第二十九話
翌日の朝。世界が青から金へとゆっくりと色を変えるのを、トマリが見ることはなかった。
やはり、病床――と言えるかどうかは分からないが――から起きてすぐに体を過度に動かしたのが悪かったのか、ルナーの様子を見ながらの徹夜は、さすがのトマリでも無理があった。
その場所から動くことなく、睡魔に屈服したトマリの姿がそこにあった。
上半身をベッドに預けて、腕を枕にして熟睡するその姿をファルシコーネが見れば、きっと言葉を失くしたに違いない。他人のそばで熟睡するなんて、と――。
そして、夜明けの金に染まっていた世界は、しだいに透明に染め直されていった。
日差しが全身に降り注ぐ。その暖かさと光に、トマリは身じろぎした。
「う……ん………?」
ぱかっと目を開いて、ほんの少しぼんやりしたあと急に起きあがった。
「ルナーリア!」
さっと視線を遣るが、変わらず静かに眠っていた。
溜め息をつき、自分は期待していたのかと自嘲して、また溜め息をつく。
「たった一日で起きるはずない、か………」
ぽつりと自分に言い聞かせる言葉を呟く。
陰鬱な気持ちで、朝食を摂るために立ち上がる。部屋を出て行こうとして、ふと振り返る。
ルナーもこんな気持ちで自分が目覚める時を待っていたのだろうか? そう考えると、罪悪感でいっぱいになった。こんな想いをずっとさせていたなんて。
悠長に夢なんて見ている場合じゃなかった。
もしルナーの状態を知ることができたならば、過去などどうでもいいとばかりにさっさと目を覚ましたはずだ。
今を生きるのに、過去は関係ない。もういらないものだった。すべてを思い出した今でもそう思っている。あの頃の想いを知った今でも。
トマリにとって大切なのは『今』だけだった。
空腹を覚え、それに「どうでもいい」と思ってから、少し考えて思い直した。
自分がきちんとした状態でなければ、ルナーの看病などできなくなっていく。そして、ルナーが起きた時に自分がふらついていたりすれば、彼女はきっと自分を責めるだろう。
だから、とトマリは立ち上がってキッチンに向かった。
鍋にはまだ食べられることの無かった料理が残っているが、さすがにもう食べられない。ルナーが起きた時のためにも、何か新しいものを作らなければと、新しく食材を取り出した。
トントントン。
案外リズミカルにトマリが包丁を動かしていると、ファルシコーネが医療鞄を持ってやって来た。
「おはよう、クルーエル。ルナーリアさんに何か変化はあったか?」
聞かれてトマリは、無表情に首を振った。
「いや、何も。それよりも、点滴をしに来たんだろう?」
言うなり包丁を放り出して寝室に向かう。ファルシコーネは慌てて着いて行きながら言う。
「あっ。おい、いいのか?」
トマリはぴたりと立ち止まって振り返った。
「? 何がだ?」
「だから、料理だよ。途中だったんだろ?」
「構わない、いつでもできる。それに俺は『餓死』なんかしないからな」
「それは分かっているが……」
言いかけたが、口を閉じた。これ以上は言っても無駄だと感じたからだ。トマリはこうと決めたら意外と意志が固い。
それでも、と一言付け加える。
「でも、お前が具合い悪いと、ルナーリアさん心配するぞ?」
「………。分かってる。別に食べないわけじゃない。後回しにするだけだ」
言いながら、トマリはなんだか怒ってるみたいだった。
「???」
ものすごく不思議だったが、なんとなく聞けなかった。
そして、昨日と同じようにテキパキと点滴の準備をした。
トマリは本来、ゆっくりと流れる時間は嫌いではない。落ち着いて、穏やかでいられる。しかし、今は違う。時間を引き伸ばしたように落ちる滴を見ているのは、とても不吉に感じる。
白い肌に浮いて見える血管、それに刺さった痛々しい針。およそ他の同世代の女性に比べ健康的なルナーには、そんな姿が冗談のように思える。
それがさらに見ているのをつらくさせる。今更ながらにルナーがか弱いただの女性であると、痛感させられる。
ルナーの傍らに座りながら、祈るように懇願するように訴えるように思う。早く目を覚ましてくれ、と。
「ルナーリア……」
万感の想いのこもった呼び掛けに、ファルシコーネは顔には出さなかったが、ひどく驚いていた。
今までのトマリは、ずっとヒトとの間に一線を引いていた。その理由が、自分はヒトではないという思いなのか、忘れてしまった過去にあるのかは判らないが、今のトマリは明らかに違った。少なくともルナーに対しては。
人生を共に歩んできたパートナーに対するような必死の呼び掛け。
対等で、なおかつ最も大切な存在を呼ぶような声。
何故トマリはそんな風になったのか、まったく不思議でならなかった。
それから、トマリは何度かルナーの名前を大事そうに呼んだ。
しかし、やはり何の反応もないのを見て、諦めたように溜め息をついた。そして、部屋から出て行こうと立ち上がって踵を返したその時。
――くんっ
服の裾を引かれるのを感じた。
一瞬鼓動が跳ねて、まさかという思いで油の注してない機械のように緩慢な動作で振り返った。
その視線の先には、艶やかな黒瞳で自分を見つめる、ルナーの姿があった。
「……トマ、リ」
弱々しい声で自分を呼ぶのを聞いて、やっと現実にルナーが目覚めたのだと理解した。