第七十三話
熱く沸騰した感情でくらくらする。
この世には、こんなにも激しい感情があったのか。
こんなにも、誰かを殺したいと思ったのは初めてだ。
――なのに、なんでだろう?
思考はいつもよりも早く回転している。感情とは裏腹に、一方でどこまでも冷静な自分がいる。
どうすれば、長く苦しめてやれるだろうか?
どうすれば、己のしてきたことを悔いるだろうか?
どうすれば、犠牲となってきたすべてのヒトたちの痛みや苦しみを分からせることができるだろうか……?
ああ、感情は怒りで、恨みで、憎しみで、こんなにも支配されてしまいそうなのに、どうしてこんなにも愉快な気分なんだろう?
どうして、唇の端は歪むんだろう。どうして、笑い出したい衝動に駆られるんだろう。
「ふ……はは……どうしてこんなに可笑しいんだろう? すべてを壊してしまいたいほどの衝動があるのに。笑う理由なんてどこにもないのに……」
しばらく声を立てて暗い笑いを洩らしたあと、ふいに無表情になってルナーは侯爵を見つめた。
「薬でもなんでも使えばいい……お前が自らを至高の存在だと感じるままに、その愉悦ごとお前を粉々に砕いてやる」
どこまでも静かに。いっそ優しいと感じるほどに。
だが、その黒い瞳は、今は輝いていない。すべてを呑み込む闇のように輝きがない。越えてはいけない線を越えて、堕ちてしまったかのように。
「クハハ……お前がそう言っていられるのも今のうちだぞ、人形よ。すぐにお前を廃棄処分にしてやろう。持ち主に逆らう人形など邪魔なだけだ」
持っていた注射器を、腕の血管に刺す。そのまま不気味な色をした液体は、侯爵の体の中に吸い込まれていった。
「お、おお……! 力が溢れるのが分かる。は……世界の隅々まで知覚できそうな気分だ……トマリ・クルーエルよ、お前はいつもこんな感覚に生きていたのか。羨ましい限りだ……」
「…………」
トマリは無表情に黙している。だが、ルナーにはその複雑な感情が感じられた。
いくら羨ましいと言われても喜べるはずもない。忌み嫌っている力のことなど。ましてや自らの血をもとに得られた力だ。
「――もう喋るな。お前の言葉はいちいち癇に障る。力を手に入れたのなら、もう私たちなど必要ないのだろう……さっさと殺しに来たらどうだ?」
ルナーの歪んだ笑みは怒りに満ちている。
自分はこんなにも簡単に人を殺せただろうか……?
いつだって誰かを殺める時には悲しみばかりがあった。
友達を殺す時も、関係のない人を殺す時も。
誰にだって大切な人がいて、誰だって誰かに大切に思われていて、誰にだって家族がいて……考えないようにしないと、悲しくて、でも逆らえなくて、涙が止まらなくなりそうだった。
――でも、今は。
憎くてたまらない。殺したくてたまらない。
熱く、激しい流れを自らの内に感じるのと同時に、ひどく冷たいものがあるのも感じられた。
だんだんとその冷たいものは、自らを支配していく。そして、果ては研ぎ澄ました刃のように冷たく静かな殺意があった。
「―――……」
深く呼吸をする。その度に、さらに冷たくなっていく気がした。
大切なヒト。決して傷付けさせない。
そのためになら、私はなんにだってなれる。ヒトであることをやめることすら容易だろう。
そこまで考えて、遠い昔のトマリの心が解った気がした。
トマリは、ただ刃を向ける方向を間違えてしまったのだ。守るものをなくし、守るための刃は、ただ傷付けるための刃に変わってしまった。
そして、ついには自らに刃を向け、ヒトであることをやめてしまった。
その時に、すべては変わってしまった。
その時に、すべては壊れてしまった。
自らの力を、大切なものを守るために使えたのなら、それほど幸せなことはない。
なのに幸せにはなれなかった。
誰よりも大きな力を持ちながら、決して幸せにはなれない悲しいヒト。
でも、トマリがこの道を歩まなかったら、ルナーはトマリに会うことはできなかっただろう。
矛盾する想い。
『誰よりも幸せになって』
『私のそばにいて』
あなたは私を『大切』だと言ってくれた。でも、それで良かったのか、いまだに分からない。
自分で追いかけたくせに、私でいいのかと今でも思ってしまう。
こんなこと、言っていいはずない。
でも、複雑に絡んだ道筋が……悲しくて。ただ悲しくて。
いつのまにか能面のような顔を、涙が滑り落ちていた。
「最後……」
自覚せずに震えた声が囁くように洩らした。
「なに?」
訝しげに聞き返す侯爵に、その言葉が聞こえていないように呟きは続く。
「お前で最後なんだ……私の道を遮るのは!」
B級映画の悪役のような咆吼を上げるのは、間違いなくルナー。
手のひらの中にある刀が泣いているような気がした。そう感じたのは、果たして誰であっただろうか……?