第二十三話
店を出てから、そんなに距離はないはずだ。だが、そこに着くまでに、路地裏へ入って、何度も人一人通るのがやっとの細い道を曲がった。すでにルナー一人ではあの店へ戻ることはできないだろう。
辿り着いたのは、そんなに大きくない一軒家。大きくないとはいっても、一軒家ともなればかなりの金がかかるはずだ。いったいどこにそんな金があるのか。まあ、それをいえば、トマリの事務所の入っているビルもこの家の比じゃないくらいの金がかかるのだから、二人とも裏で儲けているのだろう。
慣れた手つきで鍵を開けるトマリを見ながら、ルナーは呆れていた。
そんなルナーには気付かない様子で、トマリはまるで我が家のように招いた。
「はい、どうぞ。そんなに広くないけど、二人で生活するには充分だと思うよ。あとは……うーん、普段から掃除はしてあるはずだけど、多少は必要かもね」
たいして大きくもない荷物を抱えてなかに入ると、室内の質素な内装が目に入った。家具などは最低限のものしか入っておらず、そんなに広くない部屋ががらんと広く感じた。
普段から使っているようには見えず、まさに『隠れ家』と言えるだろう。
「トマリ……落ち着ける場所に来たのだから、早く話してくれ」
言いながらも、落ち着く余裕さえなく早速ルナーは聞いた。
「そんなに急ぐ必要はないだろ? 今お湯湧かしてくるからさ、お茶でも飲んで落ち着こうよ」
「トマリ!」
ルナーの呼び止める言葉も聞かずに、どこかへ行ってしまうトマリ。
溜め息をついて外を見ると、なんだかんだでいつの間にか日が暮れかけていた。
昨日のこの時間、自分は穏やかな気持ちで、まだ日常の中にいた。なのに、たった一日でいる場所も気持ちも、状況も変わった。
それらを考えると、どっと疲れが押し寄せてきて、さっきとは違う溜め息を深くついた。
思ったよりも自分の体には疲労が蓄積している。自覚した途端に重く感じる体を厭わしく思いながらも、疲れからくる眠りの波に身を任せた。意識はすぐに闇に落ちていった。
トマリがポットとカップを手に戻ってくると、ルナーはソファに背を預けたまま眠っていた。よほど深く眠っているのか、トマリが物音を立てても一向に起きない。
普段眠りの浅いルナーにしては珍しいことだ。やはり、一日分の肉体的疲労と精神的疲労が大きいのだろう。
トマリは親が子に向けるような笑みをルナーに向け、ティーセットをテーブルに置いた。
それから、別の部屋に体に掛けるものを探しに行った。
しばらくして戻ってきたトマリの手には、薄い毛布が抱えられていた。それをルナーに掛けると、他にソファが無いのでルナーの隣に腰掛ける。
ポットに手を掛けようとして、ふと気付いたように手を止める。そして、姿勢を正して低く呪文を唱え、建物の周りに結界を張る。自分とファルシコーネ以外にここを知る人間はいないが、万が一を考えて念には念を入れる。
改めてポットを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。疲れを癒すいい香りと、白い湯気が立ち上る。それを口に含んで、体の芯から温まる気持ちを味わう。
ひとしきり午後の休憩を楽しむと、もう休んではいられない。
一通りの掃除を済ませ、二人分の食事を作り――トマリは料理ができないわけではない――、ベッドを寝られる状態にする。
食事は温められるものを多めに作っておいた。ルナーがいつ目が覚めてもいいようにという理由と、いつか料理を作っていられない状況が来た時のため。
これからは常に食べやすいものを多めに作るようにしよう、そうトマリは念頭に置いてから調理を始めた。
作ったものを一人で食べ、食べ終わったらすぐに片付け。
その辺の行動の理由にも、いつどんな状況が来てもいいようにという考えがあった。
ばたばたと掃除やら片付けやらをしていたら、いつの間にか完全に夜が来ていた。そしてルナーのいるリビングに戻ると、寝ているはずのルナーはソファにいなかった。
一瞬肌が粟立つのを感じ周囲を探すと、声が聞こえた。行ってみると、ルナーは別の部屋の出窓に腰かけて月を見上げていた。近付くと声はさらによく聞こえた。どうやら歌を唄っているようだった。
「……愛しい子らよ、目覚めなさい
安寧の眠りは終わりを迎えました
空に輝く月は、あなた達の揺りかご、あなた達をいだく腕
その月はいまや欠け、あなた達は目覚めと旅立ちを迎える
ぬるま湯に浸かるが如き、母のなかに揺られるが如き眠りは終えました
安穏の日々から、苛烈の日々へと身を投げなさい
愛しい子らよ、旅立ちなさい……」
月の光の下、月を謳う姿はまさしく『Luna』の名前に相応しい。
今夜の月は十六夜だが、肉眼で見ると、満月と変わらなく見える。しかし、確実に昨日とは違う月だ。
その月に照らされる自分達も、昨日とは違う場所にいる。それはたんなる『位置』ではなくて、気持ちや状況や側にいる人も、みんな昨日とは違う。
トマリはぼーっとルナーを見つめていた。
月の光を浴びて、真っ黒で艶やかな髪も瞳も、さらに輝いて黒曜石の細工のようだ。月を見上げて唄う姿は美術品のように近寄りがたい美しさを持っていた。神を見ているような、人ならざるものの美しさ。
やがて、歌は空気に溶けて終わりを知らせる。ほぼ同時に振り向いたルナーは、すでに人間に戻っていて、暖かみのある笑顔をトマリに向けた。
「声を掛けてくれればよかった。私の歌は人に聴かせるようなものではない」
「いや、充分うまかったよ。……ところで、ずいぶん古い歌を知ってるんだね? 作られたのはもう百年以上前だ。作者が不詳なのに、いつの間にか誰もが知っていたっていう不思議な逸話が残されている……当時もずいぶん騒ぎになった」
話を変えるつもりで持ち出した話題なのに、その頃のことにどんどんトマリはのめり込んでいった。記憶のなかでは、自分の知っている誰かがその歌をルナーと同じように欠けた月の下で唄っていた……。
だが、いくら思い出そうとしてもその顔が思い出せない。いや、顔だけでなく、髪の色や長さ、瞳の色、身長、何が好きだったか、自分とはどんな関係だったか、などすべてが思い出せない。その事実に気付いてトマリは愕然とした。
永く生きていれば、些細なことはどんどん忘れていってしまう。だが、その人のことを何一つ覚えていないことなどあり得ない。だが……。
「う………」
トマリは急にひどい頭痛に見舞われた。頭の中で鐘が大音量で鳴らされているようにぐわんぐわんと揺れる。耳鳴りまでしてきた。
「トマリ!?」
トマリは自分の体が前のめりになっていくのを感じた。だが、それを止めようとする力が出ない。そのまま重力に従って床に倒れる寸前でルナーがトマリの腕を捉えて支える。
「トマリ、どうした!? おい、トマリ!!」
「う……分か、らない。昔のこと、を思い、出そうと、したら、急に……」
まともに喋るのさえままならない。
「ごめ……ルナー、僕…………」
何か言いかけて、そのままトマリは意識を失った。ルナーはただ茫然と見ていることしかできなかった。