第四十一話
「トマリ?」
不思議そうな声にはっとして顔を上げると、目の前には心配そうなルナーの顔。
「どうかしたのか? なんだか具合が悪そうだが……」
咄嗟に曖昧な笑みを浮かべた。
「いや、なんでもない。それより、解っただろ? お前の剣は、人を傷つける以外にも道があるって……見た人間はきっと、一生忘れない」
話題をすり替えられたことに気付かずに、ルナーは照れて顔を僅かに赤くした。
微笑ましいはずのその光景を、どこか虚ろな笑みで遠くから眺めるように見つめ、すっと一歩退いた。
「トマリ?」
「――悪い。やらなきゃならないことあるから、先に、帰る」
言うだけ言って、さっさときびすを返すトマリ。
「えっ、おいトマ――」
「あのー、すみません」
掛けようとした声を遮られて不機嫌ぎみに振り向くと、ルナーと年齢が同じか少し低いくらいの若い女性二人組がおずおずとルナーを見上げていた。
ただ純粋に話し掛けてきたであろうその二人を無下にはできず、内心舌打ちしながら言葉を返す。
「えぇ、と。あなた達は……?」
「あの、さっきの、すごかったです! あんなに綺麗なもの、初めて見ました!!」
「は、はあ……。それはどうも」
いくら称賛の言葉を掛けられても、嬉しいという気持ちよりも困惑が先にたち、あとは行ってしまったトマリのことでルナーの心は占められていた。
(なんだか様子がおかしかったな、あいつ……)
さっきは具合が悪いのかと尋ねたが、本当にそう思っていたわけではなかった。
身体的にどうとかよりも、精神的に不安定に見えた。だからあえて遠回しに訊いたのだが……。それはどうやら効を奏さなかったらしい。
ルナーは人知れず溜め息をそっともらし、トマリの去った方向に視線を遣った。
一瞬ちらっと振り返って見たルナーの顔はどこか不安そうに見えた。いや、事実そうなのだろう。今まで自分はルナーに対してあんな態度を取ったことがない。
だが、原因が分かってどうにかしたくとも、今のトマリは解決策を持たない。
「おい、クルーエル。急にどうしたんだ? ルナーリアさんを放っておいて帰るつもりか?」
咎める口調で掛けられた言葉に、トマリは緩慢な動作で振り向く。
「ああ……。ルナーの報酬、お前の分はあれで払ってくれ。俺の分は後で払うからとりあえずツケで頼む」
ファルシコーネの問いに、今ひとつピントのずれた答えを返しながら、投げられた銅貨や銀貨を指さす。
「そういうことじゃないだろう!! 今が危険だと、一番分かっているのはお前じゃないのか? クルーエル!」
言葉に熱が入っていくファルシコーネとは対照的に、トマリはどんどん冷静に……いや、冷徹なまでに冷めていき、半眼を伏せて冷笑する。
「クッ、本当に危険なら、こんなに人の多いところには来ないさ。あいつもそれは分かってる。レングラートが今日中に報告したとしても、今日すぐに刺客を放つなんて馬鹿な真似はしない。……人間、そう長くは緊張感は続かない。今日一日は気を張っていられても、明日、明後日、さらに日を重ねていけばどんなに危険と解っていても、糸がふっと切れる瞬間はある。その時を見計らって刺客を送るのが一番賢いやり方だ……特に、そういう世界で成り上がった人間ならそうするね」
「だから、今日は安全だと……?」
「確証があるわけじゃないが、まあ、まず今日は有り得ないな」
「………そうか」
納得したのか、一応は安心したような息をつく。
「じゃあ、俺は帰るから。後はよろしく頼む」
思わず伸ばしたファルシコーネの手は空を切り、あっという間に背中は路地裏の闇に溶け込んで消えていった。
しばらく興奮した観客の相手をしていたルナーは、ちょうど人が途切れた時にタイミング良く掛けられた声に少しだけ目を瞠った。
「ルナーリアさん、お疲れ様でした。お客さんの相手はもうそろそろいいでしょう。お望み通り好きなだけ飲んで食べてください」
仕事柄か、人をほっとさせるような笑みを浮かべながら、柔らかな口調でファルシコーネは近付いてくる。
「ああ。じゃあ、ありがたくいただくよ……ところで、トマリは………」
訊くような言葉だが、その口調と表情はもう答えを分かっていた。
「……帰りました。自分の分は後で払うからとりあえずツケにしてくれ、と」
その言葉にルナーは微苦笑を浮かべた。
「しょうがないヤツだな。帰ったら盛大に文句を言ってやらねば」
「まったく同感です。クルーエルは金に関して執着がないのと同じように、他の人とは価値観が違うようで」
「確かにあいつの金に対する価値観はおかしい! 以前、私が事務所に住むようになった頃、事務所の続き部屋になっている空き部屋を私の部屋にとくれたんだが、何もなくては不便だからと言って、食料さえあれば一生そこで暮らせるくらいの大改造を施してな。しかも、家具やキッチンからすべてに至るまでが「超」のつく高級品で揃えられている。王族もかくやというほど贅沢な部屋になってしまった……」
重い、重すぎるほどの溜め息に、ファルシコーネが思わず噴き出す。
「――それは、珍しいですね。クルーエルは、一貫して、他人は、どうでもいいと、いう態度を取るのに……ふふっ」
言葉が不自然に途切れるほどに笑いを堪えながらファルシコーネは言う。
「やっぱり……貴女は特別なんですねぇ」
「………え?」
聞き返したその声は、信じられないものを聞いたような、そんな。
「…………まさか。トマリはそんなこと思ってはいないだろう」
ルナーの引きつったような笑いには気付かず、ファルシコーネはただ笑って返す。
「どうしてです? 他の人に対するものと、貴女に対するものでは、態度も表情も気遣いも、全然違いますよ」
「それは……ただ、私が客だから丁寧に扱おうというだけで……」
「客? 貴女が?」
「………ああ、そうだ。助手をしているが、私はまだ依頼人だ。依頼は完全に果たされていない。だから共にいるだけ、なんだ」
ルナーは、もう不完全な笑いすら繕えなかった。
声は震えているだろうか?
私はどんな顔をしている?
気付かなくてはいけないだろうか?
だけど、もう少し。
もう少しだけこのままで……。