第二十五話
「とにかく、熱が高いですから、解熱剤を打っておきます。あとは様子を見ることしかできませんね……」
さすが医者という冷静さでファルシコーネは言った。
「そうか………。ありがとう、助かった。こんな夜中にすまなかったな、ファルシコーネ」
「いえ。あなたの憂いを取り払うためならば、私は真夜中だろうが仕事中だろうがどこへでも駆け付けますよ。お気になさらずに、ルナーリアさん」
冗談めかして、少しでもルナーの重く沈む心が軽くなればと思った。そういう気遣いに関しては、ファルシコーネはどんな男にも負けはしないと自負していた。
「ははッ……ありがとう、気を遣わせてしまったな」
だが、それもルナーには通じないようだ。
もともと頭の回転が速く、表情など少ない情報から相手の考えを読む訓練を積んだルナーは、他人の気遣いも見透かしてしまう。
ファルシコーネは気遣いは無用と感じて、あくまで医者として対応することにした。
「……まあ、仕事ですからね、病人の診察・治療も、患者の身内の心のケアも。だから気にしなくていいんですよ」
それでもやはり、心配げな言葉になってしまうのは、はたから見ていてルナーが危うく見えてしまうからだろう。
「それでは、私はいったん帰りますので、また何かあったらいつでも来て下さい。喫茶店には営業時間がありますが、医者としては年中無休・24時間営業ですので」
「ああ。さすがに今度は下の道を通って行かなくてはな」
互いに笑みを交わして別れの挨拶をする。
刻一刻と夜明けが近づいていた。
ファルシコーネが帰ると、家の中は静寂に包まれた。
トマリは解熱剤が効いたのか、呼吸が穏やかになっていた。
その様子に安堵して、少し余裕ができて、腹が減っていることに気付いた。考えれば、遅めの朝食から何も食べていなかった。
いまだに間取りのわからない家の中をさまようようにキッチンを探し当てる。
いろいろ調べた結果、トマリがなにかを大量に作ってあるのを発見。早速温めて食べることにした。
一人でもくもくと食事をしていると、騒がしかった日々が懐かしい。いつも自分は怒鳴ってばかりで、あまりいい思いはしていなかったはずだが、それでも、当たり前にある日常を疑うことなど無かった。今はもう、あの頃のように戻れるのかどうかを考えると、不安しかない。
「早く……目を覚ませ、馬鹿野郎………」
今にも泣き出しそうな、不安げな声でぽつりと呟いてから、また食事を始める。
一人きりで不安を抱えて食べる食事は、やっぱりあまり美味しくなかった。
それから一週間が経った。
ファルシコーネは口実と時間を作ってはたびたび訪ね、家の中をひとしきり騒がしくして帰っていく。そんな日々だった。
トマリの容態を聞くと、
「もうだいぶ安定はしているんです。ですが、なぜ眠り続けているのか分かりません。私は本来こういう分野の医者ではないので、あまり詳しいことを知らないんですが、それでもクルーエルの今の状態はおかしいと思いますよ。……とにかく、すみませんが、できることはもう無いんです」
そんな返事が一度だけ返ってきた。それからは聞く気になれなかった。
安定していることにはほっとしたが、それ以上に、トマリがこのまま目を覚まさないのでは、という恐怖に襲われた。
トマリに聞かなくてはならないことはたくさんあるし、隠していたことについても言わなければいけない。もしもディランが祖父の刺客としてエイラを送り込んできたというなら、今後の襲撃についても相談しなくてはならない。トマリにまた改めて依頼をすることになるかもしれない。
そんなことはたいして深く考えなくてもつらつらと出てくるのに、トマリを起こすには自分は何ができるか、いつまでこのままなのだろうか、トマリは本当に目が覚めるのか………そんなことを考えはじめると、出口のない迷路に迷い込んだがごとく、思考は繰り返し繰り返し堂々巡りだ。
やらなければいけないことなど山ほどあるはずなのに、自分の命に関わるかもしれないのに、今のルナーにとってそれらはどうでもいいことのように思えた。たとえ自分の命を落とすことになっても、トマリが目覚めないのであればそれもいいか、とさえ思えてくる。
今まで普通の人とは違った生き方をしてきたためか、ルナーはいつも自分の感情を持て余し気味である。なんに対しても子供のように素直に反応してしまう。
実際、感情のコントロールを自然に身につける環境になく、また感情など必要ないと育てられてきたものだからまさに感情の制御は子供と同じだといってもいいだろう。またそれだけ純粋であるとも言えた。要するに無垢なのだ。
だが、今になってその純粋さや無垢さはルナーに牙を剥いた。
あまりにも純粋な不安や恐怖は、コントロールが皆無の状態で、徐々にルナーの精神を蝕んでいた。精神――つまり心と呼べる部分が、負の感情で満たされて、それは思考にも影響し、すべてがマイナスの方向へ進んでいく。
ルナーは自分でも気付かないうちにとても危うい道へと差し掛かろうとしていた。
だがその道を正す者はいない………。