第七十二話
ほろほろほろっ。
呆然とした表情のまま、ルナーは動くことを忘れたように固まっていた。力が抜けて、動く気すら起きなかった。
そして、そんな状態のまま涙をこぼしていた。本人は自分が泣いていることなど知らないであろう。
トマリが心配そうに頬を滑る涙を拭うと、初めて気付いたように自分の頬に手をやった。濡れた手のひらを信じられないものを見るように見つめた。
「あ……? なん、で……」
いまだに涙の理由となった感情を理解できないようだ。それは、今までの人生でルナーが感じたことのないものだったからだ。
だが、トマリはなんとなくその理由を察して、沈痛な表情になる。ルナーがいま感じているのは、おそらく『安堵』だろう。ずっとどちらへ転ぶか分からない分の悪い賭けをしていたようなものだ。それが今、嬉しい結果となって決着がついた。だから緊張が緩んでしまったのだろう。
「やっぱり、俺は間違えていたみたいだな。悪かった、心配をかけて」
「―――……っ!」
少しずつ溢れつつあったものが、トマリの言葉をきっかけとして決壊したのか、飛びつくようにトマリの体に腕を回す。そして、声もなくただずっと涙を流し続けた。子供が親に縋るように……安心してすべてを預けられる存在へと。
ルナーの頭を、なだめるように撫で続けていたトマリだったが、不意に手を止めて視線を遠くへ移す。
「…………」
そちらを警戒するように、ルナーから体を離して守るように背に庇う。
「……トマリ? 一体どう、………!」
遅れて気付いたのか、ルナーもはっとしてトマリと同じ方向へ視線を遣る。
ずっと遠くで傍観していたファルシコーネも、ルナーを守るようにそばに身を寄せた。
三人の視線の先にいたのは、つい先ほど動きを完全に封じたはずの侯爵だった。その後ろには、すべてルナーが殺したはずの異能者。
「……どうやら、私のミスらしいな」
低く呟いて、ルナーはその異能者を見る。しかし。
「………? なぜ……目の前にいるのに、気配が感じられない……」
たしかに視界には捉えている。なのに、瞬きの間に消えてしまいそうなほどに気配が希薄なのだ。ひどく気味が悪い。
「なるほど……気配を完全に消すタイプの異能者か……部屋を堂々と横切っていったわけだ?」
気配を完全に消す。口で言うほど簡単でないのは分かりきっている。ディランと同レベル程度の高い能力を誇る異能者だ。
加えて、隠れるように気配を消す必要のない力を持つトマリには、その能力は完全に盲点だった。
目の前に捉えていても見失ってしまいそうなほどの気配。戦闘に使われたら、厄介なことこの上ない。
「私が逃してしまったのならば、それをきちんと狩るのも私だな。今度こそ……すべて」
それは、先ほど殺さずにおいた侯爵のことも入っているのだろうか。それほどに、言葉には覚悟の強さが滲んでいた。
「ククク……待て、ルナーリアよ。お前の相手は異能者ではない……この私だ」
「!? まだ、私を殺せると思っているのですか……?」
「ああ、そうだ。こやつはただ届けただけなのだ……これを」
言いながら手に持っているものを見せる。それは注射器に見えた。
「それが一体なんだと……」
「これは、以前から研究させていた代物でな。人工的に異能者を作り出す薬だ……」
「―――!!」
予想外の言葉に全身に怖気が走る。
人工的に異能者を作る? ……なんて愚かな。
「能力の高い異能者の血を使い、そこに含まれる力の源を他人の体で活性化させる。それが実現されれば、ヒトはさらに進化したものになれる。この私のように……」
馬鹿な。ヒトとしての規格から外れてしまった異能者が、いつだって居場所を求めて彷徨っていたのを知らないわけではあるまい。
さらに、ルナーの祖父である侯爵は、若い頃に昔のトマリを見ているのだ。
いつだって化け物と呼ばれ、居場所を追われていたトマリを知っているはずなのに。
望まぬ力を持って、理不尽な暴力や心ない言葉を浴びせられるトマリを知っているはずなのに。
いつだって『自分という存在』を持たずに苦しんでいたトマリを知っているはずなのに……!
それなのに、あえてそんな道を選ぼうというのか。
ルナーは胃の辺りがむかつくのを感じた。このまま胃の中身をすべて戻してしまいそうだ。
「そうか……そのために俺を求めたのか……!」
「そうだ。意思のある人形などいらん。いつ私に反旗を翻すとも限らんからな。だから、その力だけを手に入れようと思い付いたのだ……」
侯爵は悦に入って、顔を歪めて醜く笑っている。手に持った注射器の中身は、どんな実験の成果か、ヒトの血から作られたとはとても思えない色の液体に変異していた。
「実験はもう、飽きるほど繰り返してきた。しかし、その『血』に耐えて成功したのはそこのガラクタ一人……。非常に難しい研究だった」
「え……? な、なにを……。まさか――」
すでに見えている答えを必死に振り払おうとするルナーを、滑稽な人形を見るように嘲笑って、侯爵は言う。
「お前の持つ能力が、ただのヒトのものだけだと思っていたのか? ただお前は、異能者として目覚めるのではなく、ヒトを超越した身体能力を手に入れたようだがな……まあ、それも異能者の力のうちといえばそうであろうが……」
ルナーには、もうその言葉は聞こえていなかった。
過去、幼い頃から何人もその手にかけてきた友人たち。必ずと言っていいほど、ルナーを襲う彼らは普段からかけ離れた異様な雰囲気を持っていた。
まるで、操られているかのように――……。
「そう、か……。なるほどな、『お前』は、私やトマリだけでなく、なにも知らない、なんの関係もない子供ですら、ヒトでないモノに変えようとしていたのか……」
今まで祖父に抱いていた恐怖が、すべて怒りや憎しみにすり替わっていく。
体の中心から熱いなにかが広がっていく。血が煮え滾る。
ああ、冷静なんかじゃいられない。
こんなこと、赦せるはずがない――。