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Flagment 1-A 因果応報の話

長すぎました。

読まれる方は長丁場を覚悟するか、しおり機能で複数回に分けて読むのが適切かと思います。

それから、連載と銘打ってはいますが、これを書き終えてからかなり時間が経った上に忙しいので、恐らく滅多に更新出来ないです。

後の話については、さすがにここまで長くはならないハズですので、どうか見捨てないでください。

それでは、初っぱなからアホのように長い第一話ですが、よろしくお願いします。

 





 まず初めに、言っておくべきことがある。

 この物語は、粛清の物語だ。

 この物語に存在するのは犯人と、執行者と、差し障りにならない程度のエキストラ。

 彼らにとって肝要なのは経過でなく結果。

 彼らにとって重要なのは互いの居場所。

 執行者は犯人を追い求める。

 犯人も執行者を追い求める。

 片や粛清を下すために。

 片や禍根を絶つために。

 これはそういう物語。

 因果に下る応報を示す────それだけの物語だ。






◆◇◆◇◆






 放課時間を告げるメロディが校舎に響く。

 夕焼けに赤く染まる空を背景に、僕は一人のクラスメイトに近づいた。

由代(ゆしろ)さん。ハイこれ」

 俯く女生徒に向けて、僕は手にした教科書を差し出した。表紙や背表紙にはマジックペンで落書きが施され、ページが中途半端に破られたことで全体のシルエットがいびつになった数学の教科書。落書きの下には『由代 絹花(きぬか)』と辛うじて読める程度に持ち主の名前が残っていた。

「ひっ……あ、ありがとう……」

 ビクリ、と身体を震わせ、恐る恐る教科書を手に取る由代さん。目に見えて警戒されているのが分かる。

 由代さんは、一言で表せば『陰気な子』だ。化粧気がなく、前も後ろも長めに伸ばした髪と、私立填央学園の夏制服である黒地半袖セーラー服に黒スカートという色が合わさって、柳の下の幽霊少女の様相を呈している。

 おまけに引っ込み思案で自己主張が苦手、運動音痴でぼっち……まあ見事にいじめられっ子の要素を兼ね備えていた。

 ただ学業の成績はよく、全校でも上位グループに位置する成績保持者なのだが……それもまた、いじめっ子の関心を集める油にしかならない。

 僕が渡した教科書は彼女へのいじめの縮図のような有様だ。まだ暴力沙汰がないからいいものの、現状が続けばどうなるか分からない。

 クラス委員長として、どうにかしなければならないことは明白だ。

 よって僕は、今日も由代さんをいじめていた面々に頼み込んで彼女の教科書を返してもらい、放課後も一人教室でうなだれる由代さんに教科書の返却を行ったのだけど。

(うーん……清々しい程に警戒されてるなぁ)

 小柄な身体を尚のこと縮こまらせ、僕から身を守ろうとする仕草はまさしく小動物。優しく声を掛けても逃げていく野性の子猫を思わせる。

 同じクラスになってもう三ヶ月、ちっとも信用されないことに少しへこみつつ、教科書と同じく落書きだらけの彼女の机からやや離れた席に腰を下ろす。彼女より二つ前の位置だ。

 鞄から文庫本を取り出し、パラパラとページをめくる。栞を挟んでいないので、記憶を頼りにするしかない。うむ、ミスったな。

「…………」

 背後からの怯えを含んだ視線を感じながら、僕はそれを無視した。

 こういう場において、自分からペチャクチャ話し掛けるのは下策でしかない。彼女のような立場の人間にとって、他人から話し掛けられるのは恐ろしいことだ。普段から会話することに慣れていない相手に言葉を連射するというのは、苛立ちよりも先に恐怖が勝る。それでは距離を縮めるどころか、逆に距離を空けられる。こういう場合は、彼女にとっての無害な存在だとアピールする他ない。

 ……お、見つけた見つけた。読み掛けだったページを捜し当て、そこから文章を追い掛けていく。

 僕の読んでいる小説は、端的に言えば活劇──妻を殺された侍が、それに加担した者達に復讐していく話だ。

 ちなみにこの小説、帯には『清廉たる活劇』と銘打っている割に中身は復讐というドス黒い命題を掲げている。明らかに巻く本を間違えたような謳い文句なのだが、評判はそれなりによく、内容もまた面白い。話の構成がうまいのは勿論として、登場人物の口調や一人称が人物像とミスマッチしていて、笑いを誘う。

(侍が『あて』とか言ってる時点で吹くぞ、これ)

 そんなわけで。

「…………」

「……ププッ」

「……ッ!?」

 背後で息を呑むような声が聞こえたようなしたが、それを気にせずにページをめくる。

 次の場面では、侍が襲い来る刺客と戦っていた。なぜか鞘にしまい込んだまま、頑なに刺客の股間のみを狙って攻撃している。

「ククク……」

「ひぃ……!」

 まずい。笑える。何か怯えを助長させているだけな気がするが、込み上げる爆笑の波を抑えるのに手一杯だ。

 放課後の教室、後ろの女子に頓着せずに文庫本を読み、一人含み笑いを漏らす不審者が、ここにはいた。

 ……こういう行動が、彼女に距離を取られる原因だろうな、とは思う。完璧に自業自得だった。

 と、そのときだった。

 ガタガタと机を漁る音、鞄に何かを詰める音が耳を叩く。どうやら由代さんは帰るらしい。

 それじゃ、僕もそろそろ帰宅するとしますかね。

 文庫本を鞄にしまい、由代さんを刺激しないよう音を立てずに帰り支度を整える。

 その行動に、また彼女が震えたのを尻目にしつつ、ドアに向かう。その際壁に掛けてある教室の電子鍵コードを取るのをさり気なく見せて、教室を閉めることをアピールする。

 うん。作業スピードが上がったようだ。同時に要らない焦りを背負わせてしまった気もするが。

 彼女がドアをくぐるのを待ち、それからコードを打ち込み施錠する。後ろで申し訳なさそうに、あるいは僕の意識から外れたそうに俯く由代さんに振り返り、

「じゃ、また明日ね、由代さん」

「ひゃ、ひゃい!? ぁ、は、はい、すみませんでした……」

 また明日ねへの返答が謝罪ってどうなの実際。あれ、僕って想像以上に信用ない? 怯えを取り除こうとしている僕の行動、逆効果?

 と、僕が内心おろおろしていると、彼女は俯いていても分かる程顔を赤く染めて、消え入りそうな声で、

「…………ま、また、明日も……」

 ゴニョゴニョと呟いて、運動神経がきちんと働いているのか不安な足取りでよたよたと歩いていく。

「…………今の、少しでも距離を縮められたと思っていいのかな?」

 このパターンはなかった。取り組み始めて三ヶ月、徐々に実り始めたということだろうか。

 遠ざかる由代さんの後ろ姿を見つめながら、僕は小さく呟いた。

「何か危なっかしいんだよなあ……灯湊さんへの報告のために、見送りはした方がいいのかな」






◆◇◆◇◆






 瀞庭日本国首都、星央都(せいおうと)。人口四三八五万人超の極大都市。ここは日本のあらゆる技術の集まる技術開発拠点であり、あらゆる企業の本社が犇めく経済特区であり、あらゆる教育機関を擁する学園都市だ。

 瀞暦二○八六年現在、人類の生活水準は、一世紀前とは比べ物にならない飛躍的進化を遂げた。

 その最たるモノは、財布から身分証明書、通信機能までも兼ね備えた万能ツール、『P.O.R.T』──Portable an Observation Recording Tag |(携行式観測記録符帯)、通称『ポート』の普及率九五パーセントの達成だろう。これだけで身分証明や情報端末としての機能を振るう、まさしく万能ツールだ。

 無論、この進歩は星央都だけに留まらない。最北の醒殿道(せいてんどう)に始まり、正告領(せいこくりょう)誠博府(せいばくふ)猩徊府(せいかいふ)政局奉陣(せいきょくほうじん)凄仔天離島(せいしてんりとう)誓命地国(せいみょうちこく)清楠城(せいなんじょう)──瀞庭日本国全土で、あらゆる分野の水準点は一世紀前の三倍は上を行っている。

 特に『ポート』の開発において、瀞庭日本国は他国の追随をすら許さない程の貢献を為した。

 特に『ポート』の開発において、瀞庭日本国は他国の追随をすら許さない程の貢献を為した。瀞暦一八七四年の第三次世界大戦での失態を塗り替え、今や世界で一、二を争う経済大国となっていた。

 その恩恵は、瀞庭日本国であれば何処でもその片鱗を見られる。

 僕の住む浅羽滴(せんうてき)区は、とにかく交通網が優れている。街道を適当に歩いていても、目に付くのは電導三輪車から電気スポーツカーなどの廉価レンタル店の看板。駅前はおろか、マンションや企業ビルの前にもズラリと並ぶAI管制タクシーの群れ。空港には、『ポート』のお陰で学生でも気軽に搭乗可能な小型飛行機など。

 そのせいか、浅羽滴区では交通手段の私有を行う物好きはいない。少し『ポート』を通すだけで利用出来るのだ。わざわざ高値で車と駐車場を買って管理しようとする人など、万人に一人という希少価値だろう。

 ……まあ、大体の教育施設や企業では既に『ポート』を用いた教育や仕事、情報管理が主流になった世の中でも、僕の学校じゃ教科書類は未だに紙媒体にこだわっているし、僕自身も電子書籍なんて認めちゃいない。そう考えると、僕や在籍校はその希少価値(モノズキ)に入るのでは、と多少心配になる。

 ──閑話休題。それはそれとしてだ。

 足取りが不安だったので、僕はこっそり由代さんの乗ったタクシーの後を尾けた。無事に家にたどり着くのを見届けてから、今度こそ帰路につくべくタクシーの操縦AIに自宅のデータを送る作業をする。

 『ポート』の時刻表示を見る。『PM 07:12』の表示が点滅している。

 ふむ。由代さんを付け回していたらここまで遅くなってしまったか。学校を出たのが大体六時半だから……四○分近くタクシーで走行していたことになる。学校からずいぶん遠くに住んでいるらしい。

「さて……まずは帰ったら風呂に入るか」

 別に汗臭いとか思ったわけじゃない。単純に、風呂の方が考えがまとまりやすいって話。入浴時、トイレ、ベッド。この三つは特にアイデアの浮かびやすいタイミングだからね。

 『ポート』を操作し、適当にニュース番組を呼び出した。衛星テレビ機能も兼ねているから、街中だろうと山中だろうとどこでも視聴オーケーなのが便利だ。

 その分、電車内での利用でトラブルが起きたりするのが問題だけど、近々骨伝導ナンタラとか言う機能が追加搭載される予定らしく、それで解決するらしい。

 確かに、音はつまり空気の振動だから、骨伝導とやらで空気ではなく骨を通して鼓膜への振動を送れば、そういうトラブルの種も解消されるんだろうけど。

「医療関係の発達で、先天性の機能障害もあっさり治せる世の中だからなあ……。骨組織の異常も、それで取り除けるんだろうし」

 仮に、骨が極端に脆くなる病気を患ったとして、それが骨伝導に支障を来すようなら、整形外科で手術を受ければ解決してしまう。脳死以外なら、今の医療は必ず治せる段階にたどり着いている。

 進歩って恐ろしい。

『次のニュースです。昨日未明、伏霊(ふたま)区の歓楽街の路地裏で、刺殺死体が発見されました──』

 ディスプレイ中のニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げる。僕の『ポート』のカメラレンズのような箇所から縦一三センチ、横一八センチの映写体ディスプレイが浮かび上がっている。きっと画面内のキャスターも同じようなものを視認しているのだろう。

 無論、これは本当にディスプレイが実体を伴って現われているわけではなく、レンズからいくつもの特殊な信号波を網膜を通して脳に投射することで、仮想のディスプレイがあると誤認させているのだ。その内のどれか一つでも信号波が欠ければ、ただよく分からない光がチカチカ光るだけになる。

 仮想ディスプレイなんて、まるでSFのようだと感じるけど、結局は幻覚作用でしかない。企業も政府もそれについては理解しているようで、長時間使用は控えるようにと投げ掛けたりしている。近く、『ポート』使用に関する法案が出されるそうだが、まあ、僕としては全面使用禁止にならないならどうなろうと構わない。教科書も小説も紙媒体を使っているし、テレビも暇潰し以外ではあまり見ない方だ。

『尚、被害者は喉と腹部をそれぞれ刺されており、凶器となった刃物から、被疑者は外国在住経歴のある大柄の男性ではないかという推測が為されています。また警察は、三ヶ月前から続く三件の殺人事件と遺体の状態が酷似していることから、同一犯の犯行という線を視野に入れているようです』

 ふーん。……連続殺人、同一犯、ねえ。物騒だな。

 というか、こんな情報まで公表していいものなのか? これを犯人が見ていたらいろいろまずいだろうに。自棄起こして自爆テロでもされたらたまったもんじゃない。

 警察上層部も何を考えているんだか。

 と、ため息をついた僕の耳に、突然右手首に填まった『ポート』から呼び出し音が流れ込んできた。

「……ん?」

 テレビモードから通話モードに切り替わる。キャスターが夜間の外出は控えるようとの注意を淡々と述べたところで、ディスプレイは消えた。代わりに、『SOUND ONLY』の仮想文字が浮かび、

『もしもし、カル?』

「ナラ兄?」

 一つ上の兄、破矢ナラカからの電話だった。

「どうしたの、急に」

『どうしたのじゃないぞ。今何時だと思っているんだ?』

「え、あー……」

 そうだ。帰りが遅くなることを伝えるのを忘れていた。

 まずったなー、と額に手をやっていると、ナラ兄は怒ったような口調で説教を始めた。

『いつも言っているだろう。帰りが遅いときはちゃんと連絡しろって』

「ごめんなさい……」

 返す言葉もございません。

『まったく……何していたんだ?』

「まあ、そりゃ、いろいろと」

 クラスメイトの女子をストーカーしていたとは言いにくい。

「ああ、とりあえず、あと二○分くらいで帰れるから」

『はあ……まったく。気を付けろよ、最近物騒な事件が起こっているからな』

「分かった」

 通話が切れる。強制変更されたテレビモードが復活し、チャンネル選択画面が現れる。

 が、もうニュースを見る気も他の番組を見る気も失せていた僕は、『ポート』を限定機能(スリープモード)に設定し、背もたれにもたれかかる。

「殺人、ね」

 少し疲れた。自宅に着くまで、仮眠を取ることにしよう。

 どうせ今夜も、忙しいんだから。






◆◇◆◇◆

 





 炎が上がる。

 メラメラと、ギラギラと、紅い炎がいたる視界に広がっている。

 脱線し、横倒しになった電車のバッテリータンクから、爆発が起きる。付近に漂う異臭。レトロな科学博物館で嗅いだ『ガソリン』に似た匂いだ。

 さらに爆発。今度は視界いっぱいの空間を舐め尽くす劫火だ。今まで燃えていた炎が可愛く見える程の高熱は、しかし俺には届かなかった。

 悲鳴。

 乗客の痛々しく苦しげな怒声。赤ん坊の泣き声。子供を探す母親の叫び。熱された車両の破片で身体を焼き切られる男性の断末魔。

 ああ、ここは地獄だ。

 横を見る。隣でへたり込み、その地獄を恐怖に彩られた目で見続ける兄がいた。

 ふと、目が合った。兄とではない。兄に近付こうとしている、左腕の皮膚が焼け爛れた男とだ。服は高熱に炙られて溶け、皮膚に癒着してしまっている。恐らく治療には相当の時間と激痛があるだろう。

 そんな、半分死人のような男が、兄に接近しようとしていた。右手に握った、皮膚を焼き続ける車両の破片を振り上げて。

 その瞬間、俺は動いた。

 まず兄の襟首を引っ張って芝に横たえ、兄の身体を跨ぐように男に接近。振り下ろされる右腕を、肘部に掌を添えて動きを止める。次に手首を握って関節を極め、熱された破片を男の首に刺さるように誘導した。

 グチュリ、ジュゥゥゥウウ。喉仏が潰れ、刺された箇所から肉の焼ける音が響いた。

「ぃ、が……!?」

 喉を潰され、男はかすれた悲鳴しか漏らせない。よろよろと後退し、喉に突き刺さった金属片を引き抜こうと藻掻く。

 その隙を突く形で、俺は懐からドスと呼ばれる小刀を取り出し、無造作に男の腹に、肝臓を貫く軌道で差し込んだ。

 ビクリ、と男は痙攣し、それから仰向けに倒れていく。表情は苦悶に喘ぎ、白目を剥いている。瞳孔の様子を確認する必要もなさそうだ。捨て置いても、追って来る可能性は低い。

 兄を振り返ると、魂の抜けたような様子でこちらを見ていた。何をしたのか分からない。そうありありと浮かんでいる。

「兄さん」

 呼び掛けると、兄は我に返ったらしく、肩を震わせて俺を見上げた。

「あ、あ……」

「大丈夫だよ、兄さん。もう無力化(・・・)したから」

 敢えて『殺した』と言わなかった辺り、俺は自分を褒めるべきだろう。兄にこれ以上の責め苦を背負わせるわけにはいかない。

 俺は血に染まった右手を千切った草で適当に拭い、衣服を整える。何食わぬ顔で『日常』って奴に帰る為にも、要らない嫌疑を掛けられるわけにはいかないからね。

「さ、帰ろうか、兄さん」

 右手を差し伸べ、俺がそう言うと、兄は強張った笑顔を取り繕うように浮かべ、震える手で俺の手を取った。

 駄目だよ兄さん。そんな笑顔じゃ、誤魔化せないよ。『恐怖を押し隠す笑み』じゃなくて、『漏れ出す歓喜を無理矢理抑える笑み』だよ、それじゃあ。

 身体を起こす兄。その右手には、互いの三歳の誕生日に買って貰った『ポート』が填まっている。俺の水色とは色違いの緋色。対照的な色鮮やかさを持つ二つの『ポート』は。



 

 ────瞬間、身の毛がよだつような黒色に変わった。






◆◇◆◇◆






『目的地に到着しました』

 機械的なアナウンスによって、僕は微睡みから脱した。

 読み取り機に『ポート』のキャッシュモードを通し、料金を払う。占めて五四○円なり。一時間近く乗り回したというのに、相変わらずの安価っぷりだ。本当に儲けが出るものなのかと心配になる。

 タクシーが去っていくのを何となく眺め、その姿が完全に見えなくなったのを確認すると、鉄製の柵を開けて玄関に向かう。僕の家は一般的な規模の一軒家だ。猫の額程の庭が申し訳程度にあるだけで、大して特筆すべきところはない。

 ただし、ここは星央都。わずかな土地面積であっても、値段は阿呆のように高い。おまけに家自体も一括購入だったことから、ケタが凄まじい数だったのを覚えている。買ったのはナラ兄だけど。

 ドアノブの上にある凹みに親指を押し付ける。ピーッという電子音の後、今度はインターフォンのような機械のレンズに左目を近付ける。再びピーッという電子音。

 毎度のことながら面倒だと思う。指紋認証に光彩認証。それが我が家のセキュリティの一つ。昔は型に鉄などを流し込んで作った『有形状鍵』などを使っていたそうだけど、そっちの方が僕としては羨ましい。セキュリティ面では不安だけどね。

「ただいまー」

 ガチャリ、とロックが解除されると、即座にドアノブを回して入る。モタモタしていたらナラ兄の説教が長引くからだ。

 靴を脱ぎ、三和土に丁寧に整える。そうしないと行儀が悪く失礼に当たると、散々両親に躾けられたからだ。

 ちなみにうちの親は『ポート』開発の最大手、『FLASH-CORE』の職員だ。それも上位に位置するエリートらしく、年収はやはりそれなり以上にあるらしい。月の小遣いが七万円とかなっている時点で、金銭的な価値観がややズレている一家だと、真剣に思う。

 年中忙しいようで、両親が家に帰って来るのは半年に一度という頻度。そのため、僕とナラ兄の二人暮らし状態がこの家の自然な形となっている。

 リビングに入ると、そこには静かに怒気を流す阿修羅が一人。

「お帰り。夜遊びの味はどうだった?」

「な、ナラ兄。七時帰りで夜遊びと断じるのは無理がないかな?」

「はぁ?」

(恐っ。ヤバいよこれ。左手にお玉で右手にフライパン装備の双剣遣い状態の阿修羅の威圧が半端じゃないよッ)

 端正な顔に浮かんだ笑み、一九○センチの痩躯、なぜか花と赤鬼が同居したエプロン。それら全てから漂う気配は……紛れもない殺気。

 たぶん、下手な受け答えは臨死を招く。

「いや、言い訳させてくれナラ兄! 聞けば分かるはずだから!」

「どうせ女を追い掛けていたんだろう」

「言い方に問題アリだけど正解! 補足すれば、クラス委員長としての仕事に必要なことでした!」

 くそう、無駄に鋭い。ここら辺が苦手なんだよなあ、やりにくい。

 ……というか、ナラ兄の中で僕はどんな人格(キャラ)だと思われているんだろう。

 僕の言い訳が効いたのか、とりあえず怒気を収めるナラ兄。助かった……。

「で」

 だが説教スタイルは崩さずに、ナラ兄は詰問した。

「どこまで行ったんだ」

「ナラ兄。それはどっち方面の話? ストーカー? それとも男女的なアレ?」

「どちらも意味的には問題があるぞ」

「ナラ兄には言われたくないよ……」

「それは俺のセリフだ」

 どういう意味だ。

 はあ、と僕はため息をつく。

「ナラ兄。僕はまだ高校一年生だよ。不純異性交遊、ダメ、ゼッタイ。ストーカーに関しては、家は突き止めたよ。これからゆっくり外堀を埋めていくつもり」

「前者は言う必要はなかったな」

 後者もいろいろ問題ありな言い方だが、と呆れるように首を振り、

「まあいい。次からは気を付けろ」

「うん。次は遅くなるときは連絡する」

「違う」

 ん?

「違うって……どういう意味だよ」

「絶対に遅くは帰るな。どんな事情があっても、必ず七時より遅くには帰るな」

「……ナラ兄らしくないね。いつもなら僕が遊び呆けていても、高校生ならではの特権だとか言って、容認してきたじゃないか」

 掌返しもいいところだ。何がナラ兄の考えを翻させたんだ?

 そんな僕の疑問に、ナラ兄は馬鹿を見るような目をして答えた。

「平時ならな。黒い噂さえなければ、お前の放蕩も見過ごせたさ」

「黒い噂?」

「知らないのか? ニュースを見れば分かるはずだ」

「ニュース……ああ」

 タクシーで開いたニュース番組で報道された事件を、ようやく思い出した。

「無差別連続殺人事件……だっけ」

「それも四件目だ。まだ近所では起きていないが、いつ巻き込まれるとも分からないだろう」

 そうか。ナラ兄の態度にもようやく得心がいった。

 心配だったのか。僕がその犯人に襲われるかもしれないということが。

 そう思い至ると、ややこそばゆいものがあるな。心配されるのは恥ずかしいけど、要は家族として愛されている証左だ。それを無碍にする程、僕は反抗期じゃないし。

 ここは素直に、その心遣いを受け入れるべきだろう。

「分かった。事態が治まるまでは大人しくしておくよ」

 そう返答すると、ナラ兄はようやく安心したように相好を綻ばせた。

「よし、一応信用しておこう。お前は好んで死に急ぐ程、人生に不満を持っているわけではないようだし」

 と、今度は微笑ましいものを見る目付きになる。

 それが少し気に障った。

「それ、どういう意味?」

「お前はクラス委員長としての仕事をしてきたんだろう?」

 備え付けのキッチンに戻りながら、ナラ兄は言った。

「懸命に何かに打ち込めるのは、追い詰められた奴かそれなりに満たされた奴の特権だ。それに、お前の態度は余裕をなくした者特有の苛立ちは見えない。何というか、そう……」

 数秒、相応しい表現を探すように言葉を切り、

「……生き生きしている感じだ」

「────。……ははっ」

(まったくこの人は……)

 僕は苦笑を禁じ得ない。それは照れ隠しの意味もあった。

「本当、隠し事なんて出来ないね、ナラ兄には」

「弟が兄に隠し事なんて、まだ早いぞ」

 ナラ兄はナラ兄で、してやったりと言いたげな笑みを見せている。変なところで子供っぽいんだよな。

 そこがいいと、ナラ兄の彼女さんは言っていたな、確か。

 何となく気恥ずかしくなり、ナラ兄から食卓へと視線を逸らす。

 そこには、完全密閉を謳うラップに包まれた、二人分の料理が置かれていた。

「あれ、ナラ兄。まだ食べてなかったの?」

「ああ。お前の帰りが遅いのに、俺だけ食べるのは少し気が引けたからな」

「そっか」

(ああ、罪悪感の上乗せが……)

 少し笑いを浮かべている辺り、わざと罪悪感が増す方向に持っていっているんじゃないかと疑ってしまう。

 まあ、こっちは連絡なしでほっつき歩いて心配を掛けさせた身。これくらいの糾弾は甘んじて受けるべきだろう。

 ナラ兄は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、グラスに注いでカウンターに出してくれた。

「ありがとう」

 一気に飲み干す。夏夜の熱気で渇き気味だった喉を、冷たい麦茶が潤していく。

「ふう……」

「夕飯を先に食べるか? それとも風呂か?」

「うーん……ナラ兄には悪いけど、風呂にするよ。僕の体質(・・・・)としては、食べた後だと少しまずいからね」

 グラスを返し、僕は言う。

 それにナラ兄は頷き、

「じゃあさっさと入れ。その間に、料理を温め直しておく」

「うん」

 相変わらずの主夫っぷりに呆れつつ、僕はバスルームへと足を運ぶ。

 バスタオルと足拭き用マットがあることを確認しつつ、制服を脱ぐ。そして『あるもの』を見ないように注意しつつ、脱いだ衣類を適当に洗濯機に放り込む。

 我が家の調度品は、常に『合理的な最先端』を維持している。新しい何かが開発され発売される度に、両親の勧めた調度品をナラ兄が吟味し、使う上での都合や利便性の水準が合格ラインなら即購入し、即日で取り付けを依頼するのだ。

 平たく言ってしまえば、我が家は新製品で彩られている。

 金に糸目をつけないとはこういうことだ、と言わんばかりに、僕の家族は惜し気なく気に入ったものを購入する。高給取りの両親はともかく、我が家の実質財布の管理者たるナラ兄ですら、気に入れば迷いなく買う。そして今まで使っていた調度品は遠慮なしにリサイクルショップに売りに行く。

 唯一僕だけが、気に入った後もしばらく購入を考えるタイプなのだが、この家族ではその思考は若干浮いている。

 正直、うちの連中の金銭感覚にはついて行けないと常々思う。

 しかしまあ、金を掛けるだけのことはあるらしく、この洗濯機は手軽なボタン操作で洗い、すすぎ、脱水、乾燥、しわ消しの一切をこなす。後は畳むだけで楽だとナラ兄はご機嫌だったりする。

 壁に設置されたボタンを押すと、バスルームの扉が自動で開く。この扉、自動と手動どちらも開閉可能なのだが、僕達兄弟は基本的に自動開閉を選ぶ。好き嫌いとかではなく、単純に長年の習慣だ。

 入る。熱すぎず寒すぎない、適度な温風と湿気が僕を包む。

(自動空調管理っていうのは、面倒がなくていいね)

 そう評価しながら、真っ直ぐ湯船を目指す。風呂自体を除けば、この部屋の床面積は三平方メートル。少し大股で歩けばすぐ湯船だ。

 マジックミラー・曇り防止加工の窓の外を見れば、長大なビル群のライトが煌々と夜空を照らしている。ギラギラと、昼間のように夜の帳を払い除ける技術の光だ。

 人工的な光が自然的な光を塗り潰す。ロマンチックも何もないな、と素直に思う。

 いつか読んだ小説に、この光景と同じ描写を為した場面があった。かなり前の、技術もまだ現代のような発展を見せていない時代の作品だ。

 主人公が、今僕の見ているのと同じ光景を一目し、抱いた感想は、当時の僕には衝撃的だった。

『不粋極まりない。人間のエゴイズムと欲望がドロドロになるまで渾然一体にされた、醜い光だ』

 この場面を読んで、僕はしばらく思考が停止した。茫然自失と言ってもいいかもしれない。

 見た目煌びやかで、視覚的には美しいと思える光景は、しかし中身は醜いエゴの集大成だと、主人公は断じ切った。

 それは進歩に進歩を重ねすぎた現代への嫌悪と侮蔑を含んだ心情で。

 それは存在を奪われた自然の美しさへの悲しみと憐憫を秘めた感情。

 ──気付けば、僕はいつか星を見てみたいと願うようになっていた。

 その名前に星を冠していながら、最も星から遠い星央都の中で、満天の星空というものを見たかった。

 口にすれば笑われるだろう。夢見がちなロマンチストという揶揄を戴くような願いではあるけれど。

 それでも、諦めたくない。

 いつか必ず見る、と決意を新たにし、とりあえず突っ立ったままだったことを思い出し、湯船へ足を入れようとする。

 そのときだった。

 ブツッ、と灯りが消えた。空調も停まり、バスルームが闇に包まれる。

「な……!?」

(何だ? 停電?)

 あり得ることではなかった。

 星央都に属する街は、たとえどこだろうと瀞庭日本国の中枢を担う部品(パーツ)として、あらゆる災害への対策が施されている。

 そして当然、災害には停電も含まれる。仮に星央都の電力供給が途絶えることがあれば、どれだけの混乱が起きるかは想像に難くない。

 AI管制の車両はともかくとして、公共施設の停電となれば、機に乗じてとばかりに潜伏していた犯罪者の襲撃や略奪が起こってもおかしくはない。

 その為、万が一にも停電に陥らないようにと、星央都から電柱がなくなって久しい。電線などは全てが地下で一括管理され、地震などでも崩落して埋まらないような耐震工事を施すなどして、万全の態勢を敷いているのだ。

 それなのに、現実では停電現象が起きている。一秒二秒なら配線のトラブルが原因だと言えるし、その不具合も予備電力ですぐに復旧するはずだ。

 しかし、

「もう一○秒経つ。いくら何でも遅すぎないか?」

 そう。遅い。

 復旧に二ケタの秒数を掛けるなんて、星央都にして見れば致命的な隙だ。セキュリティもへったくれもない。今なら施設の電子的な警備をくぐり抜けて、好き勝手に荒らすことが出来るだろう。

(何があったんだ? こんな長い停電が起こる原因として考えつくのは……地下送電通路の一部が、何らかの要因で断絶したってところかな?)

 考えつつ、その余りの荒唐無稽さに苦笑する。大地震に分類される振動ですら変形させることが出来ない特殊合金で保護された地下通路を、どうやって断つというのか。数ミリずらすことすら、恐らく重機を使っても無理だ。

 そうなると、

(断絶じゃないとすれば、中心地区で何かあったのかもしれない)

 星央都の中心部にして心臓部。

 瀞庭日本国の首都でも最大の重要区画。

 日本領内であって日本領内でないとすら言われる、超を三つ重ねる程の機密情報の宝庫。

 天津蔵(あまつくら)区。

 許可がなければ、進入はおろか近寄ることすら不可能な区画だ。

 もしあそこで何かがあったのだとすれば。

 致命的なトラブルが勃発したとすれば。

「……日本そのものの存続が危ぶまれるんじゃないか?」

 それは、かなりまずいんじゃないだろうか。

 そのトラブルを解決するのが、警察組織以上のエリート集団と謳われる区画警備隊の仕事とはいえ、全面的には頼れないというのが本心だ。

 第一、ろくに表にも出ない覆面警官のような集団で、その仕事ぶりを一度も明らかにしない、都市伝説じみた組織をそう簡単には信用など出来ない。居合わせれば口封じとして明日の太陽を拝めなくなるかもしれないし。

 灯りの消えた街並みを、窓から訝しむように見る。

 そして僕は、

「──────あ」

 先程までの懸念や疑問を、綺麗さっぱり忘却の陥穽へと投げ捨てた。

 そこには、星空があった。

  人工的でない、淡く輝く星々が、黒夜のキャンバスにちりばめられた、壮大な絵画。

「……すごい」

 それは、壮大だった。

 抱いた感想は『壮麗』。

 印象は『宝石の天蓋』。

 画像ではない、本物の星空。つい先程、改めて望んだ景色が、予期しないタイミングで広がっている。

 こんなの、いくら金を積んでも買えやしない。

「そうだッ、録画しないと……」

 二度と見れるか分からないものだ。記録しない理由がない。

 『ポート』を高画質録画モードに設定し、録画を開始した、直後だった。

「カル!」

「おわぁっ!?」

 慌てふためくナラ兄が、バスルームに押し入って来た。

 思わず振り返り、

「え、何? どうかした!?」

「怪我してないか!? 足を滑らせたとか……」

「大丈夫だけど……」

 こんなタイミングで来なくても。

「ふう……ウォシュレットが停まったときは、年甲斐もなく慌ててしまった。よもやカルに何かが起きたかと思うと、いても立ってもいられなくてな」

「分かりやすく説明してくれるのはいいけど、ナラ兄。そこは普通に呼び掛けてくれる方が嬉しかったよ……」

 おかげで録画を中断する羽目になった。

「ああ、スマン……ところで、何をしていた?」

「星空の録画」

 窓の外を指差す。未だにライトは灯らず、星の光はその存在を示している。

 ナラ兄は得心がいったと頷き、きびすを返す。

「そうか。邪魔をして済まなかったな。料理はギリギリで作りたてまで持ち直した。上がったらすぐに居間に来い」

 慣れない手動に戸惑いながら、ナラ兄は洗面所からいなくなった。

 少し間の抜けたところも、昔のままのようだった。

「やれやれ……あれでもう成人って言うんだから、案外子供も大人も変わらないのかもな」

 何となくそう呟きつつ、僕は星空に向き直った。






◆◇◆◇◆






 録画開始から一分、ようやく電気が復旧した。トラブルは解決したようだ。

「結局、何だったんだ?」

 風呂から上がり、身体を拭きつつ、首を傾げる。原因の見当は付かない。一学生がこんな異常事態を紐解けたら、それはそれで異常なので、当然の結果だが。

「はあ……とにかく、居間に急ごう」

 夏用のインナーを着て、水色のジャージ上下に身を包む。ラフだけど、どうせ家だし構わない。

(それに……)

 僕は右手首にはまる『ポート』を見下ろし、つい顔が弛むのを抑えられなかった。

 この中には、僕が長年夢見た星空が入っている。正確にはその映像データだが、これが宝物であることには変わりない。

 部屋に戻ったらもう一度見よう。そう考えると食事の時間ももどかしく思う。

 さっさと廊下に出ようと身体の向きを変えたとき、



 ──不意に。

 ──目眩が。

 ──襲った。



(な……え?)

 グニャリと歪む視界。不安定にねじ曲がる世界。立つことが困難になり、自分がどこを見ているのかさえ分からなくなる。

 そして僕の混乱を余所に、あっさりと目眩は止んだ。

「……な、何が、起きて……?」

 頭を抑えつつ、僕はそろそろと目を開く。

 目の前には、僕が意識的に避け続けていた『あるもの』があった。

 痩せぎすと形容すべき頼りない体躯。身長と相まって、柳のようだ。

 目の下には、長年の寝不足が崇って出来たクマがある。双子のようだという評価を受ける僕達兄弟を見分ける、僅かな差異だ。それ以外のパーツは一切変わらない。

 そこにあるのは、『鏡』だった。姿を逆反対に写し出す反射板。それにより、否応なしに僕自身を見つめることになる。

「あ……」

 指先が震える。言い様のない悪寒に、いやな汗が額に、背中に浮かぶ。胃からは胃液がせり上がってくる感覚が襲い、必死にそれを抑えつける。

 ああ、これだから、嫌なんだ。鏡を見るのは。自分を見るのは。



 あの悪夢を、思い出す。



 燃える世界。

 阿鼻叫喚の地獄絵図。

 九年前に発生した、原因不明の区間移動用電車脱線事故。

 乗員乗客合わせた一○四人中、死者五八人、負傷者四三人、行方不明者三人の、大事故だった。

 燃える世界。線路は区間の中程、土手と川に挟まれた地点に敷かれていて、僕はナラ兄とともに浅羽滴区の隣区、嗣谷(つぐや)区に行くために乗車していた。

 何の問題もなかった。そこまでの道中、何も異常はなかったし、線路上にも脱線の要因となるものはなかった。そもそも線路には重量感知センサーが組み込まれていて、何か脱線の要因があったなら、その情報は車掌や管制AIに送られる仕組みになっている。

 だから何かあれば、一時停車のアナウンスが流されるはずだった。それがないということは何も問題はないということであり、即ち事故など起こり得るはずもなかった。

 本来ならば。

 事故が起きたとき、僕達は運転席の近くの車両に来ていた。僕が運転室の方向を見ていたところに、ナラ兄が少し探検しようと提案してくれたのだ。

 当時、僕はあらゆるものが興味の対象だった。自分の住む街から路傍の石ころまで、何もかもが僕には鮮やかな光を持っていた。そんな僕は、いつものように『電車を運転する人』への興味を持ち、それを抑えられなかった。

 まだ、僕は知らなかった。



 好奇心は猫どころか、遍く全てのものを殺せる病毒だと。



 運転室の近くにたどり着いた僕は、間を隔てるドアに嵌められた窓から中を覗き込んだ。電車は『えーあい』が走らせていて、『しゃしょうさんたち』はそれの見張り役だと聞いていたので、本当にそうなのかを確認したかったんだろう。

 よく見えない。背丈が足りなかったみたいだ。ナラ兄に助けを求めたけど、なぜか怯えた表情で首を振って、それ以上近付こうとしない。それどころか、早く戻れという身振りをしていた。

 その態度に、『遊んでくれない』という、至極子供らしい怒りを抱いた僕は、必死そうなナラ兄から視線を逸らして、何か台になりそうなものを探す。

 ふと下を見ると、そこには赤い取っ手のレバーがあった。それは、壁に手を当てて乗れば、ちょうどいい高さの足場になりそうな拵えだ。

 当然、僕は中を見たいという欲求に従って、躊躇なくレバーの取っ手に足を掛ける。

 後ろでナラ兄が制止を叫んだことに、最後まで気付かずに。

 両足を乗せた瞬間、子供一人分の重量で傾き始めるレバー。それを気にもせず、僕は運転室の中をついに垣間見た。



 頭に穴を開けて横たわり、ダクダクと赤い液体を垂れ流す大人二人と、一面が赤く染まった部屋を。



 それが何なのか、理解する暇もなかった。

 重さに耐え切れず、レバーがガコンと傾ぐ。それに乗っていた僕も、その動きに合わせて落下する。

 電車の床に尻もちをつくまで、あとコンマ数秒──という刹那さえ、惨劇は許してくれなかった。

 ガゴン! と一際強く車両が揺れる。

 一瞬の浮遊感。無重力空間とはこんなものだと謂わんばかりに、僕とナラ兄、そして運転室の車掌達が何の抵抗も出来ずに浮き上がる。 そして、直後の容赦ない衝撃。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も匂わない。

 何も感じない。

 鉄臭い味がする。

 目の前が暗くなるのを見て、

(……そっか、これが『気を失う』っていうことなのか。それとも『死』んじゃうのかな……?)

 と、意識が遠退く最後の瞬間までそんなことを考えて。



 僕の意識は一度途絶える。



 そこから、自宅のベッド(・・・・・・)で目覚めるまでの間の記憶がない。

 意識が戻った……いや、呆けから醒めたという方が的確かもしれない。何しろ、事故から数えて三日間の記憶が、曖昧だったからだ。

 ごっそりと抜け落ちているのではなく、繋ぎ目があやふやと言うのだろうか……『燃え盛る事故現場』の記憶が、朧気ながら僕の脳には残っていた。

 それは、僕が気絶した後に(・・・・・・・・)起きたことのはずなのに。

 まるで誰かの記憶を覗いているような感覚。輪郭がぼやけ、見ているだけで酩酊感に似たふわふわした気分になる。

 有体に言えば、気持ち悪い。

 視界がグルグルと回って、激しい頭痛が襲う。今にも吐き出しそうだ──。



「────、つっ…………あ……」

 そして。

 悪夢の中の僕が、目覚めたベッドの上で頭痛を訴えたところで、フラッシュバックは終わりを迎える。

 今回もすこぶる最悪の気分にさせられた。救いと言えば、吐き気があまり酷くなかったことだ。物音もあまり立てずに済んだようだ。倒れたと知れば、ナラ兄がわき目も振らずにすっ飛んで来るに違いない。

 ゆっくり腕と脚に力を入れ、ドアにもたれるような体勢から立ち直る。

 今度はしっかりと鏡を見据える。一度この症状に襲われると、しばらくの間は再発しない。この面倒な体質も、二度も三度も奮起することはないらしい。

 ──PTSD……俗に言うトラウマの弊害だろう、とカウンセラーを名乗る男は僕に告げた。どこか気の毒そうな表情を浮かべ、僕に淡々と説明した。

 曰く、僕の鏡を見ると悪夢を見るという体質は、事故が起きる直前に見たガラスが原因らしい。

 ガラスは、鏡程ではないが多少の反射率を持っている。そして僕は、わずかに僕の顔を映したガラスを通して、車掌達の無惨な死体を見た。それが元で、自分の姿を克明に反射する鏡から、過去の地獄絵図への恐怖が呼び起こされる──というのが、カウンセラーの意見だった。

 そしてその意見には、僕も概ね賛成だ。というか、それくらいしか思い至らない。

 ただし、その後にカウンセラーが放った一言。

『君が気に病む必要はない』

 まるで呪いだ。悪夢を見ると、必ずその一言が頭でリフレインする。

 あの事故の原因は未だに調べがついていない。何らかのトラブルかもしれないという目線から解明を行ったそうだが、当時の線路にも車両にも、どこにも細工があった形跡は見当たらなかったという。そして不思議なことに、僕が足場にした赤い取っ手のレバーは、そもそも存在しない(・・・・・・・・・)ことを、教えられた。

 僕の知る真実とは食い違う。どちらが正しいのかなんて、今でも分からない。

 けれど。

 これが僕の罪の形だとでも言うように、その言葉が僕を蚕食していく。

 救いを投げ掛けるような言葉。それはカウンセラーなりの気遣いのつもりなんだろうけど、だとすれば逆効果だ。

 僕は救いなんて求めていない。求めてはいけない。

 あの大事故を引き起こしたのが自分かもしれない以上、のうのうと暮らしていいわけがない。

 楽な方に、流されるな。

「…………」

 止めよう。悪夢を見るたびに悩むのは疲れる。どうせ今すぐに贖罪の手立てが見つかるわけじゃないし、そんなに簡単に見つかるものだとしたら、きっと僕から拒否するだろうから。

 深呼吸を一つ。何食わぬ顔で食卓に着き、平時と変わらない演技をするんだ。

 ナラ兄にこれ以上余計な心配をかけたくはない。

 わずかに残った頭痛を必死に無視し、僕はリビングへと足を向けた。






◆◇◆◇◆






 夕食はつつがなく終了し、僕は一度部屋に戻った。僕達兄弟は、食事中にあまりしゃべるのをよしとしない。品位がどうとか言うよりは、僕の体質に起因する。

 誰だろうと、吐き気が襲った後で胃袋に食事を詰め込みつつ、朗らかに会話を交わす気力など湧かないだろう。

 そういうこと。

 それを話せば、だったら鏡を外すか覆いをするかして鏡を隠せばいい、と考る人もいるだろう。それは僕達も一度考えた。

 だけど挫折した。理由は両親だった。

 鏡をどうにかしたいと相談したところ、『ダメ。ゼッタイ。慣れろ』の一点張りだった。あのときばかりは親の愛という存在そのものを疑った。

 仕方なしに、僕は気休め程度の効果しかない精神安定剤を常備していたりする。

 そして現在。洗い物を済ませたナラ兄が入浴した後だ。

 リビングに降りた僕は、体質上そう気軽には洗面所に踏み込めないため、キッチンに置いてある歯ブラシにチューブ式歯磨き粉を塗り、シャコシャコと動かしつつ窓の外を眺める。

 既に電気が灯り、星々の光を塗り潰している。一見煌びやかだが、確かにこれは無粋なのかもしれない。

「薄汚いっていうのはまだ分からないな……」

 さすがにあの主人公のような感覚を持つには、まだ僕の人生経験は足りないのだろう。文明自体を懐疑的に見る境地には、あまり達したくはないけど。

 椅子に座り、『ポート』を起動させる。テレビ、ミニゲーム、通話、エトセトラ……目当てでないモードを飛ばし、あるモードアイコンを探す。

「あった」

 直線の両極に楕円の輪が描かれたアイコンを選択し、先程部屋から取ってきた機器と繋ぐ。

 その機器はグレイカラーの長方形を象っていた。縁から内側は液晶タッチパネルが広がっていて、その画面を操作して『ポート』とワイヤレス通信を開始する。

 それは『ビフレスト』という機械だった。その用途は、簡単に言えば、無声音通話を可能とするツールだ。

 それを起動することはつまり、僕が電話をするということで。

「もしもし、起きてる?」

『……破矢クンさー、あたしが早寝早起きキャラに見えるの?』

 『ビフレスト』が小刻みに震えると同時、同年代程の女性の呆れ声が僕の鼓膜に響く。

 骨伝導。これが無声音通話のカラクリだ。

 これは両親から送られた『試作品』だそうで、これにより、相手だけでなく、相互の声を(・・・・・)外に漏らさずに会話が出来る。

 音は空気の振動だ。そこに特定周波数の揺れをぶつけることで、音が外に散るのを防ぐ……らしい。詳しい仕組みは僕も知らない。

 とにかく、これで声を外に漏らすことなくどこでも会話が可能になる。傍目から見れば口をパクパク動かしつつ談笑しているため、精神病院にぶち込まれる可能性が高まる、という欠点を除けば、概ね完璧だ。

「悪いけど、見えないね。灯湊(ひそう)さんっていつも授業寝ているって聞くし。駄目だと思うよ、授業はきっちり受けないと」

『……マジメに返してんじゃねーよ優等生』

 何やらげんなりした声が返ってきた。普段から脱力した感じの同級生だったけど、今の一瞬でその感じが増した。

 あれ? 対応間違った?

「気に障った、かな? だとしたらごめん、謝るよ」

『いーよいーよ、あたしが不良なのは知れ渡ってるし。今さら授業云々で叱られることもないから』

「はは……さすがは高卒資格者だね」

 どや顔を浮かべていそうなその言葉に、乾いた笑いしか出ない。

 彼女、『灯湊 (みさお)』は、高校一年生でありながら、既に高卒資格を持つ秀才だ。

 ざん切りのボブカットを赤く染め上げ改造制服を着込み、耳にはピアスを空けて首からは仰々しいリングが幾つも付いたネックレスを下げ、校内では『凶率(きょうそつ)の暴君』、校外では『紅の狼女王』と恐れられる、一昔前の不良漫画に出て来そうな札付きの女不良だ。入学当初は……若干奇抜な格好から、相当にメンタルの強い生徒しか話し掛けることは出来なかったが、ルックスは美人と言えるために言い寄る男子生徒はそれなりにいた。

 が、その全てを肉体言語で突っ張ね続けた結果、生徒はおろか教師すら敬遠するという状況になっていた。手さえ出さなければ問題は起こさないというのが彼女のスタンスのため、触らぬ神に祟りなしとばかりに誰もが彼女に関わることを止めた。

 では、その彼女と僕が、なぜこうして連絡を取り合うことになったのか。

 その理由はとても簡単だ。

『んなことよりもだよ。どうよ、絹花の様子は』

「表立ったいじめ行為は段々下火になりつつあるけど……実際のところは分からないな。何人かが未だに陰湿な嫌がらせをしているし、もしかしたら、まだ由代さんを面白く思っていない生徒がいるかもしれない」

『チッ、まどろっこしいよなあ! 首謀者さえ分かりゃ、あたしが首根っこ引っ掴んで壁にめり込ませてやるのによ』

「そこは土下座とかじゃないんだね……」

 相変わらず、由代さんのことになると熱くなるなあ。

 『凶率』とか『狼女王』とか言われているけど、灯湊さん自身は多勢と群れるのを好まない。友人関係だって、僕が知る限り由代さん以外にない。謂わば一匹狼だ。そんな灯湊さんが僕とこうして言葉を交わすのは、四月末に結んだ一つの『同盟』があるからだ。

 『由代さんへのいじめを止め、健全な生活が出来るようにする』。それが、僕と彼女の同盟内容。

 それが完遂されるまでの、仮初めの契約。終われば後は決して深く関わらないいう条件付きで彼女が了承し、こうして毎夜経過を報告するのが習慣となっていた。

 とりあえず、過激な発想に飛びかけている灯湊さんを軽くたしなめる。

「でもそうやって幕を降ろせば、きみがいなくなった後にまた再燃するんじゃないかな? ほら、きみと親しいって理由で矛先が向けられることになるだろうし」

『分かってるっての! だからこうして破矢クンに任せてるんだろーが。……ってかその理論で行けば、破矢クンも火の粉を受けるけど』

「心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫だよ。由代さんの問題に首を突っ込んだのは僕だし。そういうことになるリスクも理解しているから」

『ドライな心構えだな。自業自得は承知済みってか?』

「もちろん。友情で行動するきみとは違って、こっちは義務感一色だからね……そのくらいの覚悟とリスクマネジメントはこなすさ」

 その回答に、彼女は割と素の舌打ちを漏らし、

『ったく、そういうところはいけ好かねえ。頼むぜ、「恋人役(・・・)」。アンタがノッてくれないと、絹花も怪しむに決まってんだろ』

 さらっと、公衆の面前だったなら爆弾発言必至な単語を落としてきた。

「あのさ、灯湊さん。その恋人役って、本当に僕じゃないと駄目なのかな?」

 と、慎重を期して穏やかに尋ねると、灯湊さんは突然怒鳴り声を発した。

『ああ!? 今さらケツ捲るってことかその言い種はよぉ!! アンタ言ったよな? 「覚悟とリスクマネジメントはこなすさ」とかスカしやがって! その直後に自己矛盾かますたぁいい度胸だなおい! あたしとアンタの同盟は、それ込みで結んでんだ。反故なんざ認めねえぞ!!』

 凄まじく怒っていらっしゃる。きっとあちらは鬼の剣幕で怒鳴り散らしているだろう。目の前にいれば確実にぶん殴られそうだ。

(あー……やっちゃったなあ。そういや了承したっけ、そんなことも)

 忘れていたとまでは行かなくても、正直なところ、かなり薄れていたことは否めなかった。『恋人役』というのが、あまりに現実味が湧かなかったからだ。

 そういう恋人(ヒト)を持つ資格は、僕にはないと拒否感情が働いてしまうから。

「…………」

 言い表せない自己嫌悪を覚えて、黙ってしまう。

 すると、

『おい! 聞いてんのか破矢ぁ! どうなんだ、遵守か反故か、はっきり言え!』

 口調が完全にその手の人達になっていた。最早どう答えたところで、明日登校したときに殴られるんじゃないだろうか。

 確認というよりも恫喝に近い台詞を叫び続ける彼女にどう返したものか、としばし思案し……。

 結論は出た。

「灯湊さん」

『あァッ!?』

「さっききみは言ったよね。『自己矛盾か?』って」

『……何が言いたい?』

 僕の弁明を聞くべく、一旦減速してくれたらしい。

 それをありがたく受け入れ、僕は率直に言った。

「それ自体、きみの誤解だよ」

『…………はあ?』

「いい?」

 理解を示さない灯湊さんに、順を追って話すことにした。

「まずきみは、『恋人役』──すなわち、きみが『大学に飛び級した後』に由代さんを守る存在として僕を選び、僕はそれを了承した。そして先の発言で、今さら難色を示したと思い込んだ(・・・・・)

『違うっていいたいの?』

 口調が収まってきたことに、少し安堵を覚え──そのまま説得を継続する。

「違うよ。その辺は認識のすれ違いって奴かな。僕の台詞、ログを見てみなよ。それとも、きみなら記憶しているかな?」

『えっと…………あ』

「『僕じゃないと駄目なのかな?』は、別に拒否の台詞じゃないよね?」

 まあ、僕としても言い方にもう少し気を遣うべきだったと猛省するところだろう。彼女の由代さんへの友情がどれだけ深いか、その知識はあったんだし。

『あー……あーあーあー! そうじゃん、あたしの早とちりかぁ!!』

「うん。分かってくれて何よりだ」

 灯湊さんの視点からすれば、僕が役目をボイコットしたように感じただろう。もしかすれば由代さんの学園生活に不備が出かねないわけだし、冷静さを欠くのも仕方ない。

 ひとしきり自分に対する罵詈雑言を叫び……それが収まると、彼女は妙に畏まった声音で、

『ごめんなさい』

 と、あまりに真っ直ぐすぎる謝罪を告げてきた。

 それは真剣で、照れも衒いもない、混じりっ気なしの謝意であった。

 ……これが大昔に言う武士道という奴なのか、と感嘆とともに呟きそうになるのを堪え、その清廉さに強張る舌を何とか動かし、

「あ、うん。いいよ。僕も悪かったから」

 そう言うのがやっとだった。

 由代さんのためと、一匹狼の信条を崩してまで僕と同盟を結んだ彼女の行動から薄々感付いていたことではあったが。

 彼女は見かけによらず潔く義理堅い性分だということを、しっかりと認識させられた。

 僕もそれに倣ってみるかな。

「ま、これからも僕に非があれば、存分に殴ってくれて構わないよ。壁にめり込ませるレベルで」

『……破矢クンって、マゾ気質とかじゃないよな?』

 何故に?



 それからさらに情報の相互共有を行い、その終わりを見計らって僕は気になったことを訊いてみた。

「あの停電、何が原因だと思う?」

『ん、破矢クンのところもあれ来たんだ』

 既に言葉遣いは普段の気怠げなものに戻り、その語調に少し楽しげな雰囲気を漂わせる。

『あたしんちの周辺も来てさ。復旧した後にネットで調べたら、星央都の大半の電気が断線してたらしい』

「影響は?」

『ハッキングを警戒して、公共機関の運行は明日一日見合わせるんじゃないかなー。無事なのは私営で出してる一部のタクシー業者だけだろうし。特に浅羽滴区は大打撃だと……ああ、破矢クンちは確か──』

「うん、まさに浅羽滴区だよ……」

 灯湊さんの言ったことが本当なら、今頃大パニックが起きているんじゃないか?

 カーテンに遮断された外を見るのが恐ろしく、とても近づく気にならなかった。

『学校にゃ遅刻確定だろうし、洒落にならないもんだね、停電って』

「本当、迷惑極まりないよね……きっと明日は椅子取りゲームだよ」

『そっちはさぞ見事な物騒ぶりでしょ。よけりゃ明日画像も送ってくんない?』

「はは、考えておくよ」

 タクシーはほとんどが社会人の足に遣われるだろうし、これは最悪遅刻だろう。休むのは論外。灯湊さんとの同盟があるし。サボタージュすれば反故にしたと暴れられかねない。

 と、そのときだ。

 『ビフレスト』が伝導してきた音声に、聞き覚えのある台詞が混ざった。

 何てことはない、コンビニ店員の眠そうな『ありがとうございました』ボイスである。

 ふと、僕の脳裏に嫌な想像が巡った。

「…………灯湊さん」

『ん、何?』

「きみ、まさか……外出中?」

『固いこと言うなぁ、破矢クンも夜遊び反対するタイプ?』

 それはつまり、

(殺人犯がうろついているかもしれないのに、今までずっとコンビニで過ごしていたってこと!?)

 『ポート』の時刻表示を確認すると、通話開始から三○分以上経過している。ナラ兄は長湯が基本だからいいとして、問題は灯湊さんだ。

 彼女はこの三○分、僕と会話を続けていた。その間、コンビニ店員の『いらっしゃいませ』を、僕は聞いていないのだ。

 聞き逃すことはあり得ない。『ポート』の集音機能は、近場の木の葉の擦れる音も拾い上げる。来客を他の店員に知らせる意味を持つ口上を、意図的にカットしない限り不可能だ。

 彼女が我を忘れて叫んでいたときに入店したのなら、二重の意味でそれを聞き逃す可能性もある。けど、彼女とは約二ヶ月、『ポート』越しながら交流を重ねた。彼女は秀才ではあるけど、積み重ねる努力なしに何かを為し得る程器用じゃないことを、僕は知っている。怒鳴り散らしながら歩き回ることに関して、彼女がそれ程経験を積んでいるとは思えない。

 結論。

「下校してから、ずっとコンビニに居座ってた……?」

『そうだけど、何か?』

 問題がおあり? とでも言いたげに語尾を上げてくる。自分の行動がどこまで非常識か分かっていないのか、分かった上でそう振る舞っているのか。

「通り魔がいるんだよ? 襲われたら、灯湊さんだってどうなるか……」

 だが、たとえ前者だろうと後者だろうと、彼女の行動が如何に命知らずなのか……命をどぶに捨てるものだということは変わらない。

 自分は大丈夫だろうと考えるのは、今も昔も人間の悪癖だ。キリスト教における原罪のように、その楽観視は人間の根幹に刻み付いている。

 それを今、灯湊さんは体現している。

 それだけは許せない。

「灯湊さん。今すぐ全力疾走で家に帰るか、最寄りの交番まで行って!」

『ど、どうした藪から棒に。大丈夫だって。あたしはそういう目には遭わな……』

「それが駄目だって言っているんだ!」

 悪癖はなかなか治らない。だからこそ厄介だ。危機感がまるでない。彼女は不良で、喧嘩に強い。荒事に自信を持っているから、通り魔という単語に動じない。

 通り魔の危険性を伝えても届かない。

 ならば。

(あまり使いたくはなかったけど……)

 躊躇はしていられない。

 心を決め、灯湊さんに呼び掛ける。

「灯湊さん。きみに何かあれば、由代さんが悲しむとは思わないのか!?」

『……!?』

 彼女は義理堅く、また友情に厚い。そこを利用する。

 言い換えれば、灯湊さんの気持ちに付け込む。

「きみが通り魔に遭い、怪我か……それとも命を落とすかしたら、由代さんがどう感じると思っているんだ?」

『い、いきなり何を……』

「よしんば切り抜けたとして、明日何食わぬ顔で登校してきたら、僕はきみの外出をバラすよ」

『てめ……っ』

 灯湊さんが言葉を詰まらせる。

『あたしが関わっていることは明かすなって言ったろうが!』

「いいじゃないか。きみの命に比べれば、この同盟もずいぶん軽い」

『は、ぁ……?』

 と、予想外の一撃を食らわされたように、灯湊さんは吐息を漏らす。

「僕はきみとの同盟を破って、独自に彼女を守る手立てを実行する。最近の由代さんへのいじめも、きみの暗躍で(・・・・・・)大分緩和された。後は僕だけでもやっていける」

『…………』

「分かるよね? 僕はきみとの同盟に拘る理由は、実はない。いざとなれば、同盟の条件を破って、彼女に伝えることも出来る」

 同盟に際しての条件は、全部で三つ。

 『灯湊操が関わっていると由代絹花に知らせない』『やむを得ず灯湊操が由代絹花から離れざるを得ない場合、かかる不幸を寄せ付けないよう尽力する』『完遂し次第、灯湊操との繋がりの一切を絶つ』。どれも僕のメリットはあまりないけど、彼女を納得させるにはこれしかなかった。

 そしてこれらを破ることに、僕は灯湊さんからの制裁やいじめ首謀者からの火の粉以外にデメリットはなく……この程度のデメリットを背負って灯湊さんの安全を確保出来るなら、安いものだろう。

 それを伝えると、盛大なため息が聞こえた。

『……アンタって、案外お人好しだな』

「そうなのか?」

『襲われるかも分からない段階で、そこまでのリスクを背負うことに躊躇いナシってのが信じらんない……。ネットで騒がれてるヒーローみたいな無私無欲』

「それ、誉め言葉?」

『まあね。アンタもヒーローも見返りを求めないのは変わらないし』

 ふうん。ヒーローね。

 また好き者……もとい風変わりな趣味を持った人がいたものだ。

「そのヒーローって、何?」

『ん、興味あり?』

「少しね」

 正直、見返りを求めないとか奇特な精神の持ち主がいることに、多少好奇心が傾いていた。

『ネットはやらないの?』

「SNSとかチャットとか言われてもちんぷんかんぷんだね」

『あー、まあアンタそういうのに疎そうだからな』

 不名誉な。

 楽しげに含み笑いをしつつ、彼女はそのヒーローの名前を開示した。

『確か、「ゴサイダー」とか言われてる。最近この街に来たって噂が流れてファンとかアンチがお祭りフィーバー中』

「ゴ……サイダー……?」

 何だそれは、そんなふざけた名前を付けられるのと僕は同列に扱われたのか……?

 甚だ不本意だ。

「ま、まあそのヒーローは置いといて」

『あれ、もういいの?』

「うん」

 好奇心なんか抱いた一分前の僕を蹴り飛ばしたい。

『そ。……あ、家着いたから、もう切るよ』

 思い出したような調子でそう言われ、僕は安堵感とともに頷いた。

「無事に着いたんだ。よかった」

『大げさだな。たかが帰宅だろうに』

 呆れたように灯湊さんは笑う。

 また……どれだけ危機感がないんだ、この不良娘は。

『まあ、その、何だ』

 と、普段からどもりなど起こさない灯湊さんが、らしくもなく語調を濁す。

 頭に血が昇ったわけでもなし、何かで混乱したわけでもなしなのに、いきなりどうしたんだろうか。

 非常に言いにくそうに、彼女はわずかに強い声を張って、

『し、心配してくれたことには、礼を言っとく。ありがとう』

 と、気恥ずかしそうに告げた。

 それに僕は、せっかくだから言いたいことを言うことにした。

「うん。早めに寝ることを推奨するよ。体調を崩しかねないし」

『うるさいな。余計なお世話だッ』

「そう」

 じゃあ、また明日。そう言い掛けて、ふと疑問が浮かんだ。

 普段、彼女は遅くまで起きていることはあっても外出することはない。それは二ヶ月間、この時間帯に電話していた中で確かめていたことだ。

 なのに今日に限って外出をした。由代さん(しんゆう)が関わらない状況において、常に合理的な選択をする彼女ではあまり考えられないことだ。コンビニに行くときは、たいてい日中に学校を抜け出しているし、今日もそうだったので、今さらコンビニで入り用なものが出来たとは考え辛い。

 その疑問を、何気なく訊いた。

「あれ、そういえば灯湊さん。何で今日は夜に外出なんかしていたんだ? 用事でもあったの?」

『ん、あー……』

 先程の礼以上に歯切れが悪い反応。

 違和感を覚えたが、それを追及するより早く返答が来た。

『種蒔き……ってところかな』

 それだけ言い残し、通話は切られた。

 リダイアルするかというメッセージが浮かんだホロディスプレイを閉じ、首をひねる。

「種蒔き……?」

 平凡な単語のはずなのに、どことなく不吉な雰囲気を漂わせるワードだった。

 それに思案を巡らそうとしたが、ナラ兄がリビングに戻ってきたために中断することになった。



 その不吉さは、就寝のために自室に戻った後も澱のように頭の片隅に留まっていた。

「種蒔き、植物の種子を土壌に蒔いて花を咲かせようとする行為……で合っているよな?」

 ベッドに寝転がり、天井を睨みながら呟く。

 そうすることで、澱を少しでも減らそうとしたのだが、あまり意味はなさそうだ。

「灯湊さん、普段はない外出、隠し事、由代さんの親友……何だろう。どこか引っ掛かるんだけどな」

 発声しての思案は便利だ。頭でごちゃごちゃ考えるより、情報整理がしやすい。

 しかしながら、それでもまだピースが足りない。

 さっき聞いたばかりだし、情報不足は仕方ないんだけどさ。

「同盟関係、恋人役、不良、意外と義理堅く友情に厚い。……普段との差異。外出──そう言えば、今日は少し沸点が高かったな」

 思いの外キレやすかったな、さっきの灯湊さんは。普段ならジョークとして流すようなことにも過剰反応していたし。

 そこを洗ってみるか?

「精神に余裕がなかった故の激昂。差異は…停電。星央都の大半を巻き込む大停電。パニック……。

 ……まさか」

 一瞬、嫌な想像が巡る。

 無視は出来ない。今さら思考を止めるのも、何だか癪だ。

 手持ちの情報でそれ以外の解を求められるか。

 そしてそれを認められるか。

「……あり得ない。けどそう考えれば辻褄が合うもの……」

 実を言えば、僕は既に一つの仮定にはたどり着いている。

 今難儀なのは、それの否定材料を見つけること。

 僕にとっては、あまり真実とは言いたくない仮定。

 出来ることなら、否定したい。



 でも、それは無理だ。



 今まで不透明なまま漂っていた違和感の根幹に、ようやくたどり着いた──たどり着いてしまった。

 灯湊さんの言う『種蒔き』は未だ分からずだが、違和感の形だけでも確認出来たことで、澱が少し軽くなった──軽くなってしまった。

 理性でも本能でも、それを否定出来ない。

「……気が滅入る」

 駄目だ。悪夢を見た後はやっぱりろくなことにならない。精神が後ろ向きになってしまう。

 悩み事はとりあえず一段落としよう。どうせいい案は浮かびそうにない。

 『ポート』の時刻表示は既に午後一一時を回っていて、それを確認すると眠気が襲ってきた。

「……寝よう」

 ベッドの毛布を被ろうとしたとき、机の上の写真立てが倒れているのを見つけた。

 ガラス製の枠に、家族四人の集合写真が入っている。倒れるだけで割れる程脆くはないけど、そもそも倒れること自体があり得ない。窓を開け放した記憶はないし、そよ風程度ではびくともしないはずだ。最近は強風などもないし。

「……?」

 首を傾げつつ、手を伸ばして写真立てを元に戻す。

 うん。問題なく立つ。

「……寝ます」

 今考えても詮ないことか。そう考え、僕は毛布を被り、今度こそ眠りに就く。





◆◇◆◇◆






 明晰夢というものがある。自分が夢を見ていると自覚しながら体感する夢。矛盾した言い方になるが、『夢で起き』ている状態。

 僕は今、それと同じような現象に立ち遭っていた。



 深夜。草木も眠る丑三つ時。

 そこは、華やかだった。

 右も左も目に優しくない、強制的に覚醒させるようなライトアップが施された看板がずらりと並び、あちこちの店先で際どい格好をした女性や高級そうなスーツ姿の男性が客寄せしている。

 伏霊区。歓楽街として栄える、星央都に数少ないが存在する、未成年進入禁止区域。その特性故かトラブルが多発する、ニュースでも度々取り上げられる街だ。

 その大通りを、僕は歩いていた。脳がニュースの写真や僕なりのイメージを統合して作り出したのだろう街並みを、僕の身体は堂々と進む。

 街並みを見回そうとして首を巡らせ──操作を受け付けないことに気付く。声も出せない。どうやらこの夢、VRMMO内でノンプレイヤーキャラクターと感覚を同調しているようなものらしい。自分の身体を勝手に動かされるような不快感を覚える。同時に就寝時の服装を思い返し、ジャージなんかでこんなところに来たのではと不安になる。

 誘蛾灯に惹かれるように、大通りを歩くサラリーマンやOLが店に消えていく中、僕の視点はどこにもブレなかった。

 夢の中の僕は一言も発することなく、ただ小さな呼吸音のみが辛うじて聞き取れるだけだ。

 しばらく歩き続け、やがて歓楽街の明かりが届かない路地裏へ入っていく。表側からは考えられない静寂と暗闇だ。星央都にこんな場所があるとは思わなかった。

 僕は近くに転がる錆付いたドラム缶の上に腰掛け、俯く。目線を下げたことによって、ようやく僕は自分の服装を見ることが出来た。

 上は白いカッターシャツに、巻いているというよりは掛けている状態に近い黒ネクタイ、その上から胸元に銀色の記号めいた記章が取り付けられた季節外れの黒地ロングコート。下はコートと同色の、両腿に漆黒の革ベルトが巻かれたズボンと、とても夏用と思えない黒ブーツ。

(何これ……)

こんなコーディネートなんて知らないぞ。視認した限りだけど、こんな服は所持したことなどない。

 そして何よりおかしいのは、右手首に巻かれた黒い(・・)『ポート』だ。見覚えなんてないぞ。

 というか、こんな黒ずくめでまったく暑苦しさを感じないのは、これが夢だからなのだろうか。それが救いと言えば救いなのかもしれないけど。

 それから一○分程経っただろうか。僕は俯かせた頭を上げ、路地裏の入り口を睨む。

(って何故に?)

 我ながらの行動に戸惑いつつ、目に映る景色に意識を向ける。

 表通りから、誰かが入ってくる。

 逆光で顔は判然としない。背は高く、輪郭は筋骨隆々と言うべきもの、というのが分かる。

 その人影を認識し、僕が口を開く。

「待ってたぜ、殺人鬼」



 …………………………………………はい?



 待て。口調もアレだけど、今何を言った?

 僕(本体)の混乱をよそに、僕(夢)は言葉を続ける。

「ずいぶんと探したよ。何せ捜査一課や公安一課も総動員した鬼ごっこでも、影すら掴ませねえってんだからな。こっちの手札は無能なわけがない……つまり、そっちが上手だったっつーことだが、見たところあんた、隠れ身が得意な部類じゃなさそうだ。出来ればタネ明かしてくれないか?」

「……この状況で、平静を装えるのか」

 見た目通りの厳い声で、男は感嘆を漏らす。

 一言喋るだけで周りのビル壁が震動する錯覚を体感する僕だが、夢の僕は肩をわざとらしく竦めるだけで、それに物怖じしなかった。

「装う? 馬鹿言え。素だよ素。こんな野郎二人っきりの路地裏で気取ったって仕方ないだろ。しかも相手は四人殺しの殺人鬼だ」

 むしろ気障っぽく男を指差し、挑発し返す自分の行動に、夢の中だというのに気絶しそうだった。

 暫定殺人鬼が口の端を吊り上げる。

「なら、わざわざ殺されに来た物好きか。まだ年若いと言うのに、とんだ親不孝者だ」

「殺人鬼に忠孝を説かれたかねえよ。それに俺に親なんざいない」

「……よもや、孤児か」

 同情じみた目を向ける男に、軽佻浮薄に近い態度で応じる僕。

「生憎、そういう意味じゃあねえ。それに、通りすがりの殺人鬼に生い立ち語る程、俺の人生困窮してねえよ」

 迷惑は掛けてるだろうけどな、と付け加える。

 そんな夢の中の僕が取る言動を見て、何というか、異様な恥ずかしさを覚える。

 この、中学生くらいが憧れる感じの不敵な性格、斜に構えた態度を崩さない軽妙洒脱さ、そして夏場にあり得ない過剰な黒ずくめ……。

 まんま、僕の黒歴史(チュウニ)時代の妄想だった。

(うあああああああっ! 何これ、何で今さらこんな夢を!? 大概の明晰夢は事故現場のリフレインなのに、何で今日は黒歴史垂れ流し!? ちょ、待、これ……駄目だ、目が覚めない!)

 身体が動けば、汚い地面を転がることに躊躇しないだろうレベルの羞恥が僕を襲う。そうじゃなくても、起床後即座に床で頭を叩き割りたい衝動に駆られるはずだ。

 唐突に、僕の口が動く。

「……うるっせえ」

 ……え?

 一瞬、僕に言われたのかとドキリとした。確かに身体の自由が利かないのは今回が初めてだから、『夢を見ている僕』と『夢の中の僕』が他人として成り立っていても、驚きはするけど最終的には納得は出来てしまうかもしれない。

 しかし、どうやら違うようだった。

「主義主張なんざ、今この場で謳っても仕方ねえ。ここには俺達しかいないし、お前は俺を殺したいんだろうが。だったら御託並べる間に、その得物で咽喉を切り裂くぐらいしたらどうだ?」

 僕が一人騒いでいる間に、男が何やら言っていたらしい。それを、夢の中の僕は不快を露に突っ張ねたらしい。

 『この僕』は、どんな性格設定をされているんだろう。自分の精神性が本気で心配だ。

「……少ない命を永らえさせようとは考えんのか、若造」

「若造、ねえ」

 ポリポリと髪の跳ねた頭を掻き、意味深に僕が復唱した。

「殺す相手の老若男女を区別しない奴が、ガキに延命の情けをかけるってか? 滑稽極まる」

「…………」

「履歴を後ろから言ってやろうか?

 一番新しい被害者は鹿沢(かざわ) 玖郎(くろう)。建築会社の設計士、男性、三二歳。築一○年の安アパートに住み、月に一度、離婚した妻と娘の家に顔を出すのが心の拠り所だったと彼の母親は語る。七月一日に死亡確認。

 その前は霧原(きりはら) (はるか)、一七歳。男性。二年前から登校拒否を続け、三ヶ月前に自主退学。トイレや風呂、週一でコンビニに出る以外は外出なし。五月三○日に死亡確認。

 その前、身元は未だ不明の五○代から六○代の女性。ホームレス。仲間内ではカメさんと呼ばれていた。主な拠点は鬨谷(ときのや)区河原沿いの高架下。四月一九日に死亡確認。

 んで、一番最後。ああ、時系列ならこれが一件目だな。月島(つきしま) 楼科(ろうか)、一五歳。女性。名門・私立填央学園の入学から四日後、咽喉と肝臓を刺し抉られ殺害された。あのときは連続殺人なんぞに発展するとは、誰も思っちゃいなかったな、きっと」

「……小僧、貴様なぜそれを知って──!」

 男が今にも掴み掛かりそうな剣幕で怒鳴る。……ところで、こんなに大声を出して大丈夫なのだろうか。

 そして、なぜ夢の中の僕はこんな情報を喋れるんだ。妄想捏造にも程があるだろう。

「さあ? 知りたきゃ襲って屈服させろよ。そうすれば命と引き換えに教えてやる」

「……情報源を教える代わりに見逃せ、と?」

「はあ? お前頭ん中お花畑かよ」

 明確な嘲笑いを浮かべ(オイコラ)、中指を立ててあからさまな挑発をする。

「『情報と引き換えに自身の命を拾う』か、『お前の命を対価に情報を買うか』だろ。今際の際に踏ん張れば化けて出られるんじゃねえの。それに賭けな」

「……吠えるな、痩せ犬が!」

 ついに怒った男がベルトのホルスターから刃物を抜き、突進してくる。巨体に見合わない速度で巌じみた威容が迫る。

 ……あれ、これ夢だよな? 何でこんなに生々しい恐怖を抱いているんだろうか。

 『僕』が笑う。

「おいおい、やっすい挑発に軽く乗るなよ。お前の価値が問われるぜ」

「戯言を」

 踏み出しは轟音を伴い、地面を窪ませる。突進の勢いを乗せた鋭い突きが、真っ直ぐに咽喉に向かってくる。

「──抜かすなァ!!」

 ゾクン、と背筋に冷たいものが走る。男の嚇怒が僕の全身を叩く。

 殺される(・・・・)と、直感した。もう駄目だ。棒立ちの僕に、これを躱すことは出来ない!

 瞬間、景色が色を失う。同時にナイフの動きが格段に遅くなる。

(これは……)

 脳が危機回避を行うために、情報処理能力を拡大したのか。高性能カメラでのスローモーションムービーの解像度をより高くしたモノクロの世界。

 だが視覚が強化されても、身体はその動きに付いて行けない。脳からの電気信号が運動神経を伝う速度が遅すぎるのだ。

 間違いなく、夢の中の僕は死ぬ。

 いや、本当に夢なのか?

 現実、そうでなくても正夢ということもあり得るのでは?

 だとすれば、『ポート』が水色から黒色に変わっているのも納得だ。遠からぬ未来、『ポート』のカラーリングを変更することになるのだろう。

 あるいは、今から死ぬのか。この夢は暗示であり、現実では対処法がない新種のウィルスに侵されるとか。

 そうなればどちらの僕もアウトか。ナラ兄に伝染はしてほしくないな。

 そんなことを考えながら、ゆったりと動くナイフが首に触れるのを見る。どうせ躱せない。ならせめて、この応報を見届ける。

 これはきっと、九年前の事故に起因する結末なんだ────。

「ほいっと」

 ………………………………痛みが、来ない?

(あれ……)

 視界にはナイフも男も存在しなかった。皮膚に触れたナイフの感覚も消失してしまっている。

 ……いや、いる。五歩分離れた位置に、男が後退している。

「……貴様」

 男が憎々しげに睨んでくる。

「……何をした」

「何だと思うよ?」

 混ぜ返すように男に言う。その対応に、さらに青筋を浮かばせて、声を震わせて怒鳴る。

「今の反応速度は、断じて人間のものではない! 皮一枚だけを切り裂かれたのを認識して、反射でなく反応による回避を行うなど……!」

 男の言葉に、驚愕よりもまず呆然が勝った。

 避けた? あの状況から? そう言えばさっき、気の抜けた掛け声を出していたような……。

 だがしかし、それはあり得ない。僕にはあんな運動能力はない。そもそも運動自体得意じゃないのに、そんな超人的なことが出来るはずもない。いくら夢だと言っても、そんなもの荒唐無稽にも程があるというものだ。

 夢の中の僕はせせら笑う。

「だが現に起きたことだろ。それとも自分の正気を疑うか? それもまあ当然っちゃ当然だろうが……受け入れとけよ、お前からして荒唐無稽な存在だろうに」

 と、そこまで言ったところで、男は先程以上の速度を以て接近してくる。ナイフがいつの間にか両手に握られており、それらを的確に僕の急所に当てようとしていた。

 そしてそれらは全て宙を切る。

「驚くのも無理ねえよ。そりゃ今までのお前の獲物は雑魚ばっかだからな。俺みたいなのが関わって来るなんて、覚悟はしてなかっただろ」

「……予感は、あった」

「そうかい。こっちも予感で目醒めた手前、お互い様ってとこか」

「……やはり、原罪因者(シンス・レイヴン)か。それも、極めて濃度の高い……!」

「いやー、それなり以上には手を加えられちゃいるけどな。別に原罪因者って、どいつもこいつもアホみてえに武闘派になるわけじゃねえし。お前だって、その体格はどう考えても手ぇ入れてるだろ。日本人とは思えねえ」

「……チッ。流石は暗部の狗だ。そこいらの事情にも詳しいと見える」

「見えるってのは、また面白い冗談だ」

 僕には理解不能な話題を続けながら、目まぐるしい攻防も続いている。男のナイフは全てが全てかすりもせず、夢の中の僕はそんな男に反撃をしようともしない。防御に徹するというより、遊んでいる印象が深い。

 嵐のような攻撃を、しかし僕は見切っているようだった。余裕綽々に懐に左手を入れ、マイクとイヤホンが合わさったような器材を取り出して左耳に装着する。

「……あーあー、聞こえるか」

 マイクを口元まで伸ばし、何やらスイッチを入れると、そんなことを呟き始める。

 即座に声が返ってくる。少ししわがれた中年男性のものだ。

『おう……お、カルキ? おめぇカルキか!?』

「久しぶりってとこか? けどな、威場(いば)さん。今はんなこと悠長に言い合ってる暇はねえぞ」

『いやぁ、懐かしいなオイ。何年だ、えーっと……そう、九年振りだな! あんときはお前まだガキだったよなぁ……』

「人の話聞いてんのかボンクラ親父! 和やかに懐古に浸ってんな!」

『あー、あいよ。ったく、再会ぐれぇじっくり祝えねえモンかねぇ……』

 ぶつぶつと、しかし嬉しそうに返事をする威場という男。当然ながら、この人物も記憶には────ッ!

(なん、だ……? 変な頭痛が……)

 不可解な頭痛の正体を、しかし僕は確かめる術も時間も持たなかった。

 威場の通信が聞こえる。

『そいつの「イロカネ反応」から割り出せたぜ。飯嶋(いいじま) 呉斗(くれと)。三年前に勤めていた建設会社から首にされ、路頭に迷って民家に強盗殺人を行ったことで咎人化(クライム・シフト)を発現。以降、公安零課参係、通称「監罪係(カンザイ)」からの監理を受けている』

「ふうん。つまりこいつは原罪(シンス)の仮封印がされてるわけだ」

『当然ながら、脳内のBICで害意ある行動は抑制されるハズなんだがなぁ』

 その一言に、『カルキ』と呼ばれた僕は鼻で笑う。

「咎人だからって頭蓋切り開いてチップ埋め込むってのは、相変わらずイカれてんな」

お前の身体(・・・・・)に比べればまだ浅い。それより目の前の問題────』

 不意に威場の声が途切れた。直後に耳障りなノイズが鼓膜を叩く。

 殺人鬼が薄く笑う。

「……これで、応援は呼べん」

「『妨害』……なーる。それがお前の原罪か」

 相手の胸板を蹴り付け、その反動で後退する僕の身体。殺人鬼は蹴られた部位を抑えて顔を顰める。

「だが解せねえ。お前の原罪は仮封印されてるはずだ。BIC……ブレイン・インプラント・チップがある限りな」

 ブレイン・インプラント・チップ。略称『BIC』は、僕が生まれるより前に製造、販売、使用、その全てが禁じられた。脳に植え付けること自体はクリア出来るのだが、その後にチップが不具合を起こし、数千人規模での死人・脳障害者を出したことから、日本ではタブーとして消え去ったという。

 それが、あの男の脳にあると?

「無理に原罪を遣えば、脳神経を焼き切るよう設定されたBICの壁を、どうやって突破したんだ? 教えてくれよ」

 コキリ、と首を鳴らして、男は立ち上がる。胸部の痛みは治まったらしく、挙動にも不審さは見受けられない。

「……知りたければ、命を棄てろ」

 それは明らかな交戦の意思だろう。元々希薄な『見逃す』選択肢は、これで全部閉じたことになる。

 殺意を漲らせる男に、夢の中の僕はヘラッと相好を崩す。

「あっそ。じゃ、こっちも叩き潰す方向で行くぜ」

 前触れなく突進。最初の攻防の出だしと、ちょうど対極な展開だ。

「な、に……!?」

 たった一歩で開いていた距離を踏み潰すと、右手で男の左のナイフを奪い、左の掌を無造作に男の顔に振る。反射的にナイフを持った右手を動かす男の表情は、戸惑いと恐れがない交ぜになっていた。

 ぞぶり(・・・)、と奇妙な音が聞こえた。左手の甲から、赤い液体に濡れた銀色の刃が飛び出している。

 ……え、まさか。

 ガシリ、と愕然を露に硬直した男の右手を、貫かれた左手が握り込む。

「はい、捕まえた」

 爽やかに、見る者に戦慄と恐怖を抱くだろうにこやかな表情で、夢の中の僕は笑っているのが、血塗れのナイフに反射して見えた。

 振りほどくため、男が腕を動かそうとする。

「……何故、何故何故何故だ! 何故微動だにしない!?」

 動かない。それどころか、僕の腕に押され、ナイフの切っ先が顔面に向けられる。

 左手甲を貫通し、鮮血が滴り落ちる凶器が。

「さて、聞こえるな殺人鬼。お前に質問なんだが、このナイフの刃は上向き下向きどちらだろうな?」

 いきなり意味不明なことを言う。そんなもの間違うはずがない。目の前に突き付けられているんだ。

 案の定、男は多少の混乱を示し、律儀に答える。

「……上向きだ」

「そう、上向き。じゃあこれなら?」

 ボギゴギベギン、と嫌な破壊音。

「……!? ぎっ、ぃ…………!」

「両足の膝を砕いて、右手首の間接を外した。許せよ、こいつは正当防衛だ。こっちは左手貫かれたんだ。痛みはないが(・・・・・・)、これ以上動作に支障を来すと後で面倒だ」

 何事もなさそうに言って、刺さったナイフを抜き取る。肉と金属の擦れる感触がくすぐったい。が……不思議と痛みは感じなかった。

 もはやこの夢、何でもありだな。

 ナイフを右手に持つと、両足を折られて倒れた男にかざして見せる。

「今、刃はどっち向きだ?」

 ナイフの刃は現在、寝かせた状態なので上も下もない。『どっち向き』というより『どんな向き』と訊くべきなのだ。

 それに、男はやはり律儀に答える。

「……下向き(・・・)

 大真面目に、焦点の(・・・)合わない(・・・・)瞳を凝らして。

「やーっぱり」

 血塗れのナイフを脇に投げ捨て、男の目を覗き込む。

「お前、俺の顔まともに見えてねえだろ。せいぜいがブレブレの実像拾えるだけだ」

「……いつ気付いた」

 忌々しげに呟く。

「……確かに、この目はまともに実を結んではいない。だがおいそれと気付ける程ではないはずだ。視覚の欠損は視覚以外で賄えばいい。動きにも違和感はなかったはずだが」

「最初からだ」

 語尾に被せるように、夢の中の僕が答える。

「ああ、お前が視覚異常を抱えてることにじゃねえぞ。その原因、根本的な仕組みにだ」

「何……?」

 眉をひそめる男に、夢の中の僕は端的に言う。



「いい加減芝居は止めろよ、人形師(・・・)



 男の動きが、今度こそ固まった。

「視覚異常はこの男の抱える障害でも何でもねえ。一つの視界をカメラレンズにして、その奥で操り人形越しに観戦して、会話して、殺してる。その弊害で、焦点が合ってねえように見えるのさ」

「何を、言って……」

「気付けよ筋肉達磨。どうやら自動操作(オートパイロット)で適当にやらせてるみたいだが、無理が祟ったな。網膜も水晶体も傷だらけなんだろ。超近眼状態なのかね」

 しゃがんで、鼻が触れるか触れないかの距離にまで顔を寄せる。

「こんくらいの距離にまで近付かねえと、まともに見えないんだろ」

 男の目が、僕の顔を映したときだった。

「あ、アンタ(・・・)……!」

「うん? お前みたいのと会った覚えはないぞ? それとも俺の顔に何か付いてるか?」

 一瞬、口調が、変わった。

「…………そうかよ。全部気付いてやがったってのか……?」

 グラリ、と男の身体が揺れる。蜃気楼のように……いや、揺れているのは僕の視界か。もしかして目覚める兆候なのか?

 男は途端に全身を脱力させ、コンクリートの地面に後頭部を預ける。

 乾いた笑いを漏らしながら、

「そうかそうか。結局、アンタの掌で踊らされてたってことかよ。チッ、つまらない幕引きだ」

「おい。俺は付いていけてねえよ。まずお前誰だ」

『俺も気になるなぁ。おめぇの目的とか真意を教えろ』

 通信が復活したのか、威場も口を挟む。

 その質問に男は自棄じみた嘲笑をこぼした。

「ハッ、とぼけんな。あたし(・・・)の邪魔ばっかしやがって! そんなに楽しいか、人の努力を踏み躙んのはよォ!!」

 激昂したらしい男が残った左腕を振り回す。それを回避するために頭を逸らして後ずさる僕に、男は怒鳴る。



「真意!? そんなもん復讐に決まってんだろうが! 思い知らせるんだよ、無意味に踏ん反り返ってやがる塵屑どもにな!

 名前ェ? 阿呆がンなモン一度聞いたら脳ミソに刻んどけ!」



 そして口を開き、さらなる大声で自らの名を叫ぼうとしたところで。



「あたしは────!」



 その直後、目が醒めた。






◆◇◆◇◆






 翌日午前八時二八分。

「…………………………………………」

 俯いたまま、慣れない通学路を自転車で駆ける。浅羽滴区では珍しいを越えて不吉さを感じさせる程に車の往来が少ない風景に、しかし関心を向けることをしなかった。

 原因は昨晩の明晰夢だ。正確には最後の最後、男を操っていたという黒幕の名乗りの部分である。

 聞き取ることは出来なかった。覚める直前は、耳が音声の一切を拾わなかったのだ。おかげで聞きそびれ、夢から浮上してしまったのだ。あの夢は一部を除いて鮮明が過ぎた。一概に夢物語と片付けられない。

 気になるのはそれだけではない。

 左手の掌を見る。そこにはいつも通り、傷一つない不健康な肌色の掌だ。当然だ。夢での負傷の跡など、新たに作り出さない限り見付かるはずもない。

 それに安堵を覚えつつ、もう一つの懸念に目を向ける。右手首の『ポート』である。

 今朝、念のためにニュースや日刊新聞を見て、三ヶ月前から続く殺人事件について載っていないか調べたが、結果はゼロ。喜ばしいのか残念なのか、複雑な気分だ。

 だからあれが全部出鱈目かと言えば、ほんの少しの綻びがあった。

 『ポート』内部のメールサーバーに溜まったメールに、おかしなものが混ざっているのを確認した。送信者不明、題名欄も本文も空、アドレスリンクさえ入力されていない文字通りの空メールだ。

 それに何故か悪寒が走り、削除しようと項目を操作したところで、勝手に何かのデータがダウンロードされた。

 ウィルスバスターソフトを使って精査しても異常はなく……停電が起きたというのに心配のメール一つ寄越さない両親にその旨を報告して、ナラ兄があらかじめ予約しておいてくれたレンタル自転車に乗って家を出たのだ。

「……停電といい、明晰夢といい、メールといい……何なんだよ全く」

 信号に捕まり、停車させる。最後に乗ったのはずいぶん前だというのに、案外身体は覚えているものらしい。

 青信号になるまでの間、空を見上げてぼーっとしてみる。雲一つない晴天が、やや憎らしい。僕の神経を逆撫でする。

 知らず、ため息を漏らす。

「はぁ……」

「朝からため息なんかかましとったら、一日持たんと思うよ?」

「うわっ!」

 いきなり、声を掛けられた。同じく信号を待つ者として親近感でも持ったのだろうか。星央都ではあまり見ない、変人に分類される人間性だ。

 同い年ぐらいの少女だった。セミロングの黒髪を紐でまとめ上げている。顔付きは凛々しさと可愛らしさの中間程か。灯湊さんの顔立ちをもう少し柔らかくすれば、こんな感じになるのだろうか。

 これだけならよかったろう。口調から、『少し馴れ馴れしい観光客』みたいな印象で済ませたかもしれない。一見普通ではあるのだし。

 ただ服装がよろしくなかった。

 上はどう見ても季節外れな、アクリル製のベージュのセーター。編み方はニット編みの一種だろう。サイズが合っていないのかダボダボで、視覚的にも暑苦しい。夢の中の僕が着ていたコートとは別の意味でよろしくない。下は下で、セーターの裾から見え隠れする程に短いホットパンツに左右非対称な長さの黒いニーソックス。こちらは対照的に涼しげである。ホットパンツの丈が短すぎて、スカート兼用セーターみたいになっているのは、彼女特有のファッションセンスか。

 ちなみに靴は有名ブランドのスニーカー。高級感はなく、ただ履きこなしたような風格がある。

 総じて感想を述べるとすればこうだ。

(……何だろう、このちぐはぐ感は)

 コーディネートに気を遣っているのかいないのか以前に、季節を理解しているのか問い詰めたかった。セーターとかセーターとか、あとセーター。

「具合でも悪ぅなったんですか?」

「…………はっ」

 上目遣いに見てくる少女の言葉に、ようやく我に返る。

 こちらを案じる少女に手を振って問題ないと示す。

 彼女は微笑んだ。

「よかった。暑さにやられてしもうたんやないかと」

「ははは……」

 きみの格好は暑いのか涼しいのか分からないね。

 そう突っ込みたいのを堪え、歩行者信号を見る。まだ青になるには少し間がある。

 傍らに立つ少女は、また声を掛けてくる。

「しばらくお話、構いまへんか?」

「……ええ」

 答えた直後、少し後悔したが、後の祭りだった。

「暑いですねえ」

「そうだね。きみの場合はそのセーターを止めればいいと思うよ」

「それセクハラちゃいますか?」

「他に訊き方を知らないんだ。ごめんね」

「ええですよ。……そういえば、この時間帯って、もう登校してないといけんのやないですか?」

「そうだね。きみは学校はないのかな? 見たところ制服でもないようだし」

「はいー。実は私、中卒でして。こっちには仕事で来とるんですよ」

「へえ。何の仕事?」

「清掃ボランティアみたいなもんですかね。やり甲斐があります」

「熱心だね。頑張ってね」

「はい。おおきに。お兄さんはどこの高校ですか?」

「填央学園。知っているかな?」

「はいー。名門だって、両親から聞かされとります。私には雲の上の存在ですね。尊敬します」

「はは、それはありがとう。……ところで、ええと」

「ああ、そういえば自己紹介がまだでした」

 少女は申し訳なさそうな顔をすると、二歩程引いてお辞儀をしながら、

猩徊府(せいかいふ)埠路梁(ふろはし)地区出身、護塞(ごさい) 涼子(りょうこ)と申します。お兄さんのお名前は?」

 驚く程丁寧な挨拶をされた。エリアだけでなく居住区名まで名乗りに含むことは珍しい。どうやらこの護塞さん、今日びの高校生よりも礼儀がなっていた。

「僕は星央都、浅羽滴区在住の破矢 駆摩(カルマ)だ」

 ならばと、こちらも丁寧に返すことになる。

 名前を聞くと、嬉しそうに顔を綻ばせる。

「よろしく、カルマお兄さん」

「うん。こちらこそ……護塞さん」

 出来ればよろしくしたくない。礼儀正しく害はなさそうと言ったって、真夏にセーター着て顔色一つ変えない変人とコミュニティを繋ぐのは控えたいのだ。ただでさえ、僕の交友関係はよく分からない図式になっているんだ。最近加入した灯湊さんも、変人と言えば変人。これ以上は増えないでいただきたい。

 そんな考えをおくびにも出さず、平然を装って返事をすると、彼女は不満そうに頬を膨らませる。

 何がまずかったのだろう。

「お兄さん。せっかくフルネームを教えた意味がのうなるやないですか」

「……えーと」

「名字やのうて名前で呼んで下さい」

 マジですか。

(最近の子ってこんな開けっ広げなのだろうか。初対面の相手でもファーストネームを呼び合うのが通例……? いやしかし、灯湊さんはちゃんと名字で……ああ、彼女は別に仲いいわけじゃなかったっけ)

 軽く混乱しつつも、このままでは話が進まないので、

「……じゃあ、涼子さん」

「及第点ってところやろか。呼び捨てかちゃん付けの方が性に合っとるんですが」

 呼び名に関してはやけに拘るなあ、この子。

「じゃあ、僕も名前は縮めて呼んでほしいんだけど」

「? じゃあカルお兄さんで」

 お兄さんと呼ばれるのは何だか新鮮だ。

 気になるところではあるが。

「あの、何できみは僕のことをお兄さんと呼ぶんだ? 同い年くらいだろう」

「迷惑でしたか?」

「いや、そういうことは……」

 早く話を切り上げたかった。いつの間にか変わっていた信号が、また点滅している。話している間にかなり時間が経っていたらしい。

 まあこれ一つくらい見逃しても、停電のせいで登校時間がいつもより寛容なのでギリギリ大丈夫ではあるのだけど。

「何月生まれですか?」

「え。えーと、一二月だけど」

「私は八月生まれの一五歳です。時期的に私が年下ですから、お兄さんと呼んでも不思議やないはずです」

 胸を張って言われると、これ以上拒否するような物言いは可哀想だろう、という気になってしまう。

 お兄さんと呼ばれるのも、こそばゆいというか、嬉しい気もする。弟として普段から兄と呼ぶだけだっものな。

「分かったよ。それでいい。僕も涼子ちゃんと呼ばせてもらうから」

「はい! ……あ、そろそろ時間や」

 涼子ちゃんはふと『ポート』を見て、そう呟く。ホワイトシルバーの最新機種らしい。

 彼女はまた丁寧にお辞儀する。

「それじゃ、カルお兄さん。また縁がありましたら」

「うん。元気でね」

 互いに手を振って、僕は信号が点滅し始めた横断歩道を、涼子ちゃんは身を翻して──横断歩道とは真逆の方向へ駆けていく。

 横断歩道を渡り終えて、今さらな疑問が口を突いて出た。

「……涼子ちゃん、そっちに行くなら、何でわざわざ信号が変わるのを待ってたんだ?」

 そして何故僕に話しかけたのだろう。

 訊いていたらとんでもない返答があった気がするので、呼び止めなかった判断は正解だったと思う。






◆◇◆◇◆






 それから週末まで、学園では一悶着あった。

 まず灯湊さんが学校を休み続けたことだ。一応は公欠らしいので、トラブルというわけでもないだろう。夜の報告に関しても、一貫してテンションは低いが欠かしてはいない。相変わらず由代さんのことになると全力を出すようだ。

 次に……というか、これは灯湊さんの公欠と連動していそうなトラブルだった。僕と由代さんの所属するクラスから、七人の生徒が失踪した。しかも全員が示し合わせたように、木曜日からぱったりと消息を絶った。警察が捜索しているようだが、成果は芳しくないらしい。灯湊さんにも訊いてみたが、知らないと返された。何故か学校側はあまり騒ぎ立てない──というか、気にしていないという感じが強い。何を考えているのか、いまいち汲み取れない。

 三つ目、これが最後にして、ある意味最も重要だ。クラスメイトの安否より大事かと問われれば頷きかねるが、三ヶ月の成果が思いもよらない実の結び方をしたため、衝撃が強すぎたのだ。

 それは七月四日の水曜日。失踪が起きる前日のことだ。

 いつもの日課として、放課後の教室で由代さんからやや離れた席で本を読んでいた。

 最後のページを読み終えて、さてどうするかと思ったときだ。

「あ……ぁの」

「……ん?」

 手をもじもじと合わせ、顔を俯かせてこちらを窺う由代さんが、小さく声を掛けてきたのだ。

 僕は文庫を鞄に戻し、威圧的にならないよう気を付けて返事をする。

「どうしたの?」

「そ、そろそろ……帰る……りますので、その、鍵を……」

 明らかに他人と話す経験が乏しい、ところどころおかしな文章だった。

「ああ、分かったよ」

 鞄を持ち、ドアへ近付いていくと、由代さんもおっかなびっくり付いてくる。

 誰もいない教室に鍵を掛け、夕陽がかかる廊下を歩く。

「…………」

 背後の気配で、どうにも慌てているのが分かる。ときどき「……ふ、二人きり……」だの「……ミサちゃん、力を……!」だの漏れ聞こえてくる。

 そんなに恐がられているのだろうか。

 その予想にへこみ、階段の踊り場に差し掛かったところで、

「は……破矢、くん」

 夕陽のせいなのか、やけに顔を真っ赤にした由代さんが僕を呼び止めた。

「……どうしたの?」

「ひっ、ひ、いや、ごめんなさい破矢様!」

 錯乱したのか、わけの分からないことを言い出した。様って。何か緊張している風だけど、何に緊張しているのか見当も付かない。

 彼女は長めの前髪に隠れた目を、逃げ場を求めるようにしばらくキョロキョロさせ……やがて意を決したらしく、僕を真っ直ぐ見据えてきた。

「破矢くん! た、七夕のお祭り一緒に行きませんか!?」

 これは……一緒に行こうと誘われているのだろうか?

 浅羽滴区から二区画跨いだ煌河(こうが)区は、七月七日に七夕祭りと称して祭りを開く。周りの建物もこの時間は空気を読んで照明をやや落とし、花火を楽しめる暗さにしてくれる。星々を見渡せる程ではないが。

 そして七夕祭りは、大概の客がカップルなのだ。そのため、異性と行けば恋人同士になれるという都市伝説がある。

 そこら辺の思惑はないだろうけど、由代さんは祭りに僕を誘っていることになるのだろうか。

 由代さんはと言えば、やり切ったとばかりに満足げな表情を浮かべている。体格も相まって、非常に可愛らしい。

「いいけど……僕が相手でいいの?」

「あ、相手ぇ!? そ、そそそそそれはもちろん! 準備はおーけーです、ばっちこーい!!」

「よし由代さん、とりあえず落ち着こうか」

 もはや何を言っているのか分からない。大丈夫だろうか。

「深呼吸するか素数を数えるかしたらいいんじゃないかな?」

「は、はい……にー、さーん、ごー、しーち、じゅーいちー、じゅうさーん」

「ごめん由代さん、一遍にしろって意味じゃないんだ」

 ラジオ体操式の深呼吸をしながら素数を数え上げる彼女を止める。どうやら正常な判断力がやや鈍っているらしい。

 まあ、素直にそうする姿もまた、愛嬌があるのだけど。

 一応落ち着いた由代さんは、消え入りそうな震え声で、

「……ごめん、なさい」

 と身を縮こませた。どうやらヒートアップしたことを恥じているらしい。

 そんな気負いを和らげるため、先程の誘いにはっきりと答えた。

「由代さん。僕でいいなら、一緒に七夕祭りに行こう」

「……! あ、ありがとうございました!!」

 何で過去形。

 まだ緊張しているのだと思おう。



 ……まあ、これらが七月七日までの、主な出来事だ。

 祭りに誘われたことをその日の夜に灯湊さんに報告したところ、「やっぱり絹花は可愛いだろ! 可愛いよな!?」と久しぶりにテンションを上げた彼女と些細な騒動もあった。

 失踪したクラスメイトの行方は杳として知れないが、そんなものは時間という概念にとってはどうでもいい些末事のようで……あっという間に、七夕を迎えることとなった。






◆◇◆◇◆






 土曜日は午前授業が終われば放課後となるので、一旦家で準備をし、それから現地で落ち合おうということになった。本当は僕が彼女の家に迎えに行こうと考えたのだが、あちらの父親が誘った側であることと、娘の身の安全を主張して送ることになったらしい。

 後者は僕としては甚だ不本意な理由だった。

(全く……不純異性交遊なんかしないのに)

 お金の面でも、小遣いが多過ぎて有り余っている程だ。具体的には屋台を二つ三つ買収出来るくらい。そうでもしないと使い切れない。

 ただまあ、娘を思う父親の気持ちは分からないでもない。由代さんはいじめについては相談してなかったそうだが、灯湊さん曰く『知っていれば首謀者を社会的に抹殺しかねない』らしい。どんな人だ。

 それはともかくとして。

 時刻は現在午後四時前。七夕祭り会場となる神社の石階段の端に腰掛け、団扇を扇いで由代親子を待っていた。

 今の僕は簡素な色合いの浴衣と草履という出で立ちだ。祭りなのだからと、ナラ兄が昔のものを引っ張りだして、合わせてくれたのだ。あっちはあっちで彼女さんと回っているらしい。

 もしかしたら鉢合わせするかも知れない。

 脇を男女が通って行くのをやや居心地悪く感じ、ぽけーっと目前の道路を見ていると、一台のタクシーが止まった。

 あれだろうか。

 ドアが開き、その中からおどおど周りを見る浴衣の少女が現れる。

「……あ、は、破矢くん」

 不安そうな顔から一転、ホッとした表情になる少女……由代さんだ。

 彼女の浴衣姿を見て、僕は思わず吐息をついてしまう。

 黒を基調とした浴衣は、彼女の白い肌を一際印象付ける。帯は金色の刺繍が施されたもので、それが浴衣とマッチしている。普段流している長髪はしっかり結わえられており、前髪もヘアピンで目にかからないようにされているため、小さな顔はきちんと見えている。

 普段の彼女からすれば新鮮だ。灯湊さんではないが、確かに可愛いと言って過言でない。

 僕が由代さんに近付こうとすると、もう一人の男性が降りてきた。やや暗い表情の、ラフな格好をした三○代程に見える男性。

 この人が由代さんの父親なのだろうか。

「あ……お父さん」

 ああ、やっばりそうなのか。やけに警戒するような目で睨んでくる男性に会釈する。

 男性はにこりともせず、

「由代 泰山(たいざん)だ。娘が世話になっている」

「初めまして。破矢 駆摩と言います」

 何となくギスギスした雰囲気の下、挨拶を交わす。……この人には娘さんをストーカーしたとか言えないな。言った瞬間に敵と認識されそうだ。

「私は絹花を送るためにここに来た。これから家宅に戻って仕事をしなければならないので、そうは話せない。だから、今ここで言わせてもらおう」

 由代氏はじっと僕の目を見て、淡々と告げた。

「──娘に不埒な真似を働けば、ただでは済まさん」

「……了解していますよ。不純異性交遊を好んでいるわけではありませんし、由代さんを傷付ける真似をすれば、貴方()に殺されかねませんから」

 由代氏と灯湊さんの報復は恐い。もし本当にやらかしたらそれらを受けるのも仕方ないが、不可抗力の場合、減刑願いが通るか心配だ。

 僕の答えに、一応は満足したのか引き下がる由代氏。そのままタクシーに戻り始める。

「あ、お父さん。ありがとう」

 娘の声に、由代氏は少し振り向いて、

「お前が操ちゃん以外と遊ぶのはやや心配だが、そこの少年の言とお前の判断を信じるとしよう。……楽しんでこい」

 そのままタクシーに乗り込み、走り去ってしまった。

「…………」

「あ……き、気を悪くしないで、ね? お父さん、いつもはあんなんじゃなくて……!」

 タクシーの去って行った方向を眺めていると、由代さんが慌ててそんなことを言い始める。僕が不機嫌になったと思ったのだろうか?

 だとしたら無用な心配だ。

「分かっているよ。むしろ愛されているのを見て、ホッとした」

「……そ、そう?」

 頷くと、ようやく顔を綻ばせた。さっきまでは緊張の入り交じった笑顔だったし。

 ……しかし、今の言い方は少しまずかったかと思ったのに、特に反応は示さなかったな。要するにほとんど味方がいないってことだからな、あの言い方じゃ。

 そこら辺、鈍感で助かった。

 さて、そろそろ祭り会場に入るとしよう。まだそこまでじゃないが、後から混みだすだろうし。

「じゃあ、行こうか」

「は、はい! ……ひゃっ!?」

 階段一つ目から躓きだす由代さんが危なっかしい。動きがガチガチだ。

 仕方ないので、そっと彼女の手を引くことにする。

「ごめんね」

 予防線をかねて謝りつつ、歩行速度に合わせて登っていく。

「あ、あぅぅ……」

 恥ずかしそうに顔を真っ赤にする由代さん。拒否して振りほどかれるかと危惧したけど、そんな動きはないようなので、そのままリードしていく。

 屋台が道の両脇に並び、既に飲食物の屋台は美味しそうな匂いを振り撒きながら作りたてをパック詰めにしている。

 由代さんを見る。彼女も目の前に広がるたくさんの屋台を見て、目を輝かせている。

「すごいね」

「…………!」

 僕がそう言うと、首振り人形もかくやという勢いでコクコクと肯定する。

 さてそれじゃあ、思いっきり遊ぶとしようか?






◆◇◆◇◆






「さて、とりあえず屋台を見て回ろうか」

「は、はい。よろしくお願いします!」

 何をよろしくしているのだろうか、彼女は。

 この神社は星央都にある七つの神社の内、最も巨大な土地面積を持つ。その分並び立つ屋台は数が多く、また品質も高い。そのくせ値段はお手頃で抑えているので、格安で美味いものが食べられるという面でも有名なのだ、この祭りは。

 今見る限り、香ばしい匂いと焼き音を立てている焼きそばや、実の詰まったフランクフルト、祭りの定番となるリンゴ飴や綿菓子が列もそこまででなく、簡単に手に入れられそうだ。

(…………ん?)

 ふと、妙な視線を感じた。

 その方向を見るが、特にこちらを窺う人はいない。むしろ唐突に視線を左右に振る僕の方が由代さんに不思議そうな目を向けられた。

「どう……したんですか?」

「いや、何でもない。それより、何か買って来よう。何がいい?」

 屋台に話題を振ることで追及を避ける。

 彼女はその問いに、一瞬だけ視線をチラリと、ある屋台に移す。

「……激辛北京ダック? あれが欲しいの?」

「へっ……あっ、いや、その……! …………はい」

「…………」

 マジですか。

 一際赤い空気を漂わせる屋台を一瞥した直後、目がやけに染みた気がした。

 無論そんな感覚は幻だ。屋台まではざっと一○メートルは離れている。だからこれはあくまで幻覚のはず、僕の脳がそんな錯覚を起こしたというだけなのだけど……そう楽観出来ない何かが、その屋台周辺には立ちこめていた。

 よく見れば、その両隣の屋台は、他の屋台よりも広い間隔を北京ダックから取っている。しかも両隣も、当の北京ダック屋台も、店番は水中でもないのにゴーグルを掛け、この暑いのにも関わらず長袖を着ている。僕には、それらがどうしても北京ダックに塗されたスパイスやら何やらが肌や目にかからないようにする防護策に見えてならない。外国では命に関わるレベルの激辛料理があると聞くけど……あの北京ダックはそれと同列に語られるものなのだろうか。

(…………)

 だが。だが、だ。

 もし仮に、ここで彼女の求めたものを用意しなければ、それはイコール彼女を傷付けることにならないだろうか。

 突っ張ねることだけは恐らく出来る。良心の呵責に苛まれるだろうし、その後由代氏や灯湊さんからの制裁が待っているだろう。

 だが、命と天秤に掛けられるかと言えば、大概はノーだ。普通、誰だって命は惜しい。あんな、口に入れた瞬間口内はおろか呼吸器系もすら焼け爛れそうな料理を好きでもないのに食せるわけがない。

 だが。

「……分かった。あれでいいんだね?」

「う、うん」

 ただ、僕にはそれを選べない……いや、選びたくないと思ってしまう理由があった。

 それはすなわち、由代さんの拠り所となること。

 最初は彼女の環境周りを改善するだけのつもりが、灯湊さんと関わったことで、『恋人役』なるものを仰せつかってしまったのだが……。

 今はその『役』という言葉に、幾許かの反感があった。

 説明は出来ないけど、拒否感情が湧く。納得出来ないという感情が、頭の片隅で吠えている気がするのだ。

 だから、近付くごとに粘膜を傷付けかねない匂いを撒き散らす源泉へたどり着き、明らかに殺人的な北京ダックを二本購入、鼻と目が刺激されて鼻水や涙が溢れそうになるのを何とか抑え、包みの一つを由代さんに手渡す。

「はい」

「あ、ありがとうございます……!」

 歓喜ここに極まれりと言わんばかりに頬を緩ませる由代さん。うん。この笑顔が見れただけでも、殺人的料理を買った価値があっただろうな。

 嬉しそうに北京ダックを頬張る由代さんを、微笑ましい面持ちで見つめつつ、僕も北京ダックに齧り付いた。






◆◇◆◇◆






 吐いた。

 やはりあの北京ダックは僕には少々荷が重かったようだ。

 由代さんの前では顔色を変えることなく完食出来はしたのだけど──そこまでが限界だった。

 とにかく口内と咽喉と胃が凄まじい痛みを発し、仮設休憩所のトイレにたどり着くや思いっきりブチ撒けた。

 由代さんにこんな醜態を晒すのは、理屈でも本能でも断固御免だったので、個室トイレが備えられていたのはありがたかった。

 トイレから出ると、こっそり休憩所を離れて屋台で缶飲料を二本購入し、ベンチで待っていた由代さんと合流した。

「由代さん。これ」

「あ、ありがとう、ございます」

 無難にお茶を選択したので、好みによる大幅な外れはないはずだ。彼女は冷えた缶を両手で受け取ると、僕を見上げてきた。

「あの……大丈夫でしたか?」

「ん? ああ、うん。もう何ともないよ」

 あながち強がりではない返答をし、プルタブを開けてお茶を流し込む。これで幾分治まってくれると助かるんだけど。

 由代さんは申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい、私が欲しいって言ったから……」

「由代さんは気にしないでいい……って、きみにはそういう割り切りは無理かな?」

 突然の謝罪は、激辛北京ダックで僕が体調を崩したことに向けられたらしかった。まあ、気に病む理屈は分からなくはないけど。

「私、破矢くんに買ってもらえて嬉しかったです。お祭りに付き合ってくれたことも、こうして話をしてくれることも」

 由代さんはどもることなく、今までからは想像も付かった程しっかりした声で、謝辞を告げた。

「憧れてました。こんな風に、誰かと遊ぶことに。夢だったんです。家族やミサちゃん以外の人と、こうして繋がりを持つことが」

「…………」

 口を挟む気にはなれない。この独白は、妨げていいものではない。

「でも、結局は破矢くんに迷惑を掛けてしまいました。放課後もずっと一緒にいてくれて……三ヶ月前から続いた嫌がらせが段々収まっていったのは、破矢くんのおかげですよね」

(……それは)

「それなのに私、図々しくお祭りに誘って、そこでも破矢くんを大変な目に遭わせてしまって。もうダメダメです……もう破矢くんと会話する資格もありません!」

 涙さえ浮かべて、沈痛な声で言い切った彼女に、僕は。

(…………何このネガティブ思考)

 その独白を聞いて、最初に抱いた感想はそれだった。

 彼女の考えは大体分かる。勇気を出して誘ったはいいものの、相手に迷惑を掛けてしまって、愛想を尽かされるかもしれない。そんなところだろうか。

 恐らく彼女は、追い詰められた被害者特有の、何もかもの原因が自分にあるのではないかと考えてしまう心理状態にある。自虐的に振る舞うことで外部からのダメージを軽減しようという心理だ。

 しかし、この場合は的外れもいいところだろう。

「由代さん、それは違うよ」

「え……?」

 俯かせた顔を上げて、こちらを見る由代さんに言う。

「確かにいじめに対応したのはクラス委員としての義務だし、僕はきみが誘ったから七夕祭りに行こうと決心したんじゃないし、そもそも僕は北京ダックなんて買う気はなかったよ」

「…………やっぱり、私、破矢くんに迷惑を……」

「だから」

 また何か言われる前に次の言葉を繋げる。

「僕は、きみのために動いたことに後悔も後ろめたさも感じていない」

 今度は呆けたようにキョトンとする由代さんに微笑みながら言う。

「いじめさえなくせば真っ当に友情を育めるし、きみの誘いは素直に嬉しかったし、きみが美味しいと思うものなら食べてみる価値は十分にある──僕はそう思って行動していたよ」

 我ながら気恥ずかしい話だけど、ここ数日で目的が若干すり換わっていたのは否めない。

 ただ、これに間違いはないと思う。彼女の独白を聞き、僕もようやく自覚出来た。

 つまり、

「由代さん。僕はどうやら、きみに友愛以上の感情を抱いているみたいだ」

「え────えぇッ!?」

 うん。超展開過ぎるだろうけど、そういうことなんだろうな。僕だってさっき自覚したばっかりだし、そこは大目に見てほしい。

「ぇ、じゃあ、破矢くんは、私とその……こ、こここ『こうさい』をしたいと……?」

 驚愕と期待が半々に含まれた顔で、恐る恐る訊いてくる。

 それに僕は、

「あ、それなんだけど……ごめん、まだ無理」

「え────えぇーッ!?」

 超展開二発目。まあ発言が二転三転しているみたいで僕も気味が悪いので、注釈を付けておこう。

「実はさ、そういうことをする前に、やらないといけないことが残っているんだ。それを片付けない限り、申し込むことは不誠実だ」

 だから、今そういうことに手を出したくはない。

 僕の因果応報に由代さんを巻き込みたくない。

「そんなわけなんだけど……ごめん、自分でも考えがまとまってない。問題が解決するまでは、それに手を出すことは出来ないんだ」

「は、はぁ」

 人間、パニックが極まればむしろ冷静になるものらしく、由代さんは思いの外落ち着いていた。

 ただ、これで放りっぱなしなのはかなり申し訳ない。

「おかしなことを言って混乱させたことへのお詫びとして、何でも命じてくれて構わな──」

「な、何でも!?」

 由代さんは急に色めき立った。『何でも』の時点で腰を上げた反応速度たるや、スプリンターも真っ青のの勢いだ。

「何でもって言いましたね!? それってどんなこともしてくれるってことですよね!?」

「う、うん」

 小柄な浴衣少女が五○センチは身長が高い男に詰め寄り、引かせている光景が展開していた。

 これが由代さんの素なのだろうか。

「な、何でも……破矢くんに、何でも……!」

 頷けば、今度はどこかにトリップしたようにほんわかムードに移行する。そんな姿さえ微笑ましいと思うのは、間違いじゃないと信じたい。

 これは周囲から好奇の目に晒されてもおかしくはない。恐る恐る周りを見回すと、

「……あれ?」

 ──誰もいない?

 どういうことだ。さっきまで数人がかき氷やフランクフルトを片手に談笑していたはずだ。なのに人払いでもされたように人気がさっぱりなくなっている。

「由代さん──」

 そこはかとない不安、虫の報せを感じ、未だトリップ中の由代さんに呼び掛けた直後だった。

「そこまでだぜ、公安の犬(・・・・)

 『ポート』越しからよく聞き覚えのある声が横槍を入れる。

「………………灯湊、さん?」

「よう。ずいぶんエンジョイしてたみたいじゃねーの破矢クン。ナマで会うの久し振りだよなァ」

 填央学園の制服をまとい、朗らかな笑みで手を振ってくる灯湊さん……だけど、その立ち姿に言い様のない違和感があった。

 より具体的には、ずっと背後に回した左手。まるで何かを隠しているような……。

 それに、さっきの発言。

「公安の犬……どういう意味かな」

「トボけるのかよ。哀しいねェ、あの夜は激しいやり取り交わしたっていうのにさァ!」

「……さっぱり分からないな。由代さんと顔を合わせようとすることも避けていたきみが、今になってこの場に姿を現すことも含めて」

「理解力がないフリすんなって。何ならキスでもして無理矢理思い出させてやるぜ」

 ファーストキスだぜ、とからかうように笑う灯湊さんが、ひどくいびつで不気味に思えた。

 もう灯湊さんの考えが分からない。彼女をよく知っているだろう由代さんを振り向く。

 そこには、

「…………うそ」

 幽霊(・・)でも見たように目を見開いて灯湊さんを見据え、今にもへたり込みそうに震えている由代さんがいた。

「由代、さん……?」

「うそ、うそだよ。何でミサちゃんが、ここに」

「あは、覚えててくれたんだな」

 様子の変化に困惑する僕と、錯乱したようにうわごとを漏らす由代さん、その反応に嬉しげに笑う灯湊さん。

 僕の理解が及ばない一つの異界が、ここに形成されていた。

「な、何がどうなって」

「あーもう。うっさい」

 漏らした呟きに返ってきたのは、苛立たしげな声と銀色の軌跡。

 それは真っ直ぐ僕の脇腹に到達し、あっさりと内臓に突き立ち、そのまま抉るように斬り裂いた。

 ──鮮血が散る。

「え……」

「破、矢くん……!?」

 ごぼり、と口腔と傷口から血が溢れ出す。正確な場所は分からないけど、大振りの刃物で、たぶん肝臓を破壊された。四肢から力が抜け、たまらず地面に仰向けで倒れ込む。

「づ、あ──ッ!」

「あたしだってさ、本当はこんなことしたくない。破矢クンはよくやってくれたし、感謝してる。これは本心からだ」

 倒れた僕には見向きもせず、灯湊さんは由代さんにのみ、狂的な視線を送っている。

 左手に持つ血塗れのナイフが、制服姿にはいやと言う程にそぐわない。

「でもさ、あたし騙されるのは大嫌いなんだ。間に合ってよかったよ。これで、公安零課なんて魔人連中に絹花が捕われる前にカタを着けられる」

 そこで、憎々しげな視線を僕に向けると、大股で歩み寄り、僕の脇腹を蹴り付ける。

「ごぶ……ッ!!」

「フザケんじゃねえぞ! あたしに近付いたのは全部芝居か! 絹花のためとか都合のいい謳い文句であたしを利用して、最後にゃ二人仲良く獄に繋いでやろうってか、あァ!?」

 脇腹だけじゃない。身体のあちこちを蹴りながら、彼女は叫び散らす。

「させない。あたしの絹花を不幸に追いやる奴は誰だろうとぶっ殺す! アンタはマシだって、絹花の『唯一』を譲ってやろうとしたあたしを殴り飛ばしたい」

「くぁ……っ、な、何を……言って……」

 もう一度脇腹を蹴られて黙らされる。脇腹が熱い。辺りはもう血の海になっているだろうことは、失血の感覚で容易に想像出来た。

 もう視界が霞んで、よく見えない。

 遠くなる意識。このまま落ちれば間違いなく死ぬ。

(死ぬ……。これが『死』なのか?)

 九年前にも抱いた感想を繰り返すようで、しかし覚えた感情はまったくの真逆。

 あのときは死ぬことは恐かったが、それより検証欲が勝った。死にたくないという思いより、死に触れたことへの不謹慎な高揚があった。

 今はひたすら恐い。これが九年前の償いになるのか、ナラ兄にどう謝ればいいとか、そんなことが頭を巡っていた。

 そして何より、

「破矢くん! しっかりして!」

 僕の身体に抱き付いて泣き喚く彼女を、放っておけない。

 由代さんの声が遠くなる。それを塗り潰すように、灯湊さんの怨嗟に満ちた呪言が響く。

「アンタを殺して絹花を解放する。おめでとう。アンタは立派に役立ったよ」

 喉元に鋭利な刃物が差し込まれる。ビクン、と全身が痙攣し、それからぴくりとも動かなくなる。

 遠ざかる由代さんの泣き声と生の感覚に手を伸ばし──しかし届かず、死という水底に沈んでいく。



 そして、破矢駆摩の人生は終焉を迎える。

 現世(うつしよ)に留まることを許されず、その魂魄は静かに黄泉(よみ)へと堕ちていった。






◆◇◆◇◆






「なーに気取ったバッドエンドロールかましてんだ、キザなのはどっちだっつー話だよ」

 ──ふと目を覚ますと、鏡映しがいた。

「……ってうわぁぁぁああああああ!?」

「ビビんなよ、自分の顔だろうが」

 必死に手と足でそいつから離れる。腰が抜けたような無様な逃げ方に、僕そっくりのそいつは呆れる。

「まったく……見るに耐えねえってのはこのことだな。いくら何でもアドリブが利かなさ過ぎる。そんなだから不意を突かれて殺されるんだっつーの。情けねえ」

「な、何だよ、誰なんだよお前」

「へえ。『きみ』じゃねえんだ。そんくらい近しいってことは分かってるみたいだな」

 小馬鹿にするようににやりと笑うそいつは、「まあ、前置きはこんくらいでいいか」と大仰に両腕を広げる。

 いや、それよりも──ここはどこなんだろうか。

 そんな僕の心中の疑問を読んだように、そいつははっきりと告げる。

「ようこそ、原罪の坩堝(シンス・クライン)へ。長らくお待ちしてたぜ、我が主様(・・・・)──つってな」



 ………………………………何を言っているんだろうこのドッペルゲンガーは。



「……はあ?」

「あん? どうした?」  訝しそうにそいつは首を傾げる。

 傾げたいのはこっちだ。

 どうなっているんだ? 大体ここは何なんだ。

 この、僕そっくりの阿呆は気障ったらしい名前で呼んでいたここは、僕達以外は上下左右は白一色の殺風景しかなく、現実感というものがまるで感じられない。そもそも地面というものすら曖昧な、果てすら見えない白い空間は、VR技術なしで体験出来るはずはない──のだが、確か僕は由代さんと七夕祭りに行っていたから、そんな機材を使えるはずもない。そんなものが置いてあるとも思えないし。

 ああ、つまりこれは、アレか。

「ゆ──」

「夢じゃねえよ。ありがちな逃避じゃ面白味がねえぞ」

 言い掛けたところを即座に否定された。

 いやしかし、ならここは何だ? 僕は確かに祭りの会場である神社にいた。そこで激辛北京ダックを食べて、休憩所のトイレに直行して、その後で由代さんと話をして……



 ……それから、どうなった?



 分からない。そこから先の記憶が立ち消えになっている。カーテンで遮られたように、そこから以降が見通せない。

 このおかしな状況は、何が原因なのだろうか。

「…………何を笑っているんだ」

 こちらをニヤニヤと見下ろす奴の視線が鬱陶しい。こちらも憮然と見返すと、そいつはわざとらしい恭順な態度で、

「いえいえ、我が主様の苦悩を取り除く手立てを思い付いたために、それを伝えようとした次第でごさいますれば」

「……敬語に慣れていないだろう、お前」

 どう聞いても狂っているとしか評価出来ない言葉遣いだった。慇懃無礼ですらない、頭の出来を心配する類のそれだ。

 僕の指摘に、そいつは納得したように頷く。

「やっぱり俺には無理みたいだな。敬語ってのは、どうにも合わねえ」

「合う合わないじゃなくて、教養の有無からだ……って、そんなことより、今何て言った?」

 言葉遣いに目眩や耳鳴りを覚えたために、聞き逃しそうになった文章を必死に拾う。

 僕の苦悩を取り除く手立て……そう言ったか。

「この状況が何なのか、説明してくれるっていうのか?」

「ああ、俺とお前を起点とした一連の騒動への紐解きも含めてな。いつまでもここに籠もってるわけにもいかねえ」

 わずかばかり、真剣味を帯びた表情を作り、目を細める。

「自己紹介……は、後でいいだろう。俺はお前のことを腐る程知ってるし、今は俺について長々と講釈するゆとりもない」

 だから、とそいつは僕の背後の空間を指差し、親指と中指で器用に指を鳴らす。

「まずはこいつを見ろ、カルマ。リアルタイムでお前の周りに起きていることだ」

 その指し示す場所を振り向くと、僕はさらなる驚愕に襲われた。



 そこは祭りの休憩所だった。そこにいるのは二人の少女。どちらも、少なからず関わりがある人物だ。

 黒い浴衣を着て、血塗れの僕の死体に縋り付く小柄な少女、由代絹花。

 填央学園の制服をまとい、凄絶な狂笑を浮かべる赤毛の少女、灯湊操。

 彼女達は、何かを言い合っているようだ。

『はは、ははは。やった。あたしは化け物を倒せたんだ!』

『ミサ、ちゃん? 何でこんなことをするの!?』

『これで足掛かりは出来た。絹花を巻き込む可能性のある奴を全殺する足掛かりが! ……だから安心しな絹花。アンタの敵は、全部あたしが殺すから』

『分からないよ、ミサちゃんがここにいることも、破矢くんを……っ』

『気にする必要はないよ、絹花。あたしはそう持たないけど、それより早く次の「唯一」を見つけてあげる!』



 ──それは、救いようのない程に、いびつな会話だった。互いの言葉は、互いの耳にも頭にも心にも届いていない。灯湊さんに至っては、既に正気を失ったように、目の焦点が定まっていない。音調もどこか歪んでいる。

「何だ、これ」

 目の前に展開される光景に、声がかすれる。思考が止まりかける。この光景の意味を理解すまいと、認識がずれ始める。

 その光景は容赦なく続いている。



『だから安心して、絹花。本当はあたしが関わってたことを知られたくはなかったけど……これからは、あたしが絹花を守る』

『ミサちゃん……もうやめて。こんなの、こんなの酷過ぎるよ!』

『やめないよ。公安零課があたしの下に平伏すまで、絹花に真の安寧は訪れない。絹花の抱き付いてるソレも、結局はあたしや絹花を陥れるために接触して来たんだ』

『違うよ! 破矢くんはそんなことしない!』

『……ねえ絹花。どうしてそこまでそいつを庇い立てするの? そいつはあたし達の敵だよ? 絹花を騙して拐かそうとした下衆だ。そんな奴、今さら庇う価値もない。第一──』

 一旦言葉を切り、突き付けるように告げる。

『そいつはもう死骸だよ。生きてない、ただの肉塊。魂も疾うに抜け切った、伽藍洞の抜け殻だ。どんなに祈ったところで、生き返りはしない』

 それに由代さんが表情を絶望に染め上げ、涙を一滴、僕の死体の頬に落としたところで、映像は止まった。



「…………」

「は……仮にも知人の死体を、まさか虫螻(むしけら)みたいな表現をするとは思わなかったぜ。さすがの俺も予想が……」

 ドッペルゲンガーが何かを言い切るより早く、僕はそいつを殴り飛ばしていた。

 そのまま胸ぐらを掴み上げ、詰問する。

「あれは何なんだ……! あんなモノ……」

「『僕は信じない』って? おいおい、俺は今さら嘘なんざ付かねえよ」

 飄々とした態度で唇を歪めるそいつは、心外だと言うように息をつく。

「事は一刻を争うぜ。さすがに俺も遊んでる余裕はねえんだ。さっさとしねえと、本気でまずい」

「何……?」

「簡単に言っておく。今のままじゃお前は本当に死に、あの女も殺される。それを避けるためには、まず受け入れろ。お前が体感した死を、灯湊操の異常性を」

「…………」

 毒のように、その言葉が染み込んでいく。知っていなければおかしい事実を、もう一度繰り返して確認したように、擦り込まれていく。

「……そんなに認めたくないなら、あのまま見殺しにするしかないぞ。三ヶ月前から続く三件の(・・・)連続殺人犯と二人っきりなんだ。マシな収束は望むなよ」

 ……待て。

 そいつの言ったことが、一瞬本気で理解出来なかった。

「……今、なんて」

「灯湊操は殺人犯……いや、もはや殺人鬼だ。狂信的な信仰の元、怨念のみで人を殺している。とてもじゃないが人とは言えない」

 冷ややかに、淡々と事実を述べる。

 その言葉が事実だと、僕の頭はすんなり受け入れてしまった。それをあらかじめ識っていたように。

 胸ぐらを掴んでいた手の力が抜ける。そんな僕から距離を取ることなく、むしろ顔を近付けて、そいつは問う。

「さて、どうするよ。このまま緩やかな死を享受するか、立ち上がって贖罪を続けるか」

 選べ、とそいつは僕を睨む。その様は、余裕がないと言ったとおり、そいつらしくなく焦っているように見えた。

 正直なところ、僕はまだ、現実とやらを受け止め切れていないらしい。その証拠に、僕は焦りというものを持ててはいないのだ。灯湊さんが由代さんを殺すという可能性も、僕が生き返るとでも言うような言葉も、それ自体を理解はしたが納得は出来ていない。

 そもそもこんな超展開、即座に受け入れられる方が異常だろう。同級生が殺人鬼で、あの連続殺人をおかしていて、突然現れたその同級生が僕を殺して、あまつさえ由代さんも殺すかもしれないなどと。おまけに僕自身のドッペルゲンガーと出会うというおまけ付きだ。正気をなくして混乱しないだけマシだろう。

 ただ、そいつの提示した選択肢だけが、僕の頭にリフレインし続ける。

 死の享受か、贖罪の続きか。

「……一つ、教えてほしい」

 気付けば僕は、そいつに向けてそう訊ねていた。

「もし僕が立ち上がったとして、本当に贖罪が出来るのか?」

 弱気──いや、ただの弱音か。どう償えばいいか分からない愚者が、自分の道を誰かに訊ねるような愚かさだ。

 それにそいつは、即答で返した。

「知るか、贖罪の方法(そんなこと)くらい自分で見出だせ……ま、死んだらそこまでって話だが」

「……そう、だな」

 ああ、確かにそうだ。失念していた。

 僕の罪は司法機関では、もはや立証出来ない。あのときの電車は欠陥ありとして解体されたし、事故の原因と思ったレバーも存在しない、物的証拠も状況証拠もない、あるのは一学生の妄言じみた証言のみ。まともに取り合うことはないだろう。

 残されたのは、自分にとっての贖罪を行うこと。誰も十字架を背負わせてくれないなら、自分で造って背負い込む。

 だから、

「……決めたよ」

「どっちだ」

「立ち上がって贖罪を続ける。途中で投げ出すのは流儀に反する」

 そう答えると、そいつは満足げに笑った。

「よし、じゃあ今からお前をあっちに戻す。ここは時間の流れとは切り離されてるからな……チビッ子と感動の抱擁を交わすなり、ヤンデレ狼に啖呵かますなり好きにしろ」

 その姿が、静かに揺らいでいく。白一色の世界が黒く歪み、僕の身体が得体の知れない浮遊感に包まれる。

「その後は俺に投げろ。あの馬鹿女への裁きは俺の仕事だからな」

 その一言を最後に、意識は強制的に現世へ弾かれる。

 その数瞬後、僕はゆっくり(まぶた)を開き、現実への帰還を成した。






◆◇◆◇◆






 まず感じたのは息苦しさ。喉仏に空いたその穴は、取り込もうとした空気の大部分を漏らしてしまう。酸素が上手く補給出来ない。失血も相まって、頭が朦朧とする。

 次いで雨音。いつの間にか降り始めていたらしい小雨は、休憩所の幌に当たりくぐもった音を立てる。しとしとと濡れる地面の香りは、場の陰鬱な雰囲気を助長させた。

「……破矢、くん?」

 僕の異変に気付いたらしく、涙をポロポロこぼしながら由代さんが目を見開く。あー、これは……可愛らしい顔が酷い有様だ。

 とりあえず、あまりに無惨だろう咽喉と脇腹の傷を両手で塞いで隠し、ゆっくりと身を起こす。傷が痛むだろうと慎重に動かした結果なのだけど、麻酔でも効いているように痛みを感じない。ありがたいけど、同時に心配になる。痛みを感じないって、かなり危ういんじゃないだろうか。

 とか思っていると、不意に傷口が熱くなる。焼けるような音が発生し、手で覆った箇所から煙が噴く。

「な……」

 傷口は塞がっていた。損傷など元からないというように、跡すら残さず癒えている。

 僕がそれに驚いていると、

「てめえ……本性現しやがったな」

 灯湊さんが、親の仇でも見る表情で僕を睨む。身体が震えているのは恐怖ではなく、別の感情に思えてならない。

「灯湊さん。きみは──」

「破矢くん!!」

「うおっ」

 故意ではないんだろうけど、由代さんは僕の言葉を遮り、抱き付いてくる。

「ちょ、由代さん?」

「よかった……よかったです」

「…………」

 心底安堵したような声に黙り込む。見ると、彼女の浴衣や顔には、赤い液体がべっとりと付着していた。それは僕も変わらないのだけど、怪我したのは僕だから血塗れなのは仕方ない。だが由代さんは、死んだ僕を浴衣が汚れるのも構わずに僕を抱き締めていた。浴衣も帯も、彼女の白い肌も漆黒の髪も、僕の血で汚してしまっていた。

「……ありがとう。僕なんかのために」

「いえ……『僕なんか』じゃありません。破矢くんは、私にとっての大切な人です」

 気恥ずかしいことを平然と言ってくれる。

 と思ったら、言ってから自分の発言に赤面し出す由代さん。無意識だったらしい。無意識の方が余計に照れるんだけど。

「おい」

 由代さんの自爆を無視し、灯湊さんは僕を睨む。反射的に由代さんを後ろに下がらせて、相対の形を取る。

「灯湊さん。きみは何でこんなことをしているんだ」

「ほざくな。絹花を陥れようとしたてめえがトボケるなよ」

 ブチリ、と何かが千切れた音が聞こえる。

「てめえの目的は、絹花とあたしを捕らえて法の外で処分することだろ」

「待ってくれ。公安零課とか、処分とか、そんなもの身に覚えがない! ────がッ!?」

 突如、脇腹が激痛を発する。内側から炙られる感覚だ。思わず膝を付く僕の顎に、灯湊さんの爪先が入る。

 半ば本能で仰け反ったためにダメージはそれ程でもないが、脇腹の激痛は増した。

「ぁ……か……ッ」

「七月初め。アンタは巨漢のオッサンと路地裏で殺し合いをしたよな。髪に白いメッシュが入っていたことと黒い『ポート』を除けば、あの黒ずくめはアンタしかあり得ない」

 灯湊さんのその台詞は、脇腹の痛みも忘れそうになる程の衝撃だった。

 それは明晰夢。夢と自覚しながら見る幻像。その中での僕のことを言っているのだろうか。とすれば、あれは夢ではなく現実であり、それを灯湊さんが知っているということは、つまり。

「人形師……」

「やっぱり覚えてんじゃねーか。びっくりさせんな」

 呆然と呟いた単語は、夢の中の僕が言ったものだ。

 ということは──ッ!

「ぎ、ぃ……!」

 頭痛、そして嘔吐感が唐突に襲う。考えを巡らせようとした直後にコレか!

「破矢くん!? ミサちゃん、破矢くんに何をしたの!?」

「知らないよ。罰でも当たるんじゃないの? じゃ、もっと痛め付けておこうか。身体中を蹴り潰して、脳を破壊すれば、あの化け物じみた再生力も働かないだろうし」

「……ッ、もうやめて! こんなのミサちゃんじゃない! ミサちゃんはこんなことはしない!」

 悲痛に叫ぶ由代さん。根拠の見えない、論理のかけらもない否定。

 そんなもので灯湊さんが揺らぐはずはない。

「何言ってるの。あたしは『ミサ』だ。アンタの親友の……」

「違う!」

 由代さんは、初めて敵意に似た感情を込めた声で叫ぶ。

「第一、私は知らない。灯湊操なんて人(・・・・・・・)、見たことも聞いたこともない! ミサちゃんに似ているのは認めるけど、それだけ。貴女は私の親友とは違う!!」

 ──それは、深い疑惑の念。そして、灯湊さんに対する怒りの色。

 それを聞いて、僕の中にあった疑問が氷解したような気がした。

「……絹花。どうしてそんなことを言うの?」

 灯湊さんの、虚無感に満ちた声が響く。その手に握るナイフが、身体の揺れに連動して切っ先を左右に振る。

 あれは、危ないんじゃないか? さっきまで僕への憎悪に燃えていた目は硝子玉のように無機質な光を浮かべ、覇気と入れ替わったかの如く不気味な虚脱感があった。

(守らないと……)

 反応の鈍い身体を動かそうとするが、それを実行に移すより早く、せせら笑いが脳裏に響いた。

『なっさけねえ。結局抱擁も啖呵も不発かよ。優柔不断にも程があんだろ。チビッ子の方が度胸あるな』

(……これは、夢の中の僕か?)

 自分と同じ声なのに、恐ろしく鬱陶しく感じる。馬鹿にされているからだろうか。

 何をしに出てきたのかが不明瞭なのもあるかも知れない。

『はっ。まあ、啖呵は無理だったが挑発はいい線行ってるな。見事激昂させて、チビッ子の馬鹿女に対する違和感の形を浮き彫りにした。初にしちゃ上出来だよ』

 称賛が素直に受け取れないのは、相手が僕そっくりだからか、それとも別の理由からなのか。どっちもという気がしてならない。

 さて、と声が真面目なものに切り替わる。

『こっからは俺の仕事だ。分かったらさっさと交代しろ』

 当然のように命令してくる。

 ああ、あの不思議空間でそんなこと言っていたなあ。今さらながら思い返す。

 しかしそう言われても、どうすればいいか分かるはずもない。第一僕は吐き気と戦うのに精一杯で、そんなことに意識を割く余裕は──

『いいから…………さっさと代われってんだよ!』

 ────! 一際強い吐き気の波が来る。それを無理に抑えようとすることで、目眩と耳鳴りも併発する。

『いいから早く気絶して俺と交代しろ! チビッ子もお前も死ぬぞ!』

 この体調不良の犯人はお前か────!!

 そんなことを叫ぼうとする前に、僕の意識は開いたまま、身体を離れていく。身体の主導権を強奪されたのだろう。



 そして、全てが反転する。



 ………………。

 …………ふう。

 ……ようやくながら、交代出来たみたいだな。カルマの意識も休眠状態になった。

(つまり、こっから先はカルマの出る幕じゃねえってことで──)

 ──()のステージってことになる。

 ゴキリ、と首を鳴らし、不安定な足取りでチビッ子に近付いていく馬鹿女に接近する。

 そして、ゆらゆらと振り上げられた左腕を、手首を掴んで動きを止める。

「ああ……?」

 生気というものを失った瞳でこちらを見る様を、俺は無感動に見つめる。

(……はっ。チビッ子の一言がよほど効いたらしいな。抜け殻って呼び名がよく似合う)

 だからと言って、容赦するということにはならない。こっちもあの夜に捕らえ切れなかったっていう黒星がある。リベンジを含めて、この女を見逃すことはあり得ない。

 それはどうやら、相手も同じらしい。

「……破矢、カルマァ……!」

 空っぽの瞳に意思が宿る。俺を殺そうという強い意思だ。

 チビッ子の肩を掴み、後ろに下がらせる。さっきカルマがやった行動の焼き直しみたいで少し腹立つが、こいつを巻き込むわけにはいかない。

 無事に守り通さねえと、カルマが面倒だからな。

「え……あきゃッ!?」

 引く力が強過ぎたのか、はたまたチビッ子が軽過ぎるのか、後退りながらよろめき、尻もちを付く。あんまり力込めないように配慮はしたから、多分後者だろう。本当に高校生かと思う程に軽い。羽毛みたいに感じたぞ。

 さて、それじゃあ本命だ。

「よう、人形師。五日振りか? 両脚と片腕の調子はどうよ。あの状態で悲鳴上げたってことは、神経系もいくらか接続してたんだろ? 幻痛とかあるか?」

「……お陰様だ、五日間根回しと幻痛で眠れない夜だったよ」

 今にも殺したい、しかし警戒は続けなければ。相反する思考をぐるぐる回してるのが、手に取るように分かる。表情に出していないとこは称賛に値するが。

 しかし、早く終わらせたいと思っているなら好都合だ。こっちにはこっちの仕事ってもんがあるしな。

「そうかい、そりゃご苦労なことだ。……ところで人形師。お前相手にいくつか訊きたいことがあるんだが」

「あたしに答える義理はな……」

「義理はなくても人質はあるぜ」

 即座に拒絶しようとした馬鹿女にカードをちらつかせる。俺の後ろで座り込み、ことの推移を見守るだけの観客──由代絹花というカードを。

 それに言葉を詰まらせ、憎々しげに睨みをぶつけてくる。……が、弱い。カルマに放ってた憎悪の半分程しか来ちゃいねえ。どうやら多少の恐怖が憎悪に蓋をしたようだ。

 つまり、真の意味で理解したんだろう。今の『破矢駆摩』が、所有する人形を潰した存在に切り替わったことを。

「沈黙は了承と受け取るぜ」

「……勝手に喋り倒してろ。あたしは知らん」

 明らかに虚勢と分かるその態度に、茶々を入れようかとも一瞬思ったが、ややこしくなるために、本題に入る。

「はっ。オーケーオーケー。その態度に免じて、推論を語るだけにしといてやる」

 宣言し、カルマの記憶と俺の記憶を元に組み上げた推論を話し始める。

「まず最初に、連続殺人事件。まあこれは本筋との直接的な関係は薄いんだが、これを語らないと始まらない。

 お前はあの巨漢を人形にして、春から続く連続殺人を起こした。それの被害者に数えられてんのは四人。明確な接点も共通点も見付からない、正真正銘無関係な殺人なわけだが……一つ不自然な点がある。

 ──一件目と二件目、それから二件目以降の事件とで、インターバルの差があんのさ。一件目は填央学園の入学式の四日後、四月一二日。二件目は四月一九日。それ以降は差異はあるが、大体一ヶ月ごとだ。最初だけなんだよ。一○日以内に殺人が起きたのは」

 まず語る事実を、馬鹿女は苦々しい表情で聞いている。俺の背後、押し黙ったチビッ子を案じるように見ながら。

「印象的には焦ってるみたいだよな? まるで『同一犯による連続殺人』に見せようとするあまり、気が(はや)っちまったみたいに。

 そこら辺、お前はどう考える?」

「…………」

 水を向けてみるが、案の定答えはない。俺も期待なんざしちゃいなかったために、そのまま話を進める。

「俺は一件目とそれ以降の殺人は、別々の犯人による犯行だって確信してる。この事件が、現状を生み出したってことを含めてな。

 そこに絡めて質問する……おいチビッ子。由代絹花」

「…………え? は、はい! な、何でしょうか!?」

 呼ばれると思ってなかったようで、一拍空いて返事が来る。

 どうにもテンポの遅いガキだ。カルマが保護欲に駆られるのも頷けるどんくささだな。

「お前、七月一二日に何してた?」

「それは……」

 返答に詰まる。萎縮しているというより、思い出したくないと忌避するような表情だ。

 チビッ子の返答を待たず、俺は結論だけを述べる。



「月島楼科を殺したのは、お前だろう?」



「……っ」

 哀しげに眉を寄せ、涙目で俯くチビッ子。その仕草は、イタズラが見付かった小動物が、縮こまって震える姿を彷彿とさせる。正直俺も、一瞬ときめきそうになる姿だった。

 だからというわけじゃないが、俺はフォローにも似た言葉を掛ける。

「正確には正当防衛(・・・・)、月島が襲ってきたから、咄嗟の反撃をしてしてしまった。そうだろ?」

「…………」

 チビッ子は答えない。ただ小さく、首を肯定の動きに傾けた。

「……アンタ、絹花を言葉責めにして楽しいか?」

 馬鹿女が複雑な表情で訊いてくる。アレか。自分がいるはずのイジリ役(ポジション)を奪われたことが悔しいのか?

「いや、そんな奇特な趣味はないが……そういうお前はどうなんだ」

 何気なく訊いて、その直後に後悔した。

「はぁ? そんなの……愉しいに決まってんだろ!!」

 憎悪でも空虚でもなく、やけに輝いた笑顔で妄言を叫びやがった。

 積み上がっていたシリアスという名の積み木が、跡形もなく吹き飛んだ幻覚を見た。

「…………えー」

 多分相当にどん引きしていたのだろう、馬鹿女は心外だと言いたげに口を尖らせる。

「何だよアンタ、人見る目がある奴かと思ったら、絹花の愉しみ方ってもんを全然心得ちゃいねえな! 絹花はからかって光るもんだぜ」

「んなもん俺もカルマも心得た覚えなんざねーよ……」

 何だこの女、変なとこでおかしな方向に爆発しやがる。踏み込んで一○秒後に起動するポンコツ地雷みてえな不可解さだ。

 思わずチビッ子に視線で教えを請うと、

「……ええ、ミサちゃんもあんな感じで興奮する人でした」

 やけに疲れた顔でそう言った。

 チビッ子の交友関係の不憫さとポンコツ具合に同情を禁じ得ない。こいつ、ろくでもない星の下に生まれたんじゃねえのか? いじめ然り、殺人事件然り、ヤンデレに愛されてること然り。

「あー、とにかく、だ」

 散ってしまったシリアスを掻き集めるように、俺は脱線した話を強引に引き戻す。

「由代絹花は、何らかの刃物を持って襲い掛かってきた月島を逆に殺し返してしまい、そして自分のしでかしたことに恐れを為して逃げ出した。必死だっただろう。焦りを覚えていただろう。逃げ出したことに後悔しつつ、しかし恐怖のために自首という選択肢すら浮かばず、今日まで怯えながら過ごした。そのおどおどした態度が災いして、クラスの性根の腐った連中の興味を買っていじめが始まった。

 しかし、そこでお前は思ったんじゃないか? このいじめは、殺人を犯した自分への罰だって。それを甘んじて受けることで、罪の意識から救われようとした。だから誰にも助けを求めず、亀みたいに蹲っていじめを受け続けた。浦島太郎の救いの手すら拒否しただろうな」

 返答も頷きも返らない。唇を噛み締めて、黙ってそれを聞いている。

「ただ誤算がいくつかあった。一つはいじめが予想より激しくならず、早期に小康状態へ移行したこと。もう一つは……カルマの存在だ」

 そう言って、淡々と推論を語って聞かせる。

 俺の推論における由代絹花は、下る罰で罪を精算しようという打算を持つ咎人だ。もちろん無意識なんだろうが、行動はそういう方向に引き摺られる。傍目からすれば、白々しさがちらほらと散見している。

 そんな奴にとって、カルマのような存在は鬼門以外の何物でもない。クラス委員の義務なんて無機質な理由で、チビッ子の贖罪ごっこを妨げるんだからな。

 故意に卑屈な贖罪をしているわけではないチビッ子は、カルマに対して悪感情ではなく、まず軽い恐怖と興味を抱くだろう。いじめという朱に混じらず、朱を碧に染め上げんとする人間性は、チビッ子には異物として映る。

 後は馬鹿女の暗躍とカルマの行動でいじめがほぼ根絶し、後がなくなったチビッ子は本能の命じるままにカルマと接触、異物感を取り除こうとして、逆にカルマに染められる形に相成ったということだ。

(『ギャルゲー』って奴みたいな展開だぜ。ヒロインを落としそうになったらヒロイン相手へのヤンデレが乱入してくるクソゲーじみたもんだが)

 現実(リアル)に適っちゃいるんだがな。

「……とまあこんな具合に、俺のチビッ子に対する推論は終了なんだが、ここでさらに疑問が出てくる」

「まだあんのかよ……」

 げんなりした様子でボソッと毒づく馬鹿女。堪え性のない奴だな。まだ触りだぞ?

「まあ聴衆を飽きさせるのはこっちの不手際だわな。じゃあ巻くか。

 そんなわけで、今度はヤンデレ馬鹿女、お前だ」

「何だよ」

「こいつはカルマも薄々気になってたみたいだが、お前……何で(・・)自分の手で(・・・・・)由代絹花を(・・・・・)助けねえ(・・・・)?」

 疑問と呼ぶにもおこがましい、分かりやすい大穴だ。

 灯湊操を名乗るこの女が由代絹花を病的に大事にしてるのは見て分かる。カルマや俺への言動から、障害や敵を排除するのに一片の躊躇すら持たないのはバレバレだ。

 なのにこの女は、学校でもチビッ子と顔合わせどころかすれ違うことすら避け、いじめ解決の同盟もチビッ子に知らせるなと徹底した箝口令を敷き、あまつさえ『唯一』を信用が置けた相手なら譲ることに些少の躊躇も遠慮もない。

 何もかも矛盾ばかりで、見てるこっちが頭がおかしくなる。それが本人の中では辻褄があっているのなら、さらに異次元過ぎる。

「チビッ子の性格からして、咽喉と肝臓を破壊して殺すやり方なんて思い付くはずがないからな。一件目は確かにチビッ子の犯行だろうが、その後にお前は死体の咽喉と肝臓を改めて刺し、死因の誤魔化しを図ったんだろう。死んで何時間も経ってからじゃ細工も効果はないだろうから、元々チビッ子をストーカーしてたか、誰かの身体を人形にして即座に行動に移した」

 決して由代絹花に、己が関与したことを匂わせない、何とも徹底している。その後に同じ手口で殺人を行い、定期的に繰り返す。あの夜に路地裏で俺と鉢合わせしたのは、次の獲物を物色していたと言うことで説明が付く。

 逆に言えば、それ程にこの馬鹿女は情報がチビッ子に流れるのを恐れたということだ。

「お前はお前の存在が露見するのを恐れた。さて、それは何故だ?」

 大体は察しが付く。あの一戦を終えて、『灯湊操』に関する全ての情報を威場さんに調べてもらったからな。馬鹿女の隠蔽した過去やらも掘り返した。

「『灯湊操』。公安零課の管理するデータベースで、お前の項目は、ある時期以前が空っぽだった。上辺だけの出生記録やら経歴やらはあったが、全部デタラメだ。この国に、灯湊操に関する正当な情報は、高校入学以降の他には一つとして存在しない」

「……」

「結論を言おう。──お前の名前は灯湊操じゃない。高卒資格を持っちゃいるが、実際は小学校すらまともに卒業してねえ。加えて四月初め、お前の正当な経歴が出て来たのと同時期に、とある大学病院から失踪した昏睡状態の患者がいる。知ってるだろ、『日向(ひなた) 深鞘(みさや)』?」

 その名前を告げた瞬間、背後のチビッ子は「そんな……」と口元を覆い、馬鹿女は苦虫を噛み潰したような、痛恨の表情になる。

「……バレてたってのか」

「お前の散々ビビってた公安零課を嘗めるなよ。この程度の芸当、こなせる奴はいくらでもいる」

 どっかで抜けてるんだよな、こいつは。詰めが甘く、ミスがちらほらと転がってる。

 チビッ子が馬鹿女を見据え、恐る恐る話し掛ける。

「本当に……ミサちゃんなの……?」

「…………、そうだよ」

 わずかな葛藤を見せた後、あっさりと肯定した。

 あれだけ正体が割れるのを忌避していたのを思えば、カルマが潔いと評価したのにも頷ける。

「何で……何でこんなことをしたの?」

 チビッ子にとっては酷だろう。久方振り、それも二度と(・・・)会えない(・・・・)と思っていた親友が、自分を案じてとは言え、とても大っぴらに出来ないことをしてたんだからな。

 その質問に対する馬鹿女の解答も、至極分かりやすく──そしてチビッ子にとってはキツ過ぎた。

「あたしの身体は、もう持たない」

「……え?」

「覚えてる? 九年前の脱線事故。あたしと絹花で、隣区の親戚の家に泊まりに行ったとき」

 ぴくり、と俺の中で眠っているはずのカルマが震えたのを感じる。同時に、鈍い頭痛が起きたが、それを顔に出すことなく、馬鹿女の声を聞く。

「あのときに脳に傷を受けたあたしは、医師からも長くはないって言われたんだ。事件当時に脳内麻薬の異常分泌が起こって、身体機能が軒並みイカれて……現代医学でも、根治するには痛めた内臓含めて身体のパーツ全部を入れ替えなくちゃダメだってね。あたしは絹花の家に迷惑は掛けたくなかったから、成功率の低い手術を断った」

「……う、ん。私も、お父さん達から聞いた。もう、ミサちゃんには会えなくなるかもって」

 データによれば、日向深鞘は物心つく前に両親に他界されて身寄りがなく、数少ない親戚筋の一つである由代家に引き取られたとあった。馬鹿女もチビッ子も、冗談でなく姉妹同然の間柄だった。

「今回もそう。入院中に体調を崩して、いよいよ末期だって思ったときに、あたしは視たんだ」

「なに、を?」

「……絹花が、誰かに刺されて殺されるところを」

 その発言に、へえ、と息を吐く。

「虫の報せってか? 脳内麻薬の弊害で予知夢の妄想でも視たのかよ」

「そんなんじゃねえ。事実絹花は殺されかけてた!」

 からかわれたことに声を荒げ、

「だからあたしはそいつを殺した。絹花が逃げた後に、まだ息があったそいつの咽喉と脇腹を刺したんだ」

「ああ……やっぱり生きてたのか。ま、あんな大振りのナイフで、ろくに体重も乗せずに服を貫くなんて、チビッ子の細腕で出来るわけはねえからな」

「え……え?」

 ただ一人、チビッ子が俺達の話に付いて来ていないようだ。目を俺や馬鹿女に繰り返し向け、説明を求めているようだった。

「つまりな。言っちまえばお前が月島に襲われた場所……公園には、監視カメラがあったんだ。その中の記録映像には、ばっちりとその光景も映ってる。

 っつーか、そもそもナイフを横薙ぎに振るってる時点で容疑者から外れてるな。死体発見現場もカメラの死角、月島が転倒した場所とは違うところだし」

「え、で、でも。さっき、私が殺したって……」

「ああ、あれは推論って言ったろ? そもそもあれは質問作業だ。ただの鎌掛け……は少し違うか。お前自身の認識を調べたってのが正解だな。不透明なとこがあるとどうにも気持ち悪くってな。申し訳ないとは思ってる」

 適当に謝ると、チビッ子は呆気に取られた表情から膨れっ面になった。

「は、破矢くんの、ウソつき……!」

「悪かったって。ってか、あのときに馬鹿女が見境なしに突っ込んで来ない時点で俺の語った推論が間違いって証明出来たからな。そこは助かった」

 馬鹿女はカメラ越しじゃなく、多分病院を抜け出して肉眼で確認したはずだから、そっちの方が信憑性が高い。

 それに零課(おれ)が接触しただけでこの様だ。目の前でチビッ子を貶めれば、理性をブッ千切って攻撃して来るはずだからな。そこを使わせてもらった。

「さりげなく利用しやがって」

「敵に遠慮する意味があるか? 地味に甘っちょろいのはお前らしいが」

 敵意を交えてのやり取り。だが俺の方はこいつと殴り合いや殺し合いをする気はないので、程々に留めておく。

 なぜなら、重要なのはこの後だからだ。

 俺は未だに恨みがましく、かつ微笑ましい膨れっ面で睨み上げてくるチビッ子に近付き、

「悪い。ここからは流石に酷なもんでな」

 トス、と首筋に軽く手を当てる。

「ぇ、あ……?」

 呆けたような声を漏らし、チビッ子が意識を手放す。倒れる身体を抱えるように支え、やや離れた物陰にゆっくりと地面に横たえる。

 そして、

「落ち着けよヤンデレ狼。少しは理性的な行動を取ろうぜ」

 飛来するナイフを頭を振って避け、グリップを掴み取る。相当な力で投げ抜かれたのか、ナイフ自体の重量と手汗で取り損ないそうになるのをギリギリで堪えた。

 馬鹿女はというと、もはや微塵も狂気と殺気を隠すつもりはないのか、今までとは真逆の、静かな表情と声音で淡々と告げた。

殺す(・・)

「張り切ってんなあ……」

 殺気に物理的威力があれば、という表現は小説などでたびたびあるが、まさにそんな雰囲気をこいつは放っていた。端に触れるだけで骨ごと挽き肉にされそうな程濃密な殺気。チビッ子が受けてたら、ショック死するかもしれない。

「正しくチビッ子は人質として機能してたわけだ」

 そのリミッターは、さっき俺が外した。気絶させることで、こいつの枷を解き放ったことになる。

 スイッチが切り替わり、機械的に俺を殺そうとする殺人鬼が、空手になった右手を眼前にかざし、乾いた音を鳴らす。

 それを合図に、木の陰や屋台裏、あちこちから都合七人の男女が姿を現した。

 その目は虚ろに染まり、異様な威圧を漂わせ、ゾンビのような足取りで俺に迫って来る。

 その連中に、俺は見覚えがあった。正確にはカルマの記憶から読み取ったのだが。

「こいつら、行方不明のクラスメイト共じゃねえか。何、お前飼ってんの?」

「アンタを殺すためにね。苦労したんだ、人形化させる手間は単純だが面倒だ。労力分は酷使させてもらう」

 言うや否や、七人は懐からナイフを取り出し、一気に飛び込んで来る。ゾンビの緩慢な動作から、スプリンターの驚異的な俊敏性。その緩急は、一瞬その身体を見失わせるレベルだった。

 だけど、俺にとっては二重でNGだ。

「虚を突いてこの程度かよ。零課相手じゃ奇襲にすらなんねえぞ」

 顎を殴って脳を揺らし、両肩と股関節を外して無力化し、ナイフを取り上げて四肢の腱を切る。その単純動作で、七人はあっさり制圧された。

 鈍い。亀の歩みかと叫ぶ程に遅い。ゾンビよりは早いが、あんなものは目を瞑っていても攻略は容易い。

「一般人、それも運動不足気味な浅羽滴区の学生を使ったのがまずかったな。人形化したと言っても、元の身体能力はそのままだ。

 お前が人形()でなく人形遣い(・・)だったら限界値を越えたパフォーマンスも出来ただろうが……そこら辺は考えなしだったのかよ」

「……あれでも、並みのプロボクサーを仕留められるような解法をプリセットしてたんだけどな。歯牙にも掛けないか」

「影すら踏めてねえの間違いだよ」

 適当に言いつつ、右手に力を込める。殴るわけじゃない。そもそも俺の目的は、俗な暴力とは真逆の位置にある。

 それがNGのもう一つの根拠。

「馬鹿女。念のためにもう一つだけ訊く」

「簡潔に」

「零課に投降する気はないか?」

 俺としては最大限の譲歩。これに同意してくれれば俺もカルマも度合いは違うが助かる。

 その問いに、不愉快そうに眉を顰め、

「断る。アンタも零課も殺す」

「……予想はしてたから、いいっちゃいいんだけどな」

 にべもなく拒絶を示す馬鹿女に、諦念をため息に乗せてこぼす。

 なら説得はしない。交渉も持ち出さない。馬鹿女は既に意固地を通り越して、俺に対しての拒絶の概念になりつつある。どんな甘言も恫喝も、俺の命と引き換えと提案しても届かないだろう。言うだけ無駄だ。

 残念だ。

「本当に残念だ、日向深鞘。お前も、由代絹花も救う手立ての提示をあっさり払い捨てやがって。

 ……これで、もう選択肢は一つに絞られたな」

 右手を軽く握る。空洞を作るように指を曲げる動作だ。



「──『時代(ユガ)を廻す者よ』」



 短く唱えた直後だった。

 陽炎じみた大気のうねりが俺の右手から放出される。それをなぞるように、淡い色彩を持つ焔の帯が、一○本程溢れ出した。

 火の粉は散らない。先んじて放たれた陽炎が回路となり、焔に散ることを許さない。一○本の帯は束ねられる動きで、やがて一本の焔へと統合されていく。

 ──その形は剣。透けるように淡く、同時に虹のごとき輝きを秘める焔で形造られた神聖なる刃だ。

 それを見て、馬鹿女は小さく呻く。

「……馬鹿げてる」

「ああ。俺も初めて遣ったけど、びっくりするよな」

 だが、これがカルマの原罪たる俺の能力で、俺自身の存在理由でもある。

「ただ、出来れば遣いたくないってのは真実だぜ」

 焔剣を眺め、心底そう思う。見た目の美しさに惑わされるわけにはいかない。外見で判断すれば痛い目を見る。

 そもそも原罪(おれ)から生まれ出でた時点で、ろくなもんじゃないのは自明の理だ。

「手から焔剣を出す能力……何アンタ、昔火事でも起こしたのか?」

「カルマ自身はそう思ってるな。焔なのもそのせいだろうが、焔剣(これ)自体が俺の能力ってわけじゃない。重要なのは外見より本質だろ」

 軽く振ってやると、馬鹿女は恐れるように一歩退く。理性で危険と判断したんじゃなさそうだ。あいつの中の原罪が逃げようとしてるんだろう。

「逃がすかよ」

 牽制の意味で言ってやる。実際は一歩も動く気はなかったし、焔剣を延長して斬り付けようってつもりもない。

 だが馬鹿女は……いや馬鹿女の原罪は、それに反応した。俺が攻撃の意思を持ったと見て、単純なアクションを起こした。

 何のことはない。飛び上がって休憩所の幌をナイフで裂き、ブラインドを作った。

「おっと」

 幌に焔剣が触れないように休憩所の外に出る。雨が身体を濡らすが、気にしない。この程度で変調を来す柔な身体じゃない。

 垂れた幌の影から奇襲が来るかと警戒していると、それはあっさり訪れた。

 幌が裂かれる。ナイフで地面と垂直に引き裂かれ、その中から馬鹿女が姿を現す。

「奇襲を掛けて来るかと思ってたんだがな」

「…………キヒッ」

(……?)

 様子がおかしい。俯いて軋んだ声を漏らし、肩を震わせて──右手に、何かを引き摺っている。

 一○代後半の女が片手で持つには大きいもの。血で黒ずんで見える浴衣を着て、ぐったりと脱力したままのソレは──。

「…………」

「キヒッ、キヒヒハハハハ、ダメダメ、ダメじゃんよォ、ソンな無用心じゃ守れるモノも守れないわよォ……ねぇ、カルキ(・・・)

 奇怪な笑い、崩れる口調にイントネーション、そして『破矢クン』でも『零課』でもなく、俺を指し示す名を口にした。

 分かる。こいつは日向深鞘じゃない。

「御出座しかよ、原罪が」

「キヒヒヒ、ソウよォ、ワタシはコノ子の原罪、『ヘーラー』、よろしくねぇ……キヒハハハッ」

 喧しい声を高らかに名乗りを上げるそいつを、俺は小馬鹿にして睨んだ。

「ずいぶんと大層だな。ちまちま操るしか能のないイカれ風情が」

「ヒヒ、あんただって粛清機械の名前を名乗ってるじゃなあい。身の丈知らずを言うならお互い様よォ。……それより、動かないよォにね」

 右手に下げたチビッ子を揺らして、ヘーラーが警告を飛ばす。そんな扱いは、日向深鞘の絶対に取らないものだ。正真正銘、人格も乗っ取られたようだ。

(チッ、下手に離れたのが仇になったか)

 幌に構わずやることをやってりゃよかったんだ。違うことなく、俺の判断ミスだ。

 甘く見たってのも勿論だが、この土壇場で原罪が馬鹿女を塗り潰すとは思わなかった。

 ──だがまあ。

「ああ、オーケー動かねえよ」

 ──この状況自体は好都合だ(・・・・)

「だから──お前も動かなくていい」

「? 何を言ってるのォ? 『動かなくていい』? 『動くな』ではなく?」

 口元を歪めて嘲笑う。ケラケラと、道化を笑うかのごとく耳障りな嬌声が響き渡る。

「バカねぇ、素直に『絹花を離せ!』でいいのに」

「そいつを離す必要はねえよ。ただ、逃がしもしない」

 逃がすもんかよ。お前みてえなのを潰すために、俺はここにいるんだ。

 そう念を込め、ヘーラーを見据える。

「お前が逃げ腰なのは分かってる。由代絹花はそのための人質ってこともな」

「ヘェ、じゃああんたはワタシを攻撃出来ないし、しないってわけねぇ。一緒に焼き殺しかねないし、離す必要はないってことは、攻撃の意思はないってことになるもの」

 得意気に言うヘーラー。その笑みには一片もこの状況への不安がない。逃げ果せると信じて疑わないようだ。

 能天気というかお花畑というか、それを見て思わず頭を覆いたくなった。

「はあ……お前馬鹿だな」

 ダメだなこいつは。元のスペックは高いはずだ、日向深鞘は名前を偽って高卒資格検定に合格するぐらいの頭はあった。それを少しも活かせてないのは、低能か無能かのどちらかだろう。

「バカぁ? ワタシのどこがバカなのよォ」

 全部だ全部。

 そう言ったところで納得云々よりまず理解しないだろうから、手向けの花として解説してやるか。

「お前は鳥以下の記憶力しか持ってねえのか。ほんの一分前の台詞をもう忘れやがって」

「台詞ゥ……?」

「逃がしはしないっつったろうが。流してんじゃねえよ」

 せめて警戒は続けろよ、と本気で説教したくなる。一人の人質を取ったくらいで調子に乗りやがって。今日び強盗だってもう少し慎重だろう。

「それからもう一つ。重要なことを忘れてる」

「ナイわよォ。ワタシは九九もきちんと出来るわよォ」

 喋れば喋るだけ地金が露出していくのにはもう付き合わず、端的に告げた。

「大事なのは外見より(・・・・)本質だ(・・・)とも言ったはずだが?」

 語尾と同時に状況は動いた。ただし宣言通り、俺もヘーラーも、ましてやチビッ子もピクリとも動いちゃいない。



 動いたのは焔。

 ひとりでに渦巻いた虹色の焔帯が二本、ヘーラーの咽喉と脇腹に突き立っていた。



「…………へ、ぁ?」

 自分の身が貫かれたのを、ゆるゆると首を傾け目視したヘーラーが怪訝な吐息を漏らす。

「焔って見た目に惑わされ過ぎんだよ。何か? 森羅万象区別なしに焼き払う魔剣──みたいに中二病チックな想像でもしてたのかよお前?」

 訊ねると、ヘーラーは本気で愕然と表情を強張らせた。

 違うんだよなあ。それじゃ暴力的な解決方法になっちまうだろうが。俺の振るうのはそんなチープな力任せじゃない。

「実演してやろうか。お前自身で」

 問いの構えを取ってはいるが、俺に容赦する気は砂一粒程も存在しない。それを理解したのかどうかは分からないが、ヘーラーは人質にしたチビッ子すら手放して逃げようと藻掻いている。

 逃がさねえ。再三に渡って呟いた意思を口角を吊り上げることで示し、下ろしたままだった右手の焔剣の切っ先を、銃口のようにヘーラーへと向ける。

「──己が身の罪に切り裂かれろ『執着(ヘーラー)』。罪状はお前自身の存在、それと余罪がいくつかだ。多分消滅出来るぐらいだろうから、覚悟しとけ」

「やめ──!」

 外面もなく、上手く動かないだろう咽喉を懸命に絞って叫ぶ。最後の最後まで足掻くその姿に、正しく生への『執着』を思い──



「──『原罪(シンス)へ告げる。

 汝は時代(ユガ)を穢す者、故に維持神の第十、浄世騎(カルキ)が裁きを下す。末世時代(カリ・ユガ)を払い、黄金時代(サティヤ・ユガ)をもたらす礎と果てろ』」



 生にしがみ付く存在に、ただ剣を振り下ろした。






 七月二日→七月九日。


 Flagment 1-A END.




次回の後日談は書き終わり次第更新します。

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