第五十七話
抜き放たれた刀は妖しい光を放ち、見る者を幻惑へと誘うかのよう。
ルナーは決して走り出したりしなかった。
足音はどんなに耳を澄ましても聞こえないくらいに静かで、目の前にいるのに瞬きをした瞬間には消え失せてしまうかのような気配の希薄さを感じる。
ディランはじめ、異能者たちは知らず息を呑んだ。
もともとは異能を持つ自分達と同じく暗殺者として侯爵に育てられていた人間。その実力は暗殺から離れたいまでも底知れないものがある。
「私が、怖いか――?」
暗く嘲笑うルナーは、踏み越えてはいけないはずの境界線の向こうにいるかのようだ。
短い侮辱の言葉に、異能者たちは自らの役目を思い出した。それぞれが得意とする媒介を取り出して力を込める。
ある力はルナーの歩みを遅くし、ある力はルナーの全身の薄皮一枚を裂いていく。
「…………」
だが、そのいずれもが、ルナーの歩みを止められはしない。
目に見えぬ空気の刃が額を切り裂き、真紅のしずくが瞼を伝い、頬を汚した。ルナーはそっと血を拭うと、不気味に微笑み拭った指先に付いている血を舐めとった。
ルナーは暗い快感に支配される。
向かってくるのは殺意。前庭にいた輩が放つ闘気などではない。紛れもない殺意だ。
そして自分はそれを叩き伏せる。殺意を放った者の、自らの死を以て。それを考えると、自然に口元には歪んだ笑みが浮かぶ。
明らかに様子のおかしいルナーを見ながらも、ファルシコーネは止めることができなかった。止めようとすれば自分が死ぬことになるだろうと解っていたからだ。
ルナーがむざむざ殺されるのはもちろん望むところではないが、それでも怪我を負うことによって元に戻るならば、それもいいだろうと思えてしまう。それほどにいまのルナーは異質だった。
ゆっくりと。
礼儀作法のテキストをなぞっているかのように、ルナーは静かに優雅に歩いてゆく。
「ヒッ――!」
異能者の一人が、恐怖のあまり致命傷となりうる力を解放する。雇い主である侯爵は、あくまで殺さぬようにと、生け捕りにと言っていたが、そんな悠長なことを言っていては自分が殺される。
放たれた力は、階段のなかばまで来ていたルナーを思い切り床に叩きつけた。受け身もとれず、ルナーは背中から床に落ちる。
「――かッ、はッ………!」
堪らず肺のなかの空気をすべて吐き出す。痛みのあまり声も出ない。その場でうずくまるように背中を丸め、思わず咳き込んだ。
だがそれもすぐのこと、息を整え立ち上がる。
(いまので……あばらが何本かイッたな………)
ヒビが入ったのか、折れたのか。詳しいことは分からないが、吐血がないということは、少なくとも折れた骨が肺に刺さったりはしていないらしい。
脂汗をかき、浅く息をしながらもルナーはまた歩き出す。
今度は攻撃を受ける前に、階段の途中で立ち止まる。
そして。
「―――!」
消えた。誰もが驚愕するなか、ただ一人、ルナー当人は冷静に状況を見た。
その視線がある一点に留まると、ルナーは微笑んだ。背筋が凍り付くような笑み。だが幸いなことに、誰もその笑みを見ていない。
もしも見てしまったならば、その人間は自らの未来に死を視て、すぐさま狂気へと逃げるだろう。
そんな笑み。
――ひゅん……ッ
それは空気を鋭く両断する音。
それは頭部と胴体の繋ぎ目を切断する音。
それは命の終わりに聞いた音。
気が付けば一人、いつのまにか首を斬られていた。
胴体はそのまま前のめりに倒れ、転がる頭部に苦悶の表情は無い。知覚する前に命を絶たれたのだ。まさに見事としか言いようのない手並みだった。
「な………ッ!」
第三者として見ていたファルシコーネにも、彼女の動きは捉えられなかった。
ただ気付いたら、階段の手摺りにすらりと立っていたのだ。
おそらくは階段のなかばから跳躍し、その勢いもあってか一人の命を瞬く間に奪い、そして身近にあった手摺りに降り立ったのだろう。
それも後から考えて解ることだ。リアルタイムでなにが起こったか理解していたのは、ルナーただ一人に違いない。
「くっ………!」
状況を瞬時に判断した一人は、何枚もの紙でレイピアの形を模した物を突き出してきた。だが、その強度や切れ味は紙よりもレイピアよりも勝るだろう。そう術を施されているのだから。
「…………!」
それを頬の皮一枚を掠って避ける。頬には赤く戦が奔って、やがてじわりと血を流した。
目をかっと見開く。
もう一度襲い来るレイピアの軌跡を目で追って、相手と自分との間に別の異能者の体を置く位置に逃れる。
「「!!!」」
レイピアを持つ方も、盾にされた方も息を呑む。
しかし、もう遅い。
術によって創られたレイピアは、やすやすとその体を貫き、あっけないほど簡単に一人を死に追いやった。
そして、相手に動揺があるうちに、その盾にした体をレイピアの刺さったまま蹴り飛ばす。武器を封じられ、動きも封じられている相手は、蹴られて倒れようとする体に巻き込まれた。
それで倒れればそのままとどめを刺す。倒れなくても視界を遮った一瞬で、死んだ体ごと刀で貫く。
それだけでよかったのだ。
果たして、正確に心臓を貫かれた相手は、自らの刺した仲間と共に床に沈んだ。
「動揺するな! 冷静になれば倒せない相手ではない!」
ようやくディランが声をかけた……そう感じるが、実際にかかった時間などほんの僅かだろう。
ディランの一言で、狼狽えていた者は瞬時に冷静さを取り戻した。
その様子を見て、ルナーは、さすがに統率が取れている……そう感じた。まあ、そうでなければ祖父がいつまでも手元に置いておくはずがない。
同じ高さに対峙する形になって、やっと異能者達はルナーをいたぶる相手ではなく、強敵だと認識するに至った。