第六十八話
「ルナー! ルナー、ルナー……ルナーリア! しっかりしろ! 目を覚ませ!」
ぐったりと力を失った体をしっかりと抱きかかえて、トマリはルナーの名前を耳元で何度も呼ぶ。
普段であれば、ルナーが『うるさいッ!』と一喝してトマリを殴っただろう。だが、意識がないルナーはピクリともしない。
額にはびっしりと脂汗が浮かんでいた。
幸福は瞬間、驚愕と不安に取って代わられた。
普通に動き、あまつさえトマリに攻撃などしたから忘れていたが、ルナーはひどい傷を負っているのだ。
全身に巻かれた包帯は、真っ赤に染まるほど血が滲んでいる。完全に傷が開いたのだ。
外に見える傷だけでなく、おそらくは体の中の傷も悪化したはずだ。あんな激しい動きをしたのだから。
「くそッ……!」
気付かなかった自らの失態に悪態をつき、それでもルナーの様子を見守り、必死に思考を巡らせる。
横ではファルシコーネが抱えるほどもある大きなカバンを開き、治療のための道具をあれこれと出しているところだった。
だが、トマリはそれを止めた。
「ファルシコーネ、それは必要ない」
「! 必要ないって……クルーエル、彼女は一刻を争う容態なんだぞ!?」
興奮したファルシコーネの言葉にも、無表情に頷く。……実際は焦りが全身を支配し、心臓は破鐘のように脈打ち、至る所に嫌な汗が滲んでいたのだが。
「分かっている、おまえの治療でも間に合わないことぐらい」
「………ッ!」
ファルシコーネは言葉を詰まらせる。侮辱のような言葉に、ではない。トマリが口にした『間に合わない』という厳然たる事実にだ。
「だから、別の方法で間に合わせる」
宣言のようにきっぱりと言い切るトマリ。
だが、
「他にどんな方法があるっていうんだ!?」
ファルシコーネの言う通りだ。他に方法はない。
……かに思われたが。
「――俺の力を使う」
「!?」
力。異能者の持つ、生まれながらの能力。遺伝なのか突然変異なのかも分かっていない、まったくの未知。
多くの異能者はその力を、なにがしかを傷付け、殺めるために使う。それ以外に道がなかったからだ。
なにかを壊すためには、その力は非常に簡単に持ち主の意に従う。だが、それ以外の使い道となると、非常に困難で、力はなかなか従おうとしない。その力を遠視や結界など、攻撃以外に使えるというのは、いかに優秀かを表していた。
故に、自然と他者を傷付けるためにだけ使われてきたのだ。
「……その力を、ルナーリアさんの傷を癒すために使うのか?」
使えるのか? ファルシコーネはそう訊いている。視線は鋭く、容易に質問の真意は知れた。
「使えなければ、この力に意味はない」
子供の頃から、多数の人間に大怪我を負わせた。親はその力を忌み嫌って彼を捨てた。何度も力の存在が知られて、逃げるように街をあとにした。
極めつけが、力の暴走で街ひとつ、その一帯を焦土と化した。数え切れないほどの無辜の人間の命を奪ったのだ。
いつだって、トマリはその力を必要としたことはなかった。むしろ、最も力を忌み嫌っていたのがトマリ自身だ。
だが、いくらトマリ自身が忌み嫌っていても、その力もまたトマリ自身の一部なのだ。
力は力でしかない。そして、トマリはトマリでしかない。
そして、その二つは同じひとつの体に宿っている。
自らの力を忌み嫌い、恐れながらも、それでもトマリはどうしてもその力を自分から切り離して考えることはできなかった。なにも望まない分、トマリはきわめて現実主義だったと言えた。
一方で、トマリは諦めていた。この力すらもひっくるめて自分を見る人間などいないのだと。
トマリという人物を見てくれる極めて稀な人間はそれでもいたが、そのヒトの持ち得ない力はやはり畏怖の対象でしかなかった。力は、彼らにとってトマリの一部ではなかった。
今までずっとそうだった。これからもそうだと思っていた。
だが。
ルナーリアという人間は違った。トマリの持つ力がいかに異常かを目にしても、恐れはしなかった。しまいには『たかが化け物』と言い切る始末。
やはり、トマリにとってルナーは奇跡だった。これからどんなに永い時を生きたとしても、彼女のような人間には逢えないだろう。そんな確信が漠然とある。
何故なんだろうか?
手に入れてはいけない彼女に逢ったことは罰なのか?
彼女によって癒されていくことは赦しなのか?
なぜ、彼女に出逢ったんだろうか……?
自分は罰せられているのか。赦されているのか。
判らない。判らない、が……きっとルナーなら、こう言うんだろう。
『そんなもの私には関係ない』
容易に想像できることに、トマリは思わず笑みを浮かべた。
罰だとか、赦しだとか、そんな全てを超越した意思――神のようなものを、彼女が信じるとは思えない。自分も信じてなどいない。
ならば。
ならばそんなことを考える必要などないではないか。
これが罰なのか赦しなのかは、ルナーに委ねればいい。
全てを押しつけるわけではなく、ただルナーが自分をどう思っているかを知りたい。
その答えが、罰か赦しかを決めるだろう。
――やはり、押しつけていることになるのだろうか?
それもまた、判らない。
ただ今は、自らの大切な人を救いたいだけなのだ。
ずっと消したくてたまらなかった力を、けれどもけして消えないだろうと諦めていた力を今だけは――今だけは、命を救うために。
しだいに高まっていく力を感じながら、トマリはただルナーのことだけを考えていた。