料理人の交流会①~来訪~
城下町の茶会から、6日後――朱の月の14日である。
いよいよ雨季も終盤に差し掛かってきたその日は、ロイとシリィ=ロウをファの家に招いての合同勉強会であった。
この日がそれに選ばれたのは、屋台の休業日とロイたちの休日がぴたりと重なっていたためである。
ロイたちは朝方からファの家を訪れて、一日みっちりと勉強会をして、晩餐と寝床をともにしたのち、翌朝に帰ることになる。すでに何度となく森辺を訪れていた両名であるが、それらはいずれも祝宴の見物であったため、おたがいに調理の腕を見せ合って研鑽するというのは、これが初めての試みであったのだ。俺としても、心の弾むところであった。
普段は屋台の休業日でも、どこかしらの時間でカレーの素や乾燥パスタの作り置きなどに取り組んでいる。が、いまのところはそういった備蓄にも不安はなかったので、本日の自由な時間はのきなみ合同勉強会に割り当てる所存であった。
思えば俺たちは、これまで積極的に城下町の調理の作法を学ぼうとはしてこなかった。ただひとり、ミケルからはたっぷり指南してもらっているものの、その作法は決して城下町の王道ではない。食材が元来から有している美点を活かそうというミケルの作法は、どちらかというと俺の学んできた調理法に近いものであり、そうであるがゆえに森辺のかまど番たちも抵抗なく受け入れることができたのであろうと思われた。
そもそもジェノスの城下町において流行しているのは、これでもかというぐらいにさまざまな食材を掛け合わせた複雑なる味付けとなる。当初は俺も森辺のかまど番たちも、そういった料理を自分たちには不必要な存在であると切り捨ててしまっていた感が否めない。
しかし俺たちは、とてつもない技量を持つヴァルカスという料理人に巡りあうことができた。
そうしてヴァルカスやその弟子たちの作りあげる料理の出来栄えに感服しているうちに、だんだん複雑な味わいというものにも免疫がついてきて、城下町の他なる料理人たち――ヤンやティマロといった人々にも、ごく自然な心の流れで敬意を抱くようになっていったのだった。
俺たちが初めて城下町で厨を預かったのは一昨年の白の月の最終日であったはずだから、それからおよそ1年と7ヶ月。
それだけの歳月を経て、俺たちはついに城下町の若き料理人たちとともに学び、切磋琢磨する場を迎えることがかなったのだ。
勉強会に参加するメンバーは、誰もが俺と同じぐらい弾んだ気持ちで、今日という日を待ち望んでいたはずであった。
◇
そうして待ちに待った、当日の朝――
その日も俺は、魂をとろかすような温もりと香りの中で目覚めることになった。
まぶたを開けると、視界が金褐色の輝きに覆われる。雨季の朝はこんなに薄暗いのに、どうしてアイ=ファの姿はこんなにも輝いて見えるのだろうと、俺は毎朝のように思い知らされるようになっていた。
なおかつ、俺の身はアイ=ファの両腕によってしっかりと抱きすくめられている。アイ=ファは胸あてひとつの姿であり、俺はTシャツ一枚の姿であったから、その温もりはきわめてダイレクトに届けられてくるのだ。毛布の外には雨季の冷気が待ちかまえているはずであったが、そんな事実が信じられないぐらい、俺は陶然とした心地を味わわされてしまうのだった。
ダリ=サウティらがファの家を辞してから、すでに10日以上の日が過ぎている。
しかし俺たちは、それから今日までずっとこのスタイルで就寝の時間を過ごしていたわけである。
もちろん何も後ろめたい行為には及んでいないのであるが、未婚の男女がこのようにぴったり寄り添って眠るというのは、森辺の習わしにそぐわない行いとなる。だからアイ=ファも最初の日には、ひどくしかつめらしい様子でこの行いについて語らっていたわけであるが――その期間が10日以上にも及ぼうとは、俺もさすがに予測することはできなかった。
(もちろんこんなのは、俺だって幸せで幸せでたまらないんだけど……普通だったら、とっくに理性が崩壊してたところだよなあ)
俺とて、木石でできているわけではない。なおかつ、間もなく19歳になろうかという、健康な若い男子である。そんな俺が、心からお慕い申しあげているアイ=ファに一晩中抱きつかれているのだから、ある意味でこれはとんでもない生殺しの状況であるはずだ。
しかし俺は不思議なことに、この身の幸福感を上回るようなやりきれなさは感じずに済んでいた。
もちろん俺の中にだって、とてつもない衝動というものはしっかりと潜んでいる。アイ=ファのように魅力的な女の子と寝床をともにして、何も感じないはずがないのだ。
だが俺は、それを理性で抑え込んでいるという自覚がなかった。
アイ=ファの香りと温もりを感じながら、こうして固く身を寄せ合っていると、理性も衝動も入り混じって、血の中に溶けていってしまうような感覚なのである。
それは決して、恋愛感情が家族愛に変質したという感じではない。もとより俺の中には、そのどちらもが自然な形で共存していたのだ。俺はひとりの女の子としてのアイ=ファに心をとらわれるのと同時に、血を分けた家族に等しい親愛を覚えていた。その感覚は、今でも変わらぬ形で俺の中にしっかりと根付いているのである。
ただ俺は、すべてをアイ=ファと分かち合いたいのだ。
俺の中には、恋愛感情に起因するとてつもない衝動が存在する。その衝動をも、俺はアイ=ファと共有したかった。俺の衝動を一方的にアイ=ファにぶつけることなど、俺にはまったく幸福に思えなかったのだった。
きっと俺は――辛抱強く、その瞬間を待っているのだ。
いつかアイ=ファが、狩人ではなく女衆として生きたいと思う、その日を。
その日が永遠に訪れないのだとしたら、俺もまた永遠にこの衝動を自分の中で溶かし続けるだろう。それが、俺の選択であった。というか、俺の心は丸ごとアイ=ファに魅了されきっていたために、選ぶもへったくれもなかったわけである。
そして俺は、その運命を苦にしていなかった。
それよりも、アイ=ファとともにあれる幸福が上回っているためである。
よって俺は、その朝もめくるめくような幸福感の中で起床することがかなったのだった。
「アイ=ファ、朝だぞ。……たぶんだけど」
帳の引かれた寝所は、ぞんぶんに薄暗い。しかしまた、夜が明けていなければもっと暗いことだろう。まだいくぶん茫洋としている頭でそんな風に考えながら、俺は肩のあたりに乗せられているアイ=ファの寝顔に囁きかけてみせた。
アイ=ファは「ううん」と身を揺すってから、そのまぶたをゆっくりと上げていく。赤ん坊のように無防備な眼差しで、アイ=ファは俺を見つめてきた。
「もう朝か……どうもお前と身を寄せ合っていると、目覚めが遅くなってしまうようだ」
「うん。確かに最近は、俺のほうが先に起きてるよな」
「……かつては雨季で目覚めの遅くなったお前を、私が叱りつけていたのにな」
甘えるような声で言って、アイ=ファが上のほうにのびあがってくる。そのなめらかな頬が、俺の頬にすりつけられた。
「……今日はついに、城下町の客人らを招く日であったな」
「うん。十何日かぶりに、寝床を別にする日だぞ」
からかいまじりに俺が言うと、アイ=ファは笑いを含んだ声で「大事ない」と答えた。
「私は十全の力をもって、客人らを迎えることがかなおう。そのために、森辺の習わしを横に置いて、お前にも不自由を強いていたのだからな」
「別に、不自由ではないさ。母なる森にさえ叱られなければ、なんてことないよ」
「自らの都合で森辺の習わしをないがしろにしたのは私なのだから、お前が案ずることはない。母なる森が怒るならば、私がその怒りを一身に引き受けよう」
「いや。俺はすべてを分かち合いたいって言っただろう? 甘えん坊の家長を甘やかした罪からは逃れられないさ」
アイ=ファは少し怒ったように、俺のこめかみに自分の額をぐりぐりと押しつけてくる。
それから、俺の胸もとに回されていたアイ=ファの手が、首の後ろに回されてきた。
そのゆるやかな力に従って、俺はアイ=ファのほうに向きなおる。
俺たちは枕代わりの敷物に頭を乗せて、真正面から見つめ合うことになった。
「……お前はずいぶん大人びた顔になったように思うぞ、アスタよ」
「そうなのかな。まあ、もうすぐ19歳だしな」
「うむ。出会った頃のやわらかさや優しげな感じはそのままに、精悍さを増している。きっと数々の試練が、お前を成長させたのであろう」
そのように語るアイ=ファのほうこそ、出会った頃の凛々しい感じはそのままに、輝くような優美さを増していた。
金褐色の髪をほどいて、しどけなく横たわったその姿などは、あどけない少女らしさと19歳という年齢に相応しい色香が織り交ぜられて、俺をいっそう魅了してやまなかった。
と――アイ=ファは俺の頬に手の平をそっと押し当てると、ふいに顔を近づけてきた。
もちろん接吻を交わすはずもなく、額に額が押し当てられる。
これは、ここ最近でもあまり見られなかった所作だ。
だけど俺は、べつだん不思議には思わなかった。俺はとても幸福な心地であったので、アイ=ファも同じ気持ちを噛みしめているのだろうと、そんな風に考えていた。
そして――
もしかしたら、アイ=ファも俺と同じように、その身の衝動を血の中に溶かしているのだろうかと――頭の片隅で、そんな想念にとらわれたのだった。
◇
それから俺たちは、何事もなかったかのように朝の仕事に取りかかった。
これは、雨季の寒さの恩恵であろうか。俺たちは身も心も溶けてしまいそうな幸福感にひたりつつ、毛布を剥いで長袖の装束を纏う頃には、しゃっきりと心を引き締めることがかなうのだった。
洗い物を片付けたならば、外套を纏って薪と香草の採取である。雨季の水浴びは身体に悪いので、それらの仕事を終えたのち、家の中で身を清めることになる。まずは水瓶の水でざぶざぶと頭を洗い、あとは湿らせた手拭いで首から下を清めるのが通例であった。
頭を洗うと水がはねるので、それは土間で行うことになる。それからそれぞれ寝所や物置部屋で身体をぬぐうわけであるが――間の悪いことに、その日はその作業のさなかにお客を迎えることになってしまった。
「し、し、失礼いたします! ほ、本日の勉強会に参加させていただく、トゥール=ディンとユン=スドラとマルフィラ=ナハムです!」
玄関の戸板の向こう側から、そんな声が聞こえてくる。
ちょうど素っ裸であった俺は、物置部屋の戸板から顔だけを出すことにした。
すると、それと同時にアイ=ファも隣の寝所から顔を出していた。
「その声は、マルフィラ=ナハムだな? 現在こちらは、身を清めているさなかとなる。家長の私が許しを与えるので、かまどの間で待っていてもらいたい」
アイ=ファがよく通る声でそのように言いたてると、「しょ、しょ、承知いたしました!」という声が戸板ごしに返ってきた。
アイ=ファは無言でひとつうなずき、こちらにくりんと向きなおってきた。その拍子に、艶やかな左の肩が覗く。
「かまど番が集まるのは、上りの三の刻という話であったはずだな。我々の身支度が遅れているのだろうか?」
「い、いや。そんなことはないと思うよ。雨季だと日時計が役に立たないから、みんな早めの行動を心がけているんじゃないのかな」
「なるほど。……それでお前は、どうしてそのように目を泳がせているのだ?」
「あ、うん。それはまあ、アイ=ファの姿に動揺してしまっているのかな」
朝方にはあれだけ仰々しい心持ちで幸福感を噛みしめていた俺であるが、こういった不意打ちにはめっぽう弱いのだ。
しかしアイ=ファはまったく理解が及んでいない様子で、眉をひそめていた。
「意味がわからんな。この位置では、私の顔と肩しか目に映らぬはずであろう」
「そりゃまあそうなんだけど、ほら、人には想像力ってもんが備わっているからさ」
「なるほど、そうか。……しつけをするので、頭を差し出すがいい」
「わーっ! だから、身を乗り出すなって!」
俺は速やかに室内へと退避して、手早く身支度を整えることにした。
部屋を出た後、アイ=ファにしつけられたことは言うまでもない。かくも複雑な生に身を置いているファの家人たちである。
しつけられた頭をさすりながらかまど小屋を目指すと、そこにはさきほど名乗りをあげていた3名がつつましく横並びになっていた。湿った外套は壁に掛けられて、みんなポンチョのような雨季の装束である。
「さきほどは失礼いたしました。いちおう砂時計で時間を計ってはいたのですが、どうしても多少のずれが出てしまうようで……」
「それはこっちも同じことさ。何ひとつとして問題はなかったから、謝罪には及ばないよ」
戸板の外までついてきていたアイ=ファは、3名から見えない角度で俺の背中を小突いていた。
「では、私は隣で薪割りをしているからな。私などに用事はなかろうが、何かあったら声をかけるがいい」
「承知いたしました。今日は1日、お世話をおかけいたします」
ユン=スドラを筆頭に、3名が深々と頭を下げる。勉強会の成果を味わうために、彼女たちも晩餐まではファの家に居残る予定であったのだ。
アイ=ファは解体部屋で薪割りを始め、俺たちは勉強会に向けて意見交換をしておく。それから5分と経つ前に、新たな荷車の近づいてくる気配がした。
「失礼いたします。本日は、よろしくお願いいたします」
やってきたのは、レイナ=ルウとリミ=ルウであった。本日の勉強会に参加する森辺のメンバーは、これで勢ぞろいである。レイ=マトゥアなどは最後の最後まで悩んでいたのだが、この段階で頭数はけっこうぎりぎいっぱいであったし、マトゥアは現在休息の期間にある。屋台の商売も勉強会もフルで参加している彼女は家族や血族と過ごす時間が不足気味であったため、本日は潔く不参加という英断を下していた。
「で、で、でも、わたしなどが参加させていただいたりして、本当によろしかったのでしょうか? も、もっとこの場に相応しい方々がたくさんいるはずですのに……」
マルフィラ=ナハムがそんな風に言い出したので、俺は「いやいや」と笑ってみせた。
「ロイやシリィ=ロウはマルフィラ=ナハムの料理が決め手となって、森辺を訪れたいと願ったんだからさ。そこでマルフィラ=ナハムを呼ばないわけにはいかないよ」
「で、で、ですが、ミケルやマイムがいらっしゃれば、ロイたちもお喜びになるでしょうし……」
それに「いえ」と応じたのは、闘志満々のレイナ=ルウであった。
「確かにミケルたちはまぎれもなくルウの血族となりますが、もともとは城下町の作法で料理を手掛けてきた立場です。今日のロイたちは森辺の作法を学びたいと願っているのですから、ミケルたちを優先する理由はないように思います」
「そ、そ、そうなのでしょうか……?」
「はい。それは先日の茶会において、リミからロイたちに伝えてもらっています。また、ミケルと勉強会をともにしたいという話であれば、日をあらためてルウ家を訪れてほしいとお伝えしていますので、何もご心配はいりません」
「しょ、しょ、承知いたしました……」と頭を下げてから、マルフィラ=ナハムはふいにふにゃんと微笑んだ。
「しょ、しょ、正直に言わせていただくと、わたしもこの日を心待ちにしていたのです。こ、このような日に参加させていただくことができて、心底からありがたく思っています」
「そうでしょう。わたしも、同じ心地です」
自然体のマルフィラ=ナハムに対して、レイナ=ルウは存分に意気込んでしまっている。その青い目は炯々と輝いて、形のよい眉などもきゅっと吊り上げられてしまっているのだ。もともと小柄で年齢よりも幼げな面立ちをしたレイナ=ルウでなければ、そういった迫力も倍増していたところであろう。
それからまた5分ほどの時間が過ぎて、そろそろ約束の刻限かなというタイミングで、戸板が叩かれた。
が、荷車の気配はしていない。俺が首をひねりつつ戸板を開くと、そこに立ちはだかっていたのは族長ダリ=サウティであった。
「すまんな。なるべく邪魔にならないように小さくなっているので、数刻だけでも見物させてもらえないだろうか?」
ダリ=サウティの率いるサウティの血族は、3日ほど前からフォウの血族と家人を貸し合う交流の儀を開始していたのである。
もちろん族長たる身を追い返すことはできないし、もとよりダリ=サウティであればこちらも大歓迎だ。アイ=ファにも許しをいただいて入室してもらうと、ダリ=サウティは「すまんな」と繰り返しながら魅力的な笑みを浮かべた。
「フォウの集落はいかがですか、族長ダリ=サウティ? 大過なくお過ごしできていれば幸いなのですが」
普段通りの朗らかさにほどよい敬服の念をにじませつつ、ユン=スドラがそのように問いかけた。
「大過など、あろうはずもない。バードゥ=フォウがどれだけ立派な人間であるかは、俺も存分にわきまえているからな。……ただ、例のふたりは、ちとあれだが」
「例のふたりとは、懸想し合ってしまったヴェラとフォウの者たちですね。何か問題でも起きてしまったのでしょうか?」
「いや。あやつらをいざ対面させてみると、おたがい羞恥に身をよじるばかりで、ろくに言葉も交わそうとしないのだ。これまでは、早く会いたいとそれぞれの家で騒いでいたはずであるのだがな」
あの清楚な中にやんちゃな本性を隠したヴェラの次姉も、そのように恥ずかしがってしまっているのだろうか。
俺と同じ感想を抱いたらしいユン=スドラは、「まあ」と口をほころばせる。
「それはそれで微笑ましいようにも思いますが……でも、ヴェラやフォウとしては笑ってばかりもいられないのでしょうね」
「うむ。しかしまあ、俺たちのやるべきことに変わりはない。ヴェラとフォウで婚儀をあげることがかなうかどうか、すべてを見届けるだけのことだ」
「はい。わたしもフォウの眷族として、見守らせていただきたく思います。……あと、このたびの行いに加われなかったことを、スドラの家長ライエルファムがとても残念がっていました」
「スドラは家人が少ないし、このたびはフォウとランだけで十分であったからな。……とはいえ、俺もスドラの家には興味を抱いている。いずれ短い期間でも、スドラの世話になりたいと願っているぞ」
ダリ=サウティがそのように答えたとき、ついに荷車の近づいてくる気配がした。
「来たか」と、ダリ=サウティは窓の格子から外を覗く。換気のため、雨が吹き込む恐れがない限りは、窓の帳も開かれていた。
俺は客人を出迎えるために、戸板を開いて待ち受ける。
すると、解体部屋からもアイ=ファが現れた。そちらは雨よけの外套を纏い、小雨のぱらつく中に立ちはだかる。
やがて、客人らがやってきた。
出迎えに行ってくれたプラティカと、城下町から参じたロイとシリィ=ロウ、そしてニコラの4名である。
「お待たせしました。城下町、客人です」
「うむ。ご苦労であったな、プラティカよ」
厳粛な面持ちで応じるアイ=ファの前に、シリィ=ロウが進み出た。
「先日もご挨拶をさせていただきました、《銀星堂》のシリィ=ロウとロイです。本日は、森辺の方々と調理の勉強をさせていただけるばかりでなく、一夜を明かすお許しまでいただけたこと、心より感謝しています」
「うむ。お前たちが森辺の掟に背かぬ限り、我々は客人としてもてなそう。城下町の民たるお前たちと絆を深められること、こちらも得難く思っている」
こういう際には、格式ばった礼儀を重んじる両名であった。
ロイやニコラもその空気に当てられたのか、普段よりもかしこまった様子で一礼する。
「それでは、こちらにお入りください。まずは、外套をお預かりします」
「はい。失礼いたします」
客人たちは外套の水気を払ってから、順番に入室する。その姿を見届けて、アイ=ファは解体部屋に戻っていった。
ダリ=サウティを入れれば11名という人数であるので、壁の一面は外套でいっぱいになってしまう。その場に控えた人々を見回してから、シリィ=ロウはまた深く頭を下げた。
「本日は、森辺の方々の手際や姿勢を学ぶために参上いたしました。色々と至らぬ点もあろうかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
シリィ=ロウは、徹底して礼儀正しかった。
きっとそれは、彼女の意気込みの表れであるのだろう。このシチュエーションに緊張や委縮をしている様子はまったくなく、その目はレイナ=ルウに負けないぐらいの眼光をたたえている。むしろ、自らの昂りを抑えるために、彼女はことさら礼儀正しく振る舞っているのかもしれなかった。
「えーと、初対面の相手はいないはずですよね。それぞれどこかで挨拶をしていると思うのですけれど……ユン=スドラはどうだろう?」
「はい。ご挨拶でしたら、何回かは。でもきっと、この中ではもっとも縁の薄い間柄であるのでしょう。これを機会に絆を深めていただけたら、嬉しく思います」
ユン=スドラが明るい笑顔でそのように挨拶をすると、シリィ=ロウが厳しい面持ちでそちらを振り返った。
「……確かにこちらにお集まりいただいた方々の中では、あなたの手掛けた料理だけ口にしたことがないように思います。もちろん他の方々と共同で仕上げられた宴料理などに関しては、その限りではないはずですが……」
「はい。わたしは祝宴の場を取り仕切ったこともありませんし、ひとりで手掛けた料理をどなたかにお出ししたこともありません。この中では、もっとも未熟なかまど番であることでしょう」
「そのようなこと、ありません。ユン=スドラ、素晴らしい料理人です。私、多くのこと、学んでいます」
と、プラティカがどこかムキになった様子で、そのように言いたてた。
ユン=スドラは、ちょっと恥ずかしそうな顔をしている。
「ありがとうございます。でもきっと、それはプラティカが家のかまどを預かる仕事を生業にしたいと考えているゆえなのでしょう。料理店という場所で働くシリィ=ロウたちとは、望むものが異なっているのだろうと思います」
「いえ。そういった事情を差し置いても、ユン=スドラ様の手際は森辺においても高い水準に達せられています。今日という日をともにするだけで、シリィ=ロウ様にもご理解いただけることでしょう」
ニコラまでもがそのように言いだしたので、ユン=スドラはますます恐縮してしまった。
いっぽうシリィ=ロウは、得心した様子で「なるほど」と一礼する。
「それでは心して、学ばせていただきたく思います。……アスタ、本日はどのような段取りで作業を進められるご予定なのでしょうか?」
「そうですね。今回の主題は、森辺のかまど番と城下町の料理人がおたがいの手際や作法を学ぶということになります。時間を区切って、おたがいの調理をお披露目するという形式はいかがでしょう?」
「なるほど……ですが、わたしたちが師ヴァルカスから学んだ料理は、作りあげるのに長きの時間がかかりますし、また、うかうかと余人の目にさらすことのできない部分もあります。そこのところは、どうぞお含みおきください」
「承知しました。でも、そちらも料理を作っていただけるのですよね?」
「もちろんです。こちらは手札を隠しながら、一方的に学ばせろなどと、身勝手な申し出をするわけにはいきません。わたしたちは、自らが考案した料理を披露したく思います」
挑むような声で、シリィ=ロウはそんな風に言っていた。
「了解です」と、俺は笑ってみせる。
「ではまず、中天まで二刻ずつの時間を使うことにしましょう。こちらがどういった料理をお披露目するべきか、何かご要望はありますか?」
シリィ=ロウとロイが、同時に何かを口走った。
両名は、おたがいに仏頂面で目を見交わす。
「……この場では、わたしに取り仕切りを任せていただけませんか?」
「いやいや。この場では兄弟子もへったくれもないだろう。意見を言う権利は同じだけあるはずだ」
「あなたがわたしよりも的確な要望を出せるとお考えなのでしょうか?」
「そうじゃなくって、順番に要望を出せばいいって話だろ。まさか、自分の要望だけ押し通すつもりだったのかよ?」
ずっと静かにしていたロイも、やはり胸の内には熱い闘志を秘めていたようである。
そんな風に考えながら、俺は「まあまあ」と仲裁してみせた。
「ここはおふたりにそれぞれ提案していただいて、俺たちに選ばせていただきましょう。さっきおふたりは、なんと言っていたのですか?」
すると両名は、再び同時に言葉を発していた。
その姿に、リミ=ルウが「あはは」と笑い声をこぼす。
「息がぴったりで面白いけど、順番に話してくれないと聞き取れないよー。シリィ=ロウは、なんて言ったの?」
「わたしは、アスタのぎばかれー、マルフィラ=ナハムの煮込み料理、トゥール=ディンのくりーむぱふぇと言いました」
「ふむふむ。それじゃあ、ロイは?」
「俺は、誰の取り仕切りでもいいから、俺が口にしたことのない料理をお願いしたいって言ったんだよ」
ロイはますます顔をしかめながら、シリィ=ロウに向きなおった。
「ぎばかれーなんてのはこれまでの祝宴でもさんざん見物させてもらったし、トゥール=ディンのくりーむぱふぇは作り方どうこうじゃねえだろう。あれは、具材の組み合わせ方が生命なんだからよ」
「何を言っているのですか。わたしたちが祝宴の準備で拝見したのは、すでに調合された香草で具材が煮込まれている姿だけです。また、くりーむぱふぇは具材の完成度が際立っていたのですから、その過程を拝見することこそが肝要であるのです。だいたい、食べたことのない料理などという曖昧な要望でどれほどの成果が見込めるというのですか?」
俺は再び、「まあまあ」という言葉を投げかけることになった。
「できるだけ、ご要望に応えたいと思います。えーと、それじゃあおふたりが口にしたことのない『ギバ・カレー』や『クリームパフェ』だったら、それぞれのご要望に添えるわけですね。それで……マルフィラ=ナハムの料理はいかがでしょう? ロイは、ご興味ありませんか?」
「ないわけないだろう。そいつは後で、じっくり拝見させてもらおうと思ってたよ」
「そうですね。中天の後にもたっぷり四刻は残されているのですから、焦る必要はありません。二刻でひと品ではあまりにゆとりがありすぎるので、同時にふた品ずつお披露目していきましょうか」
そうして合同勉強会は、熱い空気の中で開始されることになった。
ダリ=サウティも、満足そうな面持ちでそのさまを見届けてくれている。ほとんど毎日勉強会に取り組んでいる俺たちであるが、やはり今日という日は特別な日になりそうだった。
2021.1/29 更新分 1/1