第七十話
「………ルナー?」
おそるおそる声をかける。人形のように静かに眠る彼女に。
……そう。俺は恐れている。
自らの形無き叫びは、あるいは恐怖だったかもしれない。
それほど恐れている。
なにを――なにを自分は恐れている?
――彼女を。
――彼女を失うことを。
言葉という形に昇華されない心の内は、恐怖の叫びでいっぱいだった。
早く目を覚ましてくれ。
怖い。
恐い。
こわい。
コワイ――。
彼女だけが、自分にこんな恐怖を与える。こんなにも純粋で、ヒトの――生物の本能に根ざした感情を。
助けてくれ。
どうにかしてくれ。
心の叫びは、おまえじゃないと止められない、ルナーリア。
だから――。
ゆっくりと、静かに、滞ることなく開かれるまぶた。
美しき黒曜石には、一片の曇りもない。
視線を遠くに彷徨わせてから、すっと焦点が定まる。
薄紅の唇が、そっと開かれる。
「……トマリ」
柔らかな声音で名を呼ぶ。
その瞬間に、心の内の恐怖はすべて安堵にすり替わり、体中へ染み渡る。
全身が震えているかもしれない。心臓は踊り狂っている。
弛緩していく。初めて、体中が緊張していたことが分かる。
「ルナーリア………」
もう一度ルナーの名を呼ぶ声は、不様なくらいに震えていた。
ルナーの視線が、答えを返すかわりにトマリの目を見つめた。
その目は微笑んでいるように見えた。
「…………ッ」
何も言えずにルナーを抱き締める。
「あ――? トマリ? どう、したんだ……?」
そんなトマリに、ルナーはただ戸惑うばかりだった。
記憶にある限り、一度も流したことのなかった涙は、まるで今までの分を取り戻すように溢れやすくなっていた。
トマリはまた涙を流し、必死に嗚咽をこらえて、ルナーを抱き締めていた。まるですがるように。
「――トマリ? なあ、どう………泣いているのか?」
ルナーの手が伸びて、トマリの髪を撫でる。守ったはずなのに、守られている気がした。
でもなぜか、ひどく心地がよかった。
「―――……」
腕の中から、戸惑いと驚きの気配が伝わってくる。だが、トマリにはそれに応えてやれる余裕はなかった。
だから、ただ力の限り、腕の中から決して消えないように、ルナーを抱き締めていた。
「私のせいで……泣いているのか?」
そっと腕の力を緩めてルナーの顔を見る。
心配そうな表情をしてトマリの顔をのぞき込む。
細く白い指が、トマリの涙で濡れた頬を撫でた。
「…………」
トマリは何も言えなかった。
「……心配を、かけてしまった。……すまない」
顔を歪め、濡れた指を手のひらに握り込む。
「――もう、」
やっとの思いで声を絞り出す。その声はやはり震えている。
なんて不様な。だが、どうすることもできない。
「もう、あんな無茶は、しないでくれ……」
頼むから……。囁くように言葉を足す。
するとルナーは、ちょっと考えてから微笑んだ。
「おまえが、二度と私から離れないのなら」
その笑みはいたずらを思い付いた子供のようで。それでいて、ひどく儚げで優しい笑み。
儚さはルナーの不安だろうか……だとしたら、自分はどれだけの苦痛を彼女に強いたのだろうか。
彼女を思ったはずの選択は、彼女を苦しめた。
だが、あの想いを抱いたまま彼女のそばにいることはできなかった。
どの選択が正解だったのだろうか?
他にどんな選択肢があっただろうか?
「…………」
言葉を探して沈黙していると、ルナーは目を吊り上げた。
「こういう時くらいは『分かった』と即答してみせろ! この昼行灯の唐変木が!!」
怒鳴って、トマリの額にデコピンを喰らわす。
「あたッ! ……何するんだ、ルナー」
赤くなった箇所をさすりながらトマリが不満そうに言うと、ルナーはさらに怒った。
「うるさいッ! 勝手に、何も言わずにいなくなりやがって……どれだけ私が心配したと思っている!?」
そしてさらに追撃。
額を押さえていたトマリの手をどかし、際限なくデコピンを喰らわしていく。寸分狂わぬ同じ場所に。
「あたッ! あ、た、た、た――い、痛いッ! 痛いって!」
トマリは必死で避けようとするが、ルナーがそれを許すはずがなかった。
「私はお前の何なんだ!? 依頼人で、助手で……相棒じゃなかったのか!? それが……私に、何も、言わないで、勝手に……消えて、しまって………」
額を狙っていた手をぱたりと下ろし、声もだんだんと弱くなっていく。
しまいには、嗚咽混じりとなって、トマリを狼狽させた。
「―――……」
ルナーを抱きかかえるために咄嗟に伸ばした手を、ルナーに触れることのないままそっと下ろして、トマリは悲しげに沈黙をこぼした。
「ごめん………」
どうしていいか分からずに、何を言えばいいか分からずに、ただトマリは謝った。
なにに対しての謝罪か分からぬまま。
――なにも言わなかったことか。
――そばを離れたことか。
――不安にさせてしまったことか。
――さまざまな想いのすべてを、ひとつも告げなかったことか。
――そもそもこんな想いを抱いてしまったことなのか。
なにひとつ、分からないまま。
それでもトマリは、謝罪の言葉を呟くように繰り返した。