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第四十六話

 胸の奥が、ささやかな痛みを訴えた。

 ほとんど無自覚の痛みは、そこに刺さったとげのように、いつまでも抜けずに苛んだ。自らを蝕んでいった。

(ルナーリア………)

 気付けばあの顔が脳裏を占拠していた。

 無表情な顔。怒ったような顔。嬉しそうな顔。哀しそうな顔。拗ねたような顔。辛そうな顔。そして……大粒の涙を流して子供のように泣く顔。無垢な赤子のように一片の曇りも屈託もない幸せそうな笑顔。

 忘れようとするほど、振り払おうとするほど、鮮やかに、刻まれたようにまざまざと思い出される表情や仕草のひとつひとつ。

 自分に向けて放たれた、いくつもの言葉。

 すべて、すべて、たった一人の少女を形作るモノたち。

『――トマリっ!』

 自分を表す名前を親しみを込めて呼ぶ。己の存在を呼ぶ、己の魂を呼ぶ……あの声。

 ふいに、トマリは立ち止まって目を開いた。

 それにより、今まで意識していなかった体の冷たさが急に感じられた。かじかみ始めた指。白くくもる吐息。体の芯まで届くような冷たい雨。

「………はぁ」

 息をひとつつくと、きょろきょろと辺りを見まわし、雨宿りできそうな木を見つけ、その下に動きがぎこちなくなっている体をどうにか歩かせる。

 鞄をどさりと地面に降ろすと、その上に腰掛ける。

「お前は今、何を思っている……? 怒ってるか、心配してるか、慌ててるか……それとも、泣いてるか……?」

 はぁ、と重い溜め息をつく。

「あの手紙見るよな。俺が敵にまわったと思うか? と、すると……俺を殺しに来たりして」

 ははっ、と乾いた笑いを虚しく漏らす。

「…………。俺は、あいつにどういう反応してほしいんだ?」

 ……解らなかった。

 自らのエゴを自覚して、その上で考えてもよく解らなかった。

 殺しに来るのならば……それでもいい気がした。

 でも、泣かれるのだけはよしてほしい。狂ったかのように怒ってもいいから、だから、泣かないでいてほしい。

 そう思いつつも、自分のために泣いてくれることを思うと嬉しい気もしてしまう。

「――あ゛ー……」

 際限のないエゴ。

 考えることをまたもや放棄して、ただ静かな雨音に耳を澄ませて目を閉じる。

 雨の止むのを待って、このまま夜になるのなら、今日はここで寝てもいいかと思い始めて。疲れによる睡魔もだんだんと自分を蝕み始めて。

(…………)

 今日は何時間も歩いた。街にも寄らずに通り過ぎた。ひたすら歩き続けた。

 重く曇った空のせいで、いまいち時間は判りにくいが、おそらく夕方に差し掛かっているだろう。ならばここで野宿でもおかしくはない。そうだ。そうしよう。

 そんなことを考えながら、ただぼんやりと時間を無為に過ごしていく。

 かすかな光のことを想いながら。

 たゆたうような睡魔に身を任せて。


 場所はまた戻って、ついでに時間も少し戻って。

「貴女もまた、無茶をしますね……。いくら貴女のお祖父様とはいえ、今は貴女の敵でしょう? その人がいるところへ行くなんて。しかも相手は貴女を連れ戻そうとしている。向こうにとれば、上手くいけばクルーエルも貴女も手に入って万々歳、ですよ? …………本当に行くんですか?」

 未練がましく問うファルシコーネ。

「まだトマリが屋敷に着いたとは限らないだろ。どうせ出るなら早いほうがいい……できれば、屋敷に着く前にあいつを捕まえたいんだがな」

「まぁ……それは」

 問答をするあいだにもルナーはさっさと支度を終える。

「さて、と」

 ファルシコーネを振り返って、ちょっとだけ背筋を伸ばしてみる。

「短い間だったが、世話になった。上手く行けばまた会うこともあるだろう……ありがとう、ファルシコーネ」

 まるで今生の別れの挨拶である。まあ尤も、ルナーはそのつもりなのだろう。シンヴァール侯爵の恐ろしさを一番知っているのはルナーなのだ。あの人を敵にまわして、そう簡単にいくとは思えない。失敗するかもしれない。そうしたらもう二度と会うことはできない。

「ちょ、ちょっと待ってください。どうして貴女一人で行くことが決定事項なんです?」

 ルナーはきょとん、としてファルシコーネの顔を見た。

「だって……足手まといは必要ないし」

 グサッ!

 ファルシコーネは大いに傷付いた。その言葉の内容もだが、それを平然となんの呵責もなく言ってのけるルナーに傷付いた。

「自分の身くらいは自分で守れます! それに、貴女やクルーエルが怪我した時に、医者がいた方がいいと思うんですが?」

「む………」

 ルナーは考える素振りを見せた。しめた、とファルシコーネは思った。

「大したことがなければいいんですが、大怪我をして動けなくなったりした場合はどうするんです? クルーエルは自分のことなんかまったく省みませんからね。怪我をしても放っておいて、本当に大変になるまで気が付かないなんて事もありそうじゃありませんか?」

 ここぞとばかりにたたみかける。ルナー自身のことよりもトマリのことを言った方がルナーの心に引っ掛かるということも十分承知している。ファルシコーネにすればどちらも同じくらいに危なっかしくて放っておけないのだが。

「んむ……ぐぅ………」

 もともと喋ることが得意でないルナーはすでにそうかもしれないと思い始めてしまっている。それに反論したくともできない。勝敗はほぼ決していたが、とどめを刺すことにした。

「私もそれなりに人脈が広いですからね。行く先々でクルーエルの動向も知ることができると思いますよ」

「………………解った。一緒に来てくれると、助かる」

「ええ♪」

 こうしてできた奇妙な二人組はすぐさま準備を終えて、家出同然に飛び出していった男を追いかけたのだった。

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