第六話
「――さて! 話がまとまったところで、さっさとやるか」
元気よく手を腰に当てて言ったのはルナーだった。
そして、普段は絶対に見せないとてもイイ笑顔を見せた。でも、なぜか違和感を感じる笑みだった。
トマリはその笑顔を見て背筋がゾクッとした。
「や、やるって何を……?」
トマリは恐る恐る聞いてみるが、ルナーは聞こえなかったかのように無視している。
ルナーは窓を勢いよくガラッと開けた。
「あッ! ルナー、何やってるんだ!? 結界が切れるだろ!」
エイラは『結界』という言葉に(……?)首をかしげたが、とりあえず黙っておいた。
ルナーはその細くてきれいな人差し指を、真っ直ぐ窓の外に向かって伸ばして、
「さあ行け、トマリ! あの犬を片付けてこい!」
高らかに言い放った。
言われたトマリはがっくりと肩を落とした。
(言うと思った……)
「あのさ、ルナー。本気で言ってる?」
「もちろんだ」
自信あり気なルナーにますます脱力する。
「あの、さあ……。あんなの、行ってチャッチャッと、ハイ終わり、じゃ済まないよ? アレを片付けるのに少し時間ほしいんだけど……、というか、今やるのはちょっと……」
言いつつチラッとエイラを横目で見る。
「………」
その仕草で言いたいことは伝わった。さすがは相棒というところか。
「………、そうだな。分かった。
……いいか? 1日だけやるからな。そのあいだに用意しろよ? 私がここにいるからには、もうぐーたらさせないからなっ」
わざと怒ったように睨み付ける。
二人とも分かっている。1日という長すぎる時間はいらないことが。本当は、今すぐにでも片付くような相手なのだ。
だが、それを下手な芝居を打ち、1日時間を伸ばしたように言う。すべてはエイラにさとらせないため。
「わかった、わかった。じゃ、とりあえず結界を張り直しますから」
恭しく完璧な、胸に手を当てた、貴族に対するような一礼を見せ、窓に向かう。
「あのー、結界って?」
素朴な質問をしてみるエイラ。
振り返ったルナーはしばし首を傾げ考え、室内の書棚から一冊の分厚い本を取る。開いて、適当にバラバラとページをめくり、しばらくして止まった。
(ここから先のルナーのセリフ、読み飛ばし可)
「んー、と。結界。一、仏道修行に障害のないように、一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を定めること。二、密教で、一定の修法の場所を限って印を結び、真言を唱えて護り浄めること。三、寺院の内陣と外陣との境の柵。外陣中に僧俗の席を分かつために設けた柵。四、帳場格子。五、茶道具の一つ。風炉先屏風の代用品。道具畳の向こうに客畳のある広間などで、その仕切りに置くもの(ば〜い、大辞林)。………らしいぞ?」
「??????」
エイラは訳が分からないという顔でルナーをじっと見つめる。助けを求めるか弱き小動物のように。
「あー……、つまり、ふたつの空間を仕切る境界線みたいなモノだな。べつに浄めて聖域をつくるわけじゃないが、完全に外から中への接触を遮断する。東洋にはよくそういう考え方やチカラがある。トマリのはその我流だな。言ってみれば」
「はぁ……、我流…ですか……」
おうむ返しに、分かったんだか分かってないんだか、変な顔をして(たぶん分かってないが)、納得したようにうなずいてみるエイラ。
「ああ。見ていればいい。おもしろいぞ」
その意味を理解する時間も、聞き返す時間も無いまま、それは急に始まった。
「えっと……隔絶せよ」
トマリの命じた一言で、下にいた黒い異形のバケモノも無視したまま、開ききっていた窓が急にひとりでにピシャン、と閉まった。
「っ!?」
単純に驚いて、ビクッと体をすくませたエイラに、ルナーは楽しげに笑う。
「ははっ、まだまだこれからだぞ」
と、窓の下を大人しくぐるぐる歩き回っていた犬モドキが、何かを感じ取ったのか、激しく吠えたてた。
「グルル、ガァァァァ――ッ!!!!」
「キャアッ」
エイラは恐怖に叫んだが、ルナーにはとても遠く小さく聞こえた。
「? 何か……鳴き声みたいなものが――」
姿が普通の人間にはまったく視えないように、声も普通の人間には聞こえないらしい。
ルナーがかろうじてでも聞こえたのは、さっきトマリによって姿が視えるようになったからだった。
「拒絶せよ」
吠えてそのまま高くて届かないはずの窓に飛び掛かってきた犬モドキは、トマリの一言に勢いよく弾かれた。
「ギャウゥッ」
痛々しい悲鳴をあげて地面に伏したところを見ると、どうやら痛覚はあるらしい。
「そのチカラ、速やかに顕現せよ。我が住処巡り陣を敷き、糸が如くに縒りて結ばん」
トマリが言葉を唱える度に、景色が変化する。
一言めには、中空にいくつもの文字や模様が絡まりあってもつれた紐みたいなものが浮かび上がった。
そして、トマリの手に絡むように浮かんでいたそれが、建物をぐるっと囲んだ。
一周すると、端と端がもともと繋がっていたように溶け合った。
「護るためのチカラと為すために。完全なる境界線と――結界と為せ……すべての侵入者を拒め。……『急ぎ急ぎにこれ律令の如く………厳峻せよ』……………」
その声は空気に解けるがごとく。
ピシィ――ィィイン
静かに終わりを告げたトマリと同じ、静かに空気の質が変わる。どこか厳粛な、静謐な空気がこの場にある気がする。
どこか厳かなトマリの横顔に、その空気はよく似合っていた。
そう、教会で静かに聖典を読み上げる聖職者のような。
「………ハイ、終わり、っと」
その一言で普段のぼんやりとしたトマリに戻る。
「……これで完全にアイツはこの建物に入れなくなったわけだな」
「ああ。この建物には誰も入れないよ」
落ち着いたトマリのその言葉に、エイラはあわてた。
「あの、『誰も』って……ほかのこのビルを使ってる人とかはどうするんですか? その人たちは入れるんですか?」
「ん? 『誰も』って言ったら『誰も』だよ。この建物に入れるのは誰もいない」
「そんな!」
「……それとね、エイラさん。このビル、僕のモノだから、今のトコ誰も使ってないから。僕たちの他には」
それに返す言葉と眼差しは、
「………………えぇ?」
どこまでも冷たく疑いに満ちていた。
「うあッ。つらいよその眼。ある意味さっきよりもつらいかな……うぅ」
トマリは指を目頭に当てて泣くフリをする。
エイラはトマリの言葉にちょっとだけ決まり悪げな顔をする。
「んで、だからさ。今日はこのままここに泊まりなさい。どこの部屋使ってもいいから。心配だったらルナーと同じ部屋でもいいし」
トマリは気付かないフリをしてにへらっ、と笑う。
「ってことで〜。ルナー、エイラさんに聞いて、どこか部屋の用意を」
エイラの意志などはじめから聞く気はない。ついでにルナーの都合も聞く気はなかった。
「……ふぅ。トマリ、最近お前、かなり調子づいているようだなあ?」
ぎくり。トマリの笑顔は凍り付いた。
ルナーはただ仕方がない、といった様子でため息をつき、首を小さく振っているだけだ。
だがそれがトマリの恐怖を誘うらしい。
「厳密に言えば、私はまだお前の依頼人なんだがな。いつのまにか、それを忘れてしまったらしいな。……力ずくで思い出させてほしいか?」
ぶんぶんぶんっ! 必死で首を振るトマリ。
「じゃあ、思い出せたか?」
ぶんぶんぶんっ! 今度は縦に首を振る。
「そっか。じゃあ、部屋の用意してくる。エイラ、来てくれ」
心配顔のエイラを気にせず従えて、ルナーは部屋を出て行った。
そんなルナーを視線で追いつつ、トマリは苦笑した。
年齢の近いエイラがいることで、ルナーにいい影響を与えるらしい。普段よりも少し楽しそうだし、すぐさま暴力行為に訴えないあたり、最大の効果といえるだろう。
自分にもルナーにもどこかしらつきまとう孤独の薫り。それが少し和らいだ気がした。
ほんの少し幸せな気分に浸ったあと、そう時間をおかずにやってくる労働のために、ソファに体を沈ませ、仮眠に入った。