラティカたちの手を借りたくなるのも当然だ)
しかしまた、この4名の組み合わせというのも、なかなか妙ちくりんである。そしてロイの言う通り、その場をまとめあげるのは、アイ=ファともニコラともそれなりに打ち解けているプラティカの役割になってしまうのかもしれなかった。
「……ともあれ、今日は本当に満ち足りた時間を過ごすことがかないました。アイ=ファとアスタには、あらためて御礼の言葉を届けさせていただきたく思います」
と、膝をそろえたシリィ=ロウが、俺たちに向かって深々と頭を下げてきた。
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、「うむ」と応じる。
「晩餐で出された料理は見事な出来栄えであったし、他の氏族の者たちとも絆を深められたように見受けられる。本日の行いが多くの実りを結んだようで、私も嬉しく思っている」
「……確かにこのふたりじゃ、寝るまで間がもたなそうだよな」
と、ロイがこっそり俺だけに囁きかけてきた。ここで茶化したら、アイ=ファの怒りまで買うものと判断したのだろう。実に正しい判断である。
「私、同じ気持ちです。勉強会、きわめて有意義でしたし、多くの人々、絆を深めること、かないました。心より、得難く思っています」
そんな風に語ってから、プラティカはニコラのほうに目をやった。
「ニコラ、如何ですか? 有意義、間違いない、思いますが」
「もちろんです。わたしのような未熟者はこのような場に相応しくないと、重々承知しているのですが……そのぶん、誰よりも実りは大きかったことでしょう。それこそ恩恵をあずかるばかりで何のお役にも立つことができず、心苦しく思っています」
「でも、あんたも菓子作りを得意にしてるんだろう? 次の機会には、その腕を披露してもらいたいもんだな」
ロイの言葉に、ニコラは愛想のない面持ちで「いえ」と首を振る。
「わたしなどは、皆様の足もとにも及びません。師たるヤン様の名を貶めないためにも、自重させていただきたく思います」
「ニコラ、謙虚です。その力量、素晴らしいこと、私、わきまえています。菓子作りの腕、足もとでなく、胸もと、迫っている、思います」
「いえ。長きの修練を積んできた皆様に、わたしがかなう道理などありません。今後も身をつつしんで、修練に励みたく思います」
ニコラがそのように語らうと、ロイは「ふふん」と鼻を鳴らした。
「確かにあんたは謙虚だけど、向上心で目がぎらついてるんもんな。あんたみたいな人間は、きっと大成するだろうと思うよ」
「……それが冗談でないのだとしたら、心より嬉しく思います」
「俺は軽薄な人間だけど、冗談口で料理人をもてはやしたりはしねえよ。あんたはまだ、厨の仕事を始めて2年も経ってないってんだろ? 勝負は、ここからさ」
するとニコラは珍しいことに、もじもじと身をよじり始めた。
「あの……大変ぶしつけな質問なのですが、みなさんはいったいおいくつなのでしょうか? わたしは、17歳となったのですが」
「年齢かい? 俺は、21歳だな」
「わたしは、19歳です」
「俺ももうすぐ、19歳になるところですね」
「もうすぐ?」とニコラがうろんげな顔をしたので、俺は補足説明をした。
「森辺の民は、生まれた日付けで年齢を重ねる習わしなのです。東の民も、そういう習わしに身を置いているそうですね」
「ああ、なるほど……とりあえず、アスタ様とシリィ=ロウ様はわたしと2歳しか変わらないのですね。やはりプラティカ様と同じように、幼き頃から修練を積まれていたのでしょうか?」
「いえ。わたしがヴァルカスに弟子入りを願ったのは、たしか15歳の頃であったかと思います。奇しくも、あなたが厨の仕事を始められたのと同じ年齢であるようですね」
シリィ=ロウの返答に、ニコラは少なからず衝撃を受けたようだった。
「そう……なのですか……わたしがヤン様に正式に弟子入りを認められたのは、ここ最近の話であるのですが……それにしても、わずか4年でそこまでの力量を身につけられたというのは……心より敬服いたします」
「それを言ったらマルフィラ=ナハムなどは、この場にいるどなたよりも経験が浅いはずです。肝要であるのは、最終的にどれだけの力をつけられるかなのでしょう」
自分に言い聞かせるように言って、シリィ=ロウは俺に向きなおってきた。
「……アスタは料理店の嫡子として生まれつき、幼き頃より修練を積んできたというお話でありましたね?」
「いやあ、嫡子なんていう大層なものではないですけれど。先日の茶会でもお話しした通り、庶民向けの食堂に生まれつくことになりました」
「それでもあなたは、そのお若さに似合わぬ力量をお持ちです。あなたはどうして……そのようにあれるのでしょうか?」
シリィ=ロウの瞳には、かつてないほど真剣な光がたたえられていた。
いや、シリィ=ロウはいつでも真剣であるのだが、そんな彼女にも珍しいぐらい思い詰めた様相であるように見受けられたのだった。
「あなたは渡来の民であり、この地でまったく見慣れぬ食材に触れることになったのでしょう? そうであるにも拘わらず、あなたは出会った当初から凄まじい力量を見せていました。ヴァルカスと初めて厨をおあずかりしたとき、あなたはこの地でどれだけの時間を過ごしておられたのですか?」
「ええと、あれは藍の月の中頃でしたから……おそらく5ヶ月ていどであったかと思います」
「5ヶ月……わずか5ヶ月の滞在で、あなたはヴァルカスに目をかけられるほどの料理を作りあげてみせたのですね。それも、まったく見慣れぬ食材を使って……それは、驚くべき話であるはずです」
「いえ、ですが、この地で出会った食材は、おおよそ俺の見知った食材と似通っていたので、そこまで困ることもなかったのですよ」
俺はそのように答えてみせたが、シリィ=ロウはまったく納得した様子もなかった。
「ですがあなたは、海の外でお生まれになられた人間なのでしょう? 見知った相手もいないこのジェノスで、どうしてそうまで熱情を燃やすことができたのです? 寄る辺ない身であるからこそ、料理人として身を立てようという思いがつのったということなのでしょうか?」
「……そうですね。それに近い感覚なのだと思います」
そんな風に答えてから、俺はかたわらのアイ=ファの様子をうかがってみた。
アイ=ファはとても落ち着いた眼差しで、俺たちのやりとりを聞いている。
その眼差しに背中を押されるようにして、俺は内なる思いを語ってみせた。
「ただ俺は、料理人として名を馳せようと思っていたわけではありません。ただ、自分には料理を作るぐらいしか能がなかったので、なんとかお世話になった人たちの力になりたいと願っていたのです。そういった話は、傀儡の劇で語られていませんでしたか?」
「……はい。あれが、あなたの真情であるというのですね?」
「ええ。傀儡使いのリコたちは、俺の気持ちを過不足なく傀儡の劇にしてくれたと思います。俺はただ、身近な人たちに喜んでほしかっただけなのですよ。それが今では、城下町のほうまで交流の輪が広がったというだけのことです」
「……あなたは故郷でも、そのような心持ちで仕事に取り組んでおられたのでしょうか?」
ちょっとだけ考えてから、俺は「はい」とうなずいてみせた。
「環境はずいぶん違いますけれど、根っこの部分に変わりはないように思います。お店のお客さんたちは、みんな親父の料理を美味しそうに食べてくれていたので……俺もそんな料理人になりたいなと考えていたのですよ」
「そうですか」と、シリィ=ロウはまぶたを閉ざした。
懸命に感情を押し殺しているかのように、その細い肩がわずかに震えている。ロイは心配そうな顔になっていたが、ただ無言でその様子を見守っていた。
「わたしは……そのような考えを抱いたことはありませんでした。わたしはただ、ヴァルカスの作る料理に打ちのめされて……それで弟子入りを願っただけであるのです」
「なるほど。でもそれは、そんなに俺と異なる心持ちなのでしょうか?」
「異なります。わたしはただ、誇りと栄誉を欲していただけであるのです。ヴァルカスのように、誰をもうならせることのできる料理人になりたい、と……一歩でも、ヴァルカスの力量に追いつきたい、と……そんな思いだけで、日々の仕事に取り組んでいたのです」
「ふむ」と、俺は思案することになった。
「やっぱり俺には、違いがよくわかりません。俺は自分の父親を、シリィ=ロウはヴァルカスを目指していた、ということでしょう?」
「わたしが欲していたのは誇りと栄誉であり、あなたが欲していたのは他者の喜びです。それは、まったく異なるものであるはずです」
「いや、俺だって自分の料理を美味しいと思ってもらえたら誇らしいですし、こう見えて負けず嫌いな性分ですから、そうまで変わらないと思いますよ。あの傀儡の劇は俺の気持ちを正しく表現してくれていますけれど、それでも劇として美化されている部分も多いと思います。俺はそんな、聖人君子ではありませんので」
「あなたを聖人君子だなどと評しているわけではありません。同じような心情を抱きながら、わたしは料理人としての栄誉に、あなたは他者の喜びに大きく比重を割いていた、ということです」
と――シリィ=ロウの声に、人間らしい感情がにじんだ。
そのまぶたが開かれて、真正面から俺を見つめてくる。そこにはほんの少しだけ、涙が浮かべられているようだった。
「わたしは心から、ヴァルカスを尊敬しています。そんな心が相まって、わたしは他者からの賞賛を受けたいと……わたしがヴァルカスを尊敬するように、人々から尊敬されたいと願ってしまっていたのかもしれません」
「そうですか。でも――」
「いえ、お聞きください。それでもわたしだって、ヴァルカスの料理から大きな喜びを感じていたのです。どうしてこんなに不思議な料理を作れるのだろうと、驚愕の念に打ちのめされるのと同時に、またとなく幸福な気持ちであったはずなのです。そうでなければ、わたしだって……親兄弟の反対を押し切ってまで、ヴァルカスに弟子入りを願うことはありませんでした。だからきっと、本質の部分はあなたと変わらないはずなのです。ただ、食べる相手に喜んでほしいと思う気持ちよりも、素晴らしい料理を作りあげて敬服されたいという気持ちにとらわれてしまっただけで……」
「ヴァルカスは、人に敬服されたいって気持ちすら持ち合わせてないみたいだけどな」
ロイが薄く笑いながら口をはさむと、シリィ=ロウは泣き笑いのような表情で「そうですね」と応じた。
「だからわたしも、無心であろうと努めました。ヴァルカスのようにひたすら邁進すれば、結果など後からついてくるのだと、ひたすら調理に没頭していたのです」
「そんな部分まで、師匠を真似ることはないだろうよ。あのお人は何も思い悩むことなく、ただ思うままに振る舞ってるだけなんだろうからな。普通の頭をした人間が真似られるもんじゃねえさ」
「……ええ。ヴァルカスは天才です。凡人のわたしが真似られるような存在ではないのでしょう」
シリィ=ロウは大きく息をつき、目もとににじんだものを手の甲でぬぐってから、いつもの調子で俺をにらみつけてきた。
「そしてわたしは、あなたを真似ようとも思いません。そもそも、他者の生きざまを真似ようという性根が間違っているのでしょう。わたしはわたし自身の気持ちに従って、今後も料理人としての仕事に取り組もうと思います」
「はい。それで今日みたいに切磋琢磨できたら、俺も嬉しく思いますよ」
俺は自然な気持ちで笑いながら、そんな風に答えることができた。
シリィ=ロウは口もとがゆるむのをこらえているような表情で、俺のことをにらみつけている。そういう表情は、俺もアイ=ファのおかげですっかり見慣れてしまっているのだ。
「よかったら、またいつでも森辺に遊びに来てください。たった1日では、おたがい学びきれない部分も多かったでしょうからね。今日の勉強会に参加できなかった人たちも、みんな心待ちにしていると思います」
シリィ=ロウはきゅっと顔を引き締めながら、「はい」と大きくうなずいた。
そんな挙動に、彼女の心情がはっきり示されている。
彼女はきっとこれからも、そうそう容易く笑顔を見せたりはしないだろうし、城下町の料理人としての誇りを胸に邁進していくのであろうが――それでも俺は、出会った当初とは比較にもならないほどの親愛と共感をもって、彼女とともに歩いていくことができるような気がしていた。
そうして今日という日は、最後の最後まで充足しきった心地の中で終わりを迎えることになったのだった。