第二十六話
硬く閉じた瞼が微かに震える。
「う……ルナーリア?」
トマリは無意識にルナーの姿を探して目を覚ました。だが、周りには誰もいなかった。ベッドの近くにも、部屋のなかにも。
自分が倒れた時の状況から考えると、ルナーは近くにいると思っていた。夢の中で聞こえてきた声は、ルナー本人からの呼びかけではなく、トマリの望んだことで、ただの幻だったのだろうか?
体を起こすと、多少頭がふらついたが、それを堪えてなんとかベッドから降りる。
「ルナー……? どこにいる?」
声を掛けながら歩き、リビングに向かう。家中暗くて、人のいる感じではなかった。もう家の中は薄暗いというのに明かりひとつ点いていない。
トマリは不安になりながらリビングへと入る。そこには、予想通りなのか予想外なのか、ルナーがソファに腰掛けてうなだれていた。
「ルナー?」
遠慮がちにそっと声をかけても、まるで反応しない。
寝ているのだろうか。そう思って、今度は肩に手をかけて揺さぶってみる。
すると、ルナーの体はそのままぐらりと傾いで床に向かおうとする。
「!? なっ……ルナー!!」
倒れていくルナーの体を中空で受け止め、仰向けにして腕に抱える。
「どうした!? ……おい、目ぇ覚ませ!」
硬く目を閉じたまま反応は返ってこなかった。心なしか顔色が悪く、やつれて見えた。
「くそッ! いったい何があったんだ?」
刺客が来たのか? それにしては戦った痕跡がない。
術をかけられたのか? いや、そんな気配は感じられない。
では、何故……?
考えていても埒が明かない。やはり誰かに聞くしかないだろう。では誰に? ――決まっている。ファルシコーネしかいない。
トマリは早速準備に取り掛かった。
この家に持ってきた荷物の中から、鳥のような形に切られた紙を取り出す。その紙には、この国のものではない異国の言語で何か書かれていた。
その紙に力を流し込み、素早く呟く。
「ファルシコーネをこの場所につれてこい。何をしていても関係ない……今すぐにだ!」
窓を開けて紙を思いっきり投げる。紙は真っ白な鳥となり、薄暗い空を羽ばたいていく。
これでいい。これでそう待たずにあの鳥はファルシコーネをつれてくるだろう。
真っ白な鳥は、力強く羽ばたき、真っ直ぐにファルシコーネのいる場所へと向かう。風を切り、体を夕日が空に残した色に染める。
しばらくして、鳥は喫茶店の上空へと辿り着く。滑るように下へと降りていき、くちばしで窓を叩く。
その音に気付いた誰かが不思議がって窓を開けた隙に、その身をさっと建物の中へと滑り込ませる。
「きゃあっ! マ、マスター! 鳥が中に……!」
うっかり窓を開けてしまった気の毒な従業員が叫ぶのを尻目に、鳥はファルシコーネの気配のする方へ飛んでいく。
「おや? 鳥が家の中に入るなんて珍しいな」
声は面白がる響きを持っている。だがそれを無視し、鳥はくちばしを開いた。
「リュマ・ファルシコーネ殿。我が主がお呼びです。今すぐに主のもとへ向かってください」
男の声でも、女の声でもない。若くもなく、老いてもいない。とても不思議な声だ。
「へぇ、目が覚めたんだな。これでルナーリアさんも一安心だろ。……ところで『今すぐに』って店が終わってからじゃいけないのかい?」
鳥が喋ったことなど、まったく驚くこともなく、普通に話をするファルシコーネ。
「はい。主はあなたが何をしていても関係ないと仰りました。付け加えますと、大変慌てておられました。ですから今すぐにお願いいたします」
「……慌ててた?」
そのあとは何も聞かずにファルシコーネは一応、医療用具を一式持って店を出た。
トマリが慌てる理由などそういくつもないだろうから。きっとルナーが怪我を負ったか何かだろう。そう見当をつけて医療用具を持ったのだが、ファルシコーネを待つ驚きは予想外のものだった。
やることを終えたトマリは、ルナーを抱えて寝室へ連れて行こうとする。風景が歪むような錯覚を覚え、視界に星が散ったが、そんなことは構っていられなかった。
ふらつきながらもなんとか歩き、ついさっきまで自分が寝ていたベッドに寝かせる。
「ルナーリア……寝てるあいだに何があったんだ?」
眠るルナーの寝顔は苦しげには見えない。だが、部屋の中に灯した明かりの下で見ても、明らかに顔色は悪かった。青いを通り越して真っ白だ。
手のひらを頬にあてると、びっくりするくらい冷たかった。
「何かあったんなら、寝てるのなんか気にしないで、叩き起こしてくれりゃ良かったんだ」
だが、逆の立場なら、何があっても起こしはしないだろうと予想ができてしまうから、ルナーが目を覚ましてもその辺りのことは何も言えないだろう。
「ったく、ついさっきまで寝てたのはこっちだぞ? なのに起きていきなりコレって……」
言いたいことがたくさんあった。言わなきゃいけないことも。すぐに言えると思っていたそれらのことは、今の時点ではどのくらい先送りになるのか分からない。
自分は医者ではない。ルナーが目を覚まさない原因さえ知り得ないのだ。
これほど自らを無力と思ったことはなかった。
自分はヒトより多くのものを持っていると思っていた。自分が孤独だとは知らなかった。誰かのために力が欲しいなんて初めて思った。これほど焦燥感に駆られるのは初めてのことだった。誰か助けてくれなんて、思う自分を想像したことすら無かった。
誰かを想って不安に胸が締め付けられることなど……。
ファルシコーネはまだ、来ない………。