第五十話
時間は少し戻って、同じ日の早朝。
トマリは自らの頬や額に当たる、木から落ちてくる滴で目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、真っ青な空が見えた。だが、いまだ降り続く雨の音も聞こえてきた。
トマリはどこかがっかりしながら立ち上がり、落ちてくる雨粒を手のひらに受けた。
「………?」
トマリは不思議がって首をかしげた。昨夜はあんなに身を貫くような冷たさを持っていた雨が、いまはほんのりと温度を上げている。
雨を全身に浴びても冷たいとは感じない。空を見上げながら、ヒトはだから、雨を恵みと言うのかと、なぜかそんなことに思い至った。
つらく哀しいだけの涙が、暖かい嬉し涙に変わったように感じられた。
「……もう、大丈夫か」
トマリは淡く微笑んで青い空を嬉しそうに見上げた。
意味もなく安堵し、生乾きの服に適当に術をかけて適当に乾かし、荷物を手に取り歩き出す頃には、雨はもう止んでいた。
再び歩き出したトマリは、あとから追い掛けて来るであろう二人を引き離すかのように猛然と歩く。そういえば昨日は何も口にしていないな……と思い当たっても、いま食べるわけでもなく、今日はなにか食べようと思うわけでもなく、ただ先に進むことだけを考える。
どうせ死ぬことはないのだからと、空腹感が飢餓感に変わっても、それを自らの意思で抑えてしまう。
人は本能のうち、最優先される空腹と睡眠を行わないと命に関わるという。だから人は、それを意識する前……無意識のうちに欲求を満たす。
食べたいと思うから食べ、眠りたいと思うから眠る。それはおそらく、生きようとする人の本能に根差す行動である。しかし、トマリの場合は違う。いずれ尽きるはずの命とはいえ、今のところ不老に加えて不死だ。生きるための本能を満たさなくても死なない。それを解っているから、求めもしない。
自然とそれらに執着しなくなる。それらとはつまり、食べることや眠ること……長じて、生きようとすること。生への執着心が非常に希薄なのだ……周囲の人間が危険に感じるほどに。
トマリがあらゆるものに執着しないのは当然のことと言えた。
それでも唯一興味を覚えたのは、膨大にある退屈な時間をいかにして潰すか……これに尽きた。言い方を変えれば、トマリは世界で一番人生を退屈に生きている人間なのだ。
そんな人間が特定の何か、もしくは誰かに執着することがあれば……。
トマリは、ただ、歩く。
朝食を摂り、急いで街をあとにして馬の背に揺られていたルナーは、なぜかふとあの歌を思い出した。
遠い昔にトマリがヒトとして愛したただ一人のヒト『月の歌姫』。彼女が自ら作り歌っていた、多くの人が愛して現代まで伝わりながらも、作者が不詳とされている歌。
「……愛しい子らよ、目覚めなさい
安寧の眠りは終わりを迎えました
空に輝く月は、あなた達のゆりかご、あなた達をいだく腕
その月はいまや欠け、あなた達は目覚めと旅立ちを迎える
ぬるま湯に浸かるが如き、母のなかに揺られるが如き眠りは終えました
安穏の日々から、苛烈の日々へと身を投げなさい
愛しい子らよ、旅立ちなさい………」
ルナーは昔からこの歌を知っていた気がするが、いったいいつ、誰に、どこで教えてもらったのかは全く覚えていなかった。歌を教えてくれるような人など近くにいないはずなのに、気が付いたら知っていて、月の綺麗な晩などに歌うのだ。つらい事ばかりだった幼い頃、この歌を唄えば不思議と慰められる気がした。それもあって、最も好きな歌となった。
「綺麗な歌ですね。なんかちょっと……歌詞が怖い気もしますけど」
すぐ隣を同じように馬の背に揺られているファルシコーネが微笑みながら言った。
言われて考えてみると、たしかに怖い感じのする歌詞だ……というよりも、すこし危険だ。
「そう……だな」
歌詞が意味するものは、一見目覚めや旅立ちのようだが、一つ一つの言葉の象徴するものは、どちらかというと……破滅だ。
歌われている『愛しい子』は、安らかな日々の象徴であるゆりかご……つまり月が欠けて、壊れてしまった末に旅立つ。まるでそれは、もう二度と安心して眠れる夜は来ないのだと……そう暗示されているようでもある。
「………この歌は、作者不詳で百年ほど前に作られたらしい」
「らしい、とは?」
「トマリにそう教えられた、初めは。だが、本当は……」
言うのをためらって、言葉を濁して……結局その場は呑み込んだ。
首を振って別の言葉を発する。
「記憶のない時に聞いた話だ。だから、作者不詳なんて言ったんだ。知っていても、知らないから……覚えていないから」
「つまり、クルーエルがヒトであった頃にできたものなんですね?」
「……ああ。さっきの歌は『月の歌姫』が作り、自ら歌っていたものだ」
「『月の歌姫』……ああ、クルーエルを庇って殺されたっていう人間ですか………」
ファルシコーネの認識はその程度らしい。たしかに話を聞いただけで会ったこともない遠い昔の人間だ。嫉妬したり、恐れたりする方がおかしいのだ。
それを解っていながらも、ルナーはなぜか、あんな歌を作った『月の歌姫』が不思議と恐ろしく感じてしまう。
それでも、ファルシコーネの、全く知らない人間のことを言うような物言いに、少しだけほっとしていた。