第五十三話
そしてその晩十時ごろ。シンヴァールの屋敷前。
招かれざる客を迎えるのは威容を誇る門。の近くの物陰に二人の侵入者はいた。
「いよいよですね……」
そんなセリフをのんびりと呟くファルシコーネ。
「ところで、どこから忍び込みましょう?」
隣で目の前にそびえる門を見上げていたルナーに尋ねる口調は、まるで明日の朝食のメニューを尋ねるようだ。
「お祖父様曰く、『どんなに厳重に見える警護にも、必ず針の穴ほどの油断と隙がある』そうだ」
「つまり……?」
ごくり。
さすがに息を詰めて訊くファルシコーネに、ルナーははっきりと頷いてみせる。
「正面から玄関をくぐって行こう」
「…………えぇっと?」
聞き間違いであることを期待してもう一度答えを求めるようにルナーを見つめる。
ルナーは楽しげに顔に笑みを刻んだ。
「聞き間違いなんかじゃない。私はたしかに『正面から行く』と言った」
静かな夜の住宅街に、ファルシコーネの抑えながらも荒げた声が響いた。
「なっ……なぜです! たったいま貴女は、警護の隙をついて侵入するみたいな事を言ったばかりでしょう?! いきなり翻すんですか!?」
ルナーはしれっと言ってのける。
「私はお祖父様に教えられたことを言っただけだぞ。誰もその『暗殺の教本』の通りにしようなんて言っていない」
誰がどう聞いても完全に屁理屈だった。
完全に呆れ果てたファルシコーネを見て、ルナーはさすがに顔をしかめた。
「あのな、べつにわざわざ丁重に呼び鈴押して『こんばんはー』なわけないぞ? ――『正面から』っていうのはつまりだ。お祖父様は自分の理論に絶対の自信がある。だから私が教えられたとおりにすると踏んで、逆にセオリー通りに塀の近くや目立たない窓なんか――普通だれもが侵入経路として選ぶ場所に人を置くはずだ。ならば、その逆をついて、わざと正面から入ってやればいい。心理的に、『忍び込む』人間は正面から来るはずないと考えるしな」
「…………」
さっきとは違う意味で呆気にとられるファルシコーネに気をよくして、まるで手品のタネを得意げに披露する子供のようにルナーは笑った。
「どうだ? まだ反対するか?」
反対されるとはまったく思っていない顔でルナーは訊いた。
その顔を見て、小さな子供を見て微笑ましいと感じるような……そんな心持ちになってファルシコーネは笑った。
「……参りましたよ。反対なんてできるはずがないでしょう? 貴女の本職はそういうことに関してですからね……お任せしますよ。でも、戦闘になったとき、私はあまり役には立てませんよ? 自分の身を守る程度のことはできますが、私の本職はあくまで『医者』なので」
「分かっている。戦うのは私一人で充分だ。戦闘になったらおまえはどこかに隠れてでもいればいい」
きっぱりと言い放たれると、それはそれで悲しいものがあるが、やはり戦闘はプロに任せておけばいい。下手に何かしようとすれば却って足手まといになりかねないのだ。それを解っているので、ファルシコーネはなにも言わなかった。
「……では、そろそろ行きますか」
門の前に一応立っている二人の人間を視界に捉えつつファルシコーネは静かに言った。
そしてそのまま腰を浮かせかけたファルシコーネに、ルナーは制止をかけた。
「待て。入り口で戦闘になるのはまずい」
「……では、どうします?」
試すようにルナーを見上げて言う。
視線を遠くに投げていたルナーがふとファルシコーネを見る。視線がぶつかる。ルナーは静かに、強く笑みを作った。
「ここで待っていてくれ……すぐに済む」
なにが、と問う間もなくルナーは茂みを抜け、門番から遠く離れた位置の塀の下へと音もなく走った。
その位置から門番までの距離は約十メートル。そこから、のんびりと散歩でもするかのようにゆったりと歩く……気配を完全に断ち、極限まで足音を消して。
どんどん距離はなくなっていく。小さな声も簡単に届く位置まで近付いても、門番に気付く様子はない。
ルナーは平然と門番のとなりに立ち、長身でがっしりとした男を見上げた。
……と、思ったら、ルナーは腕を振り上げ、男の首筋に正確に手刀を落とす!
――とすっ
軽い音をたてて、真っ白でたおやかな凶器は男の意識を、声を上げる暇もなく奪った。
そして、となりの男が倒れた音でもう一人の門番はやっと異常事態に気付いた。
彼の視界には、倒れた同僚と、美しい女が映っていた。
条件反射で銃を抜き、すぐさま構える。
だが、その美しい女は婉然と笑み……彼の視界から消えた。
乾いた破裂音が響くのとほぼ同時に。
「おやすみ」
静かで冷たい声が聞こえたような気がした……その次の瞬間には、彼の意識は闇へと墜ちていった。
「ふ………」
静かに息を漏らし、美しい女――ルナーは倒れた男二人を見下ろした。
呆気にとられたままこちらを見ているファルシコーネに手招きをする。焦ったように小走りで寄ってくるファルシコーネは、足元を見て息をついた。
「見事なものですね……こんな大男を素手で倒すなんて。他にも言いたいことはありますが……やめておきます。キリがないので」
呆れたような言葉にルナーはほんの少しだけ声を上げて笑った。
「そうしてくれるとありがたい。さて、と……さっさとなかに入るか」
一体どんなテを使ったのか、あっさりと門に掛かっていたはずの鍵をはずして(破壊して、かもしれないが)、二人は敷地内へと侵入を果たした。