第六十四話
――祖父は、ずっと、血も涙もない人間なのだと思っていた。
自らの血を継ぐ子供を、孫を、人殺しに育て上げ、侯爵家が力を得るために道具にしてきた。
――人間らしい優しさや愛情など、ひとかけらもないのだと。
そう思っていた。
そう思わなければ、たとえどんなに非道な人間だとしても、肉親を恨み憎むことなどできなかった。
だから、憎むためには、祖父は完全に非道な人間でなければならなかった。
しかし、今。
それは崩れてしまった。
幼い自分にあの歌を教えてくれたのは祖父だった。
冷酷で、人を人とも思わぬシンヴァール侯爵だった……!
もともと人を殺すには向かない、優しい性格だったルナーは、それだけで侯爵に立ち向かえなくなった。
自分を支えていた大地が、ガラガラと崩れていく気分だ。
もう立ってはいられない。
ルナーはその場にへたり込んだ。
「ルナーリア……愛しい、たった一人の孫娘。さあ、儂のもとへ帰ってくるがいい。今ならまだ、儂もすべてを許してやろう」
それは、とても甘美な誘いに聞こえた。
ただ、頷いてしまえばいいのだと。自らの内からそう声が聞こえる。
――頷イテシマエ。
――ソウスレバ平穏ナ暮ラシガ訪レル。
――モウ憂イモ哀シミモナクナル。
――楽ニナッテシマエ。
――私ハ……。
「ルナーリアさん……! 惑わされないでください! そんな小さなことで、今までのすべてを許してしまっていいんですか!? クルーエルを奪われたままでいいんですか!?」
ピクッ――
「トマリ………」
「そうですよ! 貴女の欲しいものは、もう目の前にあるでしょう!? 奪ったのはシンヴァール侯爵ですよ!」
ルナーがゆっくり顔を上げる。
視界に入るのは、柔和な笑みの仮面を貼り付けた祖父と、ただ無表情に自分を見ようとしない人。
――私は、どちらが大切だ?
自らに問う。
――私は、なんのためにここへ来た?
問う。
――私が望む暮らしは?
問う。
――私の望む生き方は?
問う……。
「私は……」
トマリを取り戻すために。
肉親を捨ててでも、選ぶ人がいる。
肉親がどんな人間であれ、関係ないのだ。悪人であれ、聖人であれ。
私はもう選んだ。
キッと顔を上げ、体中に力を入れる。ゆっくり立ち上がる。
何度も迷い、何度も惑い、何度もためらった。
だが。
もう迷わない。
私は……、
「ひとつ、言っておくが……」
水を差したのは、今まで頑なに口を閉ざしていた、トマリ=クルーエルその人だった。
「さっき侯爵が言ったとおり、俺は自分の意思でここに来た。侯爵からの手紙は単なるきっかけだ。俺はあのままルナーのそばにいるつもりはなかった」
手紙が来なくとも、そう経たないうちに離れただろう……。
ささやくように言う。
その視線はルナーに向いていない。
トマリの言葉に最初にアクションを起こしたのは、意外にもファルシコーネだった。
「っ……、クルーエル、おまえ! ふざけるなよっ、ルナーリアさんがどんな想いでここに来たと……!」
だが、当のルナーはそれを静かに手で制した。
「ルナーリアさん……?」
困惑するファルシコーネを見ずに、ルナーはただ厳しくトマリを見つめる。
「……なぜだ? なぜ、私から離れようと思った?」
挑むように睨むルナーに、トマリは言い淀んだ。
「それは……、もう、そばにいることはできないと思ったからだ」
「だから、なぜ? 私はその理由を訊いている」
形勢が逆転してきた。いま強い口調で問い詰め、場の主導権を握っているのはルナーだ。
「なぜだ!? 答えてみろ、トマリ!!」
全身から想いの波が溢れていると錯覚させるほど強い声。
だが、その場に水を差す、狼狽したような声が荒げられた。
「ま、待て……! 勝手に話を進めるな! 儂はおまえ達の祖父だぞ、雇い主だぞ!」
その手には、いつの間に抜いたのか一挺の銃が握られていた。なんの改造も施されていない自動拳銃だ。
「黙ってください。いまは貴方の出る幕ではありません……ですが、先にこちらを片付けてしまいましょうか」
存在を軽んじられることが最もの侮辱であろう侯爵は、なんとか主導権を取り戻そうとしたが、ルナーの静かな……静かすぎる声に圧された。器が違いすぎた。
ルナーは自然と右手を剣の柄にかける。
残る三人はそれぞれ驚いて息を呑んだが、ルナーはまったく意に介さず、ただ刀を抜き放った。