第四十五話
そして同じ頃。
トマリはとうに街を抜け、都へと続く街道をただひたすら歩いていた。シンヴァール侯爵家の屋敷を目指して。
荷物は最低限のものしかない。というより、あの隠れ家へ持っていった荷物をそっくりそのまま持ってきたのだ。最初から野宿ができるような装備が入っている――というより、常に入っているという不思議カバン。
「…………」
トマリはただ黙々と歩く。何も考えずに歩く。ひたすら歩く。
そうして考えたくない想いを無視している。目を閉じて、耳を塞いで、無かったことにして。
自分でも理解できない想いを抱いて、訳も分からずにただ嫌悪して持て余していたトマリに、あの手紙はいい口実を与えた。
あのままルナーのそばにいられたとは思わない。上っ面だけはなんでもないように装うことは簡単だが、いつあの愚かな感情が表に出てこないとも限らない。
何より、ルナーのそばにいたくなかった。いられなかった。こんな愚かな想いを抱いた自分が、あんな無垢な笑顔を作る人間のそばにいられるはずがない。居たたまれなくなる。だましている気分だ。そんなの嫌だ。我慢できない。
だから出てきた。それだけのことなのだ。
自覚なく、ヒトであることを捨てた時。同時にヒトならば持っていて当たり前の感情も封じた。ただ、邪魔になるからと。もう、いらないから、と。
自分がヒトであることを思い出しても、記憶の中で愛しいものが、大切なものがあったことを思い出しても、その記憶に実感が伴わない。
映像や音声は鮮明に蘇ってくるというのに、その時自分がどんなに激しい想いを抱いたのかを思い出せない。いや、思い出せないというよりも、その想いに重要性を見いだせない。価値観をすべて崩してしまった。そんな感じだ。
だから今抱いている想いにも理解が及ばない。ただ困惑して目を逸らしてしまう。
黙々と歩くうちに、地面にぽつりと小さなシミができる。
一つできたのに気付けば、二つ目、三つ目とどんどんその数を増やしていった。
音の無かったそれは、いつしかサアアァァァ……と、静かに音を奏で始めた。
近くに雨宿りのできそうな大きな木もあったが、しなかった。いや、気付かなかったのだ。視界に入ってはいても、雨宿りをしようという気がまったく起きなかった。
ただ黙々と、歩くことだけが今の自分に許された行動だと言うかのように、ただ歩いた。
まだ早い春の雨は、すぐに衣服を濡らし、体を冷やした。
上等なスーツも、揃いの帽子も、もはやその役目を果たしていない。
髪もずぶ濡れになり、肌にまとわりつく。肌をいくつもの冷たい雫が滑っていく。その冷たさが体の中に忍び込むように体温を奪っていく。
荷物の中身もきっとすべて役に立たなくなっているだろう。だが、そんなこと構わなかった。
どうでも良かった。
トマリは無表情に歩く。
まるで、魔物として生まれたあの瞬間のように、一切の感情を消し去り、歩くことだけを自らに課していた。
真っ直ぐに続く道をぼんやりと見届け、目を開いていることすらも億劫だというように目を閉じた。それでも歩いた。
目を閉じて、暗い視界にはいろんな映像がよぎった。
生まれた頃のこと。辛かったヒトとしての人生……なんの感慨も浮かばない。
退屈しかなかった魔物としての人生。たまにヒマ潰しにヒトの問題を解決したり、裏で稼いだりした……どれも、満たされたことなど無かった。
命があるからただ生きている。目的もない、したいこともない。
そんなつまらない人生に、ある日鮮烈な光が差した。
初めて会った時、その光は望む生き方のために誰を殺すことも厭わぬ顔をしていた。たったひとつの『自由』という生き方を渇望し、その為ならなんでもする……そんな覚悟を持った強い瞳。
ひどく興味をそそられた。
こんな人間がいるのか、と。奇妙な生き物を見つめる気持ちでそれを見た。
そして、興味の延長から、自分に依頼をしないかと持ちかけてみた。そばにいてあの面白い人間を見ていたいと思ったから。退屈を潰せると思ったから。
思った通りだった。
その人間は何に対しても一所懸命で、器用でなんでもできるくせに、どこか不器用な生き方をする。
興味はさらに募った。警戒する人間ならば、いとも簡単に殺せてしまうくせに、一度信頼した人間のことはどこまでも信じきる。面白い人間だ。
そうして一緒に日々を過ごすうちに、その人間のことを、自分が傷つけられなくなっていることに気付いた。その人間に対してだけは自分は無防備になってしまうことも。
そして、護りたいと思ってしまっていることも。
トマリは戸惑った。まったく覚えのない感覚だった。人間は自分とは違う生き物なのだからどこで何をしようが、生きようが死のうが、どうでも良かったはずなのに。
そんな自分の変化に困惑しつつも、トマリは狼狽えたり動揺したりはしなかった。なんとなく心地良いその感覚に、自分がいつまでもその身を浸していたいと知らず知らずのうちに思っていたから。
いつまでもあの人間のそばにいて、心から笑ったり怒ったりしていたかったから。
でも、もうできなくなってしまった。
自らの中にある、愚かな想いが無くならない限りは、あの暖かな光のもとへは戻れない。
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