第三十四話
トマリは諦念の溜め息をついた。
それは、手に入らないだろうと思っていたものが、やはりそうだと知って、僅かばかりの未練を込めて仕方ないとついた溜め息だった。
決して、誰かを――ルナーを責めるものではなかった。
「あ………」
だが、その仕草が思いのほかルナーにダメージを与えた。
ルナーは体調からではなく青ざめていく。
「あ……あ………っ」
口から漏れる言葉の切れ端は意味を成さない。
トマリを突き放す辛辣な言葉。だが、最も衝撃を受けたのは、言葉を発したルナー自身だった。
自らの言葉に恐怖するルナーに、優しく微笑して頭にそっと手を乗せる。瞬間、びくっと身を強張らせるルナーにも何も言わず、愛おしげに頭を撫でる。何度も何度も。
そしてただ一言、言葉を添える。
「ごめん……」
その言葉が余程予想外だったのだろう、ルナーはどうしていいか分からずにただ目を丸くする。
しばらくそのまま固まっていたが、やがてゆるゆると氷が溶けるように腕を伸ばした。
身を乗り出して、トマリの頭を掻き抱く。
「ごめんなさい………」
耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小さな声。だが、その響きはいくつもの強い想いがこもったものだった。
トマリは嬉しさを噛み締めるように目を閉じた。まわされた腕に自らの手を重ね、ぽんぽんとルナーに応えるように優しく叩く。
ルナーは感極まって思わず涙が滲んだが、必死に泣くまいと堪える。まるで自分に泣く資格などありはしないと言うかのようだ。
そんな二人の様子を見て、ファルシコーネは部屋を出た。
本人達にとっては大事なことだし、内容もスケールの大きすぎる悩みだったが、端から見れば『勝手にやってくれ』というたぐいの感想しか湧かない。それとまあ、もう大丈夫だろうと思ったという理由もあった。
ファルシコーネが部屋を出てから、しばらく二人は微動だにせず、互いにのみ意識を傾けていた。
触れられる程身近に存在を感じる。あるいはもっと近くに。
それぞれ、いくつもあった謝罪の言葉は今は相応しくない気がする。だから言葉はいらない。少なくとも、今、この瞬間は。
緩やかに時は移ろう。
すべてが溶け合って、混ざり合うかのように錯覚してしまう。
そしてぽつりとトマリは意を決したように言葉をこぼす。それでも長い躊躇と逡巡があった。
「………俺は、いつでも平然としていられるわけじゃない。動揺もするし、恐怖もある」
「本当か?」
半信半疑な眼差しに苦笑して、再び口を開く。
「ああ。お前が倒れた時は、内心狂いそうだったよ。死に瀕していると聞いた時も」
視線をルナーと合わせず、遠くを見た。
「お前と逢ってから、俺は驚くことばかりだ――なあ、知ってるか? 俺は他人なんて誰一人として信用していない。ファルシコーネすらも――信じることができないんだ」
「それは……とても、悲しくないか?」
ルナーは言葉を選び、躊躇いながら言った。
「ああ――眠っていても、人の気配で目が覚める。自分の情報なんて、安易に漏らしたりしない。他人と生活するなんて、考えただけでも頭が痛い」
トマリがまるで愚痴をこぼすように言い連ねていくうちに、それを聞いていたルナーの表情は悲しげなものから不可解そうなものに変わっていく。眉根を寄せて、怒ったような顔をする。
「今言ったことは、なんだかおかしくないか? 私がお前を起こすのはしょっちゅうだし、お前は知りたくもないようなこともベラベラ喋るし。それに、出逢ってからずっと寝食を共にしているだろう。……むぅ。矛盾だらけじゃないか?」
尋問するかのように滑らかに隙なく紡がれる言葉に、トマリはいっそ感心してしまう。思わず笑いがこぼれると、思いっっ切り睨まれた。
「――変化は自分でも自覚してる。自分で変わろうと思ったんじゃない……これはもたらされた変化だ」
一度言葉を切って、ルナーをじっと見つめる。
「――ルナーリア、お前のおかげで俺は変われそうだ」
思いがけない言葉に、ルナーは不可解な表情も、責める眼差しも失くしてしまった。
間抜けなくらいにぽかんとなり、次いでボッと顔を真っ赤にする。
「う……あ………」
さっきとは違う意味で何と言っていいか分からなかった。
トマリはにこにこと嬉しそうというか、何考えてるのか判らないというか、そんな顔で壊れたように笑いっぱなしだし。ルナーはルナーで真っ赤になりつつ意味不明なことばかりうだうだと言っている。
二人はどこからどう見ても百パーセント紛れもなくバカップルだった。
そんな平和な微睡みのような時間は、いつだって突然に終わりを告げるものだ。
トマリはいきなり弾かれたように顔を上げ、探るように視線を周囲に巡らす。
その様子に何かを感じ取ったのか、ルナーも真剣な表情になる。
「どうした?」
「来る……」
ルナーの質問の答えなのか、一言だけ呟くとルナーを背に庇うように立ち上がる。
「トマリ……?」
さらに聞こうと口を開くが、声を出す前に窓ガラスが派手な音をたてて割れ、何かが家のなかに飛び込んできた。
それは禍々しいまでに黒い羽を持った一羽の鳥だった。