雨のお茶会①~対面~
2021.1/26 更新分 1/1
サウティ家との交流を終えてから、6日後――朱の月の8日である。
俺たちは茶会の厨をお預かりするべく、雨の中を城下町に向かっていた。
思い起こせば、去年の雨季にもこうして城下町に向かった覚えがある。あれはたしか、アイ=ファの生誕の日を終えてからのことであったから、雨季も終盤に差し掛かってからのことであっただろうか。雨季の序盤には俺が《アムスホルンの息吹》に倒れてしまったため、そういったイベントに参加することもかなわなかったのだ。
場所も同じ、白鳥宮である。俺、アイ=ファ、トゥール=ディン、リミ=ルウという顔ぶれにも変わりはなく、唯一異なるのは、もう1名の護衛役がトゥール=ディンの父親たるゼイ=ディンであるということであった。
ガズやラッツやベイムの血族は休息の期間であるのだから、護衛役の仕事も頼み放題であろう。が、今回はそちらに仕事をお願いするまでもなく、ゼイ=ディンが同行することが決定されていた。最近のトゥール=ディンとオディフィアは家族ぐるみのおつきあいを進展させていたので、そういった事情が反映されているのだろう。白鳥宮を目指すトトス車の中で、トゥール=ディンは心から嬉しそうな表情を浮かべていた。
「えへへ。お茶会はひさしぶりだよねー! みんな、喜んでくれるかなー!」
と、リミ=ルウはリミ=ルウでアイ=ファにべったりとひっつきながら、とても楽しそうに笑っている。いまや茶会の厨を預かるというのは、誰にとっても楽しいイベントという位置づけになっていたのだ。ここに至るまでの経緯を思うと、俺はなんだか愉快な心地であった。
「この貴婦人の茶会ってさ、そもそもはトゥール=ディンの作る菓子を食べたがるオディフィアを納得させるために、森辺のかまど番が呼ばれるようになったもんなんだよね。あの頃のトゥール=ディンは、ありがた迷惑っていう気持ちのほうが強かったぐらいなんじゃないのかな?」
「え? そ、それはそうだったかもしれませんけど……でも今は、オディフィアとお会いできることを心から嬉しく思っています!」
「うん。トゥール=ディンたちの絆がそこまで深まったことを、俺も嬉しく思ってるんだよ。今日も喜んでもらえるといいね」
俺がそのように補足すると、トゥール=ディンはたちまち幸福そうな表情を取り戻して「はい」とうなずいてくれた。そんなトゥール=ディンのことを、ゼイ=ディンはとても優しげな眼差しで見守っている。
「白鳥宮に到着いたしました」
しばらくして、武官の手によってトトス車の扉が開かれる。ガーデルはまだ大事を取って休養中とのことで、顔馴染みの初老の武官が御者役を担ってくれていた。
小宮の入り口には大きなひさしが掛かっていたので、雨に濡れることなく扉をくぐることができる。その向こう側に待ちかまえていたのは、ダレイム伯爵家の侍女たるシェイラとニコラであった。
「お待ちしておりました、森辺の皆様方。……アイ=ファ様、おひさしぶりです」
相変わらず、アイ=ファに対してはひときわ好意的なシェイラである。
そしてそのかたわらからは、普段通りの不愛想な顔をしたニコラが頭を下げてきた。
「本日も厨の見学をお許しいただき、心より感謝しております。皆様のお邪魔にならないように心がけますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。……プラティカは、もう貴婦人方と合流しているのですか?」
「ええ。今頃は、お茶と歓談を楽しんでおられるさなかでしょう」
本日のプラティカは、エウリフィアによって客人として招かれていた。それで昨晩は森辺の集落ではなく、ダレイム伯爵家で一夜を明かすことになったのだ。もちろんそちらでも厨の見学を願って、ヤンやニコラの仕事っぷりを満喫していたのだろう。
「それでは、浴堂にご案内いたします。こちらにどうぞ」
シェイラとニコラの案内で、俺たちは白亜の回廊を突き進んでいった。
ゼイ=ディンも、以前にオディフィアのお見舞いをする際にジェノス城へと出向いていたので、落ち着いたものである。
白鳥宮には男女別に浴堂が準備されているので、いったん別行動となってそれぞれ身を清めることになる。
そうして衣服を脱ぎ捨てて、蒸気のあふれかえった浴堂でふたりきりになるなり、ゼイ=ディンがひさびさに口を開いた。
「アスタよ。トゥールがオディフィアと巡りあえたのも、もとを質せばアスタのもとで働くことを許してもらえたゆえであろう。アスタには、あらためて礼の言葉を伝えたいと思っていた」
「え? いえいえ、お礼には及びませんよ。べつに俺がトゥール=ディンたちを引き合わせたわけでもありませんしね」
「しかし、トゥールがアスタから菓子作りの手ほどきを受けていなければ、このような縁も生まれていなかったはずだ。トゥールにかけがえのない相手との縁をもたらしてくれたこと、俺は心から感謝している」
ゼイ=ディンは、実直を絵に描いたような人柄である。その真剣な顔を白い蒸気ごしに見返しながら、俺は笑顔を届けてみせた。
「ゼイ=ディンにそのように言っていただけるのでしたら、俺もありがたく感謝の言葉を頂戴いたしますけれど……トゥール=ディンは誰よりも熱心にかまど仕事に励んでいたからこそ、あれほどの腕を身につけることになったのです。トゥール=ディンが森辺の民として正しく生きたいと願った心の在り様こそが、オディフィアとのご縁を紡いだのだと思いますよ」
「……うむ。トゥールはトゥールで、俺には出来過ぎた子だからな」
と、ゼイ=ディンははにかむように微笑んだ。顔立ちはあまり似ていないものの、そういった笑い方はそっくりな父娘なのである。
そうして俺は、身体ばかりでなく心まで温められつつ、控えの間に戻ることになった。
そちらで準備されていたのは、毎度お馴染みの調理着だ。それに腕を通しながら、俺は「あ」とゼイ=ディンを振り返った。
「そうか。お茶会では、護衛役の方々も着替えさせられるのでしたね」
「うむ。トゥールからもそのように聞かされていたが……これは、どのように纏えばいいのだろうか?」
下帯ひとつのゼイ=ディンが頼りなげに眉を下げていると、影のように控えていた小姓が音もなく近づいてきた。
「わたくしがお手伝いいたします。まずはこちらの肌着を身におつけください」
しばらくして、ゼイ=ディンのフォームチェンジが完了する。美しい純白を基調にした、城下町の武官のお仕着せである。貴婦人の目を楽しませるためか、それはそのまま城下町の祝宴に参席できそうなぐらい美々しい装束であったため、俺ばかりでなく小姓も目を見張ることになった。
「とても……よくお似合いです。よろしければ、油で髪をお整えいたしましょうか?」
「油で、髪を?」
「はい。城下町においては、こういった油で髪の形をお整えする殿方も多くおられます」
小姓が硝子の瓶の蓋を開けると、ゼイ=ディンは沈着な面持ちで「いや」と固辞した。
「そのように香りのあるものを身体に塗ることは遠慮したく思う。せっかくの親切を無駄にしてしまい、申し訳ない」
「いえ、とんでもございません。髪をお整えせずとも、素晴らしいお姿でありますので……」
小姓の少年はうっとりとした眼差しになっているので、きっと社交辞令ではないのだろう。貴族の相手をすることも多いのであろう小姓の少年をそうまで感服させるとは、なかなか大した話であるはずだった。
しかしまあ、彼の気持ちもわからなくはない。ゼイ=ディンというのは中肉中背で、容姿にもそれほど目立ったところのない人物であるのだが――この武官のお仕着せというやつは、森辺の狩人にやたらと似合ってしまうのである。
それはきっと、森辺の狩人というのが厳しく肉体を鍛え抜いているゆえであるのだろう。また、森辺の民というのは一般的に、手足が長くて腰の引き締まった、力強くもしなやかなプロポーションを有しているのである。この武官のお仕着せというのはわりあい身体にフィットしたデザインであるので、そういう美点がいっそうあらわにされるのだと思われた。
(それにゼイ=ディンは、顔立ちだって悪くないからな)
あまり目立ったところのないというのは、あくまで森辺においてのことだ。そもそも森辺の民というのは、シャープながらも彫りの深いくっきりとした面立ちの人間が多く、ゼイ=ディンもその例からもれてはいない。口髭だけをたくわえたその顔は、よくよく見れば十分に男前であり、渋みもきいており、大人の魅力というやつをぞんぶんに備えもっているはずであった。
「それでは、こちらにどうぞ」
小姓の案内で、再び回廊に連れ戻される。
ほどなくして、女衆らが隣の扉から姿を現した。アイ=ファはゼイ=ディンと同じく武官の白装束で、トゥール=ディンとリミ=ルウはメイドさんのごときエプロンドレスだ。
「ほう。女衆のかまど番は、そのような装束であるのだな」
ゼイ=ディンの言葉に、トゥール=ディンは可愛らしく頬を赤らめた。
「うん。本当は女衆でもアスタみたいな装束なんだけど、わたしたちはまだ身体が小さいからって……なんだか父さんに見られるのは、ちょっと恥ずかしいな」
「それを言ったら、俺のほうがよほど珍妙であろう。お前はよく似合っているように思うぞ」
ゼイ=ディンが薄く微笑むと、トゥール=ディンも恥ずかしそうに口もとをほころばせる。
いっぽう俺は、ちっちゃなメイドさんを左腕にぶらさげた姫騎士のごとき存在と相対することになった。
「アイ=ファのその格好も、ちょっとひさびさだな。相変わらず、似合ってるよ」
「……いちおう、賞賛の言葉として受け取っておこう」
そもそも着飾ることに頓着しないアイ=ファは、平常通りの面持ちである。その着付けを手伝ったシェイラなどは、アイ=ファのかたわらで陶然と目を細めていた。このように凛々しいアイ=ファが寝所ではどれだけ可憐で愛くるしい顔を見せるものか、誰にも想像はできないに違いない。
「それでは、貴き方々のもとにご案内いたします。こちらにどうぞ」
シェイラの案内で、あらためて回廊を闊歩する。その途中で、ニコラが「失礼します」と離脱した。別室に控えている城下町の料理人たちを案内するとのことである。
本日は、俺たちの他に2名の料理人が招かれているのだ。
やがて目的の場所に到着すると、そこには2名の女性たち――ジェノス城の料理長ダイアと、ヴァルカスの弟子たるシリィ=ロウが控えていた。
「おひさしぶりでございますねぇ、森辺の皆様方。お変わりないようで何よりでございます」
まずはダイアが柔和な微笑みをたたえつつ、一礼してくる。とても穏やかそうな面立ちをした、年配の女性だ。
いっぽうシリィ=ロウは、相変わらずの厳しい面持ちでわずかばかりに頭を下げてくる。
「本日はひさびさに同じ厨をお預かりすることができて、嬉しく思っています。……ファの家の方々には、のちほどあらためて御礼の言葉を届けさせていただきたく思います」
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、「うむ」とうなずき返していた。シリィ=ロウとロイをファの家に招く日取りもようやく決定されたのだが、それらのやりとりはニコラをはさんで交わされていたので、当人と顔をあわせるのはゲルドの貴人の送別会以来のはずであった。
「失礼いたします。本日、厨をお預けする料理人の方々をご案内いたしました」
シェイラの呼びかけに従って、扉が開かれた。
ダイア、シリィ=ロウ、森辺の一行の順番で、茶会の会場へと足を踏み入れる。部屋の内部は回廊よりも遥かに温かく、そして晴天の日のように明るかった。
「お待ちしていたわ。みんな、変わりはないようね」
まずは主催者のエウリフィアが、優雅な微笑みを届けてきた。
部屋のサイズはつつましいものであるが、宮殿らしく瀟洒に飾りたてられた一室だ。部屋の奥に設えられた暖炉には赤く火が灯されて、貴婦人方は肩掛けや膝掛けなどで雨季の冷気をしのいでいる。
部屋には3つの円卓が準備されており、その内の2つが8名の貴婦人によって埋められていた。それは、事前に聞いていた通りの人数であったのだが――俺は、かすかに違和感を覚えた。そして、俺がその違和感の正体を察する前に、アイ=ファが鋭く声をあげたのだった。
「エウリフィアよ。こちらが事前に聞いていた顔ぶれと、いささか異なっているように思うのだが」
「ああ、そうなのよ。まずはそれを説明しないとね。実は、占星師のアリシュナがまた熱を出してしまったから、別の御方を招待させていただいたのよ」
そうか、その場にはアリシュナの姿がなかったのだ。彼女は雨季に入ってすぐに体調を崩してしまったという話であったから、邪神教団にまつわる騒乱によって、それがぶり返してしまったのだろうか。
では、いったい誰がその代わりにやってきたのかと、俺は慌ただしく視線を巡らせることになった。
エウリフィアの隣にはその息女たるオディフィアがちょこんと座っており、灰色の瞳をきらきらと輝かせながらトゥール=ディンのことを見つめている。
それと同じ卓を囲んでいるのは、ポルアースの母君たるリッティアと、伴侶のメリムだ。彼女たちが招待されているからこそ、シェイラとニコラも侍女としての仕事を果たしているのだった。
では、もう片方の円卓はというと――俺たちと正面に向きあっているのがリフレイア、右手の側がディアル、左手の側がプラティカで、それらの人々も事前に通達されていた通りの顔ぶれだ。
となると、そちらの円卓でリフレイアと向かい合っている人物こそが、急遽の参席となった8人目の人物ということになる。その人物は椅子の上で身体を傾けて、俺たちに横顔を見せていた。
亜麻色の前髪で目もとが隠されてしまっているが、微笑みをたたえた口もとが驚くほどに可憐である。長い髪をポニーテールのように結いあげており、白いうなじがとても艶めかしい。華奢な肩に瀟洒な織物の肩掛けを羽織っており、それがその人物をいっそう優美に見せていた。
(はて。初の参席になるどこかの貴婦人なのかな)
俺がそのように考えていると、その人物はさらに身体をずらして俺たちのほうに向きなおってきた。
それと同時に、俺は唖然としてしまう。
「申し訳ありません。たおやかなる貴婦人の集いに割り込む無粋は、重々承知しているのですが……どうしても、思い留まることができませんでした」
誰よりもたおやかな姿をしたその人物が、申し訳なさそうににこりと微笑む。
それは、王都の外交官フェルメスに他ならなかった。
「フェ、フェルメス? そのお姿はいったい……?」
「はい。せめて見てくれだけでも和を保てないかと考えた結果です」
そのように語るフェルメスは、なよやかな貴婦人そのものであった。
いや、べつだん女装をしているわけではないのだ。ただ、普段よりも刺繍の多い長衣を纏って、首飾りや腕飾りをつけているだけのことである。あとはせいぜい、亜麻色の長い髪を結いあげているぐらいであるのだが――それだけで、彼は誰よりもたおやかな姿に見えてしまうのだった。
「……それもまた、補佐官のオーグが王都へと旅立った気安さゆえなのであろうか?」
アイ=ファがぶっきらぼうな声で問い質すと、フェルメスは「いえ」と可憐に微笑んだ。
「もちろんこの行状も、僕自身の手で調書に記さなければならないでしょう。ただし、アスタたちの作りあげる美味なる菓子に目が眩んだという一面は否めません」
「……今日のアスタは、トゥール=ディンとリミ=ルウの手伝いに過ぎぬはずだが」
「はい。どれほど美味なる菓子が出されるのか、心待ちにしていました」
すると、可笑しそうに微笑んでいたエウリフィアが、隣の卓から言葉を届けてきた。
「外交官のフェルメス殿は、ファの家のおふたりと絆を深めたく思っているのでしょう? そして、アイ=ファたちもそのお心を受け入れて、同じ思いに至ったのだと聞いていたのだけれど……それで間違いはなかったかしら?」
「うむ。べつだん間違いはないのであろうが……」
「もしもアイ=ファたちが快く思わないようであれば、フェルメス殿はすぐにでもお帰りになられると仰っているわ。それで森辺の民の立場が悪くなるようなことは決してありえないから、正直な気持ちをお聞かせ願えるかしら?」
アイ=ファは深々と溜息をついてから、半分だけ閉ざした目でエウリフィアとフェルメスの姿を見比べた。
「べつだん、文句があるわけではない。ただ、何か騙し討ちにされたような心地であるのだが……それは私が狭量なためであるのであろうか?」
「それはきっと、僕のことを疎ましく思う気持ちが残されているゆえなのでしょう。そういった気持ちを解消できるように、僕はアイ=ファたちと絆を深めたく願っています」
フェルメスが、ちょっと甘えるような眼差しをアイ=ファへと送りつける。もちろん我が愛しき家長殿は、トウガラシの香りでも嗅がされた山猫のように顔をしかめることになった。
「あなたには大きな恩義を感じているし、また、正しく絆を深めたいとも願っている。……しかし、そのような目で見つめられることを好ましく思うことはない」
「それは失礼いたしました」と、フェルメスは悪戯な妖精のように微笑んだ。
フェルメスは貴婦人さながらの美麗さであり、いっぽうアイ=ファは男性用の武官のお仕着せである。そこだけを切り取って眺めていると、何か錯綜したテーマを持つ演劇でも見せつけられているような心地であった。
「本当にごめんなさいね。今日の朝までアリシュナがどうなるかはわからなかったから、使者を出すいとまもなかったのよ。もしもこれでジェノス侯爵家に対する信頼まで揺らいでしまうようだったら、わたくしも考えを改めなければならないけれど……」
「そうまで話を大きくするつもりはない。私は護衛役としての仕事を全うするだけだ」
そうしてアイ=ファが矛先を収めると、エウリフィアは安心したように微笑んだ。
「ありがとう。他の皆も、異存はないかしら? それじゃあ今日はこの顔ぶれで、あなたがたの菓子を楽しませていただきたく思うわ」
ダイアとシリィ=ロウが恭しく一礼したので、俺とリミ=ルウとトゥール=ディンも慌ててそれにならうことになった。
エウリフィアは目を細めつつ、俺たちの斜め後方でひっそりと立ち尽くすゼイ=ディンのほうに視線を移動させる。
「それに、ゼイ=ディンも……ひさびさにお会いできて、嬉しく思っているわ。武官の装束が、とてもお似合いね」
「ええ、本当に。ほれぼれとするような凛々しさですねぇ」
と、ポルアースの母君であるダレイム伯爵夫人リッティアが、しみじみとした様子で相槌を打つ。ゼイ=ディンは泰然とした態度で目礼を返していたが、エウリフィアを見返す眼差しはやわらかかった。
「それじゃあ、あなたたちと語らうのは後の楽しみとして、まずは菓子の準備をしていただこうかしら。オディフィアとメリムとプラティカが厨の見学を願っているのだけれど、それにも了承をいただける?」
もちろん、その申し出に異を唱えるような人間はいなかった。
指名された3名が席を立ち、こちらにしずしずと近づいてくる。全員に向けて貴婦人の礼をしたオディフィアは、もちろんすぐさまトゥール=ディンの正面に移動した。
「トゥール=ディン、きょうもきてくれてありがとう。……あ、ゼイ=ディンも……」
と、オディフィアはもじもじとしながらゼイ=ディンの姿を見上げた。
ゼイ=ディンは、娘に向けるのと同じぐらい優しそうな眼差しでそれを見つめ返す。
「オディフィアがすっかり元気になったようで、嬉しく思っている。それに、このわずかな間で少し大きくなったのではないだろうか?」
「オディフィア、ふとった?」
「いや。背がのびて、それにともない相応の肉がついたのだろう。とても健やかそうで安心した」
「ありがとう」と、オディフィアは灰色の瞳を明るくきらめかせた。
やはりこのような折にもフランス人形のように無表情なままだが、その瞳の輝きばかりでなく小さな身体から幸せそうなオーラがあふれかえっているかのようだった。
そして、そんなオディフィアの姿をトゥール=ディンが愛おしそうに見つめている。それもまた、大切な家族を見つめるような眼差しであった。
「では、厨にご案内いたします」
再びシェイラが案内役となって、俺たちを厨に導いてくれた。
森辺の5名に、ダイアとシリィ=ロウ、オディフィアとメリムとプラティカに、それに貴婦人を護衛する武官が2名という大所帯だ。しかし、厨の前に到着すると、ダイアはやわらかい微笑を残して離脱した。
「わたくしは、別室に準備がありますため……皆様の菓子を心より楽しみにしております」
そういえば、以前に茶会でご一緒したときも、ダイアは別室で作業を進めていたのだった。
まあ、同じ場所で作業をしたところで、なかなかその手際を拝見するゆとりはない。俺たちも、ダイアの菓子の完成品を楽しみにするしかなかった。
そうして気を取り直して厨に踏み入ると、そこには先回りしていたニコラと、もともと居座っていたのであろうロイが待ち受けていた。
「お邪魔いたします。わたくしたちのことは気にせずに、どうぞ仕事をお進めください」
あどけない微笑みをたたえるメリムに一礼してから、ロイは俺のほうに近づいてきた。
「よう、ちょいとひさしぶりだな。そっちの家に押しかけたいって話を聞き入れてくれて、感謝してるよ」
「はい、俺も楽しみにしています。お茶会が終わったら、集合時間なんかも決めちゃいましょうか」
「ああ。それじゃあ、また後でな」
とにかく今は、茶会の仕事を果たさなければならない。貴婦人方と武官たちに見守られながら、俺たちは作業を開始することにした。
壁際に並んだオディフィアとメリムは、ゼイ=ディンと語らいながら調理の現場を見物している。メリムはきわめて社交的な人柄であるため、すぐさまゼイ=ディンと打ち解けたようだった。
「ああ、あなたはトゥール=ディンの父君であられたのですね。ポルアースから、お話はうかがっています。たしか、6つの氏族で勇者と称されるほどの御方ですとか……」
「いや。俺が勇者の座を得られたのは、その前の収穫祭となる。ひとたびでその座を失う人間は、真の勇者と呼ぶに値しない」
「そうなのですか? あなたを含めた7名の狩人こそが6氏族の誇る勇者と称されていたと、わたくしはそのようにうかがっていたのですが……それはわたくしの聞き違いであったでしょうか」
いや、聞き違いではない。ポルアースを客人として招いた収穫祭において、ランの家長あたりがそのように評していたことを、俺もはっきりと記憶していた。
俺がそのように考えていると、オディフィアが「そう」と声をあげるのが聞こえてきた。
「ゼイ=ディンは、ちからくらべですごかったの。ゆうしゃになれなくてざんねんだったけど……ゆうしゃにまけないぐらい、すごかったの」
「やはり、そうだったのですね。息女のトゥール=ディンは名うての料理人で、父君のゼイ=ディンは有数の狩人だなんて、素敵です」
貴婦人としては屈指のあどけなさを有する姫君たちに挟撃されて、ゼイ=ディンはどのような顔をしているのか。俺はたいそう好奇心を刺激されてしまったが、いまは作業の手をゆるめることも難しかった。
(そういえば、あの収穫祭にはロイやシリィ=ロウやリフレイアも招かれてたもんな。これを機会に、ゼイ=ディンとも絆を深めていただきたいもんだ)
トゥール=ディンとリミ=ルウも、てきぱきと作業を進めている。俺はその両方の助手であるため、作業台を行ったり来たりだ。
しばらくして、ようやく俺の手が空くと、それを待ちかまえていたようにアイ=ファが身を寄せてきた。
「アスタよ。フェルメスというのは、どうしてああなのだろうな」
ひそめた声で、そんな言葉が囁きかけられてくる。
アイ=ファが何を不満に思っているのかはわからなくもなかったが、俺はいちおう確認しておくことにした。
「それは、どうしていちいちアイ=ファの神経を逆なでするような行動を取るのか、という意味かな?」
「……アリシュナの代わりにフェルメスが参席するというだけの話であれば、私とてこのような心情にはならないように思う。しかしあやつは、私たちの驚くさまを楽しんでいるように思えてならん。それが、腹立たしいのだ」
「それはもう、持って生まれた性格なのかなあ。ほら、カミュアだってそういう一面があるだろう? 最近は、べつだん腹立たしくもならないけどさ」
「……カミュア=ヨシュは、お前だけに固執したりもしておらぬからな」
アイ=ファは口をへの字にして、壁際のほうに舞い戻っていった。
けっきょくは、やはりその一点に尽きるのだろう。アイ=ファはティアの一件でフェルメスに大きな恩義を感じ、正しく絆を深めたいと願いつつ――俺に対する執着心だけは、やはり虫が好かないようなのだ。
(俺だって、フェルメスが執着しているのがアイ=ファだったら、虫が好かないだろうしな)
そんな思いをひそかに抱え込みながら、俺はリミ=ルウに呼ばれて次なる仕事に取りかかることになった。