第六十三話
……感じる。すぐ近くにルナーの気配を。術などわざわざ使わなくても伝わってくる。
逢いたいが、逢いたくない。逢いたくないのだ。逢えばまた、あの愚かな感情は甦るだろう。
だが、これは『やらなければいけないこと』だ。
当主の……強欲なあの人間のそばに行かなければ。
深く息を吐いて、立ち上がる。部屋を出て静かに当主のそばに立つ。
「……すぐ近くまでいらっしゃっていますよ。貴女の会いたかったお嬢様が」
そう告げると、侯爵はニィッと笑った。はっきり言って生理的嫌悪が込み上げてくる。嫌な笑みだ。
その醜悪な笑み。冷静で冷徹で冷酷な君臨者の仮面は剥がれかけている。
侯爵はもうトマリが裏切ることなど考えていないのだろう。振り返ることもしない。
「……来ました」
その言葉と同時に、ドアの軋む音が静かな室内に響く。
入ってきた者の姿に、白く痛々しい包帯に、きらめく烏玉の髪に、油断なく構えられた足に、刀の柄に添えられた手に、そして、燃え上がる強い意志の宿った瞳に。
ルナーの持つ全てにトマリの感情は落ち着きなく騒ぎ出す。
あの華奢な体を抱き締めたい。
あの瞳に自分だけを映したい。
どこかに閉じ込めて自分だけのものにしたい。
……解っている。それが愚かな願いであることなど。月は太陽の光を浴びないと輝かないのだ。そんなことはとうに知っている。
だが、それでも願ってしまうのだ。ルナーリアという人間のすべてを手に入れたいと……。
部屋の――いや、一族すべての――主を認め、ルナーは軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、侯爵」
内心の恐怖を欠片も見せずに堂々と挨拶をしてみせる。
「おお、懐かしいなぁ、ルナーリアよ。儂の愛しい人形よ……よく帰ってきた」
ルナー自身はその言葉になにも感じなかったが、トマリはなぜか少しだけ顔をしかめたように見えた。
「お言葉ですが……私は帰ってきたわけではありません。私の用件は……そちらにいるトマリ=クルーエルです」
侯爵は柔和な笑みを浮かべている。その笑みは仮面のようにまったく変化がない。
「さて、儂が雇っている男だが……彼がどうかしたかね?」
言葉のひとつひとつに、その態度に、笑みに、仕込まれた毒はじわりとこちらを浸食する。ファルシコーネは老人を一瞥しただけで、辟易したように視線を逸らした。
「彼は、彼自身の意思で儂のもとへ来た。それを、おまえがどうこう言ったところで、変えられはしまい?」
「ええ……ですが、その理屈は通りません」
侯爵の仮面にほんの僅か変化が現れた。
「なに……? それはどういうことだ、ルナーリア」
「もともと彼を雇っていたのは私です。依頼の書類も、もちろんあります。私の依頼が果たせないまま、貴方に雇われることなど、できるはずがないでしょう?」
ルナーは静かに笑みをこぼしている。この辺りは『血』を感じるファルシコーネだった。
「……ならば、二人が儂のもとにいれば解決するであろう? もう一度、儂のもとへ帰ってこい。おまえは殺人人形なのだ。あのような光の世界では暮らせない……そうだろう?」
「貴方のもとにいては、私の依頼は永遠に果たせない。だから私はここへ来た。トマリを取り戻すために」
「儂のもとにいては果たせぬ依頼とはなんなのだ? ことによっては、儂がこの男のかわりに果たしてやろうぞ。今のこの男の雇い主は儂なのだからな……」
「…………」
ルナーはただ苦く微笑むだけだった。
ファルシコーネは、ルナーの依頼の内容は知らない。だからただ、傍観者に徹するしかなかった。
「帰ってこい、ルナーリア。幼い頃の日々を忘れたというのか……?」
猫なで声のようだが、その声にはやはり毒があった。
ずっと無感情に前を見据えていたルナーは、侯爵の次の言葉に目を瞠った。
「幼いおまえに古い歌を教えてやったのは儂だぞ……おまえは覚えていないようだがな。何度も何度も歌ったのだろう? 月の欠ける崩壊の歌を……」
……愛しい子らよ、目覚めなさい
安寧の眠りは終わりを迎えました
空に輝く月は、あなた達の揺りかご、あなた達をいだく腕
その月はいまや欠け、あなた達は目覚めと旅立ちを迎える
ぬるま湯に浸かるが如き、母のなかに揺られるが如き眠りは終えました
安穏の日々から、苛烈の日々へと身を投げなさい
愛しい子らよ、旅立ちなさい……
毒は、じわりじわりと、浸食する……。