第四十四話
しばらくのあいだルナーは、嗚咽を漏らすでもなくただ静かにはらはらと泣いていた。
具体的に言えばまあ十五分くらい。
その間ファルシコーネは、ただそれを見ながらおろおろと右往左往して、なかなかのダメ男っぷりを披露していた。色男(死語?)的な位置付けだったはずなのに。
そして。
――ぱあんっ
いきなり部屋中に何かの破裂音が華々しく響いた。沈黙だけが空間を支配していた部屋に、それはエコーとなって渡っていった。
ファルシコーネはぎょっとした。最近何度もぎょっとしているような気もするが、それでも反射を止めることはできない。
そして音の発生源を突き止めると、果たしてそれはルナーが両手で頬を思いっきりはたいた音だった。破裂音だと思ったそれは、それほどまでに綺麗に手と頬が音をたてた結果だった。
「ルナーリアさん?!」
訊く声の語尾は跳ね上がっていた。
「――行かなくては」
思わず聞き逃してしまいそうなくらいにルナーは小さく、低く呟いた。
強い意志で何かを決意した瞳。だがそれでいて、とうに決まっていた事柄を確認するだけのような平坦な声。
「えっ? 行く、ってどこにですか?」
「決まっている。お祖父様の屋敷――いや、トマリのいる場所へ」
なかば予想できた答えとはいえ、ファルシコーネは困惑した。
「……それは、クルーエルが裏切ったという意味ですか?」
慎重に、ルナーの真意を探るように問う。
そんなファルシコーネにきょとんとして、次いで見透かすようにルナーは微笑んだ。
「トマリが裏切ったかどうかはどうでもいい」
「ど……どうでもいい?」
唖然としたファルシコーネにまた笑う。
「そう。どうでもいいんだ。私はただ、トマリを迎えに行くだけだから」
さっきまでの弱く、崩れてしまいそうな少女はいなくなった。
今のルナーは柳のようにしなやかな印象を受ける。
「あいつが金に執着するとは思えない。だから……行ったとすれば、きっとヒトになれる方法を求めてだろう」
「それは……たしかに」
「あいつが、考えを変えて、ヒトになることを欲したというなら、私はそれでいい。手段も問いはしない」
「でも、そのためにクルーエルが敵になったらどうするんです!?」
ファルシコーネの言葉に、ルナーは何の反応も見せない。少なくとも表向きは。
「私は……光の中では生きていけない」
唐突にぽつりと呟くように言う。ファルシコーネに話し掛けるというよりも、自分自身で確認するかのような言葉。
「……どういう意味です?」
「私の生きる場所はここではない……トマリがいなければ、ここで生きることができない。お祖父様が言ったとおりだ……私には光が眩しすぎて、夢や幻のようで、まるで現実味を帯びない。そのことに絶望しながらなんて、生きていけない」
答えるではなく、まるでただの独白。
「トマリが光と闇の中継点となって私を繋ぎ止めてくれた。でも、そのトマリがいないなら、もう無理だ。きっとそう経たないうちにまた闇に戻る……お祖父様のもとに。そこまで解っていたのかなんて私には解らないが」
「貴女は……なんのためにクルーエルを迎えに行くんです? クルーエルとともに闇に生きるためですか?」
驚くほど真剣な表情で問われて、ルナーは苦笑して答えた。
「私はちゃんと『迎えに行く』と言っただろ? 戻るために……あの事務所に帰るために行くんだ。私は……夢だとしても、光の中で生きたい」
もう一度、あそこでの暮らしを『日常』にするために。
懐かしむように眼を細める。ずっと遠くを見るような眼で、ルナーは柔らかく笑う。
「貴女にとって、『トマリ=クルーエル』は生きるために必要なんですね」
唐突なファルシコーネの言葉に、多少面食らいながらルナーは考えた。
生きるために必要? ……そこまで考えたことなどなかった。だが、ここ数ヶ月という短い時間で、ルナーにとってトマリは常に隣にいることが当たり前な存在になっていた。
そして、トマリは『ここ』で生きるためのいわば命綱。確かに生きるために必要と言えば必要だが、その『必要』の意味がファルシコーネの問いでは少し違う気がする。
存在するだけでは駄目なのだ。どこかで生きていると解るだけでは足りない。
安否が解るだけでなく、常に隣にいて、その表情や感情を知り、くだらない事でもなんでもいいから会話を交わす。その事に意味がある。――それだけが大切。
だからこそトマリがいないという事態にあれだけ動揺し、いつになく狼狽する。『自分』が保てなくなる。
なぜ必要? なぜ大切? なぜ欲する? ……こんなにも。
答えはずっと知っていた。解っていた。……でも、恐かった。想いのすべてを自覚してしまえば何かが変わり、大切な『今』が壊れてしまいそうな気がして。
だから目隠しをして……ただ『相棒』としてだけ隣にいられればいいと。
そうやって、逃げてきた。
「…………」
ルナーは大きく溜め息をついた。それはすべてを諦めるような溜め息であり、すべてを受け入れるような溜め息であった。
そうだ。どんなに無かったことにしようとしても、私は――
「――私は、生きるためにトマリが必要だ。トマリがいないなら、生きる必要を感じない……だから、迎えに行く」